私の苦しんだ苦しみは平安のためでした


ベック兄

(八戸喜びの集い、2004/09/03)

引用聖句:出エジプト記15章22節-27節
22モーセはイスラエルを葦の海から旅立たせた。彼らはシュルの荒野へ出て行き、三日間、荒野を歩いた。彼らには水が見つからなかった。
23彼らはマラに来たが、マラの水は苦くて飲むことができなかった。それで、そこはマラと呼ばれた。
24民はモーセにつぶやいて、「私たちは何を飲んだらよいのですか。」と言った。
25モーセは主に叫んだ。すると、主は彼に一本の木を示されたので、モーセはそれを水に投げ入れた。すると、水は甘くなった。その所で主は彼に、おきてと定めを授け、その所で彼を試みられた。
26そして、仰せられた。「もし、あなたがあなたの神、主の声に確かに聞き従い、主が正しいと見られることを行ない、またその命令に耳を傾け、そのおきてをことごとく守るなら、わたしはエジプトに下したような病気を何一つあなたの上に下さない。わたしは主、あなたをいやす者である。」
27こうして彼らはエリムに着いた。そこには、十二の水の泉と七十本のなつめやしの木があった。そこで、彼らはその水のほとりに宿営した。

ヘブル人への手紙12:6-11
6主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」
7訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。
8もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。
9さらにまた、私たちには肉の父がいて、私たちを懲らしめたのですが、しかも私たちは彼らを敬ったのであれば、なおさらのこと、私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。
10なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。
11すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。

今日の題名は、イザヤ書に出て来ることばなんですけども、

イザヤ書38:17
17私の苦しんだ苦しみは平安のためでした。

もちろん悩んでない人は、苦しんでいない人は、悲しんでいない人はいない。
けども初代教会の人々とは、革命を起こした人々でした。どうしてであるかと言いますと、彼らの証しを読むと分かる。

コリント人への手紙第II、6:10
10悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持たないようでも、すべてのものを持っています。

普通だったら悲しむか喜ぶかのどちらかでしょう。けども彼らは、私たちは悲しんでるようでも、いつも喜んでる。日曜日ごとにだけじゃないよ。いつも。
結局こういう証しをする人々は確かに革命家なのではないでしょうか。

確かに人間は悩む者です。先週、色々な人々にいつものように会いましたけど、ひとりの奥さんは、ちょっと悲しそうな顔で、主人はどうしても離婚したい。やっぱりショックです。
別の奥さんは、私はもう25年間病気です。25年間、腰が痛くて痛くてしょうがない。いや、おもしろくない。2、3ヶ月間だったら、まあ大変かもしれないけど、25年間だったらもう大変。

別の人は最近子どもを亡くしてしまった。結局、どうして、なぜかともちろん考えるんです。答えられる人間はいないでしょう。
別の奥さんのご主人はもう末期の癌で、いつまでもつか分からない。そんなに歳になってない。別の奥さんは、最近ご主人を亡くしちゃったんですけど、けども葬儀のあとでやっぱり主人のこと整理して、やっぱり色々な写真、手紙出て来た。結局愛人がいたと分かったんです。やっぱりショックでしょ。

そういう人々を慰めようと思っても結局お手上げなんです。けどもイエス様を紹介することができるのはすごいなのではないでしょうか。
イエス様に出会った初代教会の人々は、悲しんでるようでもいつも喜んでると言えたのです。

エレミヤ書31:13-14
13「わたしは彼らの悲しみを喜びに変え、彼らの憂いを慰め、楽しませる。
14また祭司のたましいを髄で飽かせ、わたしの民は、わたしの恵みに満ち足りる。――主の御告げ。――

結局主は悲しみを喜びに変えられるお方です。

集会の中で、ちょっと変わった人がいるんです...みんな変わってるけど。
けど彼は発明家で、もう大したもんです。例えば彼は石油を使って飲む水を作るんです。ちょっと考えられない。もちろん商売にならない。逆だったらいいんですけどね。
イエス様は水をぶどう酒に変えてくださった。それができれば商売になる。

けども、悲しんでる人は喜びに満たされることだってちょっと考えられないなのではないでしょうか。
けどもこれこそが前に読んだ箇所を見ても、イスラエルの民の経験したことでした。すなわちわれわれの主は大変な苦しみを平安に変えることがおできになります。
私たちはいつか将来必ず次のように告白するようになります。すなわち、「主のあらゆる導きは良かった。良かっただけじゃなくて、完全だった。」と。

偶然は存在しません。いわゆる荒野の経験、すなわち理解することのできないような試練を通して、私たちは自分の中に何があるかを知ることができるようになります。
そしてこのような試練を通して私たちは主の全能、主の愛、主の恵みをよりよく知ることができるようになります。

すべてを環境のせいとかほかの人のせいにすることをしないで、主の御手から受け取る者は祝福されます。
われわれの主はすべての背後に立っておられ、少しの間違いもなさいません。

イスラエルの民もマラという所まで連れて行かれたのです。もちろんこれは決して偶然ではなかったのです。主のせいでした。
主ご自身が彼らをそこへ導いてくださったのです。そして主はお導きになるときにいつも、はっきりとした目的を持ち、はっきりとした目標を追求なさいます。
イスラエルの民は大変な苦しみを味わわなければならなかったのです。けどもこれは主の目的であり、主のご計画でした。

すなわち彼らはそれを通して失望を経験しなければならなかったのですけど、彼らはまた主の救いのみわざを新たに経験したのです。
主はマラの苦い水をすこしだけ甘くなさるだけではなく、水全体を甘水に変えることがおできになるお方です。
言い表わすことのできないほど大きな激しい苦しみは、救いと平安となるべきです。

人生とはいったい何なのでしょうか。それは高揚と落胆、悲しみと喜び、祝福とのろいの繰り返しなのではないでしょうか。
主は私たちが、主の喜びと平安に満たされて主の光の中に生きることを望んでおられます。そして実際私たちはみな、しばしば自分自身のことを中心に考えてしまう。主の働きの妨げとなってしまうことを経験しますけど、主は私たちが理解できない多くのことを確かに赦しておられます。
それに関わらずすべてはわれわれにとって最善となるよう、また主のご栄光のために配慮していてくださるのです。

私たちの苦しんだ苦しみは平安のためだったと、イスラエルの民はみんな口をそろえて言えるようになったのです。
例えば私たちは喜びと感動をもって夜眠りに就きますけど、次の朝電話が入ったり、電報が来たりしてその瞬間にすべてが壊れてしまうというようなことを経験したことがあるなのではないでしょうか。

もはや日の光を見ることができない。すべては非常に厚い闇の中におおわれてしまうようになります。すなわちそのときは私たちはマラに来てることになります。
モーセという男は大変な課題を克服しなければならなかったのです。200万人以上の人たちが彼に一度信頼したのです。彼らはみんなエジプトの奴隷から解放されました。
主の贖いを経験しました。流された過越の小羊の血の価値を体験したのです。結局彼らはみな救われた。

信ずる者でしたがその信者たちを信仰的、霊的に導いて約束されたカナンの地におもにはいるようにすることが、モーセに与えられた使命でした。
イスラエルの民が紅海を通って主の大いなる奇蹟的なわざを経験しましたとき、もう考えられないほど喜びに満たされて歓喜の声が上がり、喜びのあまり踊りだし、出エジプト記の15章に書かれたモーセの歌をもって主の勝利を喜び祝いました。

しかしこうした主のすばらしいみわざを経験したあと、彼らは三日間試練のときを迎えました。すなわち一滴の水もない生活が始まったのです。
水のない、憩い場のない荒野での三日間は決して簡単ではなかったのです。

けども突然彼らは待ち望んでいた水を見て、水のところに駆け寄りました。「水だ!水だ!」と。けどもこの飲んだ水は苦くて、結局飲めないものでした。
喜びは悲しみ、失望、つぶやきに変わりましたけど、私たちはこのような状態を単純に、「過去に起こったことじゃないか。」と片付けてしまうのは間違ってる。
過去の歴史的事実もまた、私たちに何かを語っているはずです。パウロはそれをはっきり書いたのです。

ローマ人への手紙15:4
4昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです。

とあります。また、コリント人への手紙第Iの10章11節にもパウロはコリントにいる兄弟姉妹に書いたのです。

コリント人への手紙第I、10:11
11これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。

ですから私たちはマラに置かれ、イスラエルの民の経験を通して、主がわれわれに何を教えようとしてるのか考えなければならないなのではないでしょうか。
それについては四つの点を挙げてちょっとだけ一緒に考えてみたいと思います。

第一番目に、私たちが予想しなければならない試練について。
第二番目、私たちが避けるべき危険について。
第三番目、私たちが取らなければならない態度について。そして、
第四番目に、適応されるべき万能薬についてです。

まず第一番目。予想しなければならない試練についてです。
疑いもなく私たちはだれでもみな、マラのような経験をしたなのではないかと思うんです。すなわち軌道から外れてしまったり、失望、落胆させたり、すべての望みを私たちから奪ってしまうような経験がここで言うマラの経験です。
ソロモン王は箴言の14章10節に次のように書いたのです。

箴言14:10
10心がその人自身の苦しみを知っている。その喜びにもほかの者はあずからない。

すなわちだれでも自分の苦しみや悩みを持っており、色々な問題で弱り果て、出ることも入ることも分からないような状態に置かれるという経験を持ってはずだと聖書は言ってます。
あなたは今まさにそうしたマラの中にいるかもしれない。悪魔はささやくかもしれない。
「あなたが何をしても結局無意味だよ。諦めたほうがいい。あなたは望みの光を全然見ることができない。人間的に見るならばそこには何の望みもないのです。」

けど私たちは、「人生とはそういうもんだ。」という事実を避けることができません。だれひとりマラを避けて通ることはできないからです。
主ご自身もイスラエルの民をマラへと導いたのです。それは彼らの自分勝手に選んだ道ではなかったのです。主の導きの結果として彼らは悩むようになりました。

結局主は私たちをもマラ、すなわち逃れ道のない状態に導きいれるでしょうけど、偶然は存在しないということを絶えず覚えるべきです。
主ご自身が御手のうちに手綱を持っておられ、それをほかのだれにも渡しません。

おそらく今まで大切にされたことでしょう。すべてのことはうまくいき、あなたはそれほど大した困難なことを経験しなかったかもしれないけど、困難がやって来ます。
それはひょっとすると明日かもしれない。来月かもしれない。二、三年あとかもしれない。
これは悲観論とは関係がありません。それはみことばである聖書の教えてる事実です。だれもマラから逃れることはできない。

次のように言う人たちがいます。救われる人はもはや何の悩みも、苦しみも、問題も持っていない。全部うまくいく。
もちろんこれは人間の望んでることですけど、夢の世界です。根本的に間違っています。

主が私たちを試練に遭わせ、聖めることができるため、悩みはたくさん存在しています。すなわちこれらの悩みは、そもそも信仰者になるときに初めて始まるのです。
信ずる者の人生はいつも嬉しくて嬉しくて嬉しくてしょうがないという人生ではありません。
間違いなく主は言っておられます。この世には悩みがある。

ヨハネの福音書16:33
33あなたがたは、

あなたがたとはイエス様に出会った人々。信ずる者は、

ヨハネの福音書16:33
33世にあっては患難があります。

ペテロも当時の信ずる者を励ますために書いたのです。

ペテロの手紙第I、4:12-13
12愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、
13むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現われるときにも、喜びおどる者となるためです。

色々な悩みを持つこととは結局、主をよりよく知るためにどうしても必要です。引用聖句であるヘブル人への手紙の12章の中で、「主はその愛する者を懲らしめる。」とあります。
すなわち懲らしめられること、ほかの言葉で言いますと、マラへと導かれることは、私たちが主に愛されてる者であるということの証明です。

いわゆる宗教的な考え方とまったく逆でしょ。宗教の神々とは恐ろしい怖いものです。マラを経験するとやっぱりあなたはわがままだったから、先祖たちも過ちを犯したから天罰だと言うんです。
聖書は違う。どうしてこのようなつらいこと経験してるかと言いますと、特別に愛されていると、結局私たちは主に関心を持たれています。主は人間ひとりひとりのことを配慮しておられます。

まことの信者はだれでも困難な試練を通って主のあとに従うようになるのです。
われわれにこうした苦しみや悩みがないとするならば、私たちは本当に主を愛し、主をよりよく知りたいと思ってるかどうかが疑わしいものです。
イスラエルの経験した悩みとは確かにおもしろくなかった。

出エジプト記13:18
18神はこの民を葦の海に沿う荒野の道に回らせた。

なぜ主は回り道をさせたのでしょうか。なぜイスラエルの民は荒野を通らなければならなかったなのでしょうか。なぜ救いにあずかった者、主に愛されてる者がマラへ行かなければならなかったのでしょうか。
その理由は1、出エジプト記15章の25節に与えられています。

出エジプト記15:25
25主は彼に、おきてと定めを授け、その所で彼を試みられた。

とあります。心の中にあるものは明らかにされるべきです。そのために荒野の経験はどうしても必要です。
もう一ヶ所見てみましょうか。申命記の8章の2節はわれわれの問いに対してもうひとつの光を投げかけてくれます。

申命記8:2
2あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。

主は私たちを悲しませるために試練を与えたり、困難を赦したりするのではなく、私たちを謙遜にするため、また心の奥底のあるものを試すためにそれらのことをなさるのです。
私たちが本当に主にとどまるかどうか、私たちが本当に主を愛するかどうか、またどんな代価を払っても主に従うかどうかが必ず明らかになるはずです。
けど主はただ単にマラへ導くだけではなく、さらにエリムへも導かれたのです。

出エジプト記15:27
27こうして彼らはエリムに着いた。そこには、十二の水の泉...があった。

主がお与えになりお赦しになる試練は非常に色々な種類のものです。イスラエルの民は飲むことができないほど苦い水を経験しただけじゃなくて、水が全然無かったこと。パンが一切れも無かったことをも経験し、また敵から攻撃された経験もしました。
主がわれわれにお与えになる試練は色々。それらはしばしばほとんど耐えられないほど厳しいものです。イスラエルにとってマラは困難な経験でした。

人はだれでも水をどうしても必要とします。けども三日間の間、彼らは水を求め続け、見つけたと思ったときには、そしてまた実際にその水を見て飲もうとしたとき、その水はとても苦いもの。飲めないほど苦いものでした。
私たちは次のことを決して忘れてはなりません。すなわち私たちもまた試練を受けなければならないということです。

試練はわれわれに対する主の愛の証明です。もしも私たちが試練を通らないで、簡単な、楽な道を選ぼうとするならば、それはわれわれにとって決して好ましいものではなく、むしろ気の毒なことです。
われわれの経験がどのようなものであろうとも、次の態度取るべきです。すなわち、「主よ。どうか引き続き私に臨んで働いてください。あなたのみこころだけが行われますように。」

私たちが理解しがたい苦しいこと、すなわちマラの経験をするとき、問題はわれわれの反応です。
なぜなら、どうしても避けなければならない危険が存在するに違いない。これが私たちの第二番目の問いですね。私たちが避けるべき危険とはいったい何なのでしょうか。
イスラエルの民がマラへ行き、恐ろしい失望をしたとき、彼らの反応はダメでした。

出エジプト記15:24
24民はモーセにつぶやいて、「私たちは何を飲んだらよいのですか。」と言った。

結局主の民であるイスラエルは度を失ってしまいました。
イスラエルの民は神のしもべであるモーセにつぶやく。そのことによって実際には、主ご自身に対してつぶやくことによって、心の憂さ晴らしをしました。

つぶやく者はもはや信頼していません。外部の事情によって動かされる者は、簡単に度を失います。ですから初代教会の人々はよく、私たちは目に見えるものによらないで、信仰によって歩んでると言ったのです。
イスラエル人たちは彼らを解放してくださった力強い主に対しては、確かにほめ歌を歌いました。心から主を賛美したのです。主を礼拝したのですけど、そのすぐあとで彼らは完全に打ちのめされ、主に対して不平、不満をつぶやきました。

その意味で私たちはみな、その親戚なのではないでしょうか。私たちもこのような態度、取るなのではないでしょうか。
主は私たちには理解できない苦しみを経験することを確かに赦してくださいます。私たちの心の中が夜、すなわち暗たんとなるのは、いかにたやすく起こることでしょう。

われわれは絶望の淵にたやすく立たされるのです。しかし、主を見上げる者はマラからエリムへ進んで行くこと。すなわち大変な苦しみを通して、まったく新しく変えられることを経験できます。

すなわち私たちは新たなる使命、新たなる奉仕を与えられます。不信仰は私たちをつぶやきや反発へ導きます。
目に見えるものに支配される者はとんでもない方向に行ってしまいます。苦しみや悩み、多くの問題、理解できない導きを見る者は、自己憐憫に陥ります。

私たちはつぶやき、次のように言い始めます。
「主が私たちに飲める水をお与えになることがおできにならなかったなのでしょうか。」
「主はあのこと、このことをやめることができなかったの。ならなかったなのでしょうか。」
「主はなぜ守ってくださらなかったなのだろうか。」

もちろん主はおできになったでしょう。主にとって不可能なことは一つもないからです。問題は信ずる者が本当に主に信頼しなかったことだったのです。
主はいつも信仰者の近くにおられ、助けたいと思っておられ、ご自身を啓示したいと思っておられ、祝福したいと望んでおられました。
私たちが試練に遭うとき、問題はわれわれの反応です。

私たちの上に困難が襲いかかり、逃れ道が見えなくなるのは、いったいどういうことになるなのでしょうか。
私たちが苦しいマラの状態に置かれたとき、そしてどうする、どうなるのか本当に分からないときはどうでしょうか。そこで私たちの第三番目の点に入っていくことになります。
すなわち、取らなくちゃならない態度についてちょっとだけ考えたいと思います。

私たちは避けるべき危険はつぶやくことであるということを今見てきました。私たちはつぶやくことによって少しも前進しません。
すべてが途方に暮れるような状態、またあらゆる反発は、われわれの不信仰のしるしです。
私たちは試み、すなわちつぶやいたり、反発したりする誘惑に対して、どうすれば勝利をもって立ち向かうことができるなのでしょうか。それが問題なんです。

私たちが読んだ聖書の箇所には、次のように記されています。民はモーセに逆らってつぶやきました。しかし、モーセは主に叫びました。これこそ勝利の秘訣なのではないでしょうか。
モーセは主に叫んだのです。

モーセは怒って、使徒たちを叱りつけることをしなかったのです。モーセは次のように言うことができたでしょう。「どうか、愚かなことしないで主を信じなさいよ。主は今もなお、何でもおできになるお方でしょ?主は決して来るのに遅すぎるということはない。主にとって不可能なことはない。」
モーセは人間を叱る代わりに、主のみもとに行き、すべてを主にゆだねました。

またモーセは次のように言うことができたはずです。「もう十分です。私はもう疲れた。諦めます。自分勝手にしたいことしなさい。」と。
またモーセは主に向かって次のように言うこともできたはずです。「主よ。私にはこの荷が重すぎる。200万人もの人たちの世話をするのはもう大変です。」と。
けどもモーセはそのような態度を取らなかったのです。モーセは、神の友と呼ばれた者でした。

祈ると元気になる。これはモーセは何回も何回も経験したのです。
結局彼は精神的な重荷を持ちながら、主のところに行ったのです。それによって問題は根本的に解決されてしまいました。
というのは、主は祈りを必ず聞き届けてくださるからです。御名のゆえに主はこたえてくださり、ご自身を啓示してくださいます。自分の重荷を持って主のみもとに行き、その重荷を主にゆだねることができる人は、大いに祝福されます。

ヤコブの手紙の5章13節になりますけども、短いけど大切な文章です。

ヤコブの手紙5:13
13あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。

ここでヤコブは次のようには言わなかったのです。「あなたがたのうちに苦しんでいる人がいるならば直ちに、医者に急報しなさい。」、あるいは、「長老を呼び出せ。」と言わなかったのです。
誰でも分かることは、祈るということです。

苦しんでいる人がいれば、その人は試練に遭っているのであり、別の表現をすれば、先ほど申し上げたマラの状態にいるのであって、つぶやくすべての理由を持ってるでしょうけど、その人は主に呼び求めてください。
私たちはどのようなことを経験しようとも、まず第一に主を尋ね求め、主が配慮してご栄光を表わしてくださることがおできになるようにすべてを主にゆだねましょう。

むかしのサムエルという預言者の母、ハンナという女性は、やっぱりマラを経験した女性でした。聖書は彼女が心を痛めていたと言ってます。

サムエル記第I、1:10
10ハンナの心は痛んでいた。彼女は主に祈って、激しく泣いた。

とあります。確かに彼女は苦しみましたが、諦めませんでした。彼女はすべてを主にゆだね、祈りました。これこそ勝利の秘訣です。
主のみもとに行く者は捨てられません。その人は主の偉大な解放を必ず経験します。

2,600年前にエリシャという預言者が現われたのです。彼もまたひとりのやもめとともにマラの経験をしたのです。
このやもめが預言者に、「私の息子が亡くなりました。」と言ったのです。このシュネムの女がいかに苦しんだか、私たちは想像できるでしょ。エリシャはこの苦しみ、悩んでるシュネムの女をもはや見ることができないほどでした。

そのとき、エリシャは色々な慰めの言葉をかけようとはしなかったのです。

列王記第II、4:33
33エリシャは中にはいり、戸をしめて、ふたりだけになって、主に祈った。

その結果主は死んだ子どもを生き返らせ、栄光を表わしてくださったのです。
私たちが苦しいマラの状態に置かれ、試練にあるとき、祈ることこそ、勝利の秘訣です。

ヒゼキヤという王さまは、一通の驚くべきひどい手紙を受け取りました。けど彼はそのことを怒ったり、不満を言ったりしなかったのです。
またその手紙を公に見せたり、苦情を言ったりしなかったのです。彼は何をしたなのでしょうか。

イザヤ書37:14
14ヒゼキヤは、使者の手からその手紙を受け取り、それを読み、主の宮に上って行って、それを主の前に広げた。

とあります。主に至る戸はいつも開かれています。主は私たちがわれわれの問題と悩みを持って主のみもとに行き、主に信頼することを待っておられます。
主は奇蹟を行なうお方です。主にとって不可能なことは一つもありません。

主に非常に忠実に仕えたダニエルという預言者は、絶望的な状態に置かれたことがあります。
彼の敵対者たちは当時の王さまに懇願し、ひと月以内に王ではなく、神に願い求める者はみなライオン、獅子の穴に投げ込まれるべきであるという、変えることのできない法律を発令するよう迫りました。

ダニエルはそのとき何をしたなのでしょうか。怒って王さまのところに行ったなのでしょうか。敵の卑劣なやり方に対して怒ったなのでしょうか。大ぜいの友だちを呼び集め、逃れ道を求めたなのでしょうか。
そのうちの何一つ彼はしませんでした。

ダニエル書6:10
10ダニエルは、その文書の署名がされたことを知って自分の家に帰った。――彼の屋上の部屋の窓はエルサレムに向かってあいていた。――彼は、いつものように、日に三度、ひざまずき、彼の神の前に祈り、感謝していた。

ただ祈っただけじゃなくて感謝した。窓を閉めないで、いつものように、大きな声で主に祈って、賛美して、感謝したのです。

彼は法律によって許されていないことを結局したわけなんです。そのとき彼は主に叫び祈り、すべてを主にゆだねました。彼は意識的にすべての事がらを主の前に申し述べました。
ダニエルは、主が必ずみわざをなしてくださると確信したのです。このような信頼は決して失望させられません。

不可能と思われたことが起こったのです。すなわち獅子はダニエルにあえて触れようとはしなかったのです。信じられないようなことですけど、本当でした。
結局、私の神は生きておられるとダニエルは新たに経験したことができ、この主を紹介することとは彼の切なる願いでした。

主は、主に避けどころを求める人たちの人生において、主が全能者であられることを表わしてくださいます。新約聖書を見ても似てる実例がいっぱいでてきます。
例えば無実の罪で牢獄に入れられたパウロとシラスも同じ態度を取りました。彼らは鞭打たれ、凶悪犯罪者のように取り扱われたのです。けど彼らは決して反抗的な態度を取らなかったのです。
また彼らはなぜ主はそのようなことを赦しておられるのでしょうかと考えなかったのです。「われわれは主に仕えただけなのに、赦しがたい暴挙ではないか。」とは言わなかったのです。

使徒の働き16:25
25真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、

とあります。彼らはなぜそのように導かれたのか、確かに理解できなかったのです。けど主は決して間違いをなさらない、このような導きもわれわれにとって最善の益となるに違いないということを知っていたのです。ですから彼らは祈りつつ賛美の歌を歌うことができたのです。

モーセの状態もまったく同じような絶望的な状態でしたと彼は祈りました。主に叫びました。モーセはすべての悩みをもって主のところに行きました。すると主は応えてくださいました。

出エジプト記15:25
25モーセは主に叫んだ。すると、主は彼に一本の木を示された

とあります。木を示すことはモーセの祈りに対する主の答えでした。
祈る者は、以前に見たことのないものを見ます。主は祈る人にご自身を啓示なさいます。苦しんだ苦しみはいかにして平安に変えられるのでしょうか。主が示された木によってです。

人間が絶望的な状態、苦しい状態において、いつ主に叫んでも、その人たちは主が聞いてくださるだけではなく、必ずかなえてくださることを経験します。
主は大いなるみわざをなしてくださり、その状態だけではなく、人間の心をも変えてくださいます。
モーセは主に叫びました。すると、主はモーセの願いを聞き届け、問題全体の解決として一本の木を彼に示された。それは何を意味してるなのでしょうか。

私たちの最後の四番目の点とは、適応されるべき万能薬であります。万能薬はどんなことにも効き目があり、いつでも適応されるべき薬なんです。
モーセに示されたこの木は、疑いもなく主イエス様ご自身でした。この木が、苦くて飲むことができないマラの水に投げ入れられると、すべての問題は解決され、その水が甘くなって飲めるようになったのです。

旧約聖書においては、約束された救い主、主イエス様について次のように述べられています。

エレミヤ書23:5
5見よ。その日が来る。――主の御告げ。――その日、わたしは、ダビデに一つの正しい若枝を起こす。彼は王となって治め、栄えて、この国に公義と正義を行なう。

この預言で約束されたみことばは、主イエス様にあって成就されました。主は罪の大問題を解決してくださったのです。
ペテロの手紙第Iの2章24節。よく読む箇所なんですけども、

ペテロの手紙第I、2:24
24そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。

もちろん若枝が木の一部であることは言うまでもありませんが、その若枝とは主イエス様のことを意味してるという点に注意すべきです。
しかも救いのみわざは、イエス様が木で作られた十字架に架けられたことによって成就されました。

したがってここで言う木とはまず第一に、主イエス様ご自身を意味し、第二に、主イエス様によって成就された救いのみわざを意味してるわけです。
ここで覚えていただきたいものは、私たちに何が起ころうとも、またわれわれの悩みがいかに大きなものであろうとも、万能薬は主イエス様と主イエス様の成就してくださったみわざであるということです。

イエス様は苦しみと死を通して、永遠に救われる道を開いてくださいました。
主イエス様は大祭司として瞬間瞬間、どのような一瞬であっても、われわれのことを覚えてくださり、われわれのために弁護してくださり、われわれのために働いてくださるのです。

おそらく、今途方に暮れた状態に置かれているかもしれない。もはや何の望みもないかもしれない。確かにそのような状態で不平や不満を言ったり、自分の殻の中に閉じこもってしまうことは理解できます。
けど、それは贖われ解放される道ではありません。

私たちは私たちよりもはるかに苦しめられ、底知れぬ深みを通って行かれた主イエス様を見上げなければならない。
私たちの主イエス様は苦しんだ苦しみを味わってくださいましたが、その結果は何だったでしょうか。比類なき救いでした。全人類の罪の問題は解決されました。
悪魔は力を失い、死の力を奪われたのです。イエス様は、「完了した。終わった。万歳。」と言われたのです。

私たちはみないかなるマラの経験に対しても、それがどれほどわれわれを苦しめ、落胆させようとも、そのことに対していつか必ず主に感謝できると確信しています。
イエス様が十字架につけられ、捨てられ、のろいとなられたことによって、主は最大の勝利を勝ち取られたのです。

外側を見ると、決してそのようには見えることがない。悪魔が勝利したように見えました。私たちもまた、何でも次のように思うかもしれない。それは悪魔の勝利ではないか。
どうして神はそんなことを許すなのか。私たちは万能薬を適応しなければならない。私たちは木を苦い水の中へ投げ入れるべきです。
ありのままの状態で、われわれの悩みすべてをもって私たちは、十字架につけられた方、すなわちイエス様のみもとに行こうではないでしょうか。

主は苦しんだ苦しみを平安と祝福に変えてくださいます。私たちは、完全に打ちのめされた状態から、溢れるばかりの喜びに至ります。
パウロはそのような模範なのではないでしょうか。彼は木を苦い水の中へ投げ入れた男でした。だから彼は次のように告白することができたのです。

コリント人への手紙第II、4:16-18
16ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。
17今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。
18私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。

避けどころである主イエス様のところに行きましょう。主はその状態を変えてくださるだけじゃなくて、周りの人々、それどころか自分自身を変えてくださいます。
すべての重荷と悩みを持って主のみもとに行く者は、今日もなお、私の苦しんだ苦しみは平安のためでしたということを経験することができるのです。




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