主に生かされる秘訣


ベック兄

(テープ聞き取り)

引用聖句:ローマ人への手紙6章1節-6節
1それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。
2絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。
3それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。
4私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。
5もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。
6私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。

ローマ人への手紙7:14-25
14私たちは、律法が霊的なものであることを知っています。しかし、私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です。
15私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。
16もし自分のしたくないことをしているとすれば、律法は良いものであることを認めているわけです。
17ですから、それを行なっているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。
18私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。
19私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。
20もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。
21そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。
22すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、
23私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。
24私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。
25私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。

ローマ人への手紙8:1-2
1こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。
2なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。

列王記第II、2:19-22
19この町の人々がエリシャに言った。「あなたさまもご覧のとおり、この町は住むのには良いのですが、水が悪く、この土地は流産が多いのです。」
20すると、エリシャは言った。「新しい皿に塩を盛って、私のところに持って来なさい。」人々は彼のところにそれを持って来た。
21エリシャは水の源のところに行って、塩をそこに投げ込んで言った。「主はこう仰せられる。『わたしはこの水をいやした。ここからは、もう、死も流産も起こらない。』」
22こうして、水は良くなり、今日に至っている。エリシャが言ったことばのとおりである。

日曜日の午後、ある兄弟の記念会だったんです。兄弟は65歳でイエス様の前に降参して、イエス様を受け入れ、信じ、それから本当に主に用いられる器となったのです。召される前に、証ししてくださったんです。その証しの中で彼は、4つのことを言われました。

第一番目、自分の信念は信仰に変わった。彼にとって考えられないことでした。何十年、福音を聞きながら、やっぱり自分は自分という態度取ったんです。けども、急に自分の信念は信仰に変わったと言ったのです。
第二番目、早く天国行きたい。普通の人々は死について考えたくない。けど彼は、死とは終わりではない、天国だよと。ですから早く天国行きたいと言ったのです。もうひとつ。
第三番目、何の心配もいらない。結局、不安から恐れから心配から解放されたのです。それから、
第四番目、苦しむことは幸いですと言ったのです。

詩篇の作者であるダビデも次のように言ったのです。「あなたこそ私の主。私の幸いはあなたのほかにはありません。」
兄弟にとってイエス様こそがすべてのすべてとなったのです。人はこういうふうに変えられることとは、人間的にもちろん考えられませんし、これは人間の手柄ではなく、御霊の働きの結果であり、主の祝福、また恵みそのものです。

今まで、自分、自分、自分のことしか考えられなかった者は、誠実な悔い改め、また信仰によって、主の憐れみによって導かれ、受け入れられ、救われることとは本当に理性でもってつかめない事実です。
主が祝福されると、もちろん人間は喜ぶようになり、主を礼拝せざるを得なくなります。みな経験してることは、主が祝福すると、悪魔は必ず怒って、与えられた祝福を奪い去ろうとしています。

ドイツにひとつのことわざがあるんです。主が自分の教会を建てると、悪魔も必ず似てるものを建てようとする。
悪魔は決して寝ていません。私たちはそれをよく感じます。考えられない多くの人々は、ギリギリの線まで来てるのではないでしょうか。みんなが何かの問題を持ってます。

ある兄弟姉妹の心の中では、悪魔が勢力をふるっています。ある人は何を信じたのか、もう分からなくなった。救いの確信もないし、救いの喜びもない。もう集会は来ない。全部がおしまいだと思い込んでしまってます。
またほかの人は、聖書は確かにすばらしいけど、実際生活に当てはめることはできないと言います。そして姿を消した人もいる。これは全部、悪魔の仕事のものです。そしてこれこそが、ギリギリの線に来てることを物語ってるなのではないでしょうか。

ドイツにアイレンシュフィーゲという人がいまして、この人はいつも変わったことをしたのであり、いつも変わったこと言ったのです。彼は遠くまで遠足した男でした。
山道になると彼はもう、大喜びで上ったんです。なぜならばもうすぐ谷がきて、下り道になると思ったからです。下り道になると泣きながら歩いたそうです。もうすぐ山道がやって来るからです。
このアイレンシュフィーゲから、私たちも何かを学び取ることができるなのではないでしょうか。

悪魔はわれわれを攻撃し、勢力を伸ばし、私たちはもうすでにギリギリの線まで来てるかも知れないけど、落胆するには及びません。もうちょっと・・・リバイバルが来るのです。
アイレンシュフィーゲは一番急な山道にさしかかったとき、もうすぐ下り道が来るなので、もう大喜びで上りました。夜が一番暗く更けわたったときそのあとで、間もなく朝がやって来る。
私たちは主を信ずる者が自分自身を顧みて、自分たちはギリギリの線まで来てると悟ったとき、リバイバルが必ず起きます。

リバイバルという言葉は英語の言葉なんですけど、日本語に直すと、霊的覚醒と言います。あるいは、信仰の復興、信仰の復活を意味する言葉です。
眠ってしまった信ずるものは、リバイバル、信仰の復興、信仰の復活を必要とします。すなわち、主との生き生きとした交わりによって新しくされ、新しく生かされることを必要とします。

今日考えたいことは、新しく生かされる秘訣とは一体何なのでしょうか。いわゆるリバイバルの秘訣はいったい何なのでしょう。3つの点について考えてみたいと思います。イスラエルの民の経験したリバイバルについて考えながら、自分、または、周りの人々のリバイバルについて考えたいと思います。

第一番目、エリコという町における絶望的状態と同時に、自分の生活、また周りの多くの人々についても考えたいと思います。
第二番目、エリコという町における難しい問題と同時に、自分の生活、また周りの多くの人々についても考えたいと思います。
第三番目、エリコという町におけるすばらしい逃れ道と同時に、自分の生活、また周りの多くの人々についても考えたいと思います。

絶望的状態、難しい問題、すばらしい逃れ道、この3つの点についてちょっと考えたいと思います。

エリコにおける、考えることのできないほどの絶望的な状態について考えたいと思います。
エリコは主によってのろわれた町でした。そしてこののろいによりエリコの町の水も駄目になったのです。飲めない水になりました。確かにエリコの人々は懸命に働いたんですけど、すべてを失ったんです。実を結ばなかったのです。死と空虚がエリコを支配したのです。
エリコの人々は計画し、あらゆる試みを試みました。けど、すべては失敗に終わってしまったのです。失敗の原因は、主ののろいにあったのです。すべてのすべてなのは主の祝福です。ソロモンの王は、

箴言10:22
22主の祝福そのものが人を富ませ、人の苦労は何もそれに加えない。

と言ったのです。
もちろん彼は当時世界中の名誉人だけではなく、世界中の財産語ったんです。けど彼は、主が祝福してくださらなければ満足感が得られない。まことの喜びも持つことができないと言ったのであります。

エリコの町の状態とは確かに絶望的な状態でしたけど、自分の心のうちは絶望的な状態ではないでしょうか。聖書ははっきり言ってます。生まれながらの人の上に主の怒りがあると。
悔い改めたくない人は、たとえ善い行ないを積んでいても、またたとえ犯罪人であっても、同じ主ののろいのもとにあります。どうしてでしょうか。なぜなら、そういう人々とは、主は交わろうと思ってもできないからです。

ヨハネの福音書3:36
36御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、

聞こうとしない

ヨハネの福音書3:36
36者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。

とあります。あらゆる高ぶる者の上に主ののろいがあります。

どういう宗教をもっていても、多くの聖書知識があっても、洗礼を受け、いわゆる教会になっても、主なる神ののろいのもとにあります。自分自身を低くする者だけ、主の前に降参する者だけが救われ、のろいはその人から取り除けられます。
頭を下げたくない人は、考えもつかないほど絶望な状態にいます。けどだれでもが救われ得るのです。それだけではなく、だれでもが救われなければなりません。イエス様は人間ひとりひとりに対して愛情を持っておられ、救いたいと望んでおられます。

必要なのは二つです。
自分の高ぶり、また、わがままをイエス様に告白し、そして自分のために流された血潮のために感謝すれば、必ず受け入れられ、義と認められます。多くの人々の悩みとは、次のようなものです。
「私はイエス様に出会った。救われ、回心を経験した。けど今全部、分からなくなってしまった。
すべてはうわべだけの熱心にすぎなかったのではないか。どうすればいいか、まったく分からない。
実はほかの人を救う者になりたかったけど、今は悪魔のとりこになってしまった。
そして聖書をよく知る人になりたかったけど、今はもうあまりみことばを読んでいない。
それだけではなく、祈りの人になりたかったが、今は祈りしても喜びがない。
自分はイエス様に用いられる、へりくだった人になりたいけど、傲慢が根強く心に住み、用いられることがありえない。
イエス様だけを見つめたかった。けど今は周りの人を見、自分を見て、ねたみを犯し、傲慢になり、自己卑下に陥ってしまった。」

一口に言えば、自分は考えも及ばないほど絶望的状態にあります。すなわち自分の生活はあたかもエリコのようなものです。一生懸命に働く努力しますけど、実を結びません。平和もないし、喜びもないし、実もありません。
そして今読みましたローマ人への手紙7章24節に書かれているように、私は何というみじめな人間なんだろうと、絶望的な状態にあるのは、エリコや自分の生活だけではなく、周りの多くの人々も同じ絶望的な状態にあります。

何と多くの人々は金を得、名誉を自分のものにしようという目的を持っています。悪魔はこれらのことがらによって、数えられないほどの多くの人をしっかりと縛りつけてしまってます。
何と多くの人は、のろいの下にいるのであり、また悪魔の奴隷です。この人々をひとりでも多く救いに導く。これがわれわれ信ずる者の使命であり、また努めです。

イエス様は言われました。
「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。
いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」
けど、ただ頭を下げれば、「恵んでください、憐れんでください、赦してください。」、そういう態度取ると、主は受け入れてくださる。

今度は、エリコの人々は非常に難しい問題の前に立たされた事実について少し考えたいと思います。前に読みました列王記第IIの2章19節からもう一回読みましょうか。

列王記第II、2:19-22
19この町の人々がエリシャに言った。「あなたさまもご覧のとおり、この町は住むのには良いのですが、水が悪く、この土地は流産が多いのです。」
20すると、エリシャは言った。「新しい皿に塩を盛って、私のところに持って来なさい。」人々は彼のところにそれを持って来た。
21エリシャは水の源のところに行って、塩をそこに投げ込んで言った。「主はこう仰せられる。『わたしはこの水をいやした。ここからは、もう、死も流産も起こらない。』」
22こうして、水は良くなり、今日に至っている。エリシャが言ったことばのとおりである。

とあります。主なる神ののろいがエリコにあり、のろいの印は死でした。
エリコの町はきれいな町でした。景色もよかったでしょうけど、町の人々はそれで満足することができなかったんです。町には流産や病気があったからです。
エリコの人々は、熱意と勤勉さは持っていましたけど、何一つ完全にならなかったのです。流産があり、畑の実は結びませんでした。

エリコの人々はあらゆる試みを試みました。主ののろいをいかにして取り去るか、町の水をいかにして清くするか、これは非常に難しい問題でした。
エリコの人々は、毎日この問題で頭を悩ませたのでしょう。
けど、自分について考えて、顧みてみると、同じことを言わざるを得ないなのではないでしょうか。自分は駄目。熱くも冷たくもない。イエス様の証し人ではない。たましいを救う者でもない。傲慢が自分に染み込んでる。自分はいつも自我をとおすと告白せざるを得ないかもしれません。

いったい自分は望みがあるなのでしょうか。前に言いましたように、エリコの水の状態はローマ人への手紙7章と同じ状態です。パウロでさえも、このような言い表わし得ないほどの絶望的な状態にありました。前に読まれた、ローマ人への手紙7章18節見ても分かりますね。

ローマ人への手紙7:18-19
18私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。
19私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。

ローマ人への手紙7:24
24私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。

エリコは何もしませんでした。同じくローマ人への手紙7章も、何も目的を達しないことを言っています。あらゆる努力の結果が24節です。私は、ほんとうにみじめな人間ですと。
もしイエス様を救い主として受け入れたのなら、永遠のいのちを持っていることになります。けど問題は、いかにしたらその新しいいのちを送ることができるのか。ということです。

イエス様を知らない人は、自分の意思だけを行ないます。自分の意思だけ行ないますから、生まれながらの人の霊、たましい、肉体の働きには統一性があります。
けど、生まれ変わった信ずる者の場合、統一性がありません。なぜならば、二つの異なった性質が信ずる者のうちにあるからです。
信ずる者の霊は生きていて、イエス様との交わりを持ってます。そしてまた、主の御心にかなった生活をしたいという願いもあります。けど信ずる者の霊の志すことと、たましいの志すことが違う場合があります。

その結果が今読みました18節です。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがない。ですから多くの人々は、聖書の教えは確かにいいけど、実際生活にそぐわないと言います。
もしそうならイエス様の十字架の勝利は、完全な勝利ではなかった。もしそうなら、イエス様は新しいいのちを信ずる者や、与えるお方であるけど、信ずる者に新しい生活をする力を与えられないということになります。

私たちはイエス様と自分の考えが違うことを知っていながら、自分の考えを考えるかもしれない。私たちは自分の目的と主の目的は違うのを知りながら、自分の目的を達しようと努めるかもしれない。私たちも正しくないことを知っていながら、それをやるなのではないでしょうか。
イエス様は信ずる者を一人一人用いようと望んでおられます。自分もイエス様のために役に立つ者になりたい。けど、何をやってもうまくいきません。どうしましょうか。エリコの水はどうしたらきれいになったなのでしょうか。われわれも、どうしたら新しい生活を送ることができるなのでしょうか。

それから周りの人々をどういうふうに導き上げるなのでしょうか。古い習慣をしっかりとつかんだままでいるほかの宗教をもつ者は、どうしたら生きる唯一のまことの神の子となることができるなのでしょうか。
若い人はどうしたら無関心から抜け出すことができるなのでしょうか。どうしたら傲慢な者はまことの信仰に入ることができるなのでしょうか。また、自分の両親、親戚、友だちはどうしたら主の憐れみを経験するまでになるなのでしょうか。
これは確かに難しい問題でしょう。エリコの水がエリコに望みがあるなのでしょうか。われわれには望みが残されてるなのでしょうか。また、家族、友人に望みがあるなのでしょうか。

少し、三番目の点について、すなわち、すばらしい逃れ道について考えたいと思います。エリコの人々は絶望的な状態に直面し、非常に難しい問題の前に立たされ、自分たちではその問題を解決することができなかったのです。
そこで、エリシャという男がいました。エリコの人々は、このエリシャという主の預言者から色々なことを聞いたのですけど、これは前にすでに学んだことですけど、エリシャのいのちの根は、死の川ヨルダン川にあり、エリシャの力はよみがえりにあり、エリシャの権威はその油そそぎにあったのです。
エリコの人々は途方に暮れ、そのなす術を知らず、エリシャのところへ行って、

(テープ A面 → B面)

・・・を訴えました。エリシャはその窮状からの逃れ道を知っていたのですね。2章の20節。「新しい皿に塩を盛って、私のところに持って来なさい。」これがエリコにとってのすばらしい逃れ道でした。

この塩は腐らないもの代表です。塩はあらゆる腐るものに勝ちます。エリシャによって救いがやって来ました。エリシャはよみがえりの預言者でした。彼の行くところどこでも死は逃げ去りました。
新しい皿は新しく生まれた人を意味し、皿に盛った塩は新しく生まれた人のうちにあるよみがえりのいのちを意味しています。エリシャは新しく生まれ変わって、生きる神との関係を持っていたので、この新しい皿のような者でした。
この皿の中に塩があったのと同じように、エリシャのうちにもよみがえりのいのちがありましたので、エリシャの行くところはどこでも、死が逃げたのです。

われわれの生活におけるすばらしい逃れ道とは一体どういうものなのでしょうか。
イエス様は、全自然をお造りになりました。そして人間のわがままによってこの自然は、主ののろいのもとに置かれました。これと同じように、エリコは罪のゆえに聖なる神ののろいのもとに置かれたのです。
この自然には、望みが残されてるなのでしょうか。イエス様はこののろいを取り去るために地上に来られたのです。のろいの印とは、いわゆるいばらです。イエス様はいばらの冠をかぶらされて亡くなられたのです。ですからイエス様は、のろいの下で亡くなられたわけです。

ガラテヤ人への手紙の中で次のように書かれています。すなわちイエス様は、全人類の罪の債務を担われ、だからイエス様はわれわれのためにのろいとならなければならなかった。

ガラテヤ人への手紙3:13
13キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者れる者

すなわち、十字架に架けられる者

ガラテヤ人への手紙3:13
13はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。

希望がどこにあるなのでしょう。イエス様のよみがえりにあります。主イエス様は、のろいのもとで十字架で亡くなられ、よみがえりのいのちでよみがえられたのです。
イエス様のよみがえりによって私たちは、霊的な死から解放され、のろいから解放され、実を結ぶようになりました。その秘訣とは2章に書かれてます。
ガラテヤ人への手紙2:19-20
しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。
私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

これこそが勝利の秘訣そのものです。私ではなくキリスト。
私たちはなぜ、絶望的な状態のうちにいたことがあるなのでしょうか。なぜ難しい問題の前に立たされたなのでしょうか。だれのせいなのでしょうか。何のせいなのでしょうか。環境のせいなのでしょうか。友だちのせい、あるいは、親のせいなのでしょうか。
それはだれのせいでもなく、何のためのせいでもなく、自分自身のせいです。

時々、憂鬱になります。喜びがなく、それによって肉体的にも弱まり、病気にもなってしまう。その原因は一体何なのでしょう。それは何か役割を演じたい、ほめられたい、無視されたくない、そういう気持ちから出てるなのではないでしょうか。
またほかの人が自分よりも優れてるため、それを見て自分の喜びをなくしてしまう可能性もあります。そうすると、聖書の教えはいいけど、実際生活に役に立たないと思うようになります。

けど、聖書の教えとは一体どういうものなのでしょうか。もう一回、ローマ人への手紙6章に戻りまして、

ローマ人への手紙6:4-6
4私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。
5もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。
6私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。

4節の後半と6節の後半に、「ため」、「するため」、「なくなるため」という言葉が出て来ます。この4節から6節までを見るともちろんこれこそが、聖書の教えです。

ドイツの宗教改革者であるマーティン・ルターは、多くの人々から攻撃を受けました。
カトリック教会の当時の法王は、結局、ルターを捕まえた人、殺すことができる人を、考えられない褒美を貰いますと。結局彼は何年間も隠れたところで住まなければならなかったんです。
もちろんわれわれドイツ人にとって非常に大いなる祝福になっちゃったんです。ドイツ語の聖書、存在していなかったからです。ちゃんとしたドイツ語も存在していなかったんです。ドイツという国は、多くの小さい国に分かれていて、共通した言葉がなかったんです。

ですからやっぱりルターはもう、大変苦労したんです。まず一つの言葉を作らなければならなかったんです。それから、初めて聖書を訳すようになったんです。
もしローマカトリック教会によってそんなに攻撃されなかったならば、このような仕事、もちろんすることができなかったんです。彼ももちろん、一緒にやってる人も本当にもう、頭のいい人々だったんです。

一緒に働いたメランヒトンという人はドイツ人でありながら、新約聖書、全部ギリシャ語で暗記したんです。別の言葉で暗記した。全部。そういう人々だったんです。彼は攻撃しました。けども本当にもう、何ものをも恐れなかったんです。ただ一つ恐れたことがあったんです。
それはルターの自我。自分の古き人だったそうです。私たちの一番大きな妨げは、私たちの自我であることは、私たちの経験したところなのではないでしょうか。

われわれは何という、強い意思を持ってるなのでしょうか。自分の頑固な意思を認めた人は、パウロのように、私は何というみじめな人間なのだろうかと言わざるを得ません。
この望みない状態のうちにとどまり続けなくちゃならないなのでしょうか。この非常に難しい問題を解決することができるなのでしょうか。主の答えは十字架です。十字架がただ一つの解放への道です。

イエス様は十字架で悪魔に打ち勝ちました。イエス様はわれわれの罪の債務を引き受けました。イエス様は十字架で罪人を贖ったのです。
しかしイエス様は一人で死なれたのではなく、全人類と一緒に亡くなられたのです。私たちは主イエス様とともに十字架でもうすでに死んでるのです。これは言い尽くせないほどすばらしい逃れ道なのではないでしょうか。

これを認めるとリバイバルは必ず起きます。今までで絶望的な状態であり、私は欲してる善はしないで、欲してない悪はこれを行なってるとだれでも感じたことがあります。
そのあとは、今読みましたローマ人への手紙6章4節、6節とはこの逃れ道を示すものです。もしこのすばらしい事実を、自分のものにすると、パウロと同じように、主を賛美することができます。前に読みました8章の1節と2節ですね。

ローマ人への手紙8:1-2
1こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。
2なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。

とあります。
イエス様とともに死んだということは、もはや自分が存在しないことを意味します。あなたは死んでしまったならば、興奮することも、自分の意思を働かせることも、また、怒ることも、焦ることもできないはずです。

あなたは今もなお立派なキリスト者になりたい、聖書を読み、祈る人になりたい、柔和と忍耐を身に付けたいと思われるでしょうか。
主は言っておられます。「おまえは何も持っていない。おまえはただ汚く、ボロボロで、罪だらけだ。おまえは何もできない。おまえのやることはわたしにとって全部大嫌いなものばかりだ。」と言っておられます。
したがって、私たちに対する主の判決は死であり、その結果、私たちは主イエス様ととともに十字架につけられて、死んでしまった。私たちはイエス様とともに十字架で亡くなったのです。それをもちろん毎日新しく認めるべきなのではないでしょうか。

イエス様とともに十字架につけられたのですから、自分の支配者は自分ではない、御霊なる主であるはずです。
あなたの古き人は十字架で取り去られました。聖霊は、イエス様のいのちを与えました。

ローマ人への手紙6:5
5もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。

と。よみがえりのいのちはすばらしい逃れ道です。イエス様のよみがえりのいのちは、われわれの敗北に打ち勝ちます。自分の古き人と罪は十字架で死に、新しく生まれ変わった人は、聖霊の支配のもとにあるということを信じ続けるのが、主に属する者の生活です。

前に話した、兄弟の言葉によると、「信仰とは悔い改めの連続だよ。」
私たちはキリスト者であるにも関わらず、新しい生活をする力を持っていません。聖書を読み、祈る力がありません。主イエス様の証し人として立つこともできません。聖書の教えを生活に実現することができません。
私たちそのものは、これらの力を持っていないので、イエス様は聖霊によってわれわれの心の中によみがえりのいのちをそそぎ込もうと思っておられます。

例えば、一匹の蝿は、日本からドイツまで飛んで行くことはできません。それとまったく同じように、私たちはイエス様なしで新しい生活をすることはできないのです。
もし一匹の蝿が飛行機の中に飛び込めば、十何時間でドイツに行くことができる。苦労なし。同じように、私たちが聖霊の支配の下にいるならば、簡単に新しい生活を送ることができるのです。これは感情の問題ではなく、意思の問題です。

私たちは今まで聖霊を、刑務所・・・牢獄の中に閉じ込め、自分で考え、志し、自分を支配者の地位に置いて来たなのではないでしょうか。
どういう場合自分は、主イエス様に服従したいと思うかもしれない。結果として聖霊は牢獄から出て、客間に移されたことになりますけど、それでは決して十分じゃない。
これは肉にあるキリスト者の生活です。なぜなら、客は決してうちの主人になり得ないから。これは悩みの生活です。

御霊は完全に支配を望んでおられます。今日から新たに聖霊に自分の支配権をゆだねようではないでしょうか。もし御霊が生活の支配者となれば、自分の罪深さを知り、またよりよくイエス様を知りたいと思うようになります。
そして聖霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であります。これは決して人間の努力じゃなくて、御霊の支配の実そのものです。

あらゆる問題の解決とは一体何なのでしょうか。逃れ道は何なのでしょうか。主の答えは前話したように十字架です。イエス様が亡くなられたとき、私たちもともに死んだのであり、またイエス様がよみがえられたとき、私たちもともによみがえったのです。
この事実を、主は聖書の中でわれわれに語っておられます。主は嘘を知らないお方であるから、これは事実です。この事実を信じ、感謝しましょう。結果として私たちを取り巻く人々の中に、リバイバルの奇跡が起こります。

自分の頑固な意思をイエス様に渡し、イエス様が聖霊によって自分の生活の支配者となったことを考慮に入れるならば、リバイバルを経験するようになります。
自分の古き人、頑固な意思、傲慢がイエス様とともに死に、新しく生まれ変わった人は、聖霊の支配のもとにあるということを信じ続けるのがリバイバルの秘訣です。

リバイバルとは一体何なのでしょうか。イエス様なんです。リバイバルの秘訣はイエス様とともに歩むところにいることを言います。

ヨハネの手紙第I、1:7
7しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。

リバイバルの秘訣、必要条件は、私たちが光のうちにいることです。結局罪を表わすことです。
自分の生活の中に隠されてる罪があるなのでしょうか。イエス様に、「お赦しになってください。」と言おうではないでしょうか。イエス様は、お赦しになるなのでしょう。もちろん、大喜びで、どういう罪であってもお赦しになります。
イエス様は十字架でわれわれの債務をもうすでに贖われたからです。イエス様はわれわれの罪の債務を担われました。だから、希望があります。

自分の罪、わがままを告白すると、私たちがそれを感じようが感じまいが、イエス様はその罪をお赦しになりますから、感謝することができます。
「あなたの信じたとおりになるように。」と、イエス様は何回も約束してくださったのです。もし、「イエス様どうか、罪をお示しになってください。」と祈ると、イエス様は必ず教えてくださいます。
なぜならイエス様は、私たちのような者を用いようと望んでおられるからです。われわれをとおしてイエス様は、ご自分のご栄光をお現わしにしたいと望んでおられます。

もし私たちが、「イエス様どうかあなたに信頼できる恵みを与えてください。」と祈るならば、必ずイエス様はすぐにその願いを聞き届けてくださるのです。そして私たちはその恵みを感謝し、前進することができます。「あなたの信じたとおりになるように。」と経験するようになります。
もう一箇所、

ペテロの手紙第I、4:14
14もしキリストの名のために非難を受けるなら、あなたがたは幸いです。なぜなら、栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。

栄光の御霊が、あなたがたの上にとどまっていると書かれていますから、栄光の霊を与えてくださいと祈る必要はない。
自分の感情は大切ではありません。パウロはそのうちにイエス様を宿し、権威を持っていました。けどもパウロも時々怯え、弱さを感じたのですから、主の与えられる権威とは、強さ、力を意味してるのではない。

自分は脇役としてイエス様の後ろに立ち、いつもご自身に語らせるならば、イエス様のご栄光が現われます。
私たちはいかにして謙遜、喜び、勝利の実を自分のものにすることができるなのでしょうか。自分がイエス様とともに十字架につけられ死んだことを感謝しなさい。自分はイエス様のよみがえりにより新しく生まれ変わり、よみがえったことを感謝しなさい。御霊は、あなたがイエス様のよみがえりの力で生活する力そのものです。これを感謝しなさい。

エリシャは、エリコの救いのために用いられた主の道具でした。エリシャは新しい皿であり、その中には塩、すなわちよみがえりの力がありました。いかにしてエリシャはこの働きの用意をしたのでしょう。
主の用いられるこの器は一体いかにして生まれたなのでしょうか。エリシャはヨルダン川を渡らなければならなかったのです。
私たちはイエス様とともに十字架につけられ、ともによみがえられました。エリシャは、油注ぎにより、権威を授けられました。エリシャは自己に死に、死の川を渡り、よみがえり、上からの油注ぎを受け、これらを信じ続けました。これがエリシャの生活でした。

エリシャはこの信仰を持って前進し、その結果解放とリバイバルに達したのです。エリシャと同じように私たちが、自分は主とともに死に、十字架で死に且つ、ともによみがえり、主の霊が自分の生活の上にとどまっているということを信じ続けるならば、地の塩となることができます。
すなわち私たちは、エリシャと同じようによみがえりのいのちの器となるべきです。

われわれを取り巻く人々は、逃れ道を見いだすことができず、私たちのところにやって来ます。私たちからはよみがえりの力はほとばしり出るなのでしょうか。
イエス様ははっきり弟子たちに、あなたがたは地の塩であると言われました。私たちは自分の家族の塩となってるなのでしょうか。
生まれながらの人は古い皿です。生まれながらの人は死の川、ヨルダン川を少しも知りません。生まれながらの人はイエス様のよみがえりの力を知りませんし、聖霊の油注ぎをも分かっていません。新しい皿だけが救いと解放をもたらします。けどたとえ、新しい皿であってもその中に塩がなければ、何の役にも立ちません。

しかし、私たちがイエス様のよみがえりのいのちを持って生活するならば、周りに住む霊的に死んでる人々を救いに導き、すばらしい逃れ道を与えることができるはずです。
結局われわれも、エリコの人々と同じようにリバイバルを必要とします。すなわち、私たちはイエス様を必要とします。周りの人々のうち、イエス様が見いだされなければいけない。イエス様はご自分の栄光を現わすために、人間を必要とします。
イエス様はご自身についてだけ語り、役割を演ずることを好まず、自分のために何も欲しくないと思う人々を求めておられます。主は、わたしはだれを遣わそう。だれがわたしのために行くだろうかと尋ねておられます。

信仰によって、自分はイエス様とともに十字架で死に、イエス様とともによみがえり、御霊によって前進することを感謝する者は、リバイバルを起こす道具として用いられる光栄にあずかる者になります。




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