共に走っていきましょう


ベック兄

(石川喜びの集い、2008/08/31)

引用聖句:使徒の働き8章26節-40節
26ところが、主の使いがピリポに向かってこう言った。「立って南へ行き、エルサレムからガザに下る道に出なさい。」(このガザは今、荒れ果てている。)
27そこで、彼は立って出かけた。すると、そこに、エチオピヤ人の女王カンダケの高官で、女王の財産全部を管理していた宦官のエチオピヤ人がいた。彼は礼拝のためエルサレムに上り、
28いま帰る途中であった。彼は馬車に乗って、預言者イザヤの書を読んでいた。
29御霊がピリポに「近寄って、あの馬車といっしょに行きなさい。」と言われた。
30そこでピリポが走って行くと、預言者イザヤの書を読んでいるのが聞こえたので、「あなたは、読んでいることが、わかりますか。」と言った。
31すると、その人は、「導く人がなければ、どうしてわかりましょう。」と言った。そして馬車に乗っていっしょにすわるように、ピリポに頼んだ。
32彼が読んでいた聖書の個所には、こう書いてあった。「ほふり場に連れて行かれる羊のように、また、黙々として毛を刈る者の前に立つ小羊のように、彼は口を開かなかった。
33彼は、卑しめられ、そのさばきも取り上げられた。彼の時代のことを、だれが話すことができようか。彼のいのちは地上から取り去られたのである。」
34宦官はピリポに向かって言った。「預言者はだれについて、こう言っているのですか。どうか教えてください。自分についてですか。それとも、だれかほかの人についてですか。」
35ピリポは口を開き、この聖句から始めて、イエスのことを彼に宣べ伝えた。
36道を進んで行くうちに、水のある所に来たので、宦官は言った。「ご覧なさい。水があります。私がバプテスマを受けるのに、何かさしつかえがあるでしょうか。」
38そして馬車を止めさせ、ピリポも宦官も水の中へ降りて行き、ピリポは宦官にバプテスマを授けた。
39水から上がって来たとき、主の霊がピリポを連れ去られたので、宦官はそれから後彼を見なかったが、喜びながら帰って行った。
40それからピリポはアゾトに現われ、すべての町々を通って福音を宣べ伝え、カイザリヤに行った。

この前の方に書かれている言葉は、非常にすばらしい言葉です。

コリント人への手紙第I、1:18
18十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。

この箇所によると、滅びに至る人々もいます。そして救いを受ける人々もいます。結局、イエス様の十字架こそが聖書の中心です。
十字架が中心にならなければ、人間のあらゆる努力は的はずれです。むなしいものです。それを考えるとやっぱりちょっと、たいへんなのではないでしょうか。
前に、神戸である男性がはじめて集会に来たのです。非常に立派な男です。彼は、福音を聞いてその場で悔い改めてイエス様を信じ受け入れたのです。息子はもう驚いちゃって、ひとつの言葉しか言えなかったのです。「私は、主を恐れています。」

今の全世界を見ても、神の判断とは逆です。人間は主を恐れていない。だから、この世界はたいへんな速さでおかしくなっています。
主を恐れる恐れがないと、もう終わり。主を恐れるために必要なのは、十字架を仰ぎ見ることではないでしょうか。
どうして、イエス様の十字架はそのように大切なのでしょうかね。人間の罪の恐ろしさを一番示すものであるから。

イエス様の十字架は、父の愛の偉大さを一番よく証明するものでもあります。イエス様の十字架こそ、悪魔の敗北を一番よく現すものであります。
それだけではなく、主イエス様の十字架は、私たちの救いに対する一番偉大なる御業そのものであるからです。
もうひとつ、イエス様の十字架こそが、私たちの誇りの唯一の根拠なのではないでしょうか。

パウロは、「私には私の主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。
そして、私はあなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、なんにも知らないことを決心したからである。」と言ったのです。
パウロにとって、十字架こそが、すべてのすべてでした。だから彼は、誤解され迫害されるようになったのです。

彼は、聖書学者として今まで蓄えた聖書の知識を発表したならば、もうみんな、「パウロ先生、パウロ先生。」と言ったでしょう。
けれども、十字架につけられたイエス様だけを紹介するようになってから、もちろん悪魔は反対するようになりました。
このパウロの回心について、聖書は言っています。

使徒の働き9:1-5
1さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えて、大祭司のところに行き、
2ダマスコの諸会堂あての手紙を書いてくれるよう頼んだ。それは、この道の者であれば男でも女でも、見つけ次第縛り上げてエルサレムに引いて来るためであった。
3ところが、道を進んで行って、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼を巡り照らした。
4彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」という声を聞いた。
5彼が、「主よ。あなたはどなたですか。」と言うと、お答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。

もちろん彼は、イエス様を迫害するつもりではなかった。もう十字架の上で、殺されてしまったから。まだ生きていると夢にも思ったことがなかった。
けれどもイエス様は、「あなたは私を迫害している。」、結局、兄弟姉妹を迫害することとは、イエス様を迫害することです。
イエス様との交わりを大切にする人は、兄弟姉妹との交わりも大切にせざるを得ないのではないでしょうか。イエス様は頭にすぎない。肢体も必要です。

今の箇所、使徒の働き9章を見るとわかります。光に照らされたときはじめて、サウルは自分のやっていることはとんでもないことであり、全く悪魔的であり、的はずれの行いであることをわかったのです。考えられないショックでした。
けども、イエス様はいつも呼びかけておられます。「おいでよ。私のもとに来なさい。私は、光です。唯一のまことの光です。」
光のもとに来たくないことは、結局自分の罪を隠すことであり、正直になりたくないことです。不幸への道そのものです。

もちろん、生まれつきの人間は決して光のもとに行こうとしません。
イエス様の時代の大部分の人は、「結構です。」という態度をとりました。光よりも闇を愛した。
ちょっと考えられないけど、イエス様の判断は、そうでした。

前にある家族は、うちまで来られて、そしてご主人は、挨拶としてなかなか良いことを言われたのです。
「わたしは、悔い改めるために来ました。私は間違っていて、家族の者たちは大いに悩んだ。」、それを聞いて一人の娘は驚きと喜びの余り、泣いてしまったのです。
人間はみな悩んでいる者です。盲目にされています。そして、人間の最大の敵はもちろん自分です。他人ではない、環境でもない。自分の考え、自分の思い、そして自分の感情に支配され動かされると、もうおしまいです。

十字架とはいったい何を意味しているのでしょうか。私の思いではなく、あなたの思いだけがなるように。自分の思いは、はたして正しいなのでしょうかと、たえず疑うべきなのではないでしょうか。

今、言われたように、今日の題名とは、ちょっと変わっている「共に走っていきましょう。」
どうしてそう言ったかと言いますと、今まで二人の人に同じようなことを言われたことがあるのです。
20年前かな。ある兄弟は結婚式の後で、感謝の気持ちだったかわからないけど、つぎのように書いたのです。

Dear ベックさん

この世でベックさんに会えたことを神に感謝します。
姉妹にこの世で会えたことをベックさんに感謝したいのです。
これからも走り続けてください。
今、この世で一番幸福な男より

もう一人、

イエス様が来られるのはもうちょっとですね。
その日まで共に走っていきましょう。

ね。イエス様の再臨まで共に走っていきましょう。

ひとりの模範になってる男は、今の箇所を読むとピリポです。夕べの洗礼式の時も、兄弟が読んでくださいました箇所です。
使徒の働き8章を読むと、ひとりの男は走りました。別の題名をつけようと思えば、日々の歌の107番の6節に、次のように書かれています。

恵みの時は、過ぎ去りゆく
急ぎ伝えよみことば

使徒の働きにもどって29節から、もう一度読みます。

使徒の働き8:29-30
29御霊がピリポに「近寄って、あの馬車といっしょに行きなさい。」と言われた。
30そこでピリポが走って行くと、預言者イザヤの書を読んでいるのが聞こえたので、「あなたは、読んでいることが、わかりますか。」と言った。

この使徒の働き8章は、非常に躍動的な箇所なのではないかと思います。いつも何かが動いている。より正しく言いますと、このなかで、一人の男が走っており、一人の人が全力疾走しています。これこそ、その主を紹介するピリポであります。
その前に6章8節からと、7章では、わたしたちはもう一人の主の弟子、ステパノが宣べ伝えた福音について、彼が議会の前でいかに勇敢にイエス様の側にたったか、そしてそのために殉教の死をとげたのを読むことができます。
この8章のなかではピリポが登場し、このピリポが石で殺されたステパノの替わりに登場したという印象を与えます。

サマリヤでピリポは大勢の群衆に福音を宣べ伝え、イエス様を紹介しました。そのことによって大勢の人々が次々と導かれ、救われ、生活が根本的に変わり、多くの病人も癒されたとあります。
けれども、それから珍しいことが起こった。ピリポがイエス様の弟子として、主の御手にある器として大いに用いられ、サマリヤの至るところで主の働きに関する大きな喜びが支配的となり、大いなる祝福の最中、ピリポは全く違った命令を受けました。
ピリポは、福音をこの大群衆ではなくて、ひとりの男に運ぶことになっちゃったのです。

30節に「走って行くと」とあります。ピリポは急いでいました。主の霊に導かれ、主の命令に従い、彼はだいたい160km以上歩いたのです。
ピリポは一種の秘密命令を受けていました。というのは、主がいったい何を意図しておられるか、彼は全くわかりませんでした。
けど彼は何が起こるのかわからず、多くの心開いた人々から引き離されました。その人達から離れることは、人間的に考えればもったいないことでした。けども主の考えは、私たち人間の思いとは根本的に違っています。

ピリポの経験は、アブラハムの経験と同じようなものだったのではないでしょうか。
アブラハムについて、ヘブル人への手紙の11章を見ると次のように書かかれています。

ヘブル人への手紙11:8
8信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。

けれどもピリポは、イエス様が何を考えているのか少しずつわかってきました。
彼は突然、目の前にエチオピア、アフリカからの馬車を見たのです。その時、御霊の命令を聞きました。「近寄って、あの場所と一緒に行きなさい。」と。
そこでピリポは従ったのです。どうしてか、なぜか、わからなかったけど、彼は走って行ったと聖書は言っています。

160km後で、一種のラストスパートが行われました。ピリポは急いでいました。どうしてでしょうかね。
この間、北京で走った人もいましたね。けれども、死んじゃったら金メダルは役に立たない。そこまで考えないと、ちょっと・・・。
全部、的はずれじゃないの。

ピリポは走ったのです。160km歩いてから、また走ったんですよ。
最後は大切です。どうして走ったかはっきりわからない。でもある人はね面白いことを言ったんです。ピリポは、急がないとエチオピア人は、イザヤ書53章を読み終わって、54章に移ってしまったのではないか。
ピリポがゆっくりゆっくり歩いていたら、宦官は次にイザヤ書54章を読んでいたに違いない。けれども、福音そのものは54章ではなくて、53章に一番詳しく記されています。

彼は走りました。私たちも走るべきなのではないでしょうか。多くの魂を主に導きたいと思う者は、誰でも走るべきです。
多くの孤児たちのために働いたことで、世界的に知られているドイツのフリードリッヒ・ボーデンシュビングと言う方がいました。彼はビーレフェルドのベーテルの町を作ったのです。現在も、何千人という孤児達が住んでいるのです。彼はある時、次のように叫んだことがあるのです。
「ぐずぐずしないでください。さもないと、周りにいる人々は死んでしまいます。」、結局、彼も走る男だったのです。

次の問について、ちょっと一緒に考えたいと思います。
なぜ、ピリポはそんなに急いだのでしょう?
答えは、5つあります。

第1番目、イエス様が何かをするようにピリポに命令をお与えになりましたので、ピリポは走ったのです。ピリポは主の命令を果たす覚悟でした。
第2番目、福音がゆだねられましたので、ピリポは走りました。ピリポは、福音を宣べ伝える覚悟でした。
第3番目、緊急を要すること、すなわち生死にかかわることが、問題となっていたので、彼が走ったのです。
第4番目、救われなければならない魂を見たので、ピリポは走りました。そして、ピリポは、この魂を主に導きたいと節に望みました。
第5番目、主の計画が実現されるために、あらゆる救われた魂がひとつの鎖の環と同じような働きをすることがわかったので、ピリポは走りました。

夕べ、兄弟も話してくださいました。ある姉妹は、何十年か前に奇跡的に癒されたよりも、主の恵みによって導かれたのはすごいとしか言えないのではないでしょうか。
イエス様が、何かをするようにピリポに命令をお与えになりましたので、彼は走ったのです。彼は、主の命令を果たす覚悟でした。
結局、主よ語ってください。聞く耳を持っている。従いたいと願っているのです。

使徒の働き8:26-27
26ところが、主の使いがピリポに向かってこう言った。「立って南へ行き、エルサレムからガザに下る道に出なさい。」(このガザは今、荒れ果てている。)
27そこで、彼は立って出かけた。すると、そこに、エチオピヤ人の女王カンダケの高官で、女王の財産全部を管理していた宦官のエチオピヤ人がいた。彼は礼拝のためエルサレムに上り、

29節から30節にも、同じように従順に従うピリポの覚悟を見ることができます。

使徒の働き8:29-30
29御霊がピリポに「近寄って、あの馬車といっしょに行きなさい。」と言われた。
30そこでピリポが走って行くと、預言者イザヤの書を読んでいるのが聞こえたので、「あなたは、読んでいることが、わかりますか。」と言った。

ぐずぐずためらったり、尋ねたりすることをしないで彼は従いました。すぐ、ただちに従うことが、このピリポの特徴でした。
ピリポは、イエス様に用いられることができたのです。いったいどうしてでしょうか。なぜならピリポは、主の声に耳を傾け、すぐに従う覚悟ができたからです。
イエス様がサマリヤにおける祝福された仕事から離れるようにとピリポに命令した時、彼はどうするのか、わからなかったでしょう。けれども関係ない。ピリポは従いました。

彼は、詩篇の作者とともに次のようにいうことができたのではないかと思います。
ダビデは、詩篇119篇32節で次のように言いました。

詩篇119:32
32私はあなたの仰せの道を走ります。あなたが、私の心を広くしてくださるからです。

ピリポの内心の態度は次のようなものだったでしょう。すなわち、私は主のために生き、無条件に主に従うつもりです。
ダビデに仕えた僕たちもそうでした。

サムエル記第II、15:15
15王の家来たちは王に言った。「私たち、あなたの家来どもは、王さまの選ばれるままにいたします。」

ピリポのような人々が、今日も必要なのではないでしょうか。
今日必要とされているのは、主の側に立つ兄弟姉妹です。今日必要なのは、多く尋ねることなく、すぐに従う兄弟姉妹です。
今日必要なのは、主のみ声を聞いて主によって導いてもらいたいと思う兄弟姉妹です。

今日、必要とされているのは次のような確信を持っている兄弟姉妹です。すなわちイエス様は、ご自分のなさるすべてのことをご存知でいらっしゃると言う確信。
そして、イエス様はご自分の許し賜うすべてのことをご存知である確信。さらに、ご自分が意図し追求されるすべてのことを、ご存知でいらっしゃると言う確信。
これです。

イエス様は、人間を用いたいと願っておられます。それが、多くの人に福音を宣べ伝えることであれ、一人の人に応えることであれ、日曜学校で教えることであれ、一人の病人を見舞うことであれ、イエス様によって用いられる最も大切な前提は、喜んで主に従うと言う心構えです。
私たちの心の最も深い態度は、詩篇の態度と同じ態度であるべきなのではないでしょうか。
ダビデの証し、告白でもあります。

詩篇40:8
8わが神。私はみこころを行なうことを喜びとします。あなたのおしえは私の心のうちにあります。」

ピリポは喜んで主の声に聞き従う覚悟でした。だから、彼は走ったのです。彼は、主に従いたかったから急いだのです。
どうして走ったかと言うと、第2番目の答えは、福音がゆだねられたから彼は走ったのです。
ピリポは、福音を宣べ伝える覚悟でした。この出来事から20年たって、ピリポは、伝道者として描かれるようになりました。

使徒の働き21:8-9
8翌日そこを立って、カイザリヤに着き、あの七人のひとりである伝道者ピリポの家にはいって、そこに滞在した。
9この人には、預言する四人の未婚の娘がいた。

伝道者とは、ほかの人にイエス様を宣べ伝えるように召されている人です。ピリポは、私に福音が宣べ伝えられただけではなく、私はそれを通して信仰に導かれましたが、私が救われるだけではなく、福音をさらに宣べ伝えるために、私に福音がゆだねられたということを知っていました。
実際このことは、ピリピにおいては単なる頭の知識ではなかったのです。彼はそれを実際に行いました。彼は、イエス様についての喜びの訪れをさらに宣べ伝えました。
私たちもピリポと全く同じように、救い主イエス様についての知らせをさらに宣べ伝えるために召されているということを忘れてはなりません。

私たちは、救い、逃れ道、望みが存在するということを、悩んでいる人々に告げ知らせるように召されています。

テサロニケ人への手紙第I、2:4
4私たちは神に認められて福音をゆだねられた者ですから、それにふさわしく、人を喜ばせようとしてではなく、私たちの心をお調べになる神を喜ばせようとして語るのです。

わたしたちは「福音をゆだねられた者です。」と書いてあります。
生きるまことの神は、私たちに素晴らしい賜物、すなわちイエス様を、イエス様ご自身をゆだねてくださいました。
パウロはこの事実について、ローマにいる兄弟姉妹につぎのように書いたのです。

ローマ人への手紙8:32
32私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。

結局、イエス様によってすべてが与えられていると。
私たちにひとつの教えよりは、むしろ一人の人格者、イエス様がゆだねられています。けれども、私たちに次のことが明言されています。
ほかの人々もまた主の豊かさに預かることができるように一生懸命になりなさい。ほかの人達がイエス様の中に本当の満足を見いだすように、すべてのことを行いなさい。また、ほかの人々が罪の奴隷から、また自我の束縛から解放されるように励みなさい。

マルコの福音書16:15
15それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。

福音とは、もちろんひとつの教えではなくて、十字架につけられ復活なさり、高く引き上げられ、近いうちに迎えに来てくださるイエス様です。福音とは、決して単なる教えではない、イエス様ご自身です。イエス様を宣べ伝えなさい。
イエス様こそあらゆる問題に対する解決です。私たちは福音を宣べ伝えているのでしょうか。
あるいは、自分が救われていることに満足しているのでしょうか。罪から救ってくださるイエス様の福音を宣べ伝えない者は、災いです。

ピリポは非常に急いでいました。どうして?彼は、喜びの訪れを宣べ伝えることを急いだからです。
ピリポは、それを宣べ伝えないで、自分だけのものとすることができなかったし、そうしたいとは思いませんでした。
もちろん、聖書の中でほかの急いでいる人々もいます。イエス様の復活の朝、急いでいる女性もいました。

マタイの福音書28:5-8
5すると、御使いは女たちに言った。「恐れてはいけません。あなたがたが十字架につけられたイエスを捜しているのを、私は知っています。
6ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。来て、納めてあった場所を見てごらんなさい。
7ですから急いで行って、お弟子たちにこのことを知らせなさい。イエスが死人の中からよみがえられたこと、そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれ、あなたがたは、そこで、お会いできるということです。では、これだけはお伝えしました。」
8そこで、彼女たちは、恐ろしくはあったが大喜びで、急いで墓を離れ、弟子たちに知らせに走って行った。

彼女たちも走ったとあります。この婦人達はなぜ急いだのでしょうか?イエス様が甦られたので、彼女たちは急いだのです。
彼女たちは、イエス様の死体が墓の中にあると思ったけど、御使いは、イエス様が甦られたことをイエス様に伝えました。この福音を、彼女たちは、絶望的な状態に置かれている弟子達に、早く、早く伝えたいと思いました。
確かに私たちは、皆同じことをしたことでしょう。イエス様が甦られたという喜びは、私たちを駆り立てたに違いありません。けれども今日、私たちは何をしているのでしょうか。

ローマ人への手紙1:14-15
14私は、ギリシヤ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています。
15ですから、私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。

あらゆる信者は、負債を持っている債務者です。すなわち信者は誰でもイエス様の福音を宣べ伝える義務を持っています。いわゆるキリスト教の宣伝をするのではなく、イエス様を証しすることが大切です。
ピリポは急ぎました。どうしてでしょうか。緊急を要すること、生死にかかわることが、問題となっていたのです、彼は走りました。
イエス様が、ピリポを女王の財産全部を管理していた宦官と出会わせたことは比類ないことです。しかも、一方の者が他方の者にとって助けとなり得た瞬間に、二人を結びつけられたのです。ピリポが即座に従わなかったなら、この出会いは実現しなかったでしょう。

イエス様は、心の備えのできた財産管理者が、イエス様の福音を知らされるようになることをお望みになりました。そして、ピリポは同じ思いに満たされました。ですから、彼は急いだのです。
私たちは次のことを忘れてはなりません。すなわちイエス様の福音を宣べ伝えることほど、緊急を要するものは何一つないということです。
失われた魂を、イエス様と出会うようにさせるためにいかなる時間も失われることは許されません。

イエス様を持っていない多くの人々。従って救いもなく、平安もなく、望みもなく、罪の赦しもない多くの人々は、私たちから安けさを奪い取ってしまい、動揺させるはずです。
イエス様の態度は、私たちの態度でもあるべきです。
イエス様は言われました。

ヨハネの福音書9:4
4わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行なわなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。

したがってパウロの証しは、私たちの証しでもあるべきです。

コリント人への手紙第I、9:16
16というのは、私が福音を宣べ伝えても、それは私の誇りにはなりません。そのことは、私がどうしても、しなければならないことだからです。もし福音を宣べ伝えなかったら、私はわざわいに会います。

今の時代は恵みの時と言われています。すなわち、誰に対しても、成就された救いの知らせが提供されなければなりません。
けれども、この恵みの時はたいへんな勢いで終末に向かっています。
やがて最後の審判の時が始まります。ですから、急がなければなりません。

サムエル記第I、21:8
8ダビデはアヒメレクに言った。「ここに、あなたの手もとに、槍か、剣はありませんか。私は自分の剣も武器も持って来なかったのです。王の命令があまり急だったので。」

すなわち王の王であるイエス様の命令は、緊急を要するのです。
私たちの周囲の人間は、永遠の滅びに向かっています。彼らは、神なく望み無く死に向かっています。
50なん年か前に、はじめて読んだ詩を紹介します。忘れられないものです。エレミヤ書8章20節のみことばが題名になっています。

エレミヤ書8:20
20「刈り入れ時は過ぎ、夏も終わった。それなのに、私たちは救われない。」


「恵みの時は、終わりに近づいている。
広い世界に、静かに終わりの日が近づいている。
遠い砂漠の底から不安な叫びが聞こえてくる。

私たちの真っ暗な夜には、決して光が差し込まない。
私たちを照らす神の恵み無くしては、私たちは、苦しみと闇の中
暗い道を行かなければならない。永遠に、永遠に。


あなたがたは歌い喜びに満ちている。自分は神の子であると言う。
私たちは、死のいけにえであり、恐怖に満ち、
ひどい苦しみに満ちている。

あなたがたは、なぜ立ち止まっていて、
夜の始まる今、私たちを救おうとしないのか。

あなたがたは、神様がそのひとり子を遣わして
自分たちを愛していることを教えないのか。
あなた達のおかげで、私たちは、それを知らずに
希望無く滅びゆくのだ。

私たちは死ぬために生まれたのであり、
死は、永遠から永遠に至る私たちの運命なのだろうか。

私たちには星が輝かない。
約束の光も照らされない。
遠くの方に、砂漠の雷が聞こえる。

なぜ、あなたがたは急がないのか。
神は、行って全世界に十字架を宣べ伝えよと言っているのに。

あなたがたは、私たちの哀れな心のために
喜ばしき知らせを持っているのに。

傷を癒す薬を、
苦痛を永遠に癒す薬を持っているのに。
なぜ、そんなに長く沈黙しているのか。

あなた達の信仰の岩に至る道を、
示す言葉を私たちに、
聞かせてください。

私たちの涙をぬぐってください。
私たちが死につくのも、あなたがたのせいです。

私たちの罪は、私たちを悩ませ
夜が近づいています。
私たちは、私たちの魂を
サタンの力に預けなければならない。
永遠に、永遠に。


遠くの国々から幾百万と言う人が
収穫の主よ。聞きたまえと呼ぶ。
私たち信者に新しい恵みを与えて下さい。
私たちの罪を赦してください。
待ちこがれている魂の所へ、
十字架の言葉を運ぶ者となさしめ賜え。
彼らが永遠に滅びないように。」


パウロは、パウロの言葉からの叫びは、小羊なるイエス様のために多くの魂を獲得することでした。
血潮によって買い取られた魂は、イエス様と接触すべきです。
使徒パウロは、エペソの長老たちに、つぎのような告白を書き送ったのです。

使徒の働き20:20-21
20益になることは、少しもためらわず、あなたがたに知らせました。人々の前でも、家々でも、あなたがたを教え、
21ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰とをはっきりと主張したのです。

パウロと同じように、ピリポもまた喜びの訪れを宣べ伝えること、彼の責任を果たすことを急ぎました。
ピリポは黙っていることができなかったのです。彼は、自分が経験したイエス様の恵みと愛について宣べ伝えざるを得ませんでした。
ピリポは急ぎました。不滅の魂が永遠に救われるか滅びるかと言う大きな問題がかかっていたからです。

私は、多くの人々がイエス様に導かれたひとりの伝道者について読みました。
ある夜、伝道者は何千人もの人達に向かって話しをしました。多くの人々はその場で決心しました。その晩遅くその伝道者は、タクシーで帰宅しましたが、家に着く前にタクシーの運転手はイエス様を信じる信仰に導かれました。
この伝道者の主な特徴は、彼が使命の緊急性を確信し、イエス様について宣べ伝える機会を何一つ逃さなかったということです。

ピリポは急ぎました。どうしてでしょうか。救われなければならない魂を見たので、彼は走ったのです。そして、この魂をイエス様に導きたいと心から望みました。
イエス様は、エチオピアの財産管理者が救われるという望みを与えてくださいました。
ピリポはいかに導いたのでしょうか。非常に急いで、ようく考え、勇気を出して、断固たる態度で応答したのです。

なぜ、ピリポは求道者の財産管理者をイエス様のもとへ導くことができたのでしょうか。なぜなら、彼自身イエス様を体験していたからです。彼自身が、イエス様のみことばが救うことができると確信していたからです。
ピリポはただ単に、宦官がイエス様を必要としていると知っていただけではなく、イエス様ご自信を宦官を捜し求めておられる方であるということを知っていました。
イエス様がそれを望んでおられれば問題ない。必ず導かれるとピリポは確信したのです。

もちろん宦官に近づくことは、そんなに簡単ではなかったと思う。そのために、やっぱりある程度まで勇気を必要とした。
というのは、宦官がただ一人で車に乗っていることは絶対になかったからです。そのような有名人は、疑いもなく大勢の部下を連れていたはずです。
急いでいるピリポは、あらゆる人間の魂のために、イエス様が死んで下さったのですから、どうしても救われなくちゃならないということをよく知っていました。多くの人達が、私たちを通して、主の御許に導かれ、それを通して、贖いを見いだすということが、私たちの関心であるべきです。

電話がかかってくると、私たちは様々な方法で対応します。なんということか、また電話か。ふー。中断され、仕事を続けることができない。
あるいはまた、次のような対応の仕方もあるでしょう。おそらく私がイエス様について語ることのできる魂が、緊急を要して電話してきたのでしょう。
ピリポは荒れ野で、車の後を走ったのです。つぎのようにいうことができたかもしれない。このいまいましい車め、こんなにひどいほこりを巻き上げて、ほこりがひどくて、まともに見られない。目や鼻や口にほこりが入ってひどい。願わくば早くほこりが消えてなくなりますように。

ピリポは、口や目や鼻に入ってくるほこりには無頓着でした。
馬車の中にいるこの人は、重要人物であるに違いない。彼は、ひとりごとを言いました。
私はどうしても、彼にこの地上に来られた救い主について、宣べ伝えなければならない。

私たちが出会う人、私たちが知ってる人は、誰でもイエス様がご自身の命を捧げてくださったゆえに、救われなければならない魂なのです。
そして、生けるまことの神は、この奉仕のために、ひとりひとりを用いたく願っておられます。福音は、あらゆる人間の最も深い苦悩を静めて下さる唯一の喜びの訪れです。
なぜピリポは急いだのでしょうか。キリストの愛が迫ったからです。

コリント人への手紙第II、5:14
14というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。

ピリポは、この人をイエス様のみもとに導こうと急いでいました。そして、この努力はいかに報われたことでしょうか。
ピリポは、ただひとつの魂のために一生懸命努力しました。
ひとつの魂、どれでもがイエス様にとって全世界の富よりも、価値があるのです。

主は、いかなる魂に対しても決して無関心ではありません。
エチオピアの財務長官は、見知らぬピリポに車の中に座るように頼みました。それは、彼の霊的な飢え渇き、満たされない状態、救いに対する熱望の現われに違いない。
財務長官が前に言いましたように、ちょうど読んでいた箇所はイザヤ書53章でした。私たちは、この箇所が、預言された救い主がいかにして身代わりの苦しみを通してご自分を無になさるか、また救いの代価としてご自分の命を捨ててくださったかについて、最もよく書き記されていることを知っています。

使徒の働き8:32-35
32彼が読んでいた聖書の個所には、こう書いてあった。「ほふり場に連れて行かれる羊のように、また、黙々として毛を刈る者の前に立つ小羊のように、彼は口を開かなかった。
33彼は、卑しめられ、そのさばきも取り上げられた。彼の時代のことを、だれが話すことができようか。彼のいのちは地上から取り去られたのである。」
34宦官はピリポに向かって言った。「預言者はだれについて、こう言っているのですか。どうか教えてください。自分についてですか。それとも、だれかほかの人についてですか。」
35ピリポは口を開き、この聖句から始めて、イエスのことを彼に宣べ伝えた。

結局、宦官はどうか教えてと言ったのです。ピリポはこの聖句から始めて、イエスのことを彼に宣べ伝えたのです。もちろん、十字架につけられたイエス様を宣べ伝えた結果として救われました。
ピリポは、宦官にユダヤ教について語ったり、初代教会について語ったり、信者について語ったりには、何の関心も持っていませんでした。
ピリポは財務長官にイエス様の福音を宣べ伝えました。そして、福音としてイエス様ご自身のことを宣べ伝えたのです。

大切なのはイエス様であり、イエス様おひとりだけが大切であることを忘れてはなりません。
そして、本当に、イエス様だけを大切にする人は主によって用いられます。なぜなら、その人はいかなる自己の名誉も追求しないからです。
確かにピリポは財務長官をイエス様のみもとに導いた後で、主を証しする大切さを指摘したはずです。なぜなら、自分が救われることだけが大切なのではなく、主があらゆる信者をご自分の替わりに使徒として用いたいと願っておられるからです。

イエス様の中に救いを見いだした人は、このことを水のバプテスマによって証しする特権を持っています。財務長官は、途中で水のある所を見ると洗礼を受けるのに何かさしつかえがあるのでしょうかと聞いたのです。
彼はその時、救われるために洗礼を受けたのではない。悔い改めて信じたから証しとして、水のバプテスマを受けたのです。
疑いもなくピリポは、従者たち全員に対して、今見ることがなんであるか、なぜ財務長官が洗礼を受けるのか、それはどのような理由からなされるのかを説明したはずです。

このようにすべての人々は、福音として、イエス様の成し遂げられた御業を聞きました。私たちはさらに財務長官が喜んでいたことを読むことができます。
私たちは、彼がなぜ喜ぶことができたかを、もちろん知っています。すなわち彼は、救い主に出会ったからです。罪の債務が消し去られたことを知ったからです。
彼は洗礼によって、自分が救われていることを公に証ししたのです。なぜ、こういうことが起こったのでしょうか。なぜならば、ピリポが急いで彼をイエス様のみもとに導いたからであります。

最後にもうひとつ、イエス様のご計画が実現されるために、あらゆる救われた魂が、ひとつの鎖の環と同じような働きをすることがわかったから、ピリポは走りました。
ここの箇所では、ひとつの魂がいかに主のみもとに来て救われたかということだけが、私たちに報告されています。けれども、このただ一人の人は重要人物でした。
現代であれば、そのようなことが起これば早速、財務長官がユダヤでキリスト者になったという見出しで新聞、ラジオ、テレビで報道されたことでしょう。実は、この人を通して、はじめて福音がアフリカに伝えられたということなのです。

ここでもまた、イエス様にとっては、このひとりの人の救いだけではなく、彼によって影響され福音を聞くであろう多くの人々が、大切であったということが知ることができます。
財務長官は、鎖の中でひとつの大切な環だったのです。
彼は、アフリカがイエス様の福音を聞くようになる救い主の器となる特権が与えられました。

私たちは主に忠実でなければならない。たいへんな緊急性を持って福音は宣べ伝えられなければならなりません。
私たちは、私たちを通して救われる人々を、イエス様が後でいかにお用いになるかを知ることができません。
日曜学校での青年、私たちが電車で会った人、私たちがもう何年もの間会えなかった同級生、その人達が救われて聖霊に満たされることならば、その人達を主がどのようにお用いになるのか、祝福されるのか、もちろん誰も知りません。

注目に値することは、最後まで、ピリポがあいかわらず急いでいるということです。
急いでいるだけではなくて、彼は急に姿を消しちゃったのです。見えなくなってしまったのです。

使徒の働き8:39
39水から上がって来たとき、主の霊がピリポを連れ去られたので、宦官はそれから後彼を見なかったが、喜びながら帰って行った。

ピリポは、いつも急いで福音を宣べ伝えました。ピリポは確かに急いで福音を宣べ伝える者でした。
ピリポは、イエス様が用いられることがおできになった人でした。
どうしてでしょうか。彼は、走っていたからです。

使徒の働き6:3
3そこで、兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち七人を選びなさい。私たちはその人たちをこの仕事に当たらせることにします。

ピリポは御霊に満ちた人でしたとあります。すなわち、ピリポは御霊に満たされていました。
御霊に満たされている人は、急いで福音を宣べ伝えざるをえない。御霊に満たされている人にとって大切なのは、イエス様だけであり、イエス様おひとりだけです。
それですから、御霊はピリポをも連れ去られました。

御霊に満たされた人は、視界から消えて見えなくなりたいと願います。
ピリポは、すべての名誉と誉れがただイエス様おひとりだけに与えられることを願っていたのです。
イエス様だけが盛んになり、私は衰えなければならないと心から思ったのであります。こういう人々こそが用いられるのです。




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