引用聖句:ヨハネの福音書15章11節
エレミヤ書15:16
今、一緒に歌いました日々の歌47番でしたか。この歌は非常にすばらしい歌です。 人間は考えていることと思っていることとは、多くの場合は違うから、ちょっと困ってしまうのではないでしょうか。ですから多くの人々は、歌いながら嘘をつく可能性があります。 「私の主イエスよ。私のすべてよ。ただあなただけを慕いゆく。」と、本当に心からそう思えば、もうすごい。 おそらくラオデキヤの兄弟姉妹も、このような歌を歌ったのではないかな。 けれども主はそれを聴いたとき、ちょっと厳しいことばを言わなければならなかった。 ヨハネの黙示録3:17
本当は知ろうとしない。そうすると、悔い改められないのではないでしょうか。 今読みましたようにイエス様は、色々なことを話されました。 ちょっとだけ聖書を読むと、確かにイエス様は色々なことを教えようと思ったらしい。本当は違う。 イエス様は色々なことを話されたのですけれども、自分自身を明らかにするためだけです。結果として喜びに満たされるのです。 ヨハネの福音書15:11
今の末の世の中で一番必要としている人々とは、イエス様の喜びに満たされている人々ではないでしょうか。 どういうことがあっても喜ぶことができなければ、絶対に証しになり得ない。 一昨日も一人の入院された人に会いまして、顔を見たときもう、「ああ、良かった。」としか言えなかったのです。もう輝いている顔です。 夫婦の間はずっと何十年間上手くいかなかった。もう喧嘩ばっかり。けれども、この間も大喧嘩して、彼は怒って出かけて、飲んで、酔っ払って、帰ろうと思って、途中で、自転車で壁にぶつかって、骨が折れただけではなく、手足はもうおそらく使えないでしょう。けれどももうやっぱりあの夫婦は喜んでいる。 二人ともが、「本当に悪かった、悪かった。」主人はそう言いますし、そして奥さんは反対して、「いいえ、私が悪かった。」主人は「違う。あなたではない。私が悪い。」、こういうふうに喧嘩をしたらありがたい。 結局、やっぱり本当は、家族もいるし、彼はやっぱり家族のために頑張りたい。けれども、もうパーです。無理。何も出来ないです。 だから彼は悩んでいるのは悩んでいる。奥さんにとっても面白くない。あのちっぽけなことで喧嘩した問題は、二、三日前に解決されました。ですから喧嘩しなくてもよかった。 けれども主は一度赦しました。結局、あの家族はみんな悩んでいます。けれど悩みながら喜ぶようになったのは、すごいのではないでしょうか。イエス様が生きておられる証拠そのものです。 どうして喜ぶことができるかと言いますと、エレミヤは分かったのです。私はみことばを与えられた。見つけた。 どうして見つけたかと言いますと、探したからです。「主よ。語ってください。しもべは聞いております。」という態度を取ったから、喜びに満たされた。 彼はみことばをわかったのではない。理解したのでもない。食べた。自分のものにした。 結局、そういう聖書の読み方が大切です。分かろうと思えば何もならない。心は空っぽ。けれど約束されているから。考えられない、何も感じないけれども信じますという断固たる態度を取ると、喜びに満たされます。 このエレミヤという男は、主のみことばを宣べ伝えたから、のけ者にされ、迫害されるようになり、刑務所にも入るようになったのです。 いくら福音を宣べ伝えても、だれも聞く耳を持っていない。と彼は始めから分かった。けれど忠実に主に仕えたのです。彼はどうして喜びに満たされたかと言いますと、みことばを食べたからです。自分のものにしたからです。 あるドイツ人は、ちょっとテレビ局の人々に聞かれたのです。インタビューのようなものがあったらしいのです。 「あなたにとって最も大きなショックになるとは、一体何なのでしょうか。もし、あなたが急に癌になればどうですか。あるいは、今持っている全財産をいっぺんに失くせばどうですか。あるいは、事故に遭って、一生涯を車椅子の中で生活するのは大変でしょう。あなたにとって一番大きなショックなのは一体何なのでしょうか。」 答えは全然違う答えでした。結局、彼は欲しい物全部持つようになったのです。けれども彼の答えは、「もし神様がおられれば、それこそ考えられない、恐ろしいことです。」 神がおられれば、死は終わりではない。そうすると必ず死後さばきを受けることになるのです。結局、天国か地獄かのどちらかです。 確かに、地獄、すなわち永久的に光が見えないこと。平安無し。希望無し。喜び無し。 永遠に存在することとは、考えられないほど恐ろしいことです。 最近、福音書を読んだとき、はっきり新しく分かったのです。イエス様は天国のすばらしさについてよりも、地獄の恐ろしさについて話されたのです。 結局、天国のすばらしさについて話しても通じないし、この栄光を表わすことばも無いし、けれどもやっぱりイエス様は、人間はやっぱり永遠の栄光にあずかってもらいたいから、地獄の恐ろしさについて、よく色々なことを話されたのです。 天国について聖書は何と言っているかと言いますと、もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。夢の世界です。想像できない。考えられない世界です。 ですから、来たるべき栄光は、あんまりすばらしいものであるか、人間の言葉で言い表わせないほどです。ですから聖書は正しく言っています。 ローマ人への手紙8:18
「また天国で会いましょう。」、こういう生きる希望、また確信を持たない人は、本当にかわいそう。行く先は真っ暗やみです。われわれの目的は、天国でなければ、全てはむなしい。心満たすものはない。 何ヶ月か前に、ある兄弟が召されました。天国で会いましょう!See you again!これは見舞いに行った人々に言われた言葉だったのです。 結局、だからこそ彼は考えられないほど信頼され、愛されるようになったのです。前夜式と葬儀に出た人で700人以上だったのです。 もちろん悲しい集いではなかった。みんな、「羨ましい。」、そういう気持ちでした。 彼は小さい冊子を葬儀のために作ったのですけれど、初めの文章は、「本日は、私の昇天式にお集まりくださいまして、本当にありがとうございます。」 そういうふうに彼は書いたのです。結局、死は終わりではない。See you again!また天国で会いましょうよ! 私が初めてこの兄弟に出会ったのは17年前だったのです。出会った場所はある病院でした。きっかけになったのは、兄弟の奥さまである姉妹の病気。末期の癌だったのです。 兄弟はそのとき45歳。奥さまは39歳でした。お二人はその日初めて祈るようになったのです。悔い改めて、「今から全部イエス様にゆだねましょう。」という態度を取りました。赦された確信を持つようになった。 それからお二人は共に悩み、共に祈るようになったのです。 別のときお見舞いに行ったとき、ちょっと変わった会話を聞いたのです。末期の癌で悩んでいる奥さまは、兄弟に向かって言ったのです。 「病気になったのは良かったね。お父さん。」、兄弟は、「あなたのおかげです。」と言ったのです。 その意味は、もし病気にならなかったなら、救いを求めようとしなかったし、救い主に出会わなかったに違いない。そうすると、まことの喜び無し、本当の平安無し、生きる希望無しに存在しなければならなかったに違いない。だから、病気になったのは良かった。永遠のものを得たからです。 この兄弟は、あとで奥さまが召されてから書きました。 「もし聖書を知らなかったら、苦しみや悲しみに苛まれ、運命を呪ったことでしょう。主イエスを信じて、妻は死の恐怖から解放され、私も生き様が変わりました。 今は、再び天国で妻とめぐり会える喜びと主のみこころと愛に、感謝の気持ちです。」 そのあとで、兄弟は17年間、本当に献身的に、忠実にイエス様に仕えたのです。色々な人々が彼を通して導かれ、「あの兄弟のおかげで幸せになった。」、「救われた。」と言える人々はいっぱいいます。 26年前に、うちの娘リンデは癌になり、天に召されました。20歳だったのですけれど。この娘は、「イエス様のために実を結びたい。」、そういう気持ちのかたまりだったのです。 もちろん彼女が頑張ったからではなくて、やっぱり主によって与えられたものだと思う。自分の健康や自分の幸せはもう枝葉のことでした。「ただイエス様だけが栄光をお受けになるとき、私は嬉しい。」と。 ちょうど7週間だけ病院生活だったのですけれど、ちょうどドイツにいたから、もちろんほかの集会全部断って、当然ですけれども、毎日病院まで行った。 娘はちょっと文句を言ったことがある。「私のために集会に行かなくなったのは悪いね。」と。変なこと言ったことがあります。けれども私たちは彼女を励ますために行ったのではなくて、私たちが励まされたのです。 「やっぱり実を結びたい。けれど、今現在、何もできない。」 けれどもこの態度こそがやっぱり祝福になったのです。一緒に病室にいた奥さまも導かれ、救われるようになったのです。 ある、同じく病室をよく訪ねた人は、名前はちょっとかわいそうな名前だったのです。Teufel。日本だったら悪魔。 このTeufelさんはやっぱり初めは全部断ったのです。「結構です。結構です。結構です。」、けれどあとで、やっぱりこのリンデの「イエス様を知りたい。」、「どういうふうに救われたらいいか。」、と思うようになったのです。 ドイツで一人の方は私に尋ねてくれました。そして次のような質問をしたのです。「リンデがそんなに喜んで死ぬことができたのは、いったい何だったの?彼女はそんなにもこの世から離れて、目に見えるものに関心を持たず、目に見えないものに関心を持ったのは、いったいどういうことだったの?」と。 彼女は次のような文章を書いてしまったのです。「人格者とは、死を直視することのできる人です。」結局、安心して死ぬことができる。 ある姉妹のように、「いつでも。備えあれば憂いなし。いつでもいい。」という確信を持つ人々とは、本当に幸せではないでしょうか。 確かにある人は、死後の問題は死んだ時に初めて分かることであって、この世で生きている間は、そんな問題に煩わせないほうがいい、と考えています。そのような考え方について私たちはどのように考えているのでしょうか。確かに死についての人間の考え方は色々違っています。 一般に、死について何か話そうとすると、嫌な顔をして、それを拒む人が少なくない。 太陽王と呼ばれた、有名なフランスのルイ14世は、葬式の列が通るのを見た時、すぐに命令したのです。「カーテンを閉めろ!」結局、見たくない、死について考えたくなかった。 彼はもちろんご存知のとおり、自分が望むものは何でも持っていました。名誉も地位も財産も。有名だった。けれど彼が一番嫌ったものが、まさに「死」だったのです。 ドイツの偉大な詩人であるヴォルフガング・フォン・ゲーテという男も結局同じだったのです。 親しい人の葬式でさえも、出席しようとしなかった。気の毒なことではないでしょうか。 多くの人々は色々なことについて計画的に考え、その計画に従って行動しようとしますけれど、死に対しても同じように考えようとすると、メチャクチャになって、何の計画も立てられなくなってしまうために、死のことに対しては頑なに目をつぶってしまうのです。 そして彼らは、生きている限りはできるだけ楽しみたいという強い願いを捨て切ることができない。 けれど悪魔はそのような人々に囁きかけたい。死のことについて深刻に考えることをやめさせたり、あるいは、目を眩ませて享楽的な生活へと誘惑したり、絶えず悪の罠に引き込もうとしているのです。 けれど実際問題として考えると、事実は上に述べたこととは違った結果を示しているのではないでしょうか。すなわち、毎日この日本で1時間毎に、少なくても24人の人々が交通事故で死にます。 そして、第一、また第二の世界大戦の、二度に亘る世界戦争では、8,000万人の人々が殺されてしまったのです。日本で毎年、35,000人以上の社会人が命を捨てて死にます。残された家族の悩み、また苦しみはいかなるものでしょうか。 死とは、否定することのできない事実ですから、死について真剣に考えようとしない人は、愚かであると言わざるを得ない。 あるとき、飛行機の中で英語の新聞を読んで、あるお医者さんの記事が出てきたのです。彼は大学の教授でもあるし、書いた文章は非常に良かった。 例えば、まともな人間は毎日、時々ではなくて、毎日、自分の死について考えるべきである。云々と。患者さんに本当のことを言うべきです。云々と。 東京のガンセンターで働いている方ですから、頼んで会ったのです。信仰は持っていないのです。それにしても、なかなかいいこと書いたのです。「まともな人間は、いつになるか分からないから、毎日、自分の死について考えるべきである。」と。死とは本当に否定できない事実です。 ボノヨという所で、非常に珍しい儀式でしょうか。習慣があるんですって。 それは、結婚式の時に、新郎と新婦との間に、死んだ人の頭蓋骨を置くという風習です。 あんまりいい気持ちではないかもしれないけれど。その意味とするところは、人生で最も幸福な時に、死を忘れないようにということであると言われています。 冷静な人は、だれでも死が全ての終わりを意味するのではないということを認めざるを得ない。主なる神によって造られた人間の人生の目的が、死によってピリオドを打たれるとは、どうしても考えられません。 例えば、働いている人は、必ず何らかの目的をもっていることは間違いない。もしも大工さんが無計画に、目的なく家を建てるようなことがあったとしたならば、それこそ全く意味のないことではないでしょうか。 仕立て屋さんが布きれを裁断して、洋服を作る場合に、必ずはっきりとした目的をもっていることは、いうまでもない。 意味が無く、目的が無く、計画が無ければ、だれも働くことはできません。したがって、全能なる主が人間を創造された時にも、はっきりとした目的をもっておられたことは、明らかです。 主なる神は決して人間の死、人間の滅びを望んでおられるのではない。人間が生きることを望んでおられます。 したがって私たちは死のことについて考えるときには、死そのものだけを思い出すのではなく、死後に来る世界、死後に来るものに注意を向けなければならないのではないでしょうか。 はっきり言えることとは、私たちの数十年間の人生というものは、それで全てが満たされるためには、あまりにも短すぎるのではないでしょうか。 現在私たちの世界では、一番長生きしたとしても、せいぜい120歳ぐらいが限界です。100歳まで生き長らえた人の数は少ないのではないでしょうか。 私たちはこの問題について、真剣に真面目に考えるならば、聖書の言っていることが正しいと認めなければならない。すなわち、 ヤコブの手紙4:14
大したものではない。われわれの人生が、ちっぽけなものであることは、私たちでさえもよく分かることですが、6,000年を超える人類の歴史と言えども、主なる神の目から見ると、無に等しいことです。 私たちは100年前にどこにいたのでしょうか。100年あとには、いったいどこにいるのでしょうか。私たちの人生があまりにも短すぎるために、死後の世界があるのではないかという考えがおのずから出てくることも当然と言えるでしょう。 この問いに対して聖書ははっきりと、別の世界があることを教えています。なぜならば、人間の人生はあまりにも短すぎて、そこには本当の意味がなく、死んでから初めて本当の世界が始まるからです。 多くの学者たちは何十年間も研究して、けれども結論は出なかった。人間はどうして死ぬのか。だれも言えない。わからない。 初めの人間は、みな900年以上生きていたのです。どうして現代人はそんなに早く死ぬのか。聖書は、主は決めたからです。 けれど学者たちは、どうしてか、なぜか、全く分からない。千年王国の人々とはおそらく、初めての人間と同じように、900年間くらい生きるようになるのではないでしょうか。 主なる神ご自身が人の心に永遠を思い、思いを授けられたと書かれています。人間は主の形に似せて造られました。そして主なる神がその人間に、永遠とは何か、完全とは何かを理解する力をお与えになったのです。 人間は決して、決して過ぎゆく儚いものや、不完全なものによっては心が満たされません。人間は心から愛し、心から愛することを望んでいます。それですからこの世の人間的な愛に何回も失望するのです。 芸術家は、情熱をもって完全なものを作ろうとしますけれど、しばしば自分の作ったものを破壊してしまうのです。なぜなら、自分の作ったものと言えども、決して完全なものではないと認めざるを得ないからです。 青年は、将来に対して無限の希望を持ち、それが永遠に続くかのように思いますが、それに対して老人は、それほど夢大きい将来を考えることができません。 若者にとっては、一年と言えども、非常に充実した、意味のある長い一年のように思いますが、老人は、過ぎゆく一年が非常に短く、儚いものであるということを体験から知っているのです。 ある婦人は、いつまでも若く、美しくありたいために、莫大な費用をかけたり、そのために一生懸命努力したりしますが、結局、どうすることもできないことをして、失望してしまう。 人間の欲望は、新しいものが次から次へと与えられても、決して満足していないのです。それは、悲劇であると言わざるを得ないのではないでしょうか。 次から次へと、目まぐるしく移り変わる新しい流行を必死に追い求めても、そのことが幸せをもたらすこととは言えません。 実業家は、日夜金儲けのために努力します。独裁者は、自分の国を支配するにとどまらず、やがては世界を支配しようと、無限に欲望を高めています。 あるいは、ある仕事の鬼は、仕事だけを大切にして、ほかのことは何も考えないようにと、一生懸命に仕事しますけれど、結局は何のために生きているのか分からなくなってしまい、息が詰まってしまうのです。 確かに人間的に見ると、仕事が成功し、金持ちになり、病気もせず、非常に幸福そうに見える人であっても、常に満たされざる思いが心にあるため、主の目から見ると決して幸福ではありません。 主のみこころは、われわれ人間が永遠のいのちをもつことにほかならない。それですから、主なる神以外に、われわれの心を満たしてくださる方は、この世にいない。 有名なヨハネの福音書4章を見ると、五人の夫をもつ姦淫の女のことが描かれています。 疑いもなく彼女は、幸福になりたいという願いをもっていましたけれど、彼女の切なる思いも、決して満たされませんでした。 けれどイエス様は彼女に、 ヨハネの福音書4:14
と言われました。女はイエス様に言ったのです。 ヨハネの福音書4:15
彼女は大ぜいの人々をイエス様のみもとに導くようになり、主の用いられた器になったのです。彼女の心は満たされたからです。 有名なアウグストゥスは、「私たちが主なる神のもとで憩うまでは、平安がない。」と言っています。 結局、聖書を見るとはっきり言えます。すなわち、死後の世界が無かったならば、この世は全く意味のないことです。永遠なるものから初めて、われわれの人生が意味あるものとなります。 もしも、全てが死でもって終わるとすれば、生きているとこのあらゆる努力は、いかなる価値をもつのでしょうか。 ソロモンという王様は、この世のものは全て例外なくむなしい、空の空であると告白したのです。もちろん彼は、欲しいもの、全部持っていました。 けれど、すべてはむなしいと彼は正直に告白したのです。この世でとこしえに価値を持続するものは、何一つありません。私たちが生きているときに持っているものは、全て死と同時に、私たちから離れてしまいます。 いわゆる唯物主義者は次のように言います。私たちは飲み食いしようではないか。明日も分からぬ命なのだ。 けれどこの哲学は、憤慨と絶望の表現であると言えましょう。なぜならば、若くて、金もあり、時間も十分にある者が飲み食いすることは、難しくないでしょう。 けれど歳取って、金も無くなったときには、ただ病と死だけが待つようなことになると、ちょっと違うのではないでしょうか。 死後の問題を本当に解決することができないならば、まさに自殺するか、気違いになるか、いずれにしても、まことに悲惨な道だけしか残されていないことになるでしょう。 けれど自殺は、決してこの問題を正しく解決することではなく、それから逃避することを意味するほか、何ものでもない。 この世の正義と言えども、決してわれわれの心の底から満たしてくれるものではないのではないでしょうか。なぜならば、正義と言えども、この世においては私たちの完全な正義に対する熱望を満たしてくれないからです。 この世における、確かに多くの不義は、必ずしも正しくさばかれているとは限りません。また反対に、この世で正しく生きている人々が、それ相当の報酬を与えられているかと言うと、必ずしもそうとは限りません。 むしろ真理のために迫害されたり、殺されたりした人さえいるのです。もしも、死によって全ての終止符を打つならば、人生は全く意味の無いことです。けれど事実は決してそうではない。 確かに死んで別れることは、イエス様に属する者にとって、等しく悲しいことですけれど、希望があります。死んでから、必ず、再び、愛する者と会うことができるという確信を持つことができるということは、すばらしい事実ではないでしょうか。 愛する者との死の別れは、一時的なものにすぎない。必ず再会できるという確信を持てることは、信ずる者にとって、最高のなぐさめであり、また喜びです。 その時に、顔と顔とを合わせて、相まみえることができ、イエス様に似た者となることこそ、主のご計画にほかなりません。 ただ単に、人間が永遠の存在として造られ、完全なものを追い求めてゆくために造られただけではなく、主ご自身のために造られたのだということを忘れてはなりません。 すなわち、アダムの罪により、主なる神から離れてしまった人間は、どうしても主なる神との生き生きとした交わりを回復しなければ、生きてゆくことはできないのです。 救われた者が、永遠に主イエス様との交わりの中に、時を過ごすことができるという確信を持つことができるとは、何というすばらしいことでありましょうか。 あらゆる宗教は、あの世のことについてはっきりとしたことは言わない。単なる想像に基づいて、抽象的なことを言っているにすぎない。 けれど聖書は信ずる者にとっても、未信者にとっても、死後の世界があることを、はっきりと言っています。 聖書によると、アブラハム、イサク、ヤコブが、すなわち4,000年前に生きていた人々が、今もなお生き続けていることがわかる。それに対して、悔い改めようとしなかった人々は、黄泉の国に落ちていかなければならず、そこで苦しまなければなりません。 イエス様は、頭を下げたくなかった人々が、死後、黄泉の国で苦しんでいる時には、決して無意識の状態にいるのではなく、はっきりとした意識をもって苦しまなければならないと言われました。 このように、死んだ後で、全ての信じようとしなかった人々は、黄泉の国で、やがて主なる神の前に引き出され、最後の審判を受けなければならない。 救われている人々、また、救われていない人々も、死後も生き続けるゆえに終わりがない。主によって救われた人々は、永遠のいのちを持ち続けることは明らかです。 つまり、死後、救われた人々は、永遠のいのちを持ち、主イエス様とともにおり、悔い改めたくなかった人々は、苦しみと苦悩の中に滅ばなければなりません。これらのことを分かりやすく要約すると。次のように言えるでしょう。 すなわちまず第一に、人間は生まれた時に、たましいが与えられ、そのために永遠に存在する権利を与えられます。 第二に、そのような人間が罪を悔い改めて、主イエス様を信ずる信仰によって新しく生まれ変わった時に、永遠のいのちを与えられます。 第三に、そのような人は、復活の時に、不滅のからだを与えられます。確かに未信者と言えども、永遠に存在するわけですけれど、しかしながら、新しく生まれ変わらなければ、行く先は地獄です。 本当のいのちは、イエス様との交わりの中にあって、初めて存在するのです。 ヨハネの福音書の17章の3節を見ると次のように書かれています。 ヨハネの福音書17:3
イエス様を知ることとは、永遠のいのちを持つことである、とあります。 もう一ヶ所。ヨハネの手紙第Iの5章の20節です。ひと文章だけですけれど、非常に大切な個所です。 ヨハネの手紙第I、5:20
とあります。まことの主なる神を信じない未信者は、この世でも本当のいのちを持っていません。すなわち、主なる神との平和を知らないから、満たされていないのです。 前に話した、有名なヴォルフガング・フォン・ゲーテという男は、彼の全生涯において、24時間、本当に幸福だったことはなかったと告白しています。なぜ人間は、そのような満たされない状態にあるのでしょうか。 その原因はまさに人間の心に本当の平和、まことの平安が無いからです。 人間は、死後、さばきを受けるため、人間は平安がないと聖書は言っています。 前に言いましたように、20歳で天に召された娘は、「人格者とは、死を直視することのできる人です。」と書いたのです。 死を直視することのできる人は、すなわちイエス様によって救われた人です。だからパウロは、キリストこそ私の平和ですと証ししました。 イエス様は、父なる神に対する敵対関係を無にしたのです。 われわれ人間は、主なる神から離れている罪、あるいは債務は、イエス様の尊い犠牲によって、結局、解決されたのです。取り去っていただいたのです。 まことの平和は、主イエス様を信ずることによってのみ、与えられます。イエス様を信ずる者は、今、父との平和を持っているし、贖いを持っているし、確信することができます。 主はもはや、怒りをもっておらず、イエス様の犠牲によって、完全な贖いと和解が成就されています。もはや何ものも、主との結び付きを引き離すことはできません。 主なる神との平和を持っている者はもはや、死を恐れることはありません。なぜならば、まったく平安のうちに休らうことができるからです。 主なる神との平和がなければ、すべては結局、もうおしまい。 有名な音楽家であるヨハン・ゼバスティアン・バッハは、多くの名作を残しました。 けれど、その中ではっきりとうたっているように、心から死を待ち望んでいたのです。 つまり、生きているこの世よりも、死んだ後に来る世界のすばらしさを信仰の目で見ることができたバッハは、主を賛美せざるを得なかったのです。 信者と言えども、もちろん罪人である以上、本来は未信者と同じように、黄泉の国へ行かなければならない運命に定められていましたが、ひとり子なるイエス様の十字架によって罪が贖われ、罪から解放されたために、永遠のいのちを持つことができたのです。 このために信者は、もはや死を恐れる必要はない。 ローマ人への手紙の8章。よく知られている個所なのですけれども、次のように書かれています。 ローマ人への手紙8:1
ローマ人への手紙8:38-39
その意味で死は、信ずる者にとって信仰により、イエス様に近づくための橋渡しの役割を果たすと言えましょう。したがって信ずる者は、死を恐れる必要を全然もたないわけです。 ピリピ人への手紙の中で、パウロは次のように告白したのです。ある人々は、そのときパウロはちょっとかわいそう。罪を犯さなかったのに刑務所の中で過ごさなくてはいけない。ひとりぼっちで。もう交わりがない。云々と。 彼はそういう気持ちから解放されました。 ピリピ人への手紙1:20-21
主の恵みによって救われた人々にとって、死ぬことは、イエス様とともになることを意味しているから、損ではなく、益です。 パウロは死ぬことと生きることと、どちらが良いかと考えたとき、もちろん死ぬことを選んだでしょう。 けれど彼は、多くの人々のために奉仕をしなくてはいけないという必要を感じたとき、やっぱり、さらに生き続けることは、みこころなのではないかと思うようになったのです。その問題がなく、パウロ一人だけのことであったならば、おそらく死ぬことを選び、死ぬことを喜んだに違いない。 軽井沢に次のような意味の聖句が刻まれた墓があります。 「この世を去って、キリストとともにいることのほうが、はるかにすばらしい。」 救われた兄弟姉妹たちにとっては、未信者全てが抱くような死の恐ろしさが全然ありません。 ドイツのアドルフ・ヒットラーは、第二次大戦中、600万人にものぼるユダヤ人を殺してしまったのです。けれど、その当時、オランダで、テンブーム(TenBoom)という家族がおり、多くのユダヤ人を囲いました。 けれど、結局、ナチスの秘密警察であるゲシュタポがそれを見つけ出し、全員、強制収容所に送ってしまいました。 そこでコリー・テンブーム(Corrie TenBoom)という一人の娘を除いて、全員殺されました。この残された娘も、私も個人的に会ったことがあります。 けれどもそのとき彼女の父親は、家を去るにあたって、近所の人もみんなもちろん集まったのですけれど、彼はそのとき、次のように大喜びで言ったそうです。「一番すばらしいことが、これから始まる!」 この言葉の意味は、彼らの出発が恐ろしい死の旅ではなく、イエス様といっしょになるための最高の喜びと感謝の旅に出掛けるという意味です。 彼はすぐ三週間あとで、殺されてしまったのです。「一番すばらしいことが、これから始まる。」 将来与えられる栄光を見て、イエス様のものとなった者は、いかなる患難のときにも、主イエス様を喜ぶことができるのです。 なぜならば、将来に対して何の不安ももっていないから。私たちは将来のことを知ることができないけれど、イエス様を知っております。 それですから、将来に対する全ての問題が答えられていることになるわけです。イエス様ご自身がわれわれの将来です。 あらゆる不安と心配は、イエス様によってなぐさめられるのです。 イエス様は、ご自分を信頼する者を必ず目的まで導いてくださるのです。 それですから私たちは今、喜ぶことができ、誇ることができ、感謝することができるのです。 詩篇の作者であるダビデは次のように書いたのです。 詩篇23:1
詩篇23:4
3,000年前にダビデはこういうふうに言うことができただけではなく、私たちもみことばに頼って、同じように言うことができるのは、すごいのではないでしょうか。 |