引用聖句:ヨハネの手紙第I、1章1節-4節、7節
昨日から始まった喜びのつどい、20日まで長い喜びのつどいの特徴は交わりであります。ひとつになる幸いを新たに味わい知るべきではないでしょうか。 1,900年前のパウロの悩みの種は、救われた兄弟姉妹はひとつではなかったことです。だからパウロは、よく「私は悩んでます。困ってます。」 ヨハネの与えられた使命は、主との交わりの大切さを強調すること、また兄弟姉妹との一致の必要性を願い求めることでした。だから彼は今読んだように書いたのです。決して新しいものではなかった「元に戻ろう」そういう呼びかけです。 ヨハネの手紙第I、1:1-4
孤独な人間にとってどうしても必要なのは、交わりなのではないでしょうか。主にお医者さんたちは、忙しくて忙しくて大変です。 アメリカでね、一人の人が病気になると2人の医者がつくようになるんですって。だから高い。日本だったら考えられない話。大体の医者は、病気を大切にするかもしれないけど、病人のために暇がない。悲劇的。 病気よりも大切なのは病人じゃないの。病人は希望を持たなければ、悩みながら喜ぶことができなければ、ちょっとかわいそうなのではないでしょうか。 使徒の働きにでてくる、主の交わりによって救われた人々の交わりのような、真の交わりとは、どんな交わりであるかを知るべきなのではないでしょうか。 ちょっと見てみましょうか。 使徒の働き2:42-47
ここに出てくる信徒たちは、あの五旬節の時救われた人々ですけど、ここで彼らは、使徒たちの教えを解かった、経験して理解したのではなく、守ったと書かれています。 この使徒のいのち、教えとは何なのでしょうか。もちろん使徒が伝えたのは、イエス様の教えでした。ほんとはちょっと違う。教えよりも、イエス様ご自身です。 イエス様の教えは確かに、まともな人間はみな認めざるをえない。最高です。イエス様の教えと比べられるものは、1つもありません。けど、イエス様の教えだって、イエス様の教えによっては誰も救われません。守るものじゃないからです。 イエス様は「たえず喜びなさい」、「はいかしこまりました」そんなもんじゃない。イエス様は「あなたの敵を愛せよ」「はい」やろうと思っても、うまくいきません。 けどもイエス様は、ある人は、頑張って努力すれば、何とかなると思ったことがない。人間なんていくら頑張っても、自分の敵を愛せない。そうすると問題は、人間です。認めたくない。頑張れば何とかなる。したがって聖書の教えとは、守るためよりも、破るために与えられてる。 人間は自分の弱さ、みじめさを認めざるをえないと、助け求めない。守りたい心はあるけど、無理。あなたが助けてくださらなければ。そこまでいけば決まったもんだ。結局、使徒たちは、イエス様の教えを述べ伝えるよりも、イエス様を紹介したんです。 終わりの時代に生きている私たちにどうしても必要なのは、この使徒の教えに確かに留まることです。聖書は何といっているか。我々にとって大切なのはそれだけなのです。 我々人間が何を考えるか、思っているか、感じているかとは別にどうでもいい。聖書は何といっているか。 嘘を知らないイエス様は何を約束したのかという態度をとると、非常に楽になります。 私たちは信徒の交わりを知るべきなのではないでしょうか。使徒の教えが、イエス様ご自身であるなら、信徒の交わりもイエス様との交わりです。 聖書を読むとただひとつの交わりが書かれています。それは父ならびに御子イエスキリストとの交わりです。パウロは、あまり模範的でないコリントにいる兄弟姉妹に書いたのです。 コリント人への手紙第I、1:9
過去形です。けれども彼らはそれを忘れたようです。この御子主イエス様との交わりこそ、信徒の交わりの源です。 私たちは本当に父ならびに御子イエス様との交わりを知っているのでしょうか。この交わりは、表面的な理論によって生まれるものではありません。 この交わりは、教義を同じくするという理由で生まれたり、また会議を通して決議された結果生まれるというものではないのです。この交わりは、いのちと霊の交わりです。この交わりの間には、少しの暗いところも影もあってはなりません。 父ならびに御子イエス様との交わりには、完全な信頼がなければなりません。父は御子であるイエス様を心から信頼され、御自分の御計画を全部教えてくださり、これに委ねられました。全部の計画を少しの不安もなく、委ねることができたのです。 反対にイエス様の父に対する態度も、全く同じでした。イエス様は、父なる神に完全により頼み、少しも疑わず、父の御心を行われました。 あのように驚くべき深い悩みの中にある時も、十字架に向かって歩まれる時も、少しも疑わず、全き信頼を父においておられました。 イエス様と父なる神は、お互いにそんなに信頼しあっておられたので、その間にはいつも絶えざる平安と静けさがあったのです。このお互いの信頼が、交わりです。 この父と御子のすばらしい交わりに、使徒も我々も加わることができるとは、ちょっと考えられない、驚くべきことです。 主は何ゆえに私たちをこの交わりに召してくださったか、知ることができません。ただひとつ解かることは、計り知れない主の愛のゆえであるということです。 イエス様は、この交わりに私たちを招いてくださるために、この地上においでになりました。イエス様が地上におられた時、願っておられることは、第一に弟子たちが、この交わりに入ることができるようなことでした。 私たちは、救われるために救われただけではありません。このすばらしい交わりにあずかるために、救われたのです。 私たちは良心の咎めが消され、救いの確信を得るために召されただけではなく、この交わりにあずかるために召されました。 もし、人が父ならびに御子イエス様との交わりに入りますと、使徒の働きにあります。信徒の交わりに入ったことになるわけです。使徒の働きに出てくる信徒たちは、別に特別な人々ではありませんでした。 使徒たちも同じく特別な人々ではなかったけど、使徒はいかに創られたのでしょうか。使徒はイエス様に選び、特に召された人です。 ちょっとマルコの福音書の3章を見ると解かります。 マルコの福音書3:13-14
とあります。イエス様はこれを見るとわかりますように、使徒たちをまずご自分のみもとにおくために召され、そのあとで、その次に遣わすために召されたことがわかります。 結局イエス様の呼びかけとは、いつも2種類でした。すべて疲れた人、孤独になった人、色々なことで悩んでいる人は、おいで。わたしのところに来なさい。キリスト教に入るんじゃない。教会に行けじゃない。わたしのもとに来なさい。 そして、イエス様のとことに行った人々は、あとで遣わされた。おいで、おいで、出て行け。全世界に行って福音を述べ伝えなさい。 前にも、あっちこっちでね、ドイツのひとつの歌を紹介したんです。歌ったことがないし、メロディーもわからない。 けどもあの歌を読んでた時、たいへんだと思っちゃった。スイスのひとつの神学校の校長先生の作ったものです。もとは、エレミヤ書の8章20節です。 エレミヤ書8:20
このみことばを元にして作ったんです。紹介します。 「恵みの時は終わりに近づいている。 広い世界に、いまや静かに終わりの日が近づいている。 遠い砂漠の底から、不安な叫びが聞こえてくる。 私たちの真っ暗な夜には、決して光が差し込まない。 私たちを照らす神の恵みなくしては、私たちは苦しみと闇の中、暗い道を生きなければならない。永遠に、永遠に。 あなたたちは歌い、喜びに満ちている。 自分は神の子であるという。 私たちは、死のいけにえであり、恐怖に満ち、ひどい苦しみに満ちている。 あなたがたはなぜ、立ち止まっていて、夜が始まる今、私たちを救おうとしないのか。 あなたがたはなぜ、主なる神がそのひとり子を遣わして、自分たちを愛していることを教えないのか。 あなたたちのおかげで、自分たちはそれを知らずに、希望なく滅びゆくのだ。 自分たちは、死ぬために生まれたのであり、死は永遠から永遠に至る、我々の運命なのだろうか。 私たちには、星が輝かない。約束の光も照らされない。遠くの方で、裁きの雷が聞こえる。 なぜ、なぜ、あなたがたは、急がないのか。 神は、行って全世界に十字架の勝利者を述べ伝えよと言っているのに。 あなたたちは、私たちの哀れな心のために、喜ばしき知らせを持っている。 傷を癒す薬を、苦痛を永遠に癒す薬を持っているのに、なぜ、そんなに長く沈黙しているのですか。 あなたたちの信仰の岩に至る道を示すことばを、私たちに聞かせてください。 私たちの涙をぬぐってください。 私たちが死につくのも、あなた方のせいです。 私たちの罪は悩ませ、夜は近づいています。 私たちは、私たちの魂をサタンの力に与えなければならない。永遠に。永遠に。 遠くの国々から、幾百万という人が、「収穫の主よ、聞きたまえ。」と呼んでいる。 私たち信者に、新しい恵みを与えてください。 私たちの罪を赦してください。 待ち焦がれている魂のところへ、十字架のことばを運ぶものとなさしめたまえ。 彼らが永遠に滅びないように。」 ちょっと大変な歌ですけど、我々のまわりに多くの人々が悩んでいる。だいたいの人々は隠していますけど、人間は悩むものです。もちろん人間は、説教を聴きたくない。励ましてもらいたい。理解してもらいたい。愛されたい。 けど、自分の力では無理。だから、イエス様に頼らなければいけない。 イエス様はどうして、12人の弟子たちを選んだかといいますと、彼らを身近に置くため、彼らと親しい交わりを持つため、その後で、遣わすため。全世界に行ってもらいたい。福音を延べ伝えてもらいたい。 これは当時のイエス様の目的、御心であっただけじゃなくて、この主の思いは変わらない。結局イエス様は、ご自分が永遠の昔から持っておられた父との交わりに、使徒たちも入ることを願われました。 イエス様は今日も全く、当時と同じように、この交わりに私たちがあずかることを、願っておられます。 父ならびに御子イエス様との交わりにあずかることがでるとは、何という幸い、何という特権でありましょうか。この交わりを喜ばずして、他のもので満足することがあっては、残念です。 私たちはイエス様に仕えることが、一番大切であると考えますけど、主の考えは違うでしょうね。イエス様にとっては、まず御自分との交わりを持つように、我々に求めておられます。 人は熱心な働き人ならば、良い働き人だと言いますけど、主の考えは違います。主のために熱心に御奉仕をしますが、主との親しい交わりを持っていない人々がたくさんいますが、これは本当に哀れなことです。 私たちは、弟子と同じようにこの世と罪からのがれるために、選び出されましたが、そればかりではない。父ならびに御子イエス様との交わりにあずかるべく、召された者です。 信徒の交わりは、父ならびに御子イエス様との交わりであり、これは今話したようにいのちと霊の交わりです。 イエス様のからだの交わり、すなわち信徒の間の交わりは霊のまじわりですから、そこには制限がなく、不安がなく、疑いがなく、全き信頼がなければならないはずです。この交わりに私たちは召されたのです。 けれども問題は、どうしてこの交わり、全き信頼に入ることができるかということです。弟子たちも、最初はイエス様と親しい交わりをもっていませんでした。最初はただ、イエス様と係わり合いがあると言った程度でした。 イエス様は弟子たちを召し、彼らは3年半のあいだイエス様と共に生活しました。夜昼いつも一緒でした。 この間イエス様は、ご自分のご目的を弟子たちに明らかにするために、何とかして弟子たちとの親しい交わりに入ろうとなさいました。 イエス様は、彼らを父なる神との交わりに導びこうとなさいましたが、彼らは理解できませんでした。イエス様は、弟子たちと少しの疑いもない、全き信頼をおく交わりに入りたかったんです。 けれども、いざイエス様が深い御心を示そうとなさると、弟子たちは、イエス様を誤解してしまいました。弟子たちは、それだけではなく、お互いの間にも深い交わりを持たなかったんです。ただ係わり合いがあるといった態度でした。 彼らの間には、交わりがなかっただけでなく、時々喧嘩をし、言い争いもあり、イエス様はその仲裁をしなければならないといった有様でした。 12人の弟子は、ユダを除いて、心からイエス様を愛していました。そのために、彼らはすべてを捨ててイエス様に従ったんです。それにもかかわらず、彼らの間には本当の交わりがありませんでした。 お互いに妬み、誤解し、争いました。ヤコブとヨハネは、自分が一番偉くなりたいと思い、他の人々をのけ者にし、2人で相談しました。 ちょっと見て見ましょうか。 マルコの福音書10:35-41
このように、弟子たちの間には本当の交わりがなかったんです。けど、やがて五旬節が来た時、弟子たちは一変に変わりました。この時から彼らは、本当の交わりを持つようになりました。 ペテロが立ち上がった時、皆も他の11人も共に立ち上がったと聖書はいっています。ペテロが立った時、他の者も一緒に立ったんですけど、これは前もって相談していたわけではなかった。自発的に自然にそうなったのです。 12人の使徒はもはや12人の1人びとりではなく、12人がひとつのからだをなしたのです。 五旬節の日の立役者は、なるほど1人だったんですけど、聖書をみるとペテロだけが目立ったわけではなかったことが解かります。 人々は皆を見て驚いたとあります。ペテロの説教を聞いた、証を聞いただけではなくて、皆を見たとあります。 五旬節は、まことの教会の誕生日です。このまことの教会とは、ひとつの宗教団体でもないし、ひとつの組織でもありません。 この時から、信者はもはや1人びとり、ばらばらでなく、イエス様をかしらとする肢体に綴り合わせたのです。 ペテロと他の使徒たちはひとつでした。霊の交わりを持っていました。使徒たちは、お互いに全く信頼し、そこには他の人たちを互いに喧嘩し、疑い、恐れるといったことは、見受けられませんでした。 五旬節の前は、このような交わりは、天の父なる神とイエス様との間にしかなかったんですけど、この五旬節から、多くの人々もこの交わりに入ることになったのです。3,000人の人々がこの交わりに1日であずかったと記されています。 これらの人々は、使徒の教えを守り、信徒の交わりをなしたと書かれています。彼らはイエス様のみことばを、自分たちの生活の基準として受け入れ、自分たちはすでに信徒の交わりにあずかっているとの自覚を持っていました。 この交わりは、外から来るのではなく、内に住んでおられる御霊のゆえに生まれた交わりです。 エペソにいる兄弟姉妹たちとは、確かにパウロの喜びの種でした。彼らにパウロは書いたのです。 エペソ人への手紙4章4節〜6節まで、7回も同じことばがでてきます。すなわち、「ひとつ」ということばです。 エペソ人への手紙4:4-6
これは彼らがひとつになった、すばらしい交わりの源でした。 交わりとは、すべてのものを共有にするということです。初代教会の兄弟姉妹たちはそうでしたね。 前に読みましたが、もう一回読みます。 使徒の働き2:44
とあります。誰も自分の持ち物を主張する者はなく、日々心をひとつにしていたと書かれています。彼らは霊においてひとつであったばかりでなく、家財も願いも心もひとつでした。これこそ信徒の交わりであり、主イエス様とのからだとしてのあるべき姿です。 私たちの一人一人も使徒たちの教えを守り、信徒の交わりをなしたと言える状態になったら、すごいのではないでしょうか。 使徒たちは、イエス様と共に過ごした3年間、この交わり、この本当の交わりを知らずに過ごしていました。これは交わりに入る準備の時でした。 この3年間、実りがない3年間のように見えますけど、この3年の年月の間に、彼らの古い性質は少しづつ取り除かれていったのです。 もし、弟子たちがイエス様に従わず、自分の職を持っていたなら彼らは、信心深い人々として尊敬されながら、生涯を終わったことでしょう。 けれども、イエス様と共に歩んでいた彼らは、自らの姿を教えられ、主のみもとで、本質的に造り変えられていきました。主の光に照らされ、彼らの心の暗い所は、だんだん取り扱われ、明るみに出されてきました。彼らの心に隠された思いが、現わされてきました。 もちろん弟子たちは、他の人々よりは悪い人々ではなかったんですけど、主の光に照らされた時、絶望的な自らの真相を教えられたのです。 イエス様が十字架におかかりになった時、彼らは全く絶望してしまいました。その時彼らは、ばらばらになって逃げたとあります。 交わりの秘密は何処にあるのでしょうかね。前に読みました箇所、もう一回読みます。 ヨハネの手紙第I、1:7
けれども、私たちが今持っている悩みは、光のうちを歩むどころか、光の中に立つことすらできないでいるのではないでしょうか。 イエス様の光に照らされますと、我々の生まれながらのものは、徹底的に駄目であり、役に立たない、汚れたものであることが解かります。もし、イエス様との交わりが正しくなると、お互いの横の交わりも正しくなります。 御霊は我々の上に注がれ、私たちはひとつのからだとなるように、まことのバプテスマを受けます。意味はガラテヤ人への手紙2章20節でしょう。信じる者にとって最も大切な箇所はこのガラテヤ人への手紙2章20節です。 ガラテヤ人への手紙2:20
この事実が土台になって、初めてまことの交わりが生まれてきます。 私たちは、日々この立場をとり、認め、すべてを明け渡す時、御霊は豊かに私たちを満たしてくださり、父ならびに御子イエス様との交わりにあずからせて下さいます。 この交わりは、光の交わりであり、いのちの交わりであり、また愛の交わりです。 もし、この交わりが私たちの中に起きると、主ご自身そこに居ますと呼ばれるほど、主の御栄えを現す我々となることができます。神の家とは、生ける神の教会のことであって、それは真理の柱、真理の基礎なのです。 私たちもこのような、からだなる教会になりたいものです。 私たちを召し、父ならびに御子イエス様との交わりに入れて下さったイエス様に、心から感謝をささげようではないでしょうか。 |