比類なき救い


ベック兄

(吉祥寺学び会、2011/02/01)

引用聖句:使徒の働き4章12節
12この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。

「比類なき救い」という題名について、少し一緒に考えてみたいと思います。

一人の銀行の主人と、イエス様を伝えている商人が、その商人の事務所で向かい合って座っていました。この商人は、体を前に乗り出して、非常に熱心に、まじめに話しをしましたけど、その話の間に銀行の主人が、突然さえぎりました。
「ばからしい。」、と言って傲慢な銀行の主人は、むっとして腹を立てました。「どうしてばからしいの?」と商人が尋ねました。
「どうしてだって、あなたは私のように、何事もよく考えている者にどうしてなんだと尋ねるの。何とばからしいことだ。」と言って、銀行の主人は皮肉に笑いました。

「そうなんです。私はあなたに、どうしてばからしいのかと尋ねているのです。」すると商人は、それに答えました。銀行の主人は、腹立たしそうに見えました。そして彼の声は押さえつけた怒りにふるえていました。
「あなたは本当に、イエスキリストの十字架、またイエス様の死が、私の代わりになされて、それを神様が満足されるということを、私に教えようというの。その理論は止めてくれ。もし私を救いたいなら、私自身の努力でそれは起こるはずだよ。」と銀行の主人は、腹立たしげに言いました。
「はい、私はよく解かりました。私はあなたの悩みがどこにあるか、今解かった。あなたは自分自身の道を歩く権利を持っていると考えているでしょ。ですから、あなたは神の救いの御計画を退け、軽蔑しているのです。」と商人は答えました。

「それは、どういう意味なの?」と銀行の主人は、いぶかって尋ねました。
すると商人は、「どうぞ聞いてください。今誰かがあなたの所にやって来て、『私は今大変困っています。どうぞ少しお金を貸していただけませんか。』と言った場合を想像してください。このような場合にお金を貸せるための条件を作り、それを指図するのは、誰でしょうか。銀行の主人で、金持ちであなたですか。それとも困っている人ですか。どちらなのでしょうか。」
「それはもちろん私だよ。その男は、金を受け取る前に私の条件を承認しなければならないでしょう。」と銀行の主人は答えました。

「その通りです。けどあなたは今、同じ状態にあるのです。あなたは、哀れな救いがたい罪人であり、滅びゆく者なのです。
けど、主なる神は、大金持ちの銀行家なのです。あなたは主なる神の所へ行って、恵みと赦しをお願いするのです。このような場合、あなたが主なる神の救いを得るための条件や指図を定める権利を持っているのは、誰でしょうか。
あなたが哀れな男であり、主なる神が銀行家であるということを考えてごらんなさい。」と商人が言いました。

「私はそのことを以前考えたことがありませんでした。」と銀行の主人は答えました。彼の声には驚きがありました。そして「もちろん、私はその場合、指図する権利を持っていません。権利を持っておられるのは、主なる神だけです」といいました。
「あなたは、あなた自身の救いの道を作っていたのです。あなたは命令することはできず、ただ受け取るだけだということを忘れていたのです。大きな銀行の主人である主なる神は、あなたに主の計画による救いを、いつも提供しておられるのです。
あなたは、自分の道を行くことを止めて、主なる神の道を行こうと思いませんか。主なる神は、ご自分の道で、あなたに会うその用意をあなたは、もうしていますか。」

「はい、主なる神は、私を助けてくださいます。」とこの新しい光が、彼を照らした時、この銀行の主人は小さな声で答えました。
主なる神の御計画とは、いったいどういうものなのでしょうか。もし私たちが、主なる神の救いの計画を考えますと、ただちに次の箇所を思うでしょう。

イザヤ書45:22
22地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。

ルカの福音書19:10
10人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。

使徒の働き16:30-31
30そして、ふたりを外に連れ出して「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか。」と言った。
31ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と言った。

エペソ人への手紙2:8
8あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。

テモテへの手紙第I、1:15
15「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。

ローマ人への手紙10:9
9なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。

聖書の中で、「救われる」という言葉ほど、人々の考えをまちまちにしている言葉は他にはありません。
いったいどこに救いの本質があるのでしょうか。ある者はこれだと言い、他の者はあれだと言います。
けど、主なる神はどう言っているのでしょうか。

箴言14:12
12人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。

終わり良ければすべて良しと言われますけど、もしそうでなければ悲劇そのものです。
初代教会においても、このような悪い道が教えられていたことがありました。そのことについて、次のように書かれています。

使徒の働き15:1
1さて、ある人々がユダヤから下って来て、兄弟たちに、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない。」と教えていた。

この教えは、パウロに反対するものでした。パウロは、救われるためには割礼を受けることが必要でないばかりでなく、おきてを守ることも必要でないことを証明しています。
今日でも、主なる神の救いについての誤った考えを持っている人が、もちろんいっぱいいます。
私たちは、まずこの誤った見解にちょっと目を向けてみたいと思います。

第1番目、宗教。多くの人は、自分の宗教が自分たちを救うと考えています。私たちは、どういう考えでしょうか。私たちは、宗教に頼っているのでしょうか。
次のことをはっきりと言いたいものです。新教にしろ旧教にしろ、ユダヤ教にしろ、またマホメット教にしろ、神道にしろ、仏教にしろ、どんな宗教も人間の魂を救うことができないということを言いたいのです。
救いは、イエス様の内にのみあるのです。

マタイの福音書1:21
21マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。

また前に読みました使徒の働き4章12節ですね。

使徒の働き4:12
12この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。

あなたが救われるのであれば、それはあなたは、イエス様によって救われなければならないのです。そこには他の道がありません。イエス様は、あなた一人の救い主です。
宗教は、いのちを与えることはできません。救われるためには、新しいいのちを得なければならないのです。
イエス様は、次のように言われました。

ヨハネの福音書3:3
3イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」

聖書から2、3の例をながめてみましょうか。

このヨハネの福音書3章の中で、ニコデモという男が出てきます。彼は信心深い人でした。けど、彼は救われていなかったのです。ですから、イエス様は彼に「あなたは、新しく生まれなければならない。」とはっきり言われました。
今日、読まなくてもいいと思うんですけど、ルカの福音書7章36節〜50節までに、あるパリサイ人は、信心深い人でしたけど、救われていなかったのです。
コルネリオは大変信心深く、主なる神を恐れ、施しをし、祈り、断食もしました。また彼は、人々に好感を持たれていました。けど、このコルネリオもまた、救われなければならなかったのです。

パウロはたぶん、当時最も信心深い人間だったでしょう。彼は、子供の時から信心深く育てられました。彼は、自分は主なる神に熱中していると言うことができたのです。
彼は割礼を受け、律法をおろそかにせず、守りました。それにもかかわらず、主なる神の目から見れば、彼は、単なる罪人だったのです。
彼は罪人であることを知らない、失われた人でした。彼もまた、救われなければならなかったのです。なぜなら彼は、神の義を自分のものとしていなかったからです。

パウロは、本当に信心深い人でした。実際、彼は信心深い罪人でした。彼は自分自身を罪人のかしらと、イエス様を知るようになったから、本当に変わりました。
彼は、次のように証しました。

ピリピ人への手紙3:4-9
4ただし、私は、人間的なものにおいても頼むところがあります。もし、ほかの人が人間的なものに頼むところがあると思うなら、私は、それ以上です。
5私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、
6その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。
7しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。
8それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、
9キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。

このような箇所を見ると解かります。宗教は、パウロもコルネリオもニコデモも救うことができなかった。宗教は、どうして私たちを救うことができましょうか。できません。そのことをよく考えるべきです。
救われるために、また宗教的な生活に頼っていこうというのですか。それは悪い望みのない希望にしがみついているというものにすぎない。もし、宗教が救うことができるとしたら、それではなぜイエス様は死んだのでしょうか。
もし、私たちが宗教によって救われることができるのなら、十字架は必要ではなかったでしょう。ただ一人の救い主があるだけです。それは宗教ではなくて、イエス様ご自身です。

二番目の誤った見解は、道徳です。多くの人は、良い生活を送っているならば、救われているものと信じています。
その人たちは、救われるために、自分たちの道徳に頼っています。もし道徳的で、誠実な生活が、私たちを救うことができるのであるなら、どうしてイエス様は、死なれたのでしょうか。
もし、私たちが自分自身で救うことができるなら、私たちは、イエス様を必要としない。

もし、わたしたちが自分自身の努力で天国に入ることができるとしたら、私たちは、天国で次のように言うことができるでしょう。
「私を見なさいよ。私は、自分のすばらしい生活によって、ここに来たのだよ。私は、非常に良い、非常に道徳的な、また真実だったので、神は私をここに入れてくださったのだ。私は、救い主を必要としませんでした。私は、イエスキリストなしで、それを成したのだ。私は、自分で自分を救ったのです。」と言うでしょう。
もちろんそうじゃないです。絶対にそうではありません。先ほどのように言うことの出来る人は、誰もいないでしょう。なぜなら、主なる神に満足するような良い生活を送れる人は、誰もいないからです。

イザヤ書64:6
6私たちはみな、汚れた者のようになり、私たちの義はみな、不潔な着物のようです。

ローマ人への手紙3:10
10義人はいない。ひとりもいない。

すべての人は、罪人であると書いてあります。ですから、すべての人が救い主を必要とします。

もし私たちが正しく、己の義を持っているなら、イエス様は、そのような場合には、決して私たちのためにこの世に来なかったでしょう。
ルカの福音書5章32節「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」とイエス様は言われました。
また、マタイの福音書9章12節イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。」私たちは、完全でしょうか。正しいでしょうか。もしそうであるならば、私たちはイエス様を必要としません。

ルカの福音書18:9-14
9自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。
10「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。
11パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。
12私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』
13ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』
14あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」

パリサイ人は「神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。」「私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。」
私は正しいのですと、けど取税人は目を伏せ、胸を打って言いました。「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。」
イエス様は、取税人を義とされ、パリサイ人を裁かれたのです。

私たちは、自分が正しくないということを知っているでしょう。友達が、自分の考えを知るのを欲していないかもしれない。私たちは、聖なる神の御臨在の内に立つことができると思うのでしょうか。
私たちは、自分の部屋にほこりがないと言うかもしれないけど、一度太陽を入れてごらんなさい。そしてこの光線を見ましょう。ほこりがありませんか、いや、いたる所たくさんのほこりがあります。
私たちは、自分が正しいと言われるかもしれないけど、もし、主なる神の栄光の光が、自分の心に入ったなら、どうでしょう。

そこには、滅亡、不純と汚いしみがあります。一言で言って罪があるのです。
ペテロは、「主よ。私は罪人です。」と叫んだのです。イザヤは、「わざわいなるかな、私は滅びるばかりだ。私は汚れた唇の者だから」、ヨブは、「私は、不純です」と叫んだのです。
この男たちは、その各々の時代において、最も善良な道徳的な、そして正直な人々でした。けど、彼らは主を見た時、自分自身をも見たのです。

私たちの場合も同じことです。自分の生活は、パウロやニコデモやコルネリオの生活と同じように正しいでしょうか。自分の生活が、正しくないことをもちろん私たちはみな知っています。
彼らの道徳が、彼らを救えなかったのと同じように、私たちは、道徳によっては救われないのです。新しく生まれなければならない。
私たちは、自分が正しくないということを知っているでしょう。もし、私たちが自分を他の人と比べるならば、自分はたぶん大丈夫かもしれないけど、もし、自分が主なる神の戒めで自分を計るならば、自分は何と足らないことでしょうか。

主なる神は、完全な義を求めておられます。そして、この完全な義を持っている者は、ただ一人です。そのただ一人の人とは、イエス様です。
もし、私たちがイエス様の義を身につけるならば、自分は主なる神に受け入れられます。もし、そうでなければ、自分は永遠に滅び去るにちがいない。自分の義は役に立たないものです。
自分の義は、決して充分ではありません。私たちは、最善を尽くすことができますが、けど、自分の最善は絶対に、主なる神を満足させないのです。ただ、イエス様の正義のみが自分を救うことができるのです。

放蕩息子と同じような、汚い着物を脱ぎ捨て、主の赦しを請わなければなりません。心から言うべきです。すなわち「私は罪人であり、その他のなにものでもない。イエス様は、私のすべてです。」と。
イギリスの昔の話ですけど、ビクトリア女王は、かつて、はっきりとしたしるしがあれば、すべての逃亡兵を赦しました。
彼らは自分自身で、逃亡兵であることを認めなければならなかったのです。すなわち、彼らは自分の罪を認めなければならなかったのです。同じように、私たちは赦してもらいたいならば、自分の罪を認めなければなりません。

3番目の誤った見解は、働きです。多くの人は、働きや良い行いによって、救われると信じています。それらの人々は、悔い改めと節制の働きをやり、施しをしたり、いけにえを捧げたり、祈ったりします。
また彼らは、病人や囚人を訪ねます。そして非常に長くかかる巡礼を企てたり、自分の身をむち打ったりします。
この人達は、そうすることによって、天国へ入るものと信じています。

イエス様といっしょに十字架につけられた強盗は、救われるために、何をやったでしょうかね。その強盗は、良い働きをすることができませんでした。なぜなら、彼の両手は、十字架に釘付けになったからです。
彼は、何ひとつやらなかったのです。けど、それにもかかわらず、イエス様は彼を救いました。
人間の救いの計画は、「する」という言葉を強調しますけど、主なる神は、「する」じゃなくて「した」と言われます。

人間は、どうしても何かをやりたいのであり、何かを支払いたいのです。人間は救いを働いて、自分のものにしたいのです。
けど、主なる神は、「終わった」とおっしゃっています。もう、そこには何かやるものは少しも残っていません。
イエス様は、すべてをなされたのですから。まことの救いは、贈り物です。プレゼントのようなものです。

ローマ人への手紙6:23
23神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

贈り物を働いて取るためには、何か出来ますか。贈り物に支払うなら、それは贈り物ではありません。贈り物のために働くなら、それを受け取る権利を持っていますから、それは同じく贈り物ではありません。贈り物は、完全にタダなんです。
それとちょうど同じように、救いについても言えます。一体、放蕩息子は、何を支払ったのでしょうか。
あなたが放蕩息子がいくら支払ったか私に言うことができれば、私もあなたにいくら支払わなければならないかと言いましょう。放蕩息子はなんにも支払わなかったんです。

なぜなら、放蕩息子は何も持っていなかったから、彼は破産したのです。それと同じことが、私たちに言えます。
救いを自分は、お金なしに、値段なしに受け取ることができるのです。救いを買うことはできません。
主なる神のみことばを聞きましょう。それは何とはっきりとしたことでしょう。また、何と意味深いことでしょう。

エペソ人への手紙2:8
8あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。

プレゼントです。

エペソ人への手紙2:9
9行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。

行いによるのではない。それは何とはっきりしていることでしょう。
いかなる行いも手柄も、私たちの出来ることみんなも、少しもそれらは勘定に入れることはできないのです。イエス様だけが救うのです。
もし、私たちがイエス様の所に行くならば、そして、自分をイエス様が十字架の上で完成された働きに任せるならば、そしてまた、自分がその瞬間にイエス様に頼るならば、もちろん救われます。

もう一つの誤った見解は、4番目になりますけれど、戒めです。多くの人は、聖書の中の神の戒めを守っているならば、救われると信じています。けど、イエス様は、「汝らのうちで、おきてを守っている者は、一人もいない。」と言われました。
私たちもまた、戒めを守らなかったので、それどころかそれ以上なのです。私たちは、自分が戒めを守っていないということをもちろん知っています。
私たちは、時々自分の生活において、戒めの一つを破っていました。そして、ヤコブは次のように書いたのです。

ヤコブの手紙2:10
10律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者となったのです。

一つの点、一つの罪、一つの破れた戒めがあれば、すべての掟を犯したことになると聖書は言っています。もしそうだったら、自分は、判決を下され、滅ぼされるのです。
人間はみな例外なくわがままで、過ちを犯す者です。なぜなら、主なる神の律法を犯したのですから、私たちは罪があるのです。
そうしたら、今なにをやろうと思うのでしょうか。イエス様は、身代わりとなり、罪滅ぼしのために死なれました。

イエス様は十字架にかかって、我々の罪をご自分の身に負われたのです。イエス様は、私たちの罪を贖うためにご自身を犠牲として捧げられたのです。
私たち人間が、成さねばならないことは簡単です。自分の救い主としてのイエス様を受け入れることです。救われるということは、私たちにとって、何と簡単なことでありましょうか。
誰でも自分が何処にいようと、どんな状態であろうと、イエス様を受け入れることができます。そして3分間で救われることができるのです。

今、病院にいる患者さんに健康な法則という本を提供するということは、全くばかげたことでしょう。その患者はガンなんです。ですから、彼の必要とするものは病気を治す手当てなのです。
同様に救われたいと思っている誰かに、あなたは律法を守るべきだと言うことは、本当にばかげたことです。
人間は、罪のガン病を持っています。人間は自分の病を身に背負い、健康を与えてくれる人を必要としているのですけど、掟の本から始まることはできません。

ここで、福音が入ります。
イエス様は、自分の罪をご自分の身に背負いました。イエス様は、罪をご自身のからだで、十字架に運びました。
そしてイエス様は今、ご自身のいのち、永遠のいのちを差し出しておられます。

ガラテヤ人への手紙2:16、21
16しかし、人は律法の行ないによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行ないによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。
21私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。

最後の誤った見解は、もう一つですけど、5番目になります。いわゆる規則です。多くの人は、教会の秩序を守ることによって、すなわち、洗礼とか、聖餐式を守ることによって救われると思っています。
イエス様と共に十字架につけられた強盗は、洗礼を受けたでしょうか。もし強盗は洗礼なし、聖餐式をすることなしで救われたなら、もちろん誰でも簡単に救われるのではないでしょうか。
あの強盗は間違いなく救われました。どうして?なぜならイエス様は、「今日、あなたはわたしと共に天国にいる」と言われたのですから。

一人の者が洗礼なしに救われたのですから、洗礼を受けなくても、すべての人が救われることができるわけです。それゆえに洗礼すなわち水のバプテスマは、救いの秩序ではありません。
イエス様によって、罪の赦しを受けた者は救われているのであり、洗礼を受けたのであって、救われたいために洗礼を受けたのではない。
それと同時に、もうすでに救われたから聖餐式にあずかるのであって、救われたいために聖餐式にあずかるのではありません。救われたから、聖餐式を受けるのです。救われた者が洗礼を受けたことになるのです。

主なる神から遠く離れている罪人が、恵みによって救われた者だから、主の聖餐式にあずかるのです。教会の規則が救うことはできません。イエス様によってのみ、人間は救われるのです。ただ一人の救い主は、イエス様ご自身です。
今まで私たちは、人間の道すなわち宗教、道徳、働き、戒め、規則について考えてまいりました。そして最後に、私たちは、それが誤った道であるということをもちろん見ました。
最後に、主の救う道とは何でしょうか。主なる神の救いの道とは、いったいどういうものでしょうか。ただ一人の方が救うことができるのです。この一人の方は、イエス様です。

ヨハネの福音書14:6
6イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、

道しるべじゃないよ。わたしは道そのものであり、

ヨハネの福音書14:6
6真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。

このわたしはとはイエス様なのであり、他のものではなく、宗教でも道徳でもなく、また良い行いでもないのです。神の御子であるイエス様が唯一の救い主です。イエス様は、道なのです。
今話したように、単なる道しるべではありません。誰でもイエス様を通らなければ、まことの神の御元に行くことはできません。モーセによってもダメであり、お釈迦様によってもダメなのであり、またモハメッドや孔子もダメなのです。
坊さんや牧師、またローマ法王によっても、生けるまことの神の御元に行くことができません。ただ、イエス様によってのみ、御元に行くことができます。どうでしょうかね。自分が救われることをイエス様に赦すのでしょうか。

使徒の働き4:12
12この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。

これは何という言葉なのでしょう。聖書の中で、これほどはっきりしたことばは他にありません。他の救いにはないのです。
他の宗教、他の人、それらの中にも他の救いは、どこにもないのです。このことを信じるでしょうか。他の名前はないのです。その名をイエスとつけなさい。彼は救う者となるから。
私たちは、すべての他の道から、向きを変え、イエス様だけに頼るのでしょうか。イエス様だけが、自分を救うことができるのです。けど、イエス様は、本当に救うのでしょうか。

ヨハネの福音書6:37
37父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。

決しては、決してです。永久的に受け入れます。イエス様は、そう約束しておられます。イエス様は、拒むはずはない。イエス様はそれではどうするでしょうか。イエス様は受け入れるはずです。
主なる神に、このような救い主を賜ったことを感謝しようではないでしょうか。たぶん、主なる神が自分の救いのために、すべてをおやりになったので、もはや自分のやることは、何もないと考えておられるかもしれない。何といういけないことでしょう。
人間は、主の差し出してくださっているものを、受け取らなければならないということをご存知でしょうか。

聖書は言っています。選び、そして受け取りなさい。救いはイエス様によって、完成されましたが、けど、人間はそれを受け取らなければなりません。
私はあなたに一杯の水を差し出すことができます。そして、あなたはそれを受け取らなければならない。医者は、あなたに薬を与えることができますが、けど、あなたはそれを飲まなければ何の役にもたちません。
救われたいと思うならば、イエス様を受け入れなければなりません。イエス様を受け入れることですね。聖書は言っています。

ヨハネの福音書1:12
12しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

イエス様を受け入れた人々だけが救われます。自分の意思なしで、救われた者は誰もいません。私たちは、意志の決定なしには、少しも受け入れることはできないのです。
同様に私たちは、決定なしに救われることはできません。選らばねばならないのです。ですから、イエス様を自分の救い主として受け入れなさい。
今日、今、受け入れなさい。これこそ聖書の呼びかけです。

頭の信仰と心の信仰の間には大きな違いがあります。たとえば、エレベーターがあなたを上に導いてくれるものと信じていますけど、その信じていることを実行に移さなければ、すなわちエレベーターの中に入らなければ、上へ連れていかれないでしょう。
汽車が目的地に運んでくれると思っていますけれど、思ったことをやらなければ、すなわち汽車に乗らなければ、目的は達せられません。
イエス様は、自分を救うことができると思っていますけど、あなたがその信仰を実行に移さなければならない。すなわちイエス様に頼らなければ、救われません。誰でもイエス様を選び、受け入れ、イエス様に身をまかせ、自分自身を捧げなければなりません。

この信仰が救うのです。なぜ今日、今、イエス様に頼ろうとしないのでしょうか。それは、本当に今でなければなりません。
自分がまだ救われていないことを知っているかもしれない。それを他の時に延ばしているのです。主なる神は、このような遅い適当な時期をご存知ないのです。
イエス様は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたの願いを聞き入れ、救いの日にあなたを助けた。見よ。今は恵みの時、救いの日です。」主なる神の時は今です。今が決定の時です。最も大切な時は来ています。

今、決定する絶好の時です。明日では遅すぎるかもしれない。一つのことだけはやらないで下さい。長くためらわないことです。
イエス様を受け入れなさい。イエス様を今、受け入れなさい。この瞬間に永遠のいのちがあなたのものとなるのです。この瞬間にあなたは、救われることができるのです。
悪魔は再び、あなたをためらわせたなら、あなたは永遠に失われるかもしれない。ですから、来なさい。そしてイエス様を今、受け入れなさい。

イザヤ書55:6
6主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。

イエス様をもはや見出すことのできない時が来ます。
ですからイエス様を受け入れなさい。
今、受け入れなさい。




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