へりくだりましょう


ベック兄

(吉祥寺福音集会、2013/01/20)

引用聖句:哀歌3章40節
40私たちの道を尋ね調べて、主のみもとに立ち返ろう。

イザヤ書57:15
15いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方が、こう仰せられる。「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。

「へりくだる」ということは、例えて言うならば、主の前におけるあわれな乞食のようなものであり、心砕かれた人です。そしてまた、イエス様の光によって、自分のみじめさと空しさを知っている人です。また、自分には主の御心にかなったものが一つもないことを、本当に知ることです。
例えば、ルカの福音書18章13節に出て来る取税人こそ、本当の意味でへりくだった人でした。彼は、「神様、こんな罪人の私をあわれんでください。」と祈っただけで救われ、義と認められたと聖書は言っています。
使徒パウロは、どうしてそんなに用いられたのでしょうか。答えは、へりくだったからです。彼は、次のように書き記した。

コリント人への手紙第I、15:9
9私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。

結局、特別に選ばれた、主によって遣わされた人々の中で、「私は最も小さい者です。」
聖書を読むと解かる。彼はそう思い込んでしまったけど嘘でした。最も恵まれた、最も用いられた人でした。どうして?へりくだったから。

エペソ人への手紙3:8
8すべての聖徒たちのうちで一番小さな私に、この恵みが与えられたのは、私がキリストの測りがたい富を異邦人に宣べ伝え、

初めての使徒たちと比べれば、もちろんすごい男でしたけど、彼は「違う、違う、一番小さい者です。」、そして今度は聖徒たち、意味は主の恵みによって救われた人々と比べても、「私は一番小さい者である。」と彼は言ったのです。
もう一箇所、テモテへの手紙第I、1章15節にパウロは証しして、最後に言ったのです。「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。
私はその罪人のかしらです。一番ひどいのは私と彼は言ったのです。だからこそ、へりくだったからこそ、こういうふうに用いられました。

昔の預言者たちは、イエス様の使いとして、イエス様のお伺いを主の御心を明らかにしたものでした。
一人の預言者であるイザヤは、次のように語ったのです。

イザヤ書61:1
1神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。

イザヤ書66:2
2わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。

主とはもちろん変わるお方ではない。ですからこのことばは、もちろん今日も大切な考えるべきことばです。
「わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。」と。
また、ダビデも経験したから次のように証ししたのであります。

詩篇51:17
17神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。

これこそ福音、喜びの訪れなのではないでしょうか。
生まれながらの人、主を知らない人は、誇って自分勝手な道を歩もうとします。実際、救いのない人々は乞食よりも貧しい者です。したがって、心貧しき者となることこそが、考えられないほど大切です。
すなわち、イエス様の霊によって、自分の本当の姿を知り、恐れおののいて、自分からは何も期待することのできない人となることが大切です。

へりくだることとは、自分が強く、偉大な富んだ者ではなく、本当にみじめであわれな存在にすぎないことを認めることです。このことを本当に知る人だけが、思うところのすべてを超えて、豊かに施すことのできる主、すなわちイエス様の御許に行くことができます。
誇り高ぶる者、本当に心砕かれていない者は、約束も望みもなく、呪いのもとに置かれます。
イエス様は、私たちのために貧しくなられました。イエス様によって、全宇宙が造られたのです。イエス様は、永遠から生きておられるお方です。しかし、全人類を救うためにイエス様は、33年間この地上におられ、ご自身の自由意志で我々のために、貧しくなられました。

イエス様の貧しさとは、いったいどういうものだったでしょうか。すなわち、父なる神に対して、御自身がお選びになった依存です。イエス様は、父なる神から聞いたことだけを語り、父なる神が行なったことだけをイエス様は行なったのであります。
イエス様は、決してご自分で勝手になさることはしなかったのです。父なる神に全く拠り頼んで、いつも父の御心に服従なさったのです。「わたしの思いではなく、あなたの思いがなるように。」、この祈りはまさに、絶えざるイエス様の態度でした。
私たちは、ただ救われるために救われたのではなく、イエス様の御姿に変えられるために救われました。そして、イエス様の御姿に変えられるために、まことの知識にあずかる必要がありますけど、まことの知識の内容とはいったい何でしょうか。2つのことが言えます。

第1番目、私たちは、我々の生まれながらの罪の性質は、決して直らないということを知らなければなりません。
これを知っている人は、自分でやることはできない。主に拠り頼まなければ、何もやることができないということも知っています。
私たちは、罪を赦されて、主から義と認められるためには、自分で何もすることができなかった。ただ一方的なあわれみによって義とされました。

同じように第2番目、私たちが清められて行くのも、自分の行ないではありません。このことも知らなければなりません。
このことを、まことの知識として知っている人は、自らを自ら清めようと努力することを止めたら、よみがえられたイエス様に、自らをお委ねすることです。しかし、問題は如何にしてこの知識に至るのかということです。それは、イエス様と同じ御姿に変えられて行くことによってのみ出来るのです。
しかし、イエス様の霊は、イエス様と同じ姿に、私たちを変える御業を、ただ悩みによってのみ行ないます。悩みと戦いの真っ只中にあって初めて、イエス様と同じ御姿に変えられて行くのです。

イエス様は、私たちを人間的な目で見るならば、全く望みのない状態に導いてくださいます。どうしてでしょう。
それは私たちが、我々の生まれながらの罪の性質は、絶対に良くならないものであるということを、本当の知識として知っているかどうか、また私たちは、清きに至ることについて、全く無力であるということを、まことの知識が単なる教えであるか、または私たちのいのちとなっているか、これらを試し見るために、主は悩みの内に私たちを導いてくださいます。
主イエス様が、我々を通して、集会全体を通して現されていかなければいけませんが、これは主ご自身の計画です。そして、信じる者が悩み、苦しみ、押しつぶされているのは、主のご計画です。その苦しみによって、この兄弟姉妹の内に、イエス様の御姿が形造られていきつつあるのです。

イエス様に変えられることこそが、主の導きの目的であるから、すぐに祈りに応えて、悩みから解放されるということをされないのです。イエス様によって、今話したように、全宇宙が創造されました。けれども、イエス様はたたかれ、鞭打たれ、つばきせられ、侮られたのです。
もしイエス様が、そうしようと思われたならば、それらの人々は、イエス様の一言でこの地上から抹殺されたはずです。たちどころに滅んでしまったはずです。けれどもイエス様は、耐え忍んですべてを覆われ、自ら悩みをよしとされ、両手両足に釘打たれ、十字架の上で「お前は人を救ったのに、自分を救うことが出来ないのか。」と罵られました。
もししようと思えば、イエス様のために、12の天の軍勢が控えていましたから、イエス様の一言でイエス様を救うためにやって来たことでしょう。けれどもイエス様は、そうされませんでした。イエス様は、柔和にして心へりくだったお方です。私たちは、このような主と同じ御姿に変えられていきたいものです。

イエス様は、透き通った人格をお持ちでした。極みまでご真実な方であり、また偽善を知らなかった方です。二心を持たなかった方です。向こうへ行ってあのように言い、こっちに行って都合の良いことを言うといった方では決してありませんでした。
私たちは、この主イエス様の御姿に変えられなければなりません。
イエス様は、はっきりとした目的を持っていたお方でした。イエス様は、祈りのお方でした。また勇気のお方でした。柔和にして心へりくだったお方でした。平安、平和、喜びのお方でした。この御姿に私たちも変えられていきたいものです。

これに至る道は、主の歩まれた道を歩む道です。悩み多き道、誤解に満ちた道、またそれはあざけりの満ちた道です。私たちが静かにイエス様によって、吟味していただくことは必要なのではないでしょうか。
イエス様が、我々に語ってくださり、妨げとなっているものをすべて明らかに示してくださるように。
「私たちの心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。」と毎日祈るべきなのではないでしょうか。

哀歌3:40
40私たちの道を尋ね調べて、主のみもとに立ち返ろう。

主は、立ち返るべきであると言っておられますが、それはどうしてでしょうか。それは私たちが、間違った方向に進んでしまったから、私たちは戻らなければならない。どうして?それは私たちが、主から離れてしまったからです。このことを認識することは、非常に謙遜なことです。そして認められた債務を告白することは、非常に大切な必要なことです。
旧約聖書に出てくるサムソンという男は、主によって選ばれた民に属し、信じる者として長い間、用いられた主の御手にある器でした。しかし、士師記16章を読むと、彼が自分の押さえがたい情熱によって、気がつかないうちに主なる神の霊が、自分から去ってしまったのです。
イスラエルの敵は、サムソンをあざ笑いました。というのは、彼は主の霊なしには、力なく望みなく助けのない者になってしまったからです。なんという悲劇でしょうか。

ダビデという王様は、ただ単に主なる神の民に属していただけではなく、選ばれた民の指導者でした。
けどもサムエル記第IIの1章を見ると、ダビデ王は、バテシェバという女性と姦淫を犯し、ナタンという預言者の奉仕によって、自分自身を主の光の中に見ることができ、次のように告白せざるを得なかったのです。
「その姦淫をした男は私です。」ここにも比類のない悲劇があります。

エリヤという預言者は、主に選ばれた特別に遣わされた預言者でした。しかし、彼はある時、落胆して荒野に引き戻り、主が自分の命を奪ってほしいと真剣に祈りました。「もう充分です。死にたい。」
彼は、ぺっちゃんこになってしまいました。そのことに対して、悪魔はどのように勝ち誇ったのでしょうか。
イザヤという預言者は、自分自身を主の光の中に見ました。彼は、自分の不潔さ、不純さに驚き次のように叫ばざるを得ませんでした。「ああ、私は災いなるかな。私はもうダメだ。」と彼はすべての障害物を認識し、告白したのであります。

イエス様の弟子たちのことを考えても、同じことが言えるのではないでしょうか。最後の晩餐の時、イエス様は言われました。「あなたがたの一人がわたしを裏切ります。」すると一人の例外もなく、すべての弟子たちは驚いて尋ねました。「主よ。それは私でしょうか。」と。私たちもまた、「主よ。それは私でしょうか。」と問うべきです。
「私は、あなたを悲しませたでしょうか。隠れた所にある障害物を、私にお示しください。私の障害物を認める恵みをお与えになってください。」と。
ペテロが、自分の恐るべき絶望的状態を認めるようになったことが、ルカの福音書22章を見ると解かります。「彼は、外に出て激しく泣いた。」と記されています。

これらの主の僕たちは、主に立ち返りました。光の中に出ることをあえてしましょう。すべて偽善的な行為を止めましょう。
私たちもサムソンのように、力のない望みのない助けのない、あらゆる状態から脱出すべきです。ダビデのように、あらゆる偽善と姦淫から脱出すべきです。エリヤのように、あらゆる無気力さと失望落胆から脱出すべきです。イザヤのようにあらゆる盲目の状態と不純から脱出すべきです。ペテロのように、あらゆる思い高ぶりと傲慢から脱出すべきです。
聖書の報告とは、すばらしいものです。すなわち、サムソン、ダビデ、エリヤ、イザヤ、ペテロは、自分の罪過を認め、主に告白し、主の御許に立ち返った後、全く回復されたということです。結局、過ぎ去ったことは、過ぎ去った。大切なのは、今からです。今日からです。

今日、多くの問題となっているのは、十字架のないキリスト教が宣伝されていることです。
いかなる努力、いかなる熱心さ、いかなる聖書的信仰も、私たちが十字架、あるいは十字架につけられることを恐れる時、すべて不十分なものとなってしまいます。
主イエス様の苦しみにあずかることなしには、成長も実を結ぶこともあり得ません。日々打ち砕かれることなしには、我々の自我は、主の働きの妨げとなります。打ち砕かれた後で初めて、主はお用いになります。

ギデオンという男と共にいた300人の兵士たちの持っていた土の器が砕かれた時、初めてその中に入っていたたいまつが光を放ちました。主はまず、ご自身に持ってこられたパンを裂くことによって、初めて何千人もの人を満腹にすることがお出来になりました。
ナルドの壺をもまた高価な香りを家中に満たす前に、砕かれなければならなかったのです。サウロが徹底的に砕かれる備えを持った時に、初めて主は、彼を用いることができたのです。
信じる者の内にあるイエス様のいのちは、私たちが日々、主に自分の意思を、意識的に従わせることによって、砕かれる時によってのみ、明らかになります。

自己否定は、自分の権利を捧げることです。自分に拠り頼まないことです。「わたしの心ではなく、あなたの御心をなしてください。」、これがイエス様の生涯の変わらなかった態度でした。ですから、イエス様から恵みの流れが、いのちの泉が、人々に分け与えられたのです。
私たちの考え、私たちの感じ、私たちの意思すべて主のご支配のもとに置かれる時、初めて私たちの内からも、いのちの泉が湧き出てくるはずです。
「イエス様、私は自らに絶望しています。自ら何もすることができません。どうか私を通して、ご自身の御心をなさしめてください。」と言いたいものなのではないでしょうか。




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