引用聖句:歴代誌第I、22章9節-13節
歴代誌第I、22:19
ペテロの手紙第I、2:4-5
ヘブル人への手紙3:6
今日、教会、すなわちイエス様のからだなる教会について、少し一緒に考えてみたいと思います。なぜかと言いますと、これは今日の時代で、最も大切なメッセージであるからです。 この教会は、イエス様のからだ、主なる神の霊的な宮を、私たちはあらゆる方面から考えるべきなのではないかと思います。一番大切な方面というのは、昇天された、高く引き上げられたイエス様です。 イエス様は、最後の権威と栄光を持っておられます。神の宮の目的は、このイエス様の最後の権威と栄光を表すことです。イエス様の高く上げられたことは、ご自分のからだこそが、我々にとっても大切でなければなりません。 今、読んでもらいました旧約聖書の聖句は、はっきりとしたこの事実を、預言されています。 ダビデは、たくさんの子供を持っていましたけど、一番大事な子は、ソロモンでした。主は、ダビデの跡継ぎとして、このソロモンを選んだのです。 ある日、アドニヤという人が、王様の跡継ぎになりたかったんです。陰謀をめぐらしました。けど、ソロモンはすぐ、主の選ばれた者として認められたので、アドニヤの努力はダメになってしまいました。 主イエス様の場合も同じでした。悪魔は、力を尽くして世界の支配のために努力しましたけど、突然、昇天によってイエス様は選ばれたお方であることが明らかにされたのです。 ソロモンが建てた宮は、王様としての上げられたことの結果でした。彼は、主の与えられた王位を持っていた時、宮も建てられました。この王様について、話したことは全部すばらしく、また彼の富、彼の力と栄光を物語っています。 そして、この建てられた宮は、王様の栄光のシンボルでした。ですから宮はとてもすばらしい建物でした。 旧約聖書のソロモンの宮は、新約聖書の霊の宮のシンボルです。すべて私たち信者は、ペテロの手紙第I、2章5節のように、それぞれ生ける石となって、霊の宮に築き上げられたのであります。 あらゆることの初めは、イエス様の高く引き上げられたことでした。教会の初めは、高められたイエス様です。 教会は、イエス様の高く上げられたことの後でした。初代教会のあらゆることの初めは、高められたイエス様でした。したがって、初代教会は、イエス様の栄光を現して、悪霊でさえも非常に深い印象を与えたのです。 イエス様の高められたことは事実です。けどこの事実は、我々に影響を及ぼさなければなりません。 というのは、イエス様は我々の主、我々の支配者にならなければならないからです。ソロモンの場合はそうでした。 歴代誌第I、29:24
父なる神の手で行われたことは、我々の心の内にも起こるはずです。 すなわち、ピリピ人への手紙2章9節を見ると次のように書いてあります。 ピリピ人への手紙2:9-11
父なる神は、イエス様を死人の中からよみがえらせ、ご自分の右の座につかせたのです。 天に現実となったイエス様の支配下は、我々の生活においても、現実とならなければなりません。そうしたら初めて、私たちは、祝福の満たしを経験できるのです。 もし、イエス様が我々の救い主だけであるならば、祝福の満たしを経験できません。祝福の満たしへの道は、イエス様の絶対的な支配です。ですから悪魔はいつも、この主イエス様の絶対的な支配を、妨害しようと努めています。 「あなたたちは、神の支配のもとにすべてを失うでしょう。神の支配のもとに、あなたたちはいつまでも、神に左右されて、正義のある有限の自由だけを持っている」と、何と多くの人々は、この悪魔の嘘に従うことによって、満たしを失ったんでしょう。 イエス様の絶対的な支配のもとに、充足していることによってのみ、満たしがあります。したがって、高められたイエス様が、我々の支配者になることを悪魔は大嫌いです。 誰が世界の支配者となるのでしょうか。主なる神でしょうか、それとも偽キリストなのでしょうか。世界の支配が問題です。それは恐るべき戦いです。 世界の歴史は、誰が支配者になるこの闘争を繰り返してきました。主なる神が支配者となるのでしょうか、それとも悪魔が支配者となるのでしょうか。この両者とも歴史の完全なる支配を得ようと努めています。 悪魔は世界の支配を、嘘によって得ようと努力しています。だから私たちでさえも、次のように言わざるをえません。 「どなたを信用することができるのでしょうか。誰が真理を言うのでしょうか。どなたを信じることができるのでしょうか。」という質問が出てきます。 これは悪魔の働きです。イエス様の絶対的な支配のもとに、充足しているのは奴隷の惨めな生活ではなく、勝利と栄光と満たしを意味しています。これは事実です。 前に読みました箇所、もう一回読みます。「すべてのつかさたち、勇士たち、および、ダビデ王のすべての子たちまでも、ソロモン王に服した。」とあります。 その時初めて、大きな満たしが現されたのです。 けれども旧約時代は、この事実を力説するばかりでなく、新約聖書もこれをはっきりと言っています。五旬節の後、初代教会は、大きな自由、富、栄光、力、満たしを確かに持っていました。 なぜかというと、初代教会の信者たちはみんなが、高められたイエス様にもとづいて、すべての奉仕の秘密は、高められたイエス様でした。あらゆる祝福、あらゆる満たしは、イエス様の絶対的な支配であります。 そして旧約聖書の歴史は、この事実を証明しています。 個人個人の生活にこの事実が見られます。イエス様は、主、支配するお方でなければ、それは我々の困難、霊的な弱さと失敗の源です。 イエス様は、我々の救い主であることは、本当にすばらしい現実です。 けどもイエス様は、救い主ばかりでなく、我々の主とならなければなりません。そうしたら、初めてあふれるばかりの恵みを経験します。 私たちは自分の心の内がいつも元気で、喜ぶことができる。 見てやってください。もしかすると、一つの妨げているものを持っているかもしれない。この問題を持って、イエス様の御前に出ましょう。主の足元に従わせましょう。そうすると、あふれるばかりの祝福を与えてくださいます。 イエス様の支配について考えると、当たり前ですけど、同時に十字架についても、考えなければならない。私たちイエス様を信じる者は、コリント人への手紙第I、3章16節のように、「神の宮である」と書いてあります。 神の宮の目的というのは、高められたイエス様の栄光を、またイエス様の最高の権威を現すことです。またこの栄光と権威を述べ伝えることです。 高められたイエス様は、我々の喜びとなるはずです。 十字架の意味と目的は同じです。十字架もイエス様の栄光と最後の権威を現しています。 今日、読む暇はないけど、家でヨシュア記24章を全部お読みになってください。このヨシュア記24章を見ると、ヨシュアはイスラエルの民に、言われたのです。 「アブラハムの父は昔、エフラテ川の向こうに住み、みな他の神々に仕えていたが、私はあなたがたの先祖アブラハムを川の向こうから連れ出して、他の神々から連れ出して、カナの全地を導き通りました。 その次、あなたがたの先祖たちは、エジプトへ行って、あそこでエジプトの神々に仕えていった。しかし、しばらくの間、あなたたちの先祖は、川の向こうから連れ出して、主に仕えてきました。」 このヨシュア記24章を見ると、いつも同じ言葉を繰り返してきます。すなわち、他の神々と主との間は川でした。 ヨシュアは、イスラエルの民に真剣に聞きました。「あなたたちは、川によって、他の神々から離れて、主にだけ仕えたいと思いませんか。」他の神々と川は、いつも関係があったんです。 けれども、川とは十字架のシンボルです。川と同じく、十字架も他の神々との関係を持っています。十字架は、他の神々、他の主となるものの他の礼拝を無にします。十字架は、イエス様との栄光と最後の権威を現しているのです。 イエス様は、高められたお方です。 本当は、我々の兄弟として高められました。前に読みました箇所もう一回読みます。 歴代誌第I、28:5
そして後で、ソロモンは王になった時書いてますね。 歴代誌第I、29:24
ソロモンの兄弟たちみんなが、ソロモンを王様として認めるようになりました。 イエス様の高められたことについて、もう一つの旧約聖書のシンボルを見てみましょうか。サムエル記第IIを見ると、アブシャロムはダビデ王を妨害して、民に大きな約束をしましたが、しばらくの間民は大変苦しんで、最後にアブシャロムは殺されたんです。 民はその時、助け人を持たない、世話する者のない、導く者のない哀れな人々でした。この絶望的な状態からの逃れ道というのは、欺かれたダビデ王を導かれることでした。サムエル記第II、19章9節〜15節まで読むと解かります。 ダビデ王は、民に「あなたがたは私の兄弟、私の血肉です」と言いました。 同じように、イエス様は、「あなたがたは、わたしの兄弟、わたしの血肉です」と言っておられます。 父なる神は、我々の兄弟を高く引き上げ、すべての名にまさる名をイエス様に賜ったのです。 私たちの兄弟は、生きておられる神の御子であられる主イエス様です。御子イエス様は、多くの兄弟の中で、長子となっていますから、多くの子らを栄光に導かれるのです。 ローマ人への手紙8章29節、またヘブル人への手紙2章11節を見るとこの事実が明らかになります。 イエス様が高く引き上げられたことは、家族全部を高く引き上げられるはずです。もし、私たちがイエス様、すなわち我々の兄弟、我々の代表者の高きであられたことを認めなければ、満たしを決して経験することはできません。 イエス様の高く引き上げられたことが、問題ばかりでなく、我々も高く引き上げられることも問題です。 けど、私たちは高められたイエス様を、支配者として受け入れて初めて、イエス様の満たし、イエス様の勝利、イエス様の栄光が現れるのです。 高められたイエス様は、我々の兄弟です。私たちは、同じいのちを持って、内面的、霊的な統一があるのです。 高く引き上げられたイエス様との交わりは、悪魔に対する勝利を意味しています。イエス様は、我々の小さな生活の内に、同じく高く引き上げられると、悪魔は捨て鉢になります。 そういうことを考えると、未来に対する熱心さ、規律の必要性が解かるんじゃないでしょうか。 主の御心は、救われた罪人の群衆、集合ではない。イエス様の満たしを現す統一です。 主の御心は、聖徒たちの群衆ではなく、息子すなわちイエス様のためにいいなずけが欲しいのです。 主の御心は、多数の生き生きとした意思ではなく、主にある聖なる宮、また霊なる神の住まいが問題なんです。 神の宮である霊なる神の住まいの目的は、イエス様の最後の栄光、権威を現すことです。 しかし、この完全を現すことは、未来の問題です。これを解かるのに、ヘブル人への手紙を見ると次のように書かれています。 ヘブル人への手紙3:6
ヘブル人への手紙12:5、9
旧約聖書に出てくるエサウについて書いてあります。 彼はイサクの子供でした。彼は長子の権利を持っていました。またこの長子の権利を軽んじ、パンとレンズ豆でこれを売っちゃったんです。 後になって、長子の権利を求めましたが、もう与えられなかったのです。彼は、あくまでイサクの子供でしたが、長子の権利を失ってしまいました。イスラエルの民の失敗は、私たちのために将来の見せしめとして書かれています。 イスラエルの民はみな、エジプトから出る時、小羊の血を受けました。新約聖書で言えば、これはイスラエルの民全部が信者でした。 またイスラエルの民全部が、カナンの地に入りたかったんですけど、二人だけが約束された地に入ることができました。残りの人々はみな、荒野で滅んでしまいました。 イスラエルの民は、主の訓練を軽んじました。彼らは子たる身分、すなわち息子の立場を得なかったのです。これらの人たちは、聖霊によって、コリント人への手紙、またヘブル人への手紙に警戒の呼び声として語りかけています。 ヘブル人への手紙3:6
「もし・・・・・なら」これは何を意味しているのでしょうか。すなわち私たちは、成人した息子、娘とならなければならないということです。 息子の立場の満たしは、主の家の栄光を現しています。一口で言えば、天において現実となったイエス様の支配は、我々の生活においても、現実とならなければなりません。 あらゆる問題、苦しみと困難は、何を意味しているのでしょうか。これらは主の訓練です。 主は愛する者を訓練し、受け入れるすべての子を鞭打たれるのです。なぜならば、コロサイ人への手紙1章18節を見ると次のように書かれています。非常に大切な箇所です。「イエスキリストがすべてのことにおいて、第一のものとなられたのです。」 イエス様は、愛する者を訓練し、受け入れるすべての子を鞭打たれると書いてあります。 この鞭打たれるという意味は、決して決して刑罰を受けるというようなことではなく、子供の教育を意味しています。 主は、ご自分の子供に刑罰を与えません。しかし大きな愛を持って、教育されます。けど悪魔はいつも、刑罰する、罰すると曲解させます。 主はただ一つの目的を持っておられます。イエス様は、我々の生活において、第一のものとなるという目的を持っておられます。 私たちはこれにまだ達しませんけど、主の御心です。 成長が問題です。成長するために、子供の教育が必要です。主は愛する者を訓練し、受け入れるすべての子を鞭打たれるのです。成熟した息子だけが、父の遺産を受け継ぎ、父の名誉と責任を取ることができます。 同じように成熟したキリスト者だけが、すなわちイエス様を主として、支配するお方として受け入れた人々だけが、イエス様と共に遺産を受け継ぎ、冠をいただく、イエス様の座につくことができ、豊かな報いを受けます。 そのために、子供教育がどうしても必要です。主の訓練を軽んじてはいけません。 ここで「もし・・・・なら」とありますね。「もし・・・・なら、私たちは神の家なのである」必要条件を満たさなければならないのです。すなわち子供教育が必要です。父なる神の天において行われたことは、我々の心の内に起こるはずです。 すなわち、主なる神は、イエス様を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜ったのです。 それはイエス様の御名によって、天上のもの地上のもの地下のものなどあらゆるものがひざをかがめ、またあらゆる舌が「主イエスこそ主である」と告白して栄光を父なる神に帰するためです。 父なる神は、イエス様を死人の中からよみがえらせ、御自分の右の座につかせたのです。天において現実となった、イエス様の支配は、我々の生活においても現実とならなければなりません。 そうしたら初めて私たちは、祝福の満たしを経験し、霊なる神の住まいとして、御自分の最後の権威と栄光を現すことができるのです。 もし私たちが、イエス様を受け入れたなら、その次に自分の力で生きるか、主の力で生きるかが問題です。 主にだけ頼り、自分たちだけで独立しないことが、主の栄光を現す道です。 もし私たちがイエス様をのけ者にして、一人で何かをやるなら、それはイエス様の恥となります。 私たちは、自分が支配者でありたいのでしょうか。もしそうだったら、私たちには、実、祝福、喜び、満足が与えられることはありえないのです。 私たちは、イエス様にだけ頼ろうとしないでしょうか。もしそうなら、私たちは自分で、何かの役割を演じることはできません。 けど、カナの婚礼の時のように、イエス様はご自分の栄光を現されるに違いない。主の栄光が現れることこそが、一番大切なのではないでしょうか。 もし、イエス様のご栄光が現れたら、私たちは変わることのない喜びとイエス様ご自身の平安を得、私たちのからだから生けるいのちの水が流れ出るに違いない。 私の悩みの種は、イエス様にとって、からだなる教会は、いかに大切なのかと解かっていない人が多いということです。 イエス様は、「わたしは、わたしの教会を建てる」と約束してくださいました。だからこそ、すべてをめちゃくちゃにする悪魔は、信じる者は、このからだなる教会の大切さを知らないように、昼夜攻撃し、めくらにしようと思っています。 そして、ある程度まで成功したように見えます。けれども、この勝利は偽ものです。 イエス様は、自分で自分の教会を建てると言われました。自分のからだなる教会のかしらとは、もちろんイエス様ご自身です。 正月の時だったですかね。ある兄弟は言いました。 「今年こそ、希望の年です。再臨を待ちましょうよ。それから、今年こそ悪魔との戦いの年です。主のからだなる教会は、主にとってすべてです。」と。 我々にとって、最も大切な箇所の一つは、コリント人への手紙第I、12章27節じゃないかと思います。 コリントにいる人々に書かれたことばです。コリントの教会は、決して模範的なものではなかった。本当はめちゃくちゃな教会でした。 だから彼らは、このことばが必要だったに違いない。 コリント人への手紙第I、12:27
上からの光に照らされて、すなわち上からの啓示によって、この真理を心の目で見ることができれば、本当に幸いです。それによってすべての疑問、また疑いが飛んで行ってしまいます。 イエス様は、ご自分のからだなる教会のかしらです。イエス様は、「わたしは、わたしの教会を建てる」と約束してくださいました。 だからこそ悪魔は、我々もからだなる教会の大切さを知らないように攻撃します。最後に、同じ箇所もう一回読みます。 コリント人への手紙第I、12:27
本当に上からの光に照らされて、すなわち上からの啓示によって、この真理を心のまなこで見ることができれば幸いと思います。 それによって、主は大いに祝福することができるに違いない。 |