神はひとり子を賜ったほどに


ベック兄

(市川家庭集会、2008/12/11)

引用聖句:創世記1章21節
21それで神は、海の巨獣と、その種類にしたがって、水に群がりうごめくすべての生き物と、その種類にしたがって、翼のあるすべての鳥を創造された。神は見て、それをよしとされた。

創世記1:24
24ついで神は、「地は、その種類にしたがって、生き物、家畜や、はうもの、その種類にしたがって野の獣を生ぜよ。」と仰せられた。するとそのようになった。

ローマ人への手紙5:12
12そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、――それというのも全人類が罪を犯したからです。

今読んでくださった箇所は、クリスマスといったいどういう関係かと思われるかもしれない。後で説明致します。
吉祥寺のある奥さんは非常に悩んでいたのです。ご主人とうまくいかなかったのです。彼は、平気な顔で奥さんになんと言ったかと言いますと、「俺はハイレベルの人間だから、お前と話す必要はない。」、無視されることは当然でしょう。会話のない結婚生活です。
彼女は、もうがっかりして寂しくなっちゃたし、もちろん落ち込むようになったのも当然でしょう。

もちろん、聖書を読むと、ハイレベルの人間は存在していない。正しい人はいない。ひとりもいない。善を行う人はいない。ひとりもいない。そう聖書は言っています。意味は、同じレベルである者は、人間を救うことはできないのは当然です。
ヨハネは、イエス様の偉大さについて紹介したのです。どういう言葉で紹介したかと言いますと、「はじめにことばがあった。ことばは、神と共にあった。ころばは神であった。」
普通、ことばは、だいたい人間の話す言葉でしょう。けどもこの言葉とは、ちょっと違う。人格者そのものです。

ここだけ読むといくら考えてもぴんと来ない。
けども続いて読むとすぐわかる。

ヨハネの福音書1:14
14ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

ですから、今引用した1章1節をみると、ことばを、主イエス様と置き換えた方がわかりやすいでしょう。「初めに主イエス様があって、主イエス様は父なる神と共にあった。主イエス様は神であった。」
結局、神が人間になったとは、考えられないことです。けれども本当にそうなんです。
主なる神は、変わらない愛をもって、考えられない程の低いレベルの人間と交わりを持ちたいと願われたと、聖書全体は言っているのです。

この世で、地上を歩まれたイエス様と話した最後の人間は誰でしょうか?一緒に十字架につけられた強盗だったのです。二人の強盗だったのです。
間違いなく奴隷でした。奴隷として犯罪を犯したり、人を殺したりしたから、仕方なしに十字架につけられたのです。
そして、このひとりの犯罪人は、イエス様に向ってなんと言ったかと言いますと、「あんたは救い主か。それなら自分を救え。俺たちも救え。」と言ったのです。

けれども、もうひとりの犯罪人は急に変わったのです。どうして変わったかと言いますと、イエス様の祈りを聞いたに違いない。イエス様は、自分を殺そうとする人々の幸せのために祈ったのです。
「お父さま、お父さま、彼らの罪を赦してください。彼らは、何をしているのかわからない。」
犯罪人の一人は、頭が良かったかもしれない。正しい結論を出したのです。

つまり、普通の人間だったら自分の敵を愛さない。赦すかもしれない。けど愛さない。あなたの親しい家族、親しい友達を殺す犯罪人を愛することができるの?無理よ。できません。けどイエス様は、自分を殺す人の幸せのために祈ったのです。自分の敵を愛したのです。
犯罪人は、必ずこう思ったでしょう。普通の人間ならできない。けど、このイエス様はしている。だから、この隣に十字架につけられているイエスは、普通の人間ではない。間違いなく、約束された救い主に違いない。
だから、思い切ってイエス様に話したのです。「イエス様〜。御国に入ってから、私のことを思ってください。結局、あなたが憐れんでくださらなかったら、もうおしまいです。」

その時、非常に有り難いなのは、イエス様は、相手の人が釘付けられていたでしょう。逃げられない。説教しようと思えばできたよ。チャンスがあったよ。
1分の間に、どうしてご自分がこの世に来られたかについて、どうして、自分が十字架につけられたかについて、説明しようと思ったらできたでしょう。
イエス様は、一言葉もそのようなことを話されなかった。大切なポイントです。なぜなら、人間は一つの教えを信じ込むことによって、救われないから。

イエス様は彼の気持ちがわかったのです。彼はぺっちゃんこです。イエス様が憐れんでくださらなかったら、おしまいです。ですから、イエス様、憐れんでください。
イエス様の答えは、「あんたは、『今日』、三日後じゃないよ、私とパラダイスにいます。」
イエス様は、天国で必ずこの犯罪人を紹介したでしょう。みなさん見て、見て、私の大好きな弟です。彼は救われちゃった。聖書を勉強したからじゃない。良い人間になろうと努力したのでもない。ただ、憐れんでくださいと砕かれた気持ちになったから、いいんですって。まあ、全部、イエス様のおかげです。

今から、782年前に一人の男が死にました。比較的に若かったのです。44才でした。いわゆるアッシジのフランシコと言う男です。
恵まれて生まれたのです。欲しい物も全部手に入れることができたのです。彼はある時、馬に乗っていくと道でライ病人の群れに取り囲まれたのです。彼は、ライ病人達の哀れな様子に心を動かされました。そして、一杯入る財布を投げ与えたのです。
ライ病人達は、彼の高価な着物に接吻した。多くの恵みは、今まで貧しい彼らに与えられなかったからです。

もちろん、家族からも友達からも離れて生活しないといけない。しばらくしてから、フランシスコは再び同じ道をやってきました。彼は、豪華な服を宿屋に置いてきました。
この時、彼は道を先へ行こうとはしませんでした。自分の馬から下りて、ライ病人たちの所へ行き、ライ病人たちの世話をしました。
傷を洗いました。彼らのぼろ着れをきれいにしました。そして彼は、ライ病人たちと一緒に住むようになったのです。彼らの兄弟となったのです。おそらく彼もライ病人と一緒に生活して、自分でもライ病になって早めに召されたのです。

もちろん彼は、男と女の間で生まれた者だったから、彼も完全ではなかった。たいしたレベルではなかった。けれども、イエス様は、本当にこの世に来られました。結局、人間を救うために、人間の過ちや失敗を赦すためにこの世に来てくださったのです。
けれどもイエス様が来た時に、「イエス様、よく来て下さいました。待っていたよ。」と思う人は、あんまりいなかったのです。これこそ悲劇的です。
イエス様は後で説明したのです。彼らは、光よりも闇を愛した。どうしてであるかと言いますと、正直になろうとしなかったからです。頭を下げたくなかったからです。そう言う人々にとって、救いはあり得ない。

何年前だったでしょうかね。ある姉妹は死のうと思ったのです。自分の住んでるマンションから飛び降りちゃったのです。コンクリートだったら一辺に死んだでしょうけど、洗濯機の中に入っちゃったのです。
そして医者は、もうこの子の足は使いものにならない。車椅子の生活も無理と言ったのです。その話しを初め聞いたのは、お母さまなんです。彼女は悩んだのです。どこかのレストランの経営者でしたか、知り合いの人に話したらしいのです。
娘がとんでもないことをした。どうしよう。けど、普通の人はちょっと答えられないでしょう。

そして、急に、その知り合いは、昼間よくレストランに来る人を思い出したのです。昼間、レストランによく来るのです。たぶん、食事前に祈っているので、クリスチャンかもしれない。紹介しましょうか。そう言うふうになっちゃったのです。
お母さんも、心を開いていたのです。結局、人間は励ますことできない。結局私たちは、一緒に病院へ行きました。
姉妹はやっぱり聞く耳を持っていたよ。もちろん病院の中でも、今度はうまく死のうと思っていた。本人は覚えていないかも知れないけど、病室は刑務所みたいでしたよ。医者も看護婦さんも心配して心配して。たいへんだったんです。

けども、ちょうどクリスマス頃、どなたとどなたが行ったか忘れたけど、お見舞いに行ったのです。お話しする場所は、病院のコーヒショップがあったんです。みんなで集会みたいなことをコーヒーショップでやっちゃったのです。
そして、クリスマスの賛美を歌ってから、姉妹は急になんと言ったかと言いますと、「生きてて良かったあ。」、お母さまはそれを聞いて喜びのあまり泣いちゃったよ。死にたかったのに、生きてて良かった。
結局、みなさん、どうして、なぜかと考えても、わからないよ。けれども、いつか振り返ってみると、「あ、そのためだったかあ」とわかるようになります。

姉妹はね、生きてて良かったと知るようになったのです。もちろん、今日もまだ理解できない。イエス様のこと、理解できる人間はいない。
イエス様は、ハイレベルの人と思う人いるけど違うよ。この大宇宙は、イエス様によって創造されたのです。イエス・キリストのために大宇宙は全部創られたのです。
このイエス様が、低いレベルのどうしようもない人間のために、天の栄光と富を全部捨てて人間になられたのです。聖書の中の一番知られてる箇所は言うまでもなくヨハネの福音書の3章16節でしょうか。

ヨハネの福音書3:16
16神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

「世」とは私のこと、あなたのことです。神が、イエス様を私たち賜ったほどに人間ひとりひとりを愛した。それは、御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
イエス様は本当にこの世に来られました。どうしてであるかと言いますと、人間を富む者にするためです。今、司会の兄に読んで頂いた創世記の中にあります。

創世記2:6
6神である主は、東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。

この「エデンの園」とはどう言うものであったのか、もちろんわかりません。けど、考えられないほど素晴らしい所であったのです。
「エデン」と言う言葉を訳しますと「好ましい喜びの国」です。意味は、この初めての人間に与えられている環境は、もちろん完全でした。
それだけではなく、主との交わりも完全なものでした。主との交わりは最も素晴らしい、最も尊いものです。けども、ずっと読んでいって、創世記3章を読むと、とんでもないことになりました。

人間は、この素晴らしい贈り物を、すなわち主なる神との交わりを大切にしなかった。罪を犯すようになり、与えられた贈り物である主との交わりを無くしました。結局、エデンの園から追放されてしまったのです。
そして、創世記1章21節、24節を見るとわかります。何回も、何回も同じ表現が出てきます。4回も、「種類に従って」とあります。
意味は、植物はいつも植物の生命を持ち、動物はいつも動物の生命を持っている。アダムは罪人になった。罪人の子はもちろん罪人。ネコの子は、ネコ。魚の子は魚でしょう。犬の子は犬です。神の子は、神です。

イエス・キリストが神でなければ、救いはあり得ません。もしハイレベルの方が、低いレベルの人間に来られてもダメです。
聖書ははっきり言っています。第一番目、罪があるということです。人間は、みな罪人です。確かに、多くの日本人はわからないのです。普通使わない言葉でしょう。
警察は使います、裁判官も使います。そうすると皆、悪い行いじゃないのと思います。全く違います。わがままと言った方が通じますね。私は、わがままじゃないと言える人はいない。よほど盲目にされていなければ。

罪とは、主なる神から離れている状態なのです。主なる神と人間の間の壁です。ある人の場合は、この場合は10メートルの厚さかもしれない。ほかの人の場合は1メートルかもしれないけど、壁は、壁だよ。厚さは関係ない。
この壁があると、主なる神との交わりはあり得ない。
イエス・キリストを初めて紹介された時、バプテスマのヨハネは叫んだのです。「見よ。見て、見て。世の罪を取り除く神の子羊。」結局、人間の罪の問題を解決する方が現われた。この方だよ。

人間は、皆罪人です。どんな人も罪人です。でも、前に引用したローマ人への手紙3章なんですけども、信じなくても動かすことのできない事実です。人間は、みなダメ。使いものにならない。正しい人はいない。一人もいない。
もちろん人間は、罪を犯す前に、もうすでに罪人なんです。私たちは、罪を犯すから罪人と思うでしょう。逆なんです。罪人だったから罪を犯すのです。
ヨブは次のように書いたのです。だれが清いものを汚れたものから出せましょう。誰ひとりできません。ですから、イエス様は、はっきり言われたのは、肉によって生まれたものは肉です。御霊によって生まれたものは霊です。

イエス様は、どうしてこの世に来られてかと言いますと結局、罪の問題を解決するためです。
解決する道は結局、イエス様を遣わすことによって、イエス様を死に渡すことによって、イエス様を犠牲にすることによってです。
もう一箇所ルカの福音書をみてみましょう。よく読む箇所です。良きサマリヤ人の話しです。

ルカの福音書10:30-35
30イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎとり、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。
31たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
32同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
33ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、
34近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。
35次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』

半殺しにされた旅人は、もちろん自分で自分を救うことはできなかったのです。この旅人を救ったのは、外国人のサマリヤ人でした。同じ国の人も、いかなる宗教も旅人の絶望的な状態を救うことは結局できなかったのです。
イエス様だけが、まことの救いを、罪の赦しを、真の平安を、変わらない喜びを、永遠の命を与えられるお方です。
父なる神は、わたしたちのような者を救うために、ご自分の持っておられた一番尊いものを、一番愛されているものであるイエス様を与えた。犠牲にした。

どうしてこれが必要だったのでしょうか。聖書のどこを見てもわかりますが、主なる神は、全く聖なるお方であるとあります。清さは、罪との交わりを持つことができない。主なる神は、罪と妥協することのおできにならないお方です。
従って、聖なる神は罪を罰し、罪人を追放せずにはおられないお方です。これこそが、はじめての人間が経験したことでした。
もし主なる神が罪を罰しないなら、罪と妥協することになる。これは、もちろんあり得ないことです。

主なる神は、はじめ人間の本当に親しい友達でした。人間を愛しておられた創造主でした。けれども人間のわがままによって、人間の審判者、裁き主になりました。
主なる神は、非常に愛しておられるから人間を罰しないと言っている人もいるけど、それはうそです。誤りです。主なる神は、全く聖なる方であるから罪を裁かずにはおられないのです。
人間の罪はどう言うふうに罰せられたかと言いますと、イエス・キリストの身代わりの死を通してです。人間を罰する神は、もう存在していない。

すべての宗教の神々とは、みな恐い恐ろしい神です。まことの神は、人間を罰する気持ちがない。イエス様が、もうすでに代わりに罰せられたからです。
本当にもうありがたい。ですから、神は実にそのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。これは、イエス・キリストです。
もし、主なる神がそのひとり子であるイエス・キリストをお与えにならなかったなら救いはあり得ない。

イエス様は、天にある栄光を捨てて人間になりました。イエス様が、神の性質を持ってはおられましたが、けど、神の力と栄光を捨てて、人間になった。これは、人間の罪に対する主の答えそのものでした。
イエス様を生んだマリヤは告白しました。私の魂は、主をあがめ、私の霊は救い主なる神を讃えます。もし、私たちもこの態度をとることができれば、本当にありがたいなのではないでしょうか。

ルカの福音書2章10節を最後に読んで終わりましょう。

ルカの福音書2:10-11
10御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。
11きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。

はじめてのクリスマスのイブの時、天の軍勢が現われて人間に伝えました。
ここで、「あなたがた」の複数形ではなくて、単数形で読んでもいいですね。あなたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
旧約聖書で預言された罪を負う者であり、罪を赦すお方です。




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