はじめの愛


ベック兄

(テープ聞き取り)

引用聖句:詩篇73篇23節-28節
23しかし私は絶えずあなたとともにいました。あなたは私の右の手をしっかりつかまえられました。
24あなたは、私をさとして導き、後には栄光のうちに受け入れてくださいましょう。
25天では、あなたのほかに、だれを持つことができましょう。地上では、あなたのほかに私はだれをも望みません。
26この身とこの心とは尽き果てましょう。しかし神はとこしえに私の心の岩、私の分の土地です。
27それゆえ、見よ。あなたから遠く離れている者は滅びます。あなたはあなたに不誠実な者をみな滅ぼされます。
28しかし私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです。私は、神なる主を私の避け所とし、あなたのすべてのみわざを語り告げましょう。

今兄弟が言われたように、あの姉妹は一足先に天に行かれたのです。彼女は4年間苦しみましたし、悩みましたし、そして周りの多くの人々は、どうしたらいいかともちろんわからなかったんです。人間の心を理解できるなのは、結局人間の心の造り主しかない。
けども姉妹は、ローマ人への手紙14章8節のみことばを確信したのです。

ローマ人への手紙14:8
8もし生きるなら、主のために生き、

彼女は、本当に主のために生きたかったんですけど、自分はどうせ駄目じゃないかと、劣等感のかたまりでした。けども、大切なのは結局「イエス様のために生きたい」という、心構えなのではないでしょうか。

ローマ人への手紙14:8
8生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。

誰も私を主から離せられないと、姉妹は確信したのです。
確かに、残されてるわれわれは、どうして?なぜ?と考えるでしょう。一つの答えはアモス書の3章6節に書かれてるでしょう。

アモス書3:6
6町にわざわいが起これば、それは主が下されるのではないだろうか。

主のせいだ。主は、ブレーキをかけようと思ったならばできたはずです。どうしてかなぜかと聞く人は、必ず不幸になります。全く無意味です。
私も、子ども3人亡くしました。どうしてかなぜか、もちろんわからないし、わかる必要はない。主は、必要ない悩みを、必要ないま不幸を許さない。人間の視野はあんまり狭いから、主は、「わたしのしてることは、あなたは今わからないが、後になってわかる。」、と約束してくださったのです。
またイエス様は、とんでもないことを話されたのです。

マタイの福音書5:4
4悲しむ者は幸いです。

幸せです。同情すべきではない。主は完全ですし、いつか私たちはすべてを知るようになれば、もう驚くと思います。言えることは、姉妹は、今読みました、詩篇の73篇の28節をまったく違う意味で、経験するようになりました。

詩篇73:28
28私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです。

人生を、生きがいのあるものにするのは、いったい何なのでしょうか?もちろん、イエス様です。詩篇の作者であるアサフは、「私にとっては神の近くにいることが幸せ」と心から言えたのです。
「イエス様こそが、私にとってすべてのすべてです」と言える人は、本当に幸せです。いったいどうしてなのでしょうか。その答えは4つあります。

まず第一に、私がイエス様によって愛されているということを確信できます。
だから、私にとってイエス様はすべてにまさるんです。このことは、感情的とはなんの関わりもありません。これは永遠の事実です。
子どもはよく歌います。聖歌の459番ですけど、

きよいふみはおしえる
かみがひととなられて
ひとのためにすくいの
みちをじょうじゅしたこと

そんなあいをわすれて
みちをそれたわたしを
とがめたてもしないで
むかえいれてくださる

かみのまえにいくとき
うたうひとつおぼえの
うたはイエスがわたしを
あいしたもうそのこと。

わたしをもあいして
しなれたおかたは
かみのこのイエス様
ひとりだけだ。

こういうふうに言える人は、本当に幸せです。

私は小さい時から聖書の福音を聞いて、聞いたことを一度素直に信じました。けどもそれは、単なる頭の知識に過ぎなかったのです。頭の知識を得ることによって、もちろん人間は救われ得ない。
けど、主の恵みによって、主は私の心の目を開いてくださったから、次のことを確信するようになりました。

すなわち、私を救うために、イエス様はこの地上に来てくださり、私を救うために、イエス様は自発的に、喜んで犠牲になると決心してくださったのです。
私を救うために、イエス様は、私ができない罪なき生涯を歩んでくださり、私が受けるべき死を遂げてくださった。

イエス様の死こそが、愛されてる証拠です。結局、知識ではない。「私も、イエス様によって愛されてる」という確信こそがすべてなのではないでしょうか。
私が理解することのできない愛。しかし、この愛が私を崇拝に駆り立てましたから、私は全生涯をあなたに明け渡しますと、望むようになりました。

第二番目に、イエス様は私のいのちであるから、主は私にとってすべてにまさるお方です。
イエス様は、ただ単に私を愛してくださっただけではない。イエス様は、自分自身を捨ててくださったのです。自分のいのちを与えてくださったのです。
したがって私にとって生きることは、イエス様のために生きることであり、イエス様の思い通りになること、主の望むことを行なうことです。ガラテヤ人への手紙の2章の20節に、次のように書かれています。信ずる者にとって、一番大切なみことばです。

ガラテヤ人への手紙2:20
20私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。

私ではなくキリストです。主ご自身こそ、私のいのちであると、パウロは告白したのです。
私は罪人として、どうしようもない者として、主のみもとに行き、自分のわがままを告白した時、主はみもとに来る者をだれひとり拒まないで、私をも受け入れてくださったのです。
そして、私は次のように言わざるを得なかったのです。「イエス様、どうか私の心の中に入ってください」と。イエス様を受け入れる者は、神の子となり、とこしえに救われている。

いわゆるキリスト教国で成長し、クリスチャンの両親を持ち、聖書をよく読み、その内容を信じ、これで十分だと考えてる人々がたくさんいます。
けど、これは大変な間違いです。頭の知識は十分ではない。聖書の福音を理性で認むることも、十分ではない。人間は新しいいのち、神のいのち、永遠のいのちを必要とします。この「いのち」とは、もちろん物ではなく、イエス様ご自身です。
イエス様は、「わたしはいのちそのものである」と証ししたのであります。イエス様を受け入れる者だけが、イエス様とともに、永遠のいのちを持ってます。救われるために、人間はこれをしたり、あれをしたり、する必要はなく、ただイエス様を受け入れればよいのです。

人生を生きがいのあるものにするのは、いったい何なのでしょうか?すべてのものにまさるイエス様です。
いったいどうしてなのでしょうか?イエス様は私を愛してくださったし、今もなお愛しておられます。イエス様の愛は変わらない、いつまでも続くものです。
またイエス様は、私のためにご自分のいのちを与えてくださった。そして主は、今もなお私のうちに生きておられます。

そしてまた、第三にイエス様は私たちに、まことの自由を与えてくださったし、私の解放者であります。
イエス様にしたがう人生は、不自由な人生、束縛の人生であると思ってる人がいますけど、これはたいへんな誤解です。イエス様は、束縛へと導くようなお方ではありません。
「もし、わたしがあなたがたを自由にするなら、あなたがたは本当に自由なのですよ。」と、イエス様は約束してくださったのです。

イエス様にしたがう者は、罪のさばきから解放されますし、罪の力から解放されますし、また自我からも解放されます。本当に、自我は、恐るべき暴君です。
イエス様にしたがう者は、不安と疑いから解放されます。これは決して理論ではありません。事実です。しかも本当にイエス様にしたがう者は、だれでも経験することができる事実です。
「イエス様を知るようになったのは、よかったぁ!」、「イエス様を信するようになったのは、よかった!」と、私たちも心から言うことができるなのではないでしょうか。

もう一つのすばらしい事実とは、イエス様は主の主であります。すべてにまさって偉大なるお方です。
イエス様は、私の主であるから、すべてにまさったお方です。イエス様は、「わたしは主である」とはっきり言われました。
初代教会の人々とはどうして迫害され、殉教の死を遂げるようになったかと言いますと、彼らはイエス様を信じたからじゃないんです。イエス様を「主」として宣べ伝えたからです。
「われわれの主とは、ローマ帝国の皇帝ではない。十字架の上で死なれたイエス様こそがわれわれの主である」と告白したからです。

イエス様は、私の人生に対して責任をとってくださるお方です。イエス様は私を導き、私のために配慮してくださり、私を御名のゆえに恵んでくださいます。
ただ単にあなたが主イエスのものであるということだけではなく、主があなたに対して責任をとってくださるということを、信仰によって把握するとき、もう心配することをやめるはずです。
というのは、あなたはすべてをこの主に語ることができ、ゆだねることができるからです。自分の健康が損なわるる時、家族が死んだ時、次から次へと試練がやって来る時、私は私の主、そして私のために配慮してくださるイエス様のみもとに行きます。たとえ、死が近づいても慰められます。

ダビデは、「死の陰の谷を歩くことがあっても私はわざわいを、心配しない、恐れない。あなたは、ともにおらるるからです。」と言えたのです。というのは、私はイエス様のものであり、イエス様は私のものであるから、もう安心してすべてをゆだねることができます。
今まで考察してきたことは、間違いのない事実です。

まず第一に、イエス様はあなたをも愛しておられます。
あなたに対する愛から主は罪のさばき、すなわち死を、ご自分の身に受けてくださいました。イエス様はあなたを愛しておられ、あなたが主のみもとに来て、債務を告白し、主が赦してくださり、その日を待っておられます。

第二に、イエス様は、あなたのためにご自分のいのちをささげてくださいました。それは、イエス様のいのちが、あなたのいのちとなるためです。
もはや、自分の力によってクリスチャンらしい生活をする必要はない。むしろ主の力、主のいのち、主の勝利、主の祝福を受けてください。これこそ、言葉に言い表せないほどの富です。

第三に、イエス様は偉大なる解放者であり、あなたにもまことの解放を提供しておられます。不安と恐怖のとりこになってる人々を解放するためにイエス様は、生きておらるるお方です。

第四に、イエス様は主の主です。イエス様はあなたの…

(テープ A面 → B面)

…の支配権をも、引き受けたいと心から願っておられます。
というのは、ただその時だけ主は、あなたのために配慮することが、おできになるからです。

イエス様を自分の生涯に受け入れて、後悔した人はこの世に一人もいない。イエス様は、限りなく豊かに恵んでくださるお方です。
ピリピ人への手紙の中で、パウロはイエス様について、また自分の経験について、次のように告白したのであります。ピリピ人への手紙3章の8節です。

ピリピ人への手紙3:8
8それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。

「イエス様は私にとってすべてのすべてです。」とパウロは告白したのであります。これこそが、聖書の言う「はじめの愛」そのものです。
ヨハネの黙示録の2章ですか、次のように書かれています。エペソという町に住む兄弟姉妹に、天にお帰りになった、高く引き上げられたイエス様は、次のように言わなければならなかったのです。

ヨハネの黙示録2:4
4あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。

このエペソにいる人々とは、ある意味で模範的な人々だったんです。一度ゆっくり、1節から7節までゆっくりゆっくりお読みになってください。
いろいろなこと書いてます。だいたい7つのこと書かれています。

第一番目は、「わたしはあなたのおこないを知っています。」2節。イエス様は、彼らの行いをよく知っていたのです。結局非難すべきところがないと、認めてくださったんです。大したもん。

二番目、同じく2節に書かれています。「わたしはあなたの労苦を知っています。」、あの兄弟姉妹が努力し、力を尽くし、自分の犠牲をしたことを認めてくださったのです。

三番目、「わたしはあなたの忍耐を知っています。」、彼らは困難なときに耐え忍び、イエス様の御名のために苦しみを耐え忍んだとあります。

四番目、「わたしはあなたが悪い者たちをがまんすることができなかったことを知っています。」、彼らは、霊を見分けることができたのであります。彼らは、使徒と自称している人たちが偽り者であることを見抜いて、彼らを追放したとあります。

五番目、「あなたはわたしの名のために耐え忍びました。」、と主は言うことができたのです。
その当時、エペソの教会にも、信仰の弱い信者たちがおりましたけど、彼らはその人たちを耐え忍んだとあります。

第六番目、「あなたは疲れることがありませんでした。」、彼らは、生ける主イエス様のうちにある、隠された力の源を知っておりました。彼らは、自分たちの力に頼ることをしないで、イエス様により頼んだんです。
彼らは、イエス様を伝えること以外には、何物をも成し得なかったのです。たくさんの困難がありましたけども、彼らは勇気をなくすこともなく、疲るることもなく、信仰をなくすこともありませんでした。迫害も、あざけりも彼らは問題にしなかったのです。

もう一つ。七番目になります。「あなたはニコライ派の人々のおこないを憎んでいます。わたしもそれを憎んでる」と6節に書かれています。結局、彼らは主に敵対するものに対しては徹底的な反対をしたのです。
けども、主はこのような人々に向かって、4節に書かれているように、「しかしあなたには非難すべきことがある。あなたは、はじめの愛から離れてしまった−−−。」

エペソの集会は、はじめの愛を失ってしまったのです。はじめの愛というのは、イエス様との交わりです。イエス様なしに何事も発せず、何事も成し得ない、ということです。
もし、日々主のみことばがわれわれの喜びの源となり、慰めとなり、力となり、知恵となっているならば、そして、私たちの考えと行いの中心に、イエス様がおいでになるならば、それこそが、われわれの「はじめの愛」が保たれることの証拠です。
けどエペソの兄弟姉妹の心は、もはや主との親しい交わりの中には、なかったんです。その結果は、主はもはや、「わたしがあなたとともにいる」と言うことができず、「わたしはあなたに対して、対立する」と言わざるを得なかったのです。

主は人間の行い、あるいは歩みを見られるのではなく、心を見てくださいます。動機を見てくださいます。「はじめの愛」こそが、もっとも大切なのではないでしょうか。
イエス様は当時、一度イエス様を裏切ってしまったペテロに、3回同じことを聞いたのです。「ペテロ、あなたは私を愛するの?」
「信じますか?」ともちろん聞かなかったし、「わたしにしたがうつもりですか?」と聞こうとしなかったのです。聞かれても、ペテロはおそらく答えられなかったんです。自信がなかったからです。

けど、「ペテロ、あなたはわたしを愛するの?」と聞かれたとき、彼は本当にまごころから言えたのです。「主よ。あなたはすべてをご存じです。私は、あなたを愛してます。」
どうして、こういうふうに言えたかといいますと、もちろん主の限りない愛を体験したからです。主は赦しに富むお方です。恵みを与えるお方です。決して、捨てないお方であると、体験的に知るようになったからです。

「イエス様、私はあなたを愛する。」と私たちも心から言うことができれば、本当に幸いと思います。




戻る