平安を得るための苦しみ


ベック兄

(吉祥寺学び会、2012/06/26)

引用聖句:出エジプト記15章22節-27節
22モーセはイスラエルを葦の海から旅立たせた。彼らはシュルの荒野へ出て行き、三日間、荒野を歩いた。彼らには水が見つからなかった。
23彼らはマラに来たが、マラの水は苦くて飲むことができなかった。それで、そこはマラと呼ばれた。
24民はモーセにつぶやいて、「私たちは何を飲んだらよいのですか。」と言った。
25モーセは主に叫んだ。すると、主は彼に一本の木を示されたので、モーセはそれを水に投げ入れた。すると、水は甘くなった。その所で主は彼に、おきてと定めを授け、その所で彼を試みられた。
26そして、仰せられた。「もし、あなたがあなたの神、主の声に確かに聞き従い、主が正しいと見られることを行ない、またその命令に耳を傾け、そのおきてをことごとく守るなら、わたしはエジプトに下したような病気を何一つあなたの上に下さない。わたしは主、あなたをいやす者である。」
27こうして彼らはエリムに着いた。そこには、十二の水の泉と七十本のなつめやしの木があった。そこで、彼らはその水のほとりに宿営した。

エレミヤ書31:13
13そのとき、若い女は踊って楽しみ、若い男も年寄りも共に楽しむ。「わたしは彼らの悲しみを喜びに変え、彼らの憂いを慰め、楽しませる。

ヘブル人への手紙12:6-11
6主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」
7訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。
8もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。
9さらにまた、私たちには肉の父がいて、私たちを懲らしめたのですが、しかも私たちは彼らを敬ったのであれば、なおさらのこと、私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。
10なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。
11すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。

今の読みました箇所とは、結局全部当時の人々の告白、また証しです。「私の苦しんだ苦しみは、平安のためでした。」結局、必要だった。偶然ではなかったということです。
生けるまことの神は、大変な苦しみを平安に変えることができるお方です。私たちは皆、いつか将来、次のように告白するようになります。「主のあらゆる導きは、完全でした。」
偶然は存在しません。いわゆる荒野の経験、すなわち理解することのできないような試練を通して、私たちは、私たち人間の中に何があるかを知ることができるようになります。そして、このような試練を通して、私たちは主なる神の全能、主の愛、主の恵みをさらにいろいろな形で、より良く体験することができます。

すべてを環境のせいとか、他の人のせいにすることをしないで、主の御手からすべてを受け取る者は幸いです。我々の主なる神は、すべての背後に立っておられ、少しの間違いもなさいません。
イスラエルの人たちもまたマラという所に行ったんです。けれど、これは決して偶然ではなかったんです。主ご自身が、彼らをそこへ導いてくださいました。そして主は、お導きになる時にいつもはっきりとした目的を持ち、はっきりとした目標を追求なさいます。
イスラエルの民は、確かに大変な苦しみを味わわなければならなかったんです。

けれど、それこそ主のご計画でした。すなわち彼らは、それを通して失望を経験しなければなりませんでしたけれど、彼らはまだ主なる神の御業をも経験したのです。
主なる神は、マラの苦い水を少しだけ甘くなさるだけではなく、水全体を雨水、飲む水に変えることがお出来になるのです。
言いあらわすことのできないほど大きな激しい苦しみは、救いと平安となるべきでした。

人生とは、いったい何なのでしょうか。それは高揚と落胆、悲しみと喜び、祝福と呪いの繰りかえしではないでしょうか。主なる神は、私たちが主の喜びと平安に満たされて、主の光の中に生きることを望んでおられます。そして実際に私たちは皆、しばしば自分自身のことを中心に考えてしまう、主の働きの妨げとなってしまうことを経験します。
けれど主は、私たちが理解できない多くのことを許しておられます。それにもかかわらず、すべては我々にとって、最善となるようまた主の栄光のために、配慮されています。
私たちは、喜びと歓呼をもって、夜眠りにつきますが、次の朝、たとえば電報が来て、電話があって、その瞬間にすべてが壊れてしまうというようなことがあるかもしれない。もはや日の光を見ることができない。すべては非常に厚い闇の中に覆われてしまうかのようになります。すなわちその時、私たちはマラに来てしまった。

モーセは大変な課題を克服しなければならなかったんです。というのは、200万人以上の人たちが、モーセに信頼していたからです。
彼らは皆エジプトから引き出され、主なる神の贖いを経験し、流された過ぎ越しの小羊の血の価値を知っていました。彼らは、信じる者でしたが、その信者たちを信仰的、霊的に導いて、約束された国、カナンの地に共に入るようにすることがモーセに与えられた大変な使命でした。
イスラエル民族が、紅海を通って、主の大いなる奇跡的な業を経験した時、たとえようもないほどの歓呼の声があがり、彼らは喜びのあまり踊り出し、出エジプト記の15章に書かれたモーセの歌をもって、主の勝利を喜び祝いました。

けれどこうした主のすばらしい御業を経験した後、彼らは3日間の試練の時を迎えました。すなわち一滴の水も無い生活が始まったんです。水の無い、憩い場も無い荒野での3日間は、決して簡単ではありませんでした。
けれど、突然彼らは、待ち望んでいた水を見ました。「水だ。水だよ。」と多くの人々が喜びながら叫んだことでしょう。彼らは、気持ちも楽になって、大喜びで水の所に駆け寄りましたけれど、何とがっかりしたことでしょう。それは苦くて飲めないような水でした。喜びは悲しみ、失望、つぶやきに変わりました。
しかし、私たちはこのような状態を単純に、過去に起こったこととして片づけてしまうのは、明らかに間違っています。過去の歴史的事実も、また我々に何かを語っているはずです。パウロはローマ人への手紙の中で書いたのです。

ローマ人への手紙15:4
4昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです。

コリント人への手紙第I、10:11
11これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。

ですから私たちは、マラにおけるイスラエルの民の経験を通して、主が我々に何を教えようとしておられるのか、考えなければならないのではないでしょうか。それについて、簡単に4つの点をあげて考えることができます。

第1番目、私たちが予想しなければならない試練について
第2番目、私たちが避けるべき危険について
第3番目、私たちが取らなければならない態度について
第4番目、適用されるべき万能薬について


まず第1番目、予想しなければならない試練について、ちょっと考えてみましょう。
疑いもなく私たちは誰でも皆、マラの経験をしています。すなわち、軌道から外れてしまったり、失望落胆させたり、すべての望みを私たちから奪ってしまうような経験が、ここで言うマラの経験です。
ソロモン王は書いたのです。

箴言14:10
10心がその人自身の苦しみを知っている。その喜びにもほかの者はあずからない。

すなわち、誰でも自分の苦しみや悩みを持っており、いろいろな問題で弱り果て、出ることも入ることも解からないような状態に置かれるという経験を持っているはずです。
あなたは今まさに、そうしたマラの中にいるかもしれない。悪魔は、あなたに囁くかもしれない。「あなたが何をしても、結局無意味だよ。」諦めて、あなたは望みの光を全然見ることが出来ないかもしれない。
人間的に見るならば、そこには何の望みもない。けれど、私たちは人生とは、そういうものだという事実を避けることができません。誰一人マラを避けて通ることはできない。

主なる神ご自身も自分の民をマラへと導きました。主なる神は、もちろん私たち一人ひとりをもマラ、すなわち逃れ道のない状態に導き入れるでしょう。
けれど偶然は存在しません。主なる神ご自身が、御手のうちにたずなを持っておられ、それを他の誰にも渡しません。おそらく、あなたは今まで大切にされたことでしょう。すべてのことは、うまく行き、あなたはそれほどたいした困難を経験しなかったかもしれない。けれど、困難はやって来ます。
それはひょっとすると、明日かもしれない。あるいは来月かもしれない、あるいは3年後かもしれない。これは悲観論とは関係がない。それは主のみことばである聖書の言っていることです。誰もマラから逃れることはできませんということです。

次のように言う人たちが確かにいます。救われる人は、もはや何の悩みも苦しみも問題も持っていないと。けれどそれは、根本的に間違っています。
主が我々を試練に会わせ、清めることができるため、悩みはたくさん存在しています。すなわち、これらの悩みは、必要である。そもそもの信仰者になる時に、初めて始まるのです。信者の人生はいつも嬉しくて嬉しくてしょうがないという人生ではありません。
間違いなく主は言っておられます。この世には悩みがある。あなたがた信じる者は、世にあっては艱難があるとはっきり言われました。ペテロも同じように書きしるされたのであります。

ペテロの手紙第I、4:12-13
12愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、
13むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現われるときにも、喜びおどる者となるためです。

前に読んでもらいましたヘブル人への手紙12章の中で「主はその愛する者を懲らしめる」とあります。すなわち、懲らしめられること、マラへと導かれることは、私たちが主に愛された者であるということの証明です。
私たちは主に関心を持たれています。主は私たちのことを配慮しておられます。
まことの信者は誰でも、困難な試練を通って、主の後に従うようになるのです。私たちにこうした苦しみや悩みがないとするならば、私たちは本当に主を愛し、主をよりよく知りたいと思っているかどうか疑わしいものです。

出エジプト記13:18
18それで神はこの民を葦の海に沿う荒野の道に回らせた。

質問があります。どうして主は回り道をさせたのでしょう。どうして主の民は荒野を通らなければならなかったのでしょう。なぜ救いに預かった者、主に愛されている者がマラへ行かなければならなかったのでしょうか。
その理由は、出エジプト記15章25節に与えられています。「その所で主は彼に、おきてと定めを授け、その所で彼を試みられた。」とあります。心の中にあるものは、明らかにされるべきです。そのために荒野の経験はどうしても必要です。
もう一箇所読みます。

申命記8:2
2あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。

主は、私たちを悲しませるために試練を与えたり、困難を許したりなさるのではなく、私たちを謙遜にするため、また心の奥底にあるものを試すために、それらのことをなさるのです。
私たちが本当に主に留まるかどうか、私たちが本当に主を愛するかどうか、またどんな代価を払っても主に従うかどうかが必ず明らかになるはずです。
けれど、主はただ単にマラへ導くだけではなく、さらにエリムへも導かれますね。

出エジプト記15:27
27こうして彼らはエリムに着いた。そこには、十二の水の泉と七十本のなつめやしの木があった。そこで、彼らはその水のほとりに宿営した。

主がお与えになり、お許しになる試練は、非常にいろいろな種類のものです。イスラエルは飲むことができないほど苦い水を経験しただけではなく、水が全然無かったこと、パンが一切れも無かったことをも経験し、また敵から攻撃された経験もしました。
主が我々にお与えになる試練は、いろいろ、それらはしばしば、ほとんど耐えられないほど厳しいものです。
イスラエルにとって、マラは困難な経験でもありました。人は誰でも水を必要とします。けれど、3日間もの間、彼らは水を求め続け、見つけたと思った時には、そしてまた実際にその水を見て飲もうとした時、その水はとても飲めないほど苦い水でした。

私たちは、次のことを決して忘れてはならない。すなわち、私たちもまた試練を受けなければならないということです。試練は、我々に対する主の愛の証明です。もしも私たちが試練を通らないで、簡単な楽な道を選ぼうとするならば、それは我々にとって決して好ましいものではなく、むしろ気の毒なことです。
我々の経験がどのようなものであろうとも、私たちは次の態度をとるべきです。すなわち「主よ。どうか引き続き私にのぞんで働いてください。あなたの御心だけが行なわれますように。」と。
私たちに理解しがたい苦しいこと、すなわちマラの経験をする時、私たちの反応が問題なのではないでしょうか。なぜならば、どうしても避けなれければならない危険が存在するからです。

これが我々の第2番目の点です。すなわち、私たちが避けるべき危険とは、いったいどういうものなのでしょうか。
イスラエルの民がマラへ行き、恐ろしい失望をした時、彼らの反応は全然ダメでした。

出エジプト記15:24
24民はモーセにつぶやいて、「私たちは何を飲んだらよいのですか。」と言った。

神の民は、度を失いました。イスラエルの民は、神の僕モーセに対してつぶやき、そのことによって実際には、主ご自身に対してつぶやくことによって、心のうさばらしをしました。
つぶやく者はもはや信頼しません。外部の事情によって動かされる者は、簡単に度を失います。イスラエルの人たちは、彼らを解放してくださった力強い主に対しては、褒め歌を歌いました。心から、けれどそのすぐ後で彼らは完全に打ちのめされ、主に対して不平不満をつぶやきました。
私たちもこのようなイスラエルの人たちと同じではないでしょうか。

主は、私たちが理解できない苦しみを経験することを許しておられます。私たちの心の中が、夜すなわち暗澹となるのはいかに容易く起こることでしょうか。私たちは、絶望の淵に容易く立たされるのですけれど、主を見上げる者は、マラからエリムへ進んで行くこと、すなわち大変な苦しみを通して、全く新しく変えられることを経験できます。
すなわち私たちは、新たなる使命、新たなる奉仕を与えられます。不信仰は、私たちをつぶやきや反発へ導きます。目に見えるものに支配される者は、とんでもない方向に行ってしまいます。苦しみや悩み、多くの問題、理解できない導きを見る者は自己憐憫に陥ります。
私たちは、つぶやき次のように言いはじめます。「主が私たちに飲む水を与えることがお出来にならなかったら、主は、このことあのことをやめることがお出来にならなかったのかどうか。主はなぜ、守ってくださらなかったのでしょうか。」

もちろん主は、お出来になったでしょう。主にとって不可能なことは何一つありません。問題は、信仰者が本当に主に信頼しなかったことだったんです。
主は、いつも信仰者の近くにおられ、助けたいと思っておられ、ご自身を啓示したいと思っておられ、祝福したいと思っておられました。私たちが試練に会う時、我々の反応はどのようなものであるべきでしょうか。
私たちの上に困難が襲いかかり、逃れ道が見えない時は、いったいどうでしょうか。私たちが苦しいマラの状態に置かれた時、そしてどうなるのか本当に解からない時は、どうでしょうか。
第3番目、取らなければならない態度について、ちょっと考えたいと思います。
私たちは、避けるべき危険は、つぶやくことであるということを見てきました。私たちは、つぶやくことによって、少しも前進しません。すべてが途方に暮れるような状態またあらゆる反発は、我々の不信仰のしるしです。
私たちは試み、すなわちつぶやいたり、反発したりする誘惑に対してどうすれば勝利を持って立ち向かうことができるのでしょうか。それが問題です。

私たちが読んだ聖書の箇所には、次のようにしるされています。「民はモーセにさからってつぶやきました。しかし、モーセは主に叫びました。」これこそ勝利の秘訣です。モーセは、主に叫んだのです。
モーセは怒って人たちを叱りつけることをしませんでした。モーセは、次のように言うことができたでしょう。「どうか、愚かなことをしないで、主なる神を信じなさい。主は今もなお、何でもお出来になるお方です。主は決して、来るのに遅すぎるということはない。主にとって不可能なことは何もありません。」
モーセは、人間を叱るかわりに主の御許に行き、すべてを主に委ねました。

またモーセは、次のように言うことができたでしょう。「もう充分です。もう諦めます。自分勝手なことをしなさい。」またモーセは、主に向かって次のように言うことも出来たでしょう。「もう主よ。私には荷が重すぎます。200万人もの人たちの世話をするのは大変です。」と。
けれどモーセは、そのような態度を取りませんでした。モーセは、精神的な重荷を持ちながら、主の所に行きました。それによってモーセは、根本的に解決されてしまっていたのです。と言うのは、主は祈りを必ず聞きとどけてくださるからです。
御名のゆえに主は応えてくださり、御自信を啓示してくださるのです。自分の重荷を持って、主の御許に行き、その重荷を主に委ねることのできる人は幸いです。

ヤコブの手紙5:13
13あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。

ここでヤコブは次のように言いませんでした。「あなたがたのうちに苦しんでいる人がいるならば、ただちに医者に急報しなさい。」あるいは「長老を呼びなさい。」誰でも解かることは、祈るということです。
苦しんでいる人がいれば、その人は試練に会っているのであり、別の表現をすれば、先ほど申し上げたマラの状態にいるのであって、つぶやくすべての理由を持っているでしょうけれど、その人は、主に呼び求めてください。
私たちは、どのようなことを経験しようとも、まず第一に主を尋ね求め、主が配慮してご栄光を表してくださることがお出来になるように、すべてを主に委ねましょう。

サムエルの母親は、すばらしいことを経験しました。聖書は彼女が心を痛めていたと言っています。「ハンナの心は痛んでいた。彼女は主に祈って、激しく泣いた。」とサムエル記第I、1章10節にあります。
確かに彼女は苦しみましたけれど、諦めませんでした。彼女はすべてを主に委ね、そして祈りました。これこそ勝利の秘訣です。
主の御許に行く者は、捨てられません。その人は、主の偉大な解放を経験します。

エリシャという預言者も、また一人のやもめと共に、いわゆるマラの経験をしました。彼女が預言者に「私の息子が亡くなりました。」と言いました。この女がいかに苦しんだか、私たちは想像できるでしょう。
エリシャは、この苦しみ悩んでいるシュネムの女を、もはや見ることができないほどでした。その時、エリシャはいろいろな慰めの言葉をかけようとはしなかったのです。

列王記第II、4:33
33エリシャは中にはいり、戸をしめて、ふたりだけになって、主に祈った。

その結果、主は死んだ子供を生き返らせ、栄光を表してくださったのです。
私たちが、苦しいマラの状態に置かれ、試練にある時、祈ることこそ勝利の秘訣です。
ヒゼキヤという王様は、1通の驚くべきひどい手紙をもらいました。けれど彼は、そのことを怒ったり、不満を言ったりしませんでした。またその手紙を公に見せたり、苦情を言ったりしなかったのです。何をしたでしょう。

イザヤ書37:14
14ヒゼキヤは、使者の手からその手紙を受け取り、それを読み、主の宮に上って行って、それを主の前に広げた。

主に至る戸は、いつも開かれています。主は私たちが、我々の問題と悩みを持って主の御許に行き、主に信頼することを待っておられます。主は奇跡を行なう方です。主にとって不可能なことは一つもありません。
主なる神に、非常に忠実に仕えたダニエルは、絶望的な状態に置かれることがありました。ダニエルは、敵対者は王に懇願し、一ヶ月以内に、王ではなく神に願い求める者は皆、ライオンの穴に投げ込まれるべきであるという、変えることができない法律を発令するよう迫りました。
ダニエルは、その時何をしたでしょうか。怒って王様の所へ行ったでしょうか。敵の卑劣なやり方に対して、怒ったのでしょうか。大勢の友達を呼び集め、逃れ道を求めたのでしょうか。その内のなに一つ彼はしなかった。

ダニエル書6:10-11
10ダニエルは、その文書の署名がされたことを知って自分の家に帰った。――彼の屋上の部屋の窓はエルサレムに向かってあいていた。――彼は、いつものように、日に三度、ひざまずき、彼の神の前に祈り、感謝していた。
11すると、この者たちは申し合わせてやって来て、ダニエルが神に祈願し、哀願しているのを見た。

すべてのことについて感謝した男とは、このダニエルです。すなわちダニエルは、法律によって許されていないことをしたわけですが、その時、彼は主に叫び祈り、すべてを主に委ねました。
ダニエルは、主なる神が必ず御業を成していてくださることを確信したのです。このような信頼は、決して失望させられません。不可能と思われたことが起こったのです。すなわち、ライオンは、ダニエルにあえて触れようとはしなかったのです。信じられないようなことですけれど本当だったのです。
我々の神は、生きておられます。主なる神は、主に避け所を求める人たちの人生において、主が全能者であられることを表してくださいました。

無実な罪で牢獄に入れられたパウロとシラスも同じ態度を取りました。彼らは鞭打たれ、犯罪者のように取り扱われました。けれど、彼らは決して反抗的な態度を取らなかったのです。
また彼らは、「何故神はそんなことを許しておられるのか、私たちは主に仕えただけなのに、許しがたい暴挙ではないか。」と言いませんでした。
結局なんでも主の御手から受けたのです。

使徒の働き16:25
25真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、

彼らは、何故そのように導かれたのか理解できませんでした。けれど主は、決して間違いをなさらない。このような導きも我々にとって、最善の益になるに違いないと、彼らは確信したのであります。ですから彼らは、祈りつつ賛美の歌を歌うことができたのです。
モーセの状態も同じように絶望的な状態でした。けれど彼は祈りました。「主に叫びました。」とあります。モーセは、すべての悩みを持って主の所に行きました。すると主は答えてくださいました。

出エジプト記15:25
25モーセは主に叫んだ。すると、主は彼に一本の木を示されたの

木を示すことは、モーセの祈りに対する神の答えでした。祈る者は、以前に見たことのないものを見ます。主は、祈る人にご自身を啓示なさいます。苦しんだ苦しみは、いかにして平安に変えられるのでしょうか。主が示された木によったのです。
人間が、絶望的な状態、苦しい状態において、いつ主に叫んでも、その人たちは主が聞いてくださるだけではなく、必ず叶えてくださることを経験します。主は、大いなる御業をなさってくださり、その状態だけではなく、人間の心をも変えてくださる。
モーセは主に叫びました。すると主は、モーセの願いを聞きとどけ、問題全体の解決として一本の木を彼に示しました。けれどそれは何を意味しているのでしょうか。これは最後に第4番目の点ですね。適用されるべき万能薬について、ちょっと考えて終わります。

万能薬は、どんなことにも効き目があり、いつでも適用されるべき薬です。モーセに示されたこの木は、疑いもなくイエス様ご自身です。この木が、苦くて飲むことのできないマラの水に投げ入れられると、すべての問題が解決され、その水が甘くなって飲めるようになります。
旧約聖書においては、約束された救い主、主イエス様について次のように述べられています。

エレミヤ書23:5
5見よ。その日が来る。――主の御告げ。――その日、わたしは、ダビデに一つの正しい若枝を起こす。彼は王となって治め、栄えて、この国に公義と正義を行なう。

この約束この預言で、約束されたみことばは、もちろんイエス様であって、成就されました。主イエスは、罪の大問題を解決して下さったのです。

ペテロの手紙第I、2:24
24そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。

もちろん若枝が木の一部であることは、言うまでもありませんが、その若枝とは主イエス様のことを意味しています。しかも救いの御業は、イエス様が来てつくられた十字架にかけられたことによって成就されました。
したがって、ここで言う木とは、まず第一にイエス様ご自身のことを、第2にイエス様によって成就された救いの御業を意味しているわけです。
ここで覚えていただきたいものは、我々に何が起ころうとも、また私たちに悩みがいかに大きなものであろうとも、万能薬は主イエス様と主の成就してくださった御業であるということです。

イエス様は、苦しみと死を通して、永遠に救われる道を開いてくださいました。イエス様は、大祭司として瞬間、瞬間、どのような一瞬であっても我々のことを覚えてくださり、我々のために弁護してくださり、我々のために働いていてくださるのです。
確かにイスラエルの民は悩みました。置かれた状況は、大変でした。結局もはや何の望みもないと彼らは思ったでしょう。確かにそのような状態で、不安や不満を言ったり、自分の殻の中に閉じこもってしまうことは理解できますけれど、それは、贖われ解放される道ではない。
私たちは、我々よりもはるかに苦しまれ、底知れぬ深みを通っていかれた主を見上げなければならない。

私たちの主イエス様は、苦しんだ苦しみを味わってくださいましたが、その結果は何だったでしょうか。比類なき救いでした。全人類の罪の問題は解決されました。悪魔は、力を失い、死の力を奪われました。
私たちが皆、いかなるマラの経験に対しても、それがどれほど我々を苦しめ落胆させようとも、そのことに対して、いつか必ず主に感謝できると確信しています。
イエス様が、十字架につけられ、捨てられ、呪いとなられたことによって、主なる神は、最大の勝利を勝ち取られました。

外側を見ると決してそのようには見えず、悪魔が勝利したように見えました。私たちもまた、何でも次のように思うかもしれない。それは悪魔の勝利ではないよ。どうして神は、そんなことを許すのでしょうか。
私たちは万能薬を適用しなければならない。私たちは、木を苦い水の中へ投げ入れるべきです。意味は、ありのままの状態で我々の悩みすべてをもって、我々は十字架につけられた方、すなわちイエス様の御許に行こうではないか。
主は、苦しんだ苦しみを、平安と祝福に変えてくださいます。私たちは、完全に打ちのめされた状態から、溢れるばかりの喜びに至ります。パウロは、木を苦い水の中へ投げ入れた男でした。それですから彼は次のように告白しました。

コリント人への手紙第II、4:16-18
16ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。
17今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。
18私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。

避け所であるイエス様のところに行きましょう。主はその状態を変えてくださるだけではなく、我々の周りの人たち、それどころか自分自身も変えてくださいます。
すべての重荷と悩みを持って、主の御許に行く者は、今日もなお、私たちの苦しんだ苦しみは、平安のためでしたということを経験することができるのです。




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