引用聖句:ルカの福音書、10章38節-42節
主イエス様に出会ったローマの兄弟姉妹にパウロは次のように書いたのです。 ローマ人への手紙13:11-14
覚めるべきときがきている、昼間らしく歩みなさい、とイエス様は言われたのです。 また、マルタに向かって、今読まれたように「あなたはいろいろなことを心配して気を遣っています。しかし、どうしても必要なことは僅かです。いや、一つだけです。」、必要であったことは何であったかといいますと、聞く耳を持つことなのではないでしょうか。 または、あんまり忙しくて、主のために忙しいと言ったらいいでしょう。けれどもやっぱり、「イエス様語って。どうすればいいのか分からない。教えてください。」、そういう気持ちが無くなってしまったのです。 そして、先週少し学び始めましたヨハネの黙示録2章に出てくる、エペソにある主の体なる教会に向かって、主は結局同じことを言わざるを得なくなったのです。 ヨハネの黙示録2:4-5
非常に厳しい言葉です。主はエペソにいる人々を心から愛したから、本当のことを言わざるを得なくなったのです。多くの人々は、やっぱり本当のことを言うと「ちょっと、かわいそうじゃないか。」 病人の場合は言わない方が愛じゃないか。けれど、例えば末期の癌になれば本人は分かる。もちろん聞く勇気がない。「残らなくちゃいけない人がかわいそう。」と、思うからです。 もちろん、元気な人はちゃんと分かっている。医者にちゃんと教えられたから。けれどもやっぱり、言える勇気がない。「本人がかわいそうじゃないか。」と思い込んでしまうからです。一つの芝居に過ぎません。 イエス様は「自由になろうと思えば、本当のことを話せ。本当のことを聞くべきである。」、イエス様はだからこそ彼らに本当のことを言われたのであります。 確かにエペソにいる人々とは、主の救いに与る者でした。パウロは彼らに エペソ人への手紙2:8-9
と。 誇ればおしまい。信仰があっても、主は昂ぶる者を退けざるを得ません。 多くの人々はやっぱり、イエス様を信ずれば必ず主は恵んでくださる。導いてくださる。イエス様によって救われてない人は必ず無視されます。主はそういう人々に対して見向きもしない、と。 この考え方は宗教的であるけど、聖書的じゃない。信仰があってもへりくだらなければ、小さくならなければ主は見向きもしない。かえって未信者の側に立つようになる。 彼らは恵みによって、上から与えられた信仰によって救われただけで、自分で頑張ったから、自分で努力したから救われたのではありません。 イエス様の救いとは、人間の働きがなくても、人間のいさおしがなくても、ただで恵みとして主から与えられます。イエス様の救いは悔い改めをするすべての人に、もちろんただで、一つの考えられないすばらしいプレゼントとして与えられます。 けれども、主によって救われた人々とはやっぱり用いられるべきです。だからパウロはエペソにいる人々に、「あなたがたは神の作品であって、良い行ないをするためにイエスにあって救われたのです。」 ただ、「良い行ないをするために救われた。」と、だけ書いてないんです。 今朝もちょっと、まだ若い姉妹、会社行く前にみえたんです。あまり元気じゃない。最近あんまり礼拝に出てない。別に問題がないけど、ちょっと悩んでたんです。 彼女は、「聖書の中で『いつも喜びなさい。』と書いてあるでしょう。私はちょっと出来ない。いったいどういうものか。」 けれど、「あなたはもう少し聖書をちゃんと読んだ方がいいんじゃないか。」、「どうして、書いてあるでしょう。いつも喜びなさい。」 「いいえ、書いてない。」、「いいえ、書いてあります。」、「いいえ、書いてない。」(笑い) 結局、あの姉妹は大切な一つの言葉を忘れたんです。 「いつも主にあって喜びなさい。」これなんです。 自分を見たり、鏡を見て、回りの人々を見てもなかなか喜べない。いつも喜びなさいじゃない。だれもできないよ。よっぽどおかしい人でなければ。 主にあって。意味は結局、自分を見ないで、置かれている環境をそんなに大切にしないで、イエス様から目を離さないで、結局上を仰ぎ見なさい。そうすれば、喜ぶことができる。問題が解決されているからじゃない。 イエス様は忠実だから。イエス様は失敗者を捨てようとしないから。愛し続けてくださるからです。 ここでも主にあって、結局良い行ないをするために造られたとパウロはエペソにいる人々に書いたのです。そして、彼らは本当に主の恵みを感じながら、主を仰ぎ見ながらやっぱり大いに祝福されました。 ヨハネの黙示録の2章に中で、この間もちょっと見ましたけど、いろいろなことが彼らについて書かれています。 たとえば2章の2節、わたしはあなたの行ないを知っている。この行ないとは本当に良かった。非難すべきことがない。わたしはあなたの労苦を知っている。わたしはあなたの忍耐を知っている。わたしはあなたが悪い者たちを我慢することができなかったことを知っている。あなたはわたしの名のために、耐え忍んだことを知っている。あなたは疲れることがなかった云々、と書いてあります。 結局、彼らの態度とは本当にすばらしいものでした。どうして?主に頼ったからです。主にあって可能であったからです。 けども、今読みました2節を見ると、しかしあなたは非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れた、と主は言わなければならなかったのです。 初めの愛を考えると、時間的な経過について考えることができるし、それから、重要さの変化につても考えることができます。 かつては、エペソにいる兄弟姉妹にとって、イエス様に憐れみを与えられ、受け入れられ、解放を与えられ、そして、主に仕える者とされたということは、考えられないほどにすばらしいことでした。 けど、このような恵みに対する驚きは次第に消えてしまいました。従って、初めの愛を失うということは決して愛を捨て去るとということではなく、愛を忘れることです。 私たちはエペソの兄弟姉妹のように、初めの愛を忘れないようにするために、毎日曜日、主の聖餐を守ることにしているのです。 それはもちろん一つの儀式ではない。本当に主の前に静かになり、主は私のような者のために、自分自身を捨ててくださった。私のわがままこそが、イエス様をを十字架に追いやってしまった。 この偉大なる事実について、考えることとはどうしても大切であります。新たに主の苦しみ、主の死、主の恵み、主の愛を思い起こすこととは本当に大切です。 結局、主によって愛されている。愛し続けられていると考えると、どういう問題があっても、大したもんじゃないとわかります。今の問題は永遠に続く問題じゃないよ。一時的に与えられたもので、祈りの材料として与えられているだけです。 苦しむ時はもちろん制限されています。けど、私のような者でさえも主に愛されていると考えると、やっぱり感謝せざるを得ません。どうして愛されているか、だれも分かりません。 いくら考えても、いいところがないからです。パウロは「私の肉のうちに良い者は住んでないことを私は知っている。」だから、悪しかいない。人間はわがままの塊です。けど、それと関係なし。愛されている。 聖日毎に私たちは常に新たに主のこのような恵みに対する感謝の思いを新たにし、心から主に礼拝を捧げようとしています。このことによって初めの愛に留まることができます。 次に大切さの変化にということについても考えるべきです。 かつてはエペソの兄弟姉妹において、主が第一の立場を占めておりました。イエス様のためなら何でもする。イエス様大好き。これこそが彼らの心からの告白でした。 エペソ兄弟姉妹は何に心をかたむけるようになったのでしょうか。多分彼らはそれとは知らずに自分の利益を求める者となり、他の人に良く思われようということに熱中するようになったのではないかと考えられます。 「認めてもらいたい。」と思えばもうすでに主から離れているんじゃないかなあ。大切なのは、「主は喜ぶことができるのでしょうか。主は悲しくなっているのでしょうか。」と絶えず覚えるべき、なのではないでしょうか。 主なる神はイエス様を通して、我々すべてに愛を注いでおられました。けど、我々すべての者から愛を求めておられるのです。私たちが主に対する愛からすべてのことをすることを求めておられます。 しなくちゃいけない、すべきである、じゃなくて、主を愛しているから、ああします、こうします。もしそうでないとき、主は我々の側に立つことができないし、我々の味方となることができないし、結局我々信ずる者に対立するものとなります。 ですから、毎日主に向かって「主よ。あなたは何を考えておられるのでしょうか。私に対して何か、対立すべきものを持っておられるのでしょうか。」と、尋ねることこそが大切です。 けど、主の前に静かな時を毎日持つことをしない人に対しては、主がその人に対して、何か対立すべきものを持っておられるかどうかを明らかになさることができません。 多くの信ずる者が、「主よ。どうしましょうか。」「あなたは何を望んでおられるのでしょうか。」という静かな時を持つことをしないために、主は仕方がなくて、今度はみことばを通してではなく、厳しい試練を通して語らなければなりません。たとえば人生の失敗とか、あるいは、重い病気などを与えざるを得ない。 けど、これらの手段を用いることを無くしては、主は我々に何か対立すべきことがあったとしても、それを我々に伝えることができません。これがなぜ主が我々にいろいろな問題を、悩みを与えてくださるかの、大切の理由であります。 聞く耳がなかったから仕方がなくて、この方法であなたに教えようと思っているよ。今、分からないけど、後になって分かるよ、と主は呼びかけておられます。 初めの愛とはイエス様を中心に置かせます。大切なのは私ではない。御心だけです。そして、このことは我々の過去における一時的なことがらであってはならず、全生涯を貫くことがらでなければならない。 イエス様はペテロのように「あなたはわたしを愛した。過去形を使って愛したの。」と聞いたのではなく、現在形。「あなたは私を愛しているのでしょうか。」と。 多くの結婚が破綻をいたします。それは誰の場合においても、初めの愛が時と共にに冷たくなるからです。もし、その夫が特別の女性をつくることがなくても、すべてが初めの頃からは変わってしまう。 これと同じように愛の破綻が我々とイエス様の間にも起こりうるのです。 初めはイエス様に対するはっきりとした信仰の告白がありました。そして、その後にも道徳的な訓練がなされらり、集会における熱心な奉仕がなされたり、聖書に基づいた証しがなされたりするかも知れないけど、これらすべてのことがらが、イエス様との交わりから生じているということがもっとも大切です。 自分でやろうと思えばもう、的外れです。主が成すことができなければ、結局、祝福がありません。 外面的に見るならば、すべてのことは以前と少しも変わるところがない。けど、何か根本的に変わってくるようになったのです。 ヨハネの黙示録2:5
どこから落ちたかを考えなさい。以前には、主の生き生きとしたご臨在が体験されました。けど、過去において体験されたことは、現在においても体験されなけれなならない。私たちがただ、単に悔い改めをしなければならない、ということを知るだけではもちろん十分じゃない。 大切なのは何から離れて、どこに向かって悔い改めをしなければならないのかを知るべきです。何から離れて、どこへ向かわなければならないかを知るべきです。だから、本当の悔い改めは常に思い起こすということに結びついています。 しかし、回心する時、回心するということが、もし正しい道を示されていなければ、再び迷いの道に陥る危険性があります。 ということは、どこに向かって転落しているかということではなくて、どこから転落をしたのかということです。別の言葉でいうならば、最初の状態を思い出しなさい、ということです。 最初の状態の特徴は、イエス様に対するあの初めの愛ということです。 前に話したように、あのエペソの信ずる者たちは、500万円に相当する魔術の書物をもう捨ててしまったんです。焼き捨てました。命令されたからじゃない。初めの愛の一つの表われとしてそうしたのです。 エペソの集会が変わろうと、変わるまいとそれらのこととは関係なく主は変わらない。パウロは次のように書いたことがあります。 テサロニケ人への手紙第I、5:24
主は変わらない。忠実そのものです。何があっても変わりません。ヨハネの黙示録1章5節に私たちを愛し、キリストは私たちを愛した、という表現が出てきます。 イエス様はたとえ、信ずる者の罪があろうと、不真実があろうとも、主は愛していてくださるのです。 エペソの兄弟姉妹は、それ以降どのように変わろうとも、あの初めに体験した恵みを消し去ることはできない。たとえ自分が忘れ、主イエス様を見上げる信仰が消えうせたとしても、初めの体験は消し去ることができません。5節ですね。 ヨハネの黙示録2:5
と、書かれています。悔い改めがなされて、その後で、悔い改めの実が結ばれるのです。イエス様もよく言われました。悔い改めにふさわしい実を結びなさい。 みなさんよくご存知でしょう。ただ、ごめんなさい。悪かった。それ、単なる言葉であるならば、全く無意味です。実がなければ、結局意味のないことです。 初めの行ないは、初めの愛から生まれたものです。 主は、「あなたがすべてのことを、わたしに対する愛からなしていたあの時の思いを思い起こしなさい。」と言われています。 主は外側だけを見られるお方ではなく、主は人の気持ち、心の奥底、人の動機を見ておられます。 サムエル記第Iの中で次のような箇所があります。 サムエル記第I、16:7
人間として、サウルは確かに背が高くて立派な者でした。けども、主は彼を退けるようになったんです。 なぜならば、正直になろうとしなかったし、少なくても国民の前にやっぱり自分の不従順、自分のわがまま、自分の罪は明るみに出されないようにと必死になって、努力したのであるからです。 ダビデとはサウル王よりも酷い罪を犯してしまったんです。けど、彼はみんな分かってもいいよ。私は駄目。主が憐れんでくださらなければおしまい、ということを分かったから、自分の罪を公に告白したから、大いに祝福されるようになったんです。 サウルはどうして退けられたかと言いますと、頭を下げたくなかったからです。ダビデはどうして失敗しても、大いに用いられたか、と言いますと、へりくだった態度を取ったからです。 すべての行ないの背後に必ず動機があるものです。それで、その動機が大切なんです。人間が何と何をするのか、それ、別にどうでもいい。動機が大切です。 イエス様を愛しているから。イエス様が大好きだから。そういう動機があれば、変に見えても喜んでくださるし、用いてくださるのです。 イエス様の行ないの動機とは、一体何だったかな。明らかに言えます。我々に対する愛です。 エペソ人への手紙5:25
私たちひとりひとりを愛し、私たち エペソ人への手紙5:25
犠牲にしてしまった。 イエス様我々の行ないにおいても、その動機が愛であることを求めておられます。 信仰というのは人と人、また、こころとこころとの間で取り交わされる献身ということです。もし、イエス様に対する熱烈な求めが失われているところでは、人は初めの愛から遠く離れてしまっているのです。 イエス様との交わりは養われなければならない。これはみことばと祈りによって養われるものです。 初め読まれましたルカの福音書でもそうなんですね。一つの実例に過ぎません。 マリアは、すべてに勝ってイエス様を愛しておりました。マルタも、もちろんイエス様を信じましたし、イエス様のために一生懸命働いたんです。ご馳走作ればイエス様喜ぶかなあ。ああ、しましょうか。こう、しましょうか。私はしなければやっぱりだめだと思っちゃたんです。 主の意見を聞いた方が良かったかも知れない。「イエス様、お腹空いてるでしょう。どうしましょう。すぐ作っちゃいましょうか。待ってた方がいいですか。」 イエス様は必ず自分のこと無視して、「待ってて。二人でここに座って。親しく交わりましょうよ。」と思ったに違いない。 彼女はやっぱりイエス様に仕えたい気持ちでいっぱいだったんですけどちょっと、主の目から見ると的外れだった。 マリアは結局、主の足元に座って、「イエス様、話して。聞きたい。」そういう気持ちがあれば主は大いに喜んでくださるのです。マリアは主の足元に座り、イエス様のみことばに耳を傾けたのです。 後で見ると、彼女は値高い香油を、自分のすべてをイエス様に与えました。回りの人々は、「おかしい。もったいない。見て。」と判断しました。イエス様のためだったら、もったいないということはあり得ない、と彼女は確信したのです。 コロサイ人への手紙3章23節に当時の信ずる者に、次のように書いたのであります。 コロサイ人への手紙3:23
目に見える人間に対してではなく コロサイ人への手紙3:23
結局、主に対する愛の表われとしてしなさい。人間が、何と、何をするのかは別にどうでもいい。主に対してするか。これこそが大切です。 初代教会の人々の心構えとは、いったいどういうものだったのでしょうか。コリント人への手紙第IIの5章の9節、短いけど、大切な節であります。 コリント人への手紙第II、5:9
イエス様が喜べば、もうそれでいい。人に誤解されても、憎まれても別に関係ない。 初めの愛とは、二心のないイエス様への愛ということです。 初めの愛とは本当の謙遜でもあります。 初めの愛とはただちに理解できなくても、主に従うことです。 初めの愛のもう一つの表われとは、毎日、イエス様の再臨を待ち望むことです。「イエス様早く会いたいから来てください。」という切なる望みを持つことです。 初めの愛のまた、別の表われとはみことばに対して、無条件服従することです。 理解できないけど、みことばですから喜んで従います。あなたが喜べば喜んでします。この心構えを持つことです。 もちろん、イエス様に対する初めの愛のもう一つの表われとは兄弟姉妹に対して、真心からの愛を持つことでもある。 主を愛しているけど、あの兄弟とできるだけ会いたくない。ああ、もうこの人とは一緒に祈りたくない、と。そういう気持ちならば、ちょっと大問題なんです。 私たちは初めの愛を失ったのでしょうか。もしそうであれば、私たちは命の源へ、立ち返らなければならない。悪魔に勝利を与えさせてはならない。 ミカ書の中で次のような箇所がありますけれども、ミカ書の7章の8節なんです。まあ、よく読む箇所です。非常にすばらしい証しです。 ミカ書7:8
やみの中にすわることとは、もう真っ暗闇です。逃れ道もない。もう、おしまい、と思われるかも知れないけど、それと関係なし。 主が私の光りです。 今、見えない。けども、主は近くにおられ、主は全部ご存知です。 悔い改めて主の許に立ち返る者は、イエス様の許にあって、赦し、救い、力、勝利、新たなる喜びを得ることができます。 主の悔い改めを求める言葉は警告の言葉と結びついていたのですね。ヨハネの黙示録に戻りまして、2章の5節 ヨハネの黙示録2:5
用いられません、という意味です。もし、燭台が取りはずされてしまうならば、教会は真の主の体なるなる教会であることはできません。 集会はそれでもなお、しばらくの間は存続することができるでしょう。けど、本当の集会としての働きはできません。もはや、光を与えるものとは、なり得ないからです。 ラオデキヤの教会の場合は、どういうことであったかといいますと、キリストはその教会のかしらではなかった。普通の会員としても認められなかった。お客様としていやだった。追い出されてしまったんです。 主は教会に追い出されてしまった。けど、主はもう止めます。別のところに行こうを思わなかった。わたしは戸の前に立って叩き続けます。 今日の多くの教会の場合はそうなんです。 みんな、「主よ。主よ。」「イエス様。イエス様。」と言われるかも知れないけど、聞く耳がなければだめ。 「主よ。語って〜。聞いております。従いたい。から。」 「あなたを喜ばせたいけど、どうすれば良いのでしょうか。」 こういう心構えがなければ、人間はいくら、これとあれを熱心にやっても、主は見向きもしない。悔い改めることをしないならばだめ。 主の前に容赦ない自己判断をくだすこと無くしては、回復ということもあり得ない、と主は、はっきり言われたのです。 自分を開け広げて自己判断する者にたいして、悔い改めと恵みが与えられるのです。もし、悔い改めることをしなければ、私たちは主との交わりから捨てられてしまう。 創世記3:24
と、あります。 エデンの園から追放されるということと、燭台を取り除かれるちいうことは同じことです。二つとも主イエス様との交わりから遠ざけらるということになるからです。 けども、ヨハネの黙示録2章の6節から7節を見ると、次のように書かれています。 ヨハネの黙示録2:6-7
とあります。 ニコライ宗を憎んでいる人々が、主からの賞賛を与えられております。初めの愛から離れてしまった兄弟姉妹が、霊的な力と正義とを失ってニコライ宗の教えに捉えられてしまったのです。 前に話したように、ニコライ宗とは、聖職者と平信徒の間に、区別を設けることである。ニコライ派という宗派は後にペルガモの教会において、その教えになって発展してしまったのです。2章の15節を見るとわかります。 ヨハネの黙示録2:15
これはいつの場合も同じことです。初めには悪い習慣として始まり、それが後に悪い教えにまで高められてしまうのです。たとえば、このようなことが、行なわれたのではないかと思われます。 賜物を与えられた兄弟がいて、その兄弟がすべてのことを行ないそのことを通して、一人の兄弟が教会のすべてのことを行なう体制が出来上がるようになったと思われます。 そして、この体制が一つの慣習として、教会の中に根を下ろしたのではないかと思われます。 何かの必要が生じてきて、一人の兄弟がすべてのことを行なわなければならない事態が起こってきたということが考えられます。 そしてその結果、他の兄弟たちはそのような状態に満足するようになり、もはや、他の兄弟にも奉仕の機会を与えられることを、主に願うことをしなくなったのではないかということです。 後に、たとえばドイツの宗教改革者であるマルチン・ルターがこのような一人の兄弟がすべてを支配する教会の体制を打破しようと試みました。 結果は成功しなかったのです。カソリックの教会じゃなくて、プロテスタントの教会になったしまったのです。 主は耳のある者は、「御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」と言っておられます。御霊の声を聞き分けるためには、主が信ずる者に与えられる耳を持つことが必要です。聞く耳を開かれている者にのみ、御霊が語っておられることがわかるようになります。 ヨハネの黙示録2:11
パウロはあるとき、コリントにいる人々に書いたのです。生まれながらの人は御霊の語ることを聞くことはない。聞いてきません、と言ったのです。 生まれながらの人間は主の御霊に属することを受け入れられません。できないからです。 主は今もなお、我々にみことばを通して語ろうとされています。主のみことばだけが、我々の行ないの基準となるべきです。決して、我々の語ること、あるいは教会の考えることが基準となるべきではない。愛のない、また悔い改めのない教会が捨てられます。従って、教会が基準となることは決してできません。 主のみことばだけが基準となることが大切です。なぜなら、主のみことばだけが変わらないから。天と地はいつか滅び去ります。わたしの言葉は永遠に残る、とイエス様は言われたのです。 最後の7節において、私たちは、「勝利を得る者」という言葉を読むことができます。勝利を得る者が、約束を得ると書かれています。集会の全体に対するものではなくて、ここで語られている、「勝利を得る者」という言葉は、個々の信者に向かって語られています。 勝利を得る者という言葉は、外的に、また内的な戦いにおいて、勝利を得るということです。勝利を得る者に、私たちに、主のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう、と書かれてあります。 食べるということは、交わりの証拠です。例えば、創世記2章9節に次のように書かれています。 創世記2:9
と、書かれています。そして、後でも、3章の中でも書かれていますけど、 創世記3:22,24
云々と書かれています。 エデンの園における生活、そして、この実を味わうということは、主との交わりを表わしているのです。けど、主との交わりを失うことによって、人はエデンの園から追放されてしまったのです。 主との交わりは、エペソの兄弟姉妹にとっては隠すことのできない点でした。主は彼らに向かって、「あなたがたが、昔の交わりを回復することがなければ、あなたがたを、そのところから追い出してしまう、と言っておられたのです。 けど、エペソの信者たちにとっては、7節において、主との交わりの回復が約束されたのです。今までのことは忘れて、今から親しく交わりましょうよ。これは絶えず、主の切なる願いです。 初めての人間であるアダムは、主に対して、罪を犯し、犯すことによって、いのちの木の実を、取って食べる権利を失ってしまったのです。 いのちの木については、ヨハネの黙示録の22章におきまして、3回、その言葉が出てきております。22章の2節、14節、19節です。 新約聖書で木、あるいは十字架と訳されている言葉は、ギリシャ語の原語を見ると、同じ言葉です。 使徒の働き5:30
と、あります。別の箇所を見ると、 使徒の働き10:39
と、なっているんです。また、別の箇所。 使徒の働き13:29
また、ガラテヤ人への手紙の中で、 ガラテヤ人への手紙3:13
ある箇所で十字架と書いてあるし、別の箇所で木と書いているんです。原語を見ると同じです。もちろん、十字架は、木でできているもので、あるからでしょう。 大切なのはイエス様はご自分のいのちを捧げてくださった。自分の捧げられたいのちを通して、自分の愛を、明らかにした、ということです。 ペテロは、 ペテロの手紙第I、2:24
こういう箇所において、木と言われているところを十字架に言い換えることもでき、十字架と書かれているところを、木と言い換えることもできます。 イエス様の十字架の死、あるいは木につけられた、の死を通してすべの人が、永遠のいのちを得ることができるようになりました。 イエス様ご自身が、いのちの木そのものです。イエス様が魂のふるさと、ふるさとへの帰り道を備えてくださったのです。イエス様を通して、天国の父への道が開かれたのです。 前に読みましたこのヨハネの黙示録2章は、もちろん、主の恵みによって、信仰によって救われ、イエス様のために生きたい切に望むようになった人々に書かれたものです。 けども、それだけではなく、堕落した信者に向かっても語られたものです。堕ちた、堕落した。結局、主から離れてしまったことを意味します。 イエス様がこの言葉を用いているのは、初めの愛から転落することが、いかに大きな問題であるかを、示すために用いられたのです。もっとも大切なことは、主イエス様に対する純真な愛、そのものです。その他のすべてのことがらは、第二次的意味しか持たないものです。 よく引用されるコリント人への手紙第Iの中で13章ですか、 コリント人への手紙第I、13:3
結局、イエス様に対する個人的な愛がなければ、いかなる熱心も、いかなる奉仕も、何の役にも立たない。だからパウロは、 コリント人への手紙第I、16:22
と書いたのです。 イエス様は我々に対して、「あなたは、わたしを愛するか。」と聞いておられます。私たちは、「主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存知です。」と言うことができるのでありましょうか。 初めの愛を持たない信者は、火の消えた灯火のようなものです。このような人は、主のために価値もなく、何の役にも立たないのです。もっとも大切なのは、主の前でマリアのように静まることです。 イエス様の許で、静かな時間を持つことによって、我々に新たな愛が回復せられ、主との交わりが、我々の新しい喜びとなります。 ですからイエス様との交わりの時を、持つようにしてください。イエス様に語ってもらう時を、持ってください。イエス様に自分の恥を見るようにしてもらってください。 そうすることによって、新しく主の恵みを、驚くほどに得る者となり、主を心から礼拝するようになることができます。 |