引用聖句:ヨハネの黙示録3章14節-22節
一番当時の駄目な教会に一番素晴らしい約束が与えられた。ちょっと不思議なのではないでしょうか。 誠の幸せを得る道とは、主の富を見出だすことではないでしょうか。 そして、主の富を見出だすための必要条件は、自分の惨めさを認めることではないのでしょうか。 今日の題名は面白いかも知れないけど「比類なき主とどうしようもない私達」 この17節は本当に不思議な節です。主の考えと、いわゆる信ずる者の考えとは全く違う。あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しい物は何にもないと言って、実は惨めで哀れで、貧しくて、裸で、盲目の者で有ることを知らない。 知っていれば、認めればいいんですけれど。知らなければもう悲劇的そのものではないでしょうか。 満ち満ちておられる主は、私達の様な者を満たしたいと望んでおられるのは、何ということでしょうか。 主の切なる願いは、ご自分の満たしをもって、私達の様な者を満たすことです。主の満たしとは、イエス様の内で形を取って現れて来る物であり、そしてイエス様と結びついてる者は、結局満たされています。 私達はどんな困ったことがあっても、その時こそイエス様の身元に行き、そのことを包み隠さず主に打ち明けるです、罪、咎を赦され、束縛から解放され、用いられる器となります。 聖書の言われいる満たしとは、勿論いわゆる物ではない、宝物でもない、イエス様です。 イエス様の内に全部備えられています。そして、このイエス様は私達の様な者を満たしたいと切に望んでおられます。 詩篇の作者はダビデですけれど、次の様に書いたのです。 詩篇81:10
主は私達にほんの少しの物だけを上げたいとは思っていない、完全に満たしたいと願っておられます。残念ながら多くの人は祈りのために、また祈りを通して口を大きく開けようとはしない。 われわれ人間を本当の意味で満たしてくれるものは勿論目に見えるものではない。世の初めから備えられている御国だと書いてあります。 父なる神はわれわれにイエス様を通して、最も良い物を与えて下さいました。主イエス様は私達のために苦しんで下さり、十字架上で犯罪人の様に殺されてしまいました。イエス様によって、われわれに必要な物を全部備えられています。有名なローマ人への手紙8章32節、 ローマ人への手紙8:32
主なる神の満たしついて、色々なことが考えられますが、ちょっとだけ4つの点について一緒に考えたいと思います。 第一番目、命の満たし。すなわち命によって満たされること。 第二番目、愛の満たし。すなわち愛によって満たされること。 第三番目、喜びの満たし。すなわち喜びに満たされること。 第四番目、平和の満たし。すなわち平和に満たされること。 それでは先ず命の満たしについて一緒に考えて見たいと思います。 ここで一つの例えを申し上げると、私達が重病人を病院に尋ねたとします。病院に行くと、例えばその人の名前を呼んだ時、その人が一度だけちょっと目を開けても、すぐ瞼を閉じてしまうと、私達は確かに認めざるを得ない。まだ生きてるけど、何時死ぬのか解らない。命に満たされていない。 旧約聖書の中では、例えばサムソンと言う男はライオンを裂きました。ダビデはライオンだけではなく熊も殺してしまった人です。確かにこの二人は命に満たされたと誰でも解ります。 多くの人々は、新しく生まれ変わっていますが、証しをする備えもない、ペテロは使徒の働きの中で、今日暇がないけど9章と22章と26章の中で、三度詳しく公に証ししたのです。 主はご自分の証し人を求めておられ、私達がその証し人となること、そしてどの様にして主イエス様の命を頂いたかを他の人々に述べ伝えて貰いたいと願っておられます。わたしが来たのは羊が命を得、またそれを豊かに持つためであるとイエス様は言われました。 これこそイエス様がこの地上に来て下さった目的であり、その意味において私達は自分だけが満たしを受けるだけではなくて、その命の満たしを一人でも多くの人々に伝える使命を持っています。この使命に邁進するために祈り、またその様な器として用いられる様に祈ろうではないでしょうか。 二番目愛の満たし、すなわち愛に満たされる大切さについて。 これはどんな人でも、その人が敵であっても愛することが出来るということを言っています。一つの実例はステパノ、初代教会の初めてのイエス様のために殺された男でした。彼の特徴とは彼は霊に満たされた男でした。石を投げつけられて息を引き取る時、主よこの罪を彼らに負わせないで下さいと膝まづいて、大声で叫びました。これこそ愛の満たしです。 私達もまた隣人また兄弟姉妹また敵でさえも愛すべきであると、聖書ははっきりと言っているのです。 勿論この様な愛は、私達が生まれつき持っているものではない。愛そうと思っても無理。聖書の大部分の戒めはそう言うものなんです。 普通の人は、「あぁ、これも守らなくっちゃいけない。」 守るためじゃなくて破るために書かれてる。自分の力なさ、無力さを解るために書かれてる。けど、無理、出来ませんと叫ぶ様になれば、勿論主は憐れんで下さるのです。 ローマ人への手紙5:5
皆さん良く解る箇所です。私達に与えられた聖霊によって、神の愛が私達の心に注がれているからとあります。 神の愛が与えられてる、だから愛することが出来るのです。 三番目喜びの満たし、すなわち喜びに満たされることです。 ダビデは喜びに満たされた男でした。けど、悩みの多い男でした。彼の証し、詩篇を読むと解る。 時々色々な人の話しを聞くと、あんまり長く喋るから、「今のことイエス様に話したことあるの?」、時々聞くんです。「それ先にしないと駄目だよ。」 ダビデは悩んだ人でした。それだけではなく、祈りの人でした。 結果として喜びに満たされた。問題は解決されてもされなくても関係ない、詩篇の16篇11節に彼は証ししたのです。 詩篇16:11
あなたの御前には喜びが満ちています。静まれ、主の前に喜びが満ちている。これはダビデの証しでした。この主の御前で光りの中を歩む者は誰でもこの喜びに満たされます。この喜びを主は私達にも勿論与えたいと望んでおられます。主の喜びは絶えざる変わらない喜びです。 ハバククと言う預言者もこのことを体験的に知る様になりました。聖書の中で、最も素晴らしい証しではないでしょうか。 その時いちじくは花を咲かせず、ぶどうの木は実を実らず、オリーブの木も実りがなく、畑は食物を出さない、羊は囲いから絶え、牛は牛舎にいなくなる。今までの働いた結果はみんなパアーになった。本当はもうガッカリ、どうして何故と思うなのは普通でしょう。けど、ハバククは違う態度を取った。 しかし私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう。喜ぼうと読むと解るでしょう。意志の問題です。気持の問題じゃないよ。 見える現実を見るともうもうどうしようもない。落ち込むけども、ハバククは私は主にあって、すなわち全部主から受けたから喜ぶことが出来たのです。 この喜びの満たしはこの世の財産や様々な事情にかかっているものではない。 この喜びは理解することも説明することも出来ない程の物です。初代教会の信者達は誤解されたり、迫害されたり、いじめられましたが、しかしそれにも拘わらず言葉に尽くすことも出来ない栄えに満ちた喜びに踊った人々でした。 これこそ本当の証しだったのじゃないでしょうか。 四番目平安の満たし、すなわち平安によって満たされることです。 イエス様はご自分の全き平安を私達にも、勿論与えたいと願っておられます。イザヤと言う預言者は次の様に書いたのです。平安に満たされる秘訣についてでしょうね。イザヤ書26章3節になります。 任せると信頼すると平安に満たされる。これこそがイザヤの経験でした。イエス様は平和の君ですから、イエス様なしには誰も全き平安を持つことは出来ません。イエス様がこの世に来られたのはご自分の平安を私達に与えるためです。 主に信頼するならば、主は必ず私達にご自身の平安を与えて下さいます。マタイの福音書26章の中で、イエス様が十字架に付けられる前のこと書かれていますが、26章30節の一文章だけですが、賛美の歌を歌ってからみなオリーブ山に出かけて行ったと書いてありますが、イエス様はゲッセマネの園に行く前に賛美の歌を歌ったんです。 マタイの福音書26:30
イエス様はまもなく捕らえられ、5〜6時間後には十字架に釘付けられ、われわれの全ての罪の苦しみを受けて下さり、主なる神によって捨てられるということを知っておられたにも拘わらず、イエス様は歌を歌ったとあります。 イエス様は十字架の上で考えられない程の苦しみと悩みを経験なさり、「わが神わが神どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」、と叫ばれました。この様な苦しみを前もって知っていながら、どうしてイエス様は賛美の歌を歌うことが出来たなのでしょうか。 それはイエス様が、全き平安を持っておられたからです。 主はわれわれにも同じ平安を与えたいと思っておられます。そのためには何が必要であるかと言いますと、一言で言えばイエス様に満たされること、すなわち主の命、主の愛、主の喜び、主の平安に満たされることです。 満たされるためには何をしたらいいなのでしょうか。主の満たしを受ける秘訣は一体何なのでしょうか。 先ず第一に私達自身が空っぽの者であるということ実を知る必要があります。もしも私達が本当に正直であるならば、自分の内には何も良き物がないということを認めざるを得ません。もし私達が自分の罪を言い現すならば、主は真実で正しい方であるから、その罪を赦し全ての悪から聖めて下さると、ヨハネの手紙第I、1章9節に書かれてあります。 ヨハネの手紙第I、1:9
主は既にご自身の血潮によって尊い代価を払って下さいましたので、われわれの罪を赦したいと切に願っておられます。 ある人は自分の罪はあまりにも大き過ぎる、果たして主はこの罪を赦すことが出来るだろうかと言う疑いを持っています。しかし主は必ずその様な罪をも赦して下さるのであり、その時を待っておられるのです。満たされる根拠は全ての罪は赦されており忘れられていると言う確信です。 しかし大切なことはただ単に器としてありのままの状態で、主の御前に行くだけではなく、すなわちただ単に自分の罪を認めて言い現すだけではなく、第二番目に幼子の様な信仰を持つこと、主の約束を掴むことこそが要求されています。 悔い改めた後で、主が本当に自分の罪を洗い清めて下さったと言う確信を持たなければなりません。この確信の土台となる物は、勿論人間の感情でもないし、人間の理解力でもありません。 神の御言葉こそ本当の土台です。中途半端な信仰は何にもならず徹頭徹尾主に信頼する信仰です。 マルコの福音書9章23節を見ると次の様に書いてあります。 マルコの福音書9:23
この御言葉は勿論時代遅れの言葉じゃない。われわれに対する呼びかけでもあります。信ずる者にはどんなことでも出来る。 勿論信ずることとは、イエス様と繋がっていることです。イエス様と一つになることです。 最も酷い罪とは何でしょうかね。不信仰です。信ずる者にはどんなことでも出来るとイエス様は約束しておられました。 信仰とは主の贈り物を頂く空の手の様なものです。しかし誠の信仰とは提供された主なる神の贈り物を意識的に受け取って、それを自分の物にすることです。 主の目から見て、最も恐ろしい罪は、今話した様に不信仰です。この不信仰の罪の故に、救われていない人々は滅ぶ様になります。そしてこの不信仰の故に、既に救われている人々は成長しなくなってしまい、用いられなくなってしまいます。 信仰と言う所には悪魔は逃げざるを得ません。そして信仰のある所には、主が栄光を現すことがお出来になり、奇跡を行うことが出来るのです。そして信仰のある所には、言うまでもなく主は礼拝され、誉れを受ける様になります。 私達は信仰生活において何時も別れ道に立たされています。すなわち目に見える現実の世界を見て、それによってうごかされ支配されているか、あるいは御言葉を自分の物として主に拠り頼むかのどちらかです。 これこそが主の望んでおられる信仰であり、この信仰によって私達は主を喜ばせることが出来ます。現代人はみな自分のことだけ考えるので、不幸になってます。 それではどうすれば幸になり、用いられることが出来るのでしょうか。それはイエス様と結びつくことによってのみ実現されます。 そのための段階は、先ず第一段階として、ありのままの状態でイエス様の御許に行き、全てを包み隠さずイエス様に打ち明け、罪を言い現すことです。 それから第二段階は幼子の様に素直な信仰と信頼を持って、主を見上げ主に、主の約束を掴み赦しのために、主に感謝することです。 そして第三段階は何かというと、聖霊に満たされることによって幸せになることです。 信ずる者は誰でも聖霊の宮であり、聖霊を宿しています。しかし多くの信者の場合、聖霊は主の栄光を現すことが出来ませんが、これは本当に悲しい事実と言わざるを得ません。 聖霊に満たされるとは、奇跡を経験することでもないし、異言を語ることでもないし、従順に主に従うことであり、自分の支配権を主に明け渡すことです。私の思いではなく、御心だけがなる様に。この態度を取ることだけでなく、取り続けることです。 その結果として二つのことが言えます。その一つは、イエス様が信ずる者が喜んで主と証しすること、すなわちイエス様の証人となり、他の人達を主に導くことです。 使徒の働き1:8
なるべきなのではない、なる。 多くの人は自分は聖霊に満たされていると思い込んで、傲慢な生活を送っています。けど、聖霊に満たされることの特徴は滅びゆく人達のために最善を尽くすことであり、イエス様を証しすることです。自分を否定すること、また犠牲を払うことなしには決して出来ません。 もう一つ、御霊の実が結ばれることも聖霊に満たされたことのもう一つの特徴ではないでしょうか。有名なガラテヤ人への手紙5章22節ですね。 ガラテヤ人への手紙5:22
とあります。この様な御霊の実が実らないということは、その人は御霊に満たされていないことの現れです。言うまでもなくこの御霊の実は人間の自分の努力の結果ではない。聖霊の支配の結果です。 ありのままの状態でイエス様の御許に行き、全てを包み隠さず打ち明け、幼子の様な信仰を持って、主を見上げ、自分の支配権を主に明け渡すことによって、私達は主の満たしを頂くことが出来ます。 私達が主の命、主の愛、主の喜び、主の平安に満たされるために、第四の段階は、主を信ずる者同士の交わりの大切さ、必要性を知ること。そして実際に交わりを持つことです。ですから、エペソ人への手紙3章18節に、全ての聖徒と共に、私達は特別な人々だけではなく、信ずる者全ての兄弟姉妹を愛することを学ばなければなりません。 エペソ人への手紙3:18
これもまた自己否定を通してのみ実現されることです。自分自身を守ろうとする努力はやめましょう。主に満たされるために、喜んで犠牲を払い、そのために自分が犠牲になってもいいと言える人は幸いです。その人は決して損を受けることがなく、必ず主の命、主の愛、主の喜び、主の平安に満たされます。 これもまた決してわれわれだけが、独り占めする物ではなく、悩み、苦しみ、悲しんでいる人々に対して、私達の手を通して彼らもまた、主の命、主の愛、主の喜び、主の平安で満たされるためなんです。私達がこの様に用いられる様に、切に祈ろうではないでしょうか。 イエス様は言われました。大声で。聖書は言っています。 ヨハネの福音書7:37-38
とあります。 またパウロは言いました、「あなたがたは富む者となるべきである。」 もう一ヵ所読んで終わります。 詩篇81:10-14
主は満たしたい。比類なき主はどうしようもない私達を満たしたい。 どうしてであるかと言いますと、用いられるためであるからです。 |