引用聖句:出エジプト記2章23節-25節、3章1節-17節
今日も、前二回に引き続き「わが僕モーセ」というタイトルで、モーセの生涯を学んでみたいと思います。 モーセは本当に主に仕える者でした。聖書の中で、何回も何回も主に仕えなさいと命令されています。 パウロも同じことを、信じる者に何回も何回も勧めたのです。 エペソ人への手紙4:1
救われることは結構ですけど、十分じゃない。その召しにふさわしく歩みなさい。 エペソ人への手紙1:18
パウロはほんとうに救われた人々のために祈り続けました。 テサロニケ人への手紙第II、1:11-12
結局、信じる者の成長こそがパウロの重荷でした。もう一箇所、今度はペテロの手紙です。 ペテロの手紙第II、1:10-11
新約聖書の手紙は結局イエス様を紹介するよりも、信ずる者の成長のために書かれた者です。結局忠実なる僕のモーセのように主に仕えなさい。 今まで学んだことは、モーセは上からの光によってエジプトを去り、心のエジプトから解放され、荒野で40年教育されてから、主はご自身のご奉仕にモーセを召したのです。 このモーセの召しの体験は、もちろん全く個人的な体験でした。主は、モーセに親しく個人的にお会いになったのです。 私たちも、失われていく魂に対する深い同情を持っているから奉仕するだけではなくありません。 まことの奉仕は同情心からだけ起こるものではなく、主なる神ご自身が個人的にその人にお会いになって召した時に、その人は初めて主の僕となり、主に召された人となる。聖書はそう言っているのです。 主はモーセのためにモーセを召したのではない。主はご自身の民を解放するために用いる道具としてモーセを召したのです。主は召し賜うなら主の道具として召して下さるのです。けど道具とはどういう物なのでしょうか。 たとえばギデオンも主の僕であり主の用いられた道具でした。 士師記6:34
「主の霊がギデオンをおおった」と書いてあります。原語では、主の霊がギデオンを着たという意味になっています。すなわち主の霊がギデオンの中に充ち満ち、ギデオンはただ主の霊を包む着物のようになったという意味です。 まことの主の僕は、ギデオンと同じように聖霊を包む着物のような者です。それに比べると私たちは何とかけ離れたところにいることでしょう。 道具はそこにあるだけではなく、用いられなければ役に立ちません。 燃える柴を、主の火を見て召し出されました。ここでいう神の火は言うまでもなく聖霊を意味しているのです。 主によって聖霊によって召し出された主の僕は、ギデオンがそうであったように、聖霊の着物に過ぎず、聖霊が満たす器に過ぎません。 ですから神の僕は聖霊に満たされていなければ何の役にも立たない着物や器に過ぎないのです。ギデオンやモーセのように、主の霊により満たされた器となりたいものです。 イザヤ書6:8
パウロはガラテヤ地方にいる兄弟姉妹に次のように書きました。 ガラテヤ人への手紙3:27
モーセは神の炎により召されたが、今日は主の炎による召し、聖霊による召しについて少しだけ考えたいと思います。 モーセの召された召しの後ろには、二つの見逃すことのできない理由がありました。 その一つはイスラエルの民がうめき叫び悩み、その苦しみが主の耳に届いたとあります。2番目には、昔、主がアブラハムに約束された約束が成就されなければならないという理由があったのです。 モーセが召されたときは、エジプトで教育を受け、言葉にも技にも力のあった偉大なモーセではありませんでした。 モーセが主の霊によって召されたときには、ただの羊飼いに過ぎなかったのです。 主は、偉大な人や、自分で何かできると思っている人を用いようとしません。荒野に生えている目立たない柴のようなへりくだった人を召して下さるのです。 目立たない荒野の柴は、ホレブの山の上で神の火によって盛んに燃やされました。荒野の柴のようなへりくだった目立たない羊飼いのモーセは、主に火によって燃やされました。 モーセが主の火によって召し出されたとき、すでに彼の全生涯の3分の2、80年が過ぎ去っていました。 モーセは、80年は全く無駄であったと考えていたかも知れませんが、主の目からは無駄がありません。 モーセがそれまでに過ごした80年は何のために必要だったのでしょうか。モーセが空っぽの器となるために必要でした。 燃える柴は、モーセが主に見捨てられなかったというしるしです。 主は、柴の中からモーセを呼んで、「モーセよモーセよ。」と親しく個人的にモーセに呼びかけ、モーセを今まで見放しておられなかったことを明らかにされました。出エジプト記の3章14節です。 出エジプト記3:14
「わたしは、『わたしはある。』という者である。」とありますが、主はモーセにありてある者というご自身の姿をお示しになりました。 モーセは主に出会ったこの日は普通の日でした。羊の群れをその日も荒野に奥に導いて、主の山ホレブに来たところが、主の召しがそこに待っていたのです。 これでもわかるように主の召しは、人の努力では与えられません。一方的に主のなさる業です。 モーセが出会った神の炎はいったいどういうものだったでしょうか。 まず1番目は、生きている炎でした。 2番目は、主によってつけられた炎でした。 3番目は、盛んに燃え上がる炎でした。 4番目は、燃え尽きない炎でした。 5番目は、聖なる炎でした。 6番目は、預言の炎でした。 まず、生きている炎について、ちょっとだけ考えてみたいと思います。 モーセは柴を見ていますと、柴は火に燃えているのに、その柴はなくなりませんでした。盛んに燃え続けていました。 これは主なる神の本質を現しています。わたしは、「わたしはある。」、永遠から永遠に生きた神が燃える柴に現われたのです。 もし、モーセと同じように生きている炎によって召し出された者なら、私たちの証しも永遠に生きて留まる証しとなるはずです。 もし、主の霊によって私たちが生かされているなら、人々が私たちのところに引き寄せられ、私たちのうちに生ける主を見るでしょう。 これに対して、人々がもし私たちの所に来て失望してしまうなら、私たちのうちに神の霊が来ていないのであり、私たちはモーセやギデオンのような神の僕であり得ないのです。 バプテスマのヨハネは、やはり主の僕でした。彼は自らを荒野で呼ばわる声であると証ししました。 彼は、自らを人に現そうとしなかったのです。ただの声でした。主の声でした。 ヨハネが叫んだとき、多くの人々が主の御許に立ち返っていたではありませんか。 もし、私たちも主の僕になりたいなら、ただの声にならなければいけません。まことの主の僕は、いつも行き賜う主に仕える特権を喜んで、奉仕しています。喜んで自発的に主に仕える僕達こそが捜し求められています。 聖霊に満たされたヨハネは絶えず、私は大切ではない、無視されても殺されても結構ですという態度をとったから用いられました。 主の炎はどういう炎だったでしょう。生きている炎でした。 第2番目、主によってつけられた炎であります。 主の山ホレブに燃えさかった火は、人間がつけたのではありません。主ご自身自らつけられた火でした。 旧約聖書の神の住まいである幕屋に灯された神の火も、人間がつけのではありませでした。主なる神ご自身が上から下した火だったのであります。 私たちイエス様によって救われた者は、聖霊の宮と呼ばれています。私たちも上から火を灯されなければいけません。 イエス様は、わたしは地上に火を投じるために来たと仰せになりました。けどイエス様は、地上に火を投じる前に、自ら死を通らなければならなかったのです。 モーセも、主の火によって召し出される前に、荒野で40年間死の訓練を受けました。そしてモーセのこの日の体験は、続いていく奉仕の源でした。私たちの奉仕の源はどこにあるのでしょうか。私たちは主によって火をつけられた器なのでしょうか。 詩篇104:4
生ける主のまことの僕は、聖霊によって火をつけられた者です。 アロンの二人の息子は、主の異なったに火をたいて殺されてしまいました。同じように私たちも、生まれながらの賜物で、自分の力で奉仕をしようとするなら、結果は、永遠の実が残らないことになります。 私たちの奉仕はいつも聖霊に導かれ、聖霊の満たしのうちに行われるようになりたいものです。 モーセが出会った神の炎はどういうものだったでしょうか。生きている炎でした。主によってつけられた炎でした。第3番目、盛んに燃え上がる炎だったのであります。モーセが見た柴の炎は、盛んに燃え上がっている炎でした。 柴は皆、燃えさかっていました。全く失望し、自らの内に何の良きものないことを見いだし、空っぽになり畑になったモーセに、主は盛んに燃える炎の内に現われたのです。私たちの全生涯も盛んに燃えて燃え尽きない炎となりたいのではないででしょうか。 そうするために、まず燃える炎のうちに自らを現し賜う主にお会いしなければなりません。主の僕は、この燃えさかる炎がどうしても必要です。悪魔は、そのようなことは起こらないと惑わします。 神の山ホレブの柴は盛んに燃えましたが、その時、主の御心も主の民イスラエルのために燃えさかっていたのであります。 主は、他の民も御心に留めておられましたが、特にイスラエルの民を祝福しよう、用いようと切なる気持ちを持っていたのです。ヨシュアは、イスラエルの民のために用いられたのであります。 主は、その時、ちょっと考えられないけど事実です。太陽の運行もお止めになることを経験したのです。 ヨシュアは、イスラエルの民のためなら主は、太陽の運航をお止めになると経験したから、結局、主にとって不可能なことはありませんと確信しました。 燃えて輝く炎は、聖霊をもって主が私たちを満たしたいということを表しています。 私たちは、全世界に一人しか居ない人のように、主は心を一人一人に集中して愛しておられるのです。 モーセが出会った神の炎は、どういうものだったでしょうか。生きている炎、神によってつけられた炎、盛んに燃え上がる炎でした。第4番目、燃え尽きない炎だったのであります。 この燃えて尽きない炎は、私たちに何を教えているのでしょうか。この炎は、私たちの神が「望みの神」であることを物語っています。 モーセに生きていたより500年前に、主はすでにアブラハムにカナンの地を与えるという契約を結んでおられました。それから500年たった今、主はモーセを用いて、この契約を実現しようとしておられたのです。 エジプトの王宮にいたモーセは、それをもちろん知りました。けれどもモーセは、この主の大事業を成し遂げるために、40年の間待たなければならなかったのです。 その間、モーセは疑いもし、失望もしたことでした。 けれども今、モーセは主の山ホレブで、燃えて尽きない神の炎を目の当たりに見て、主は望みの神であるということを新しく確信するようになったのです。 モーセの時代には、主はご自分の民イスラエルの民にのみ御心の全部を傾けておられましたが、今は違います。 主は今、全世界のあらゆる国民から、救われて主に付き従う人々を選び出し、それらの人々に御心の全部を傾けておられます。 そして主は最後の目的として、これらの選民によって、全宇宙が支配されることを望んでおられるのです。これらの選民を通して、ご自身の栄光を全宇宙に現したいと聖書は言っているのです。 主は、この目的を捨てることを決してなさいません。必ず達成されます。 モーセを召し出されたときに、燃えて尽きなかった炎のように、主の目的は、あきらめることを知らず、望みに燃えて、目的に進んでいるのです。 主は、ご自身の目的を成し遂げないではおられません。何があっても燃えて尽きない炎のように、ご目的を最後まで成就されます。 私たちは主に召されました。だから主は、私たちを悔いることを決して致しません。 パウロはローマ人への手紙の中で記しました。 ローマ人への手紙11:29
主の賜物と召しとは、変えられることがない。主は、私たちの状態をみんなご承知の上で、召してくださいました。ですから、私たちがどんなに足りない者であっても、主はこれを後悔することを致しません。 主は、私たちのうちに始められた業は、誰によっても、なにもによっても、妨げられることはありません。 ちょっとイザヤ書から読みましょうか。 イザヤ62:10-12
これは、主の変えられることのない、選びの民に対する約束です。 モーセが出会った神の炎はどういうものだったでしょうか。燃え尽きない炎でした。主の火は、決して消えることがありません。けど、人間のつけた火は、すぐに消えてしまいます。 なぜ人の火は、神の火と違ってすぐに消えてしまうのでしょうか。火が消えてしまう理由はあります。三つあるんじゃないかなと思います。 第1番目、歩き回っている悪魔です。2番目、希望を失うことです。3番目は、絶えず誤解され続けることです。 神の敵、私たちの敵である悪魔が、食い尽くすべきものを求めて歩き回っているとあります。火を消そうとして歩き回っているのです。モーセの生まれる前に悪魔は、なんとかして食い尽くそうと、政治的に、社会的にモーセを抹殺の計画をたてていました。 悪魔は、モーセが神の僕となり、神の御手に逃げられた道具となることを前もってよく知っていたから、そうしたのです。けれども全能なる神は、モーセを豊かにお守りになりました。最大の敵であったエジプトの王、パロの娘でさえ、主は用いてモーセを守ったのです。 モーセが生まれ落ちた時に、吠え猛る獅子のようにモーセを攻撃してきました。けど、主はモーセをお守りになったのです。 その次に今度は、吠え猛る獅子のようではなく、光の御使いに似た姿を持って、モーセを攻撃したのです。光の御使いの姿をとって、モーセの中に入り込み、モーセのうちに燃える火を消そうとしました。 モーセは、すさんだ貧しい生活をしていませんでした。なんでもできる、すべてのものが自分のものとなるエジプトの王子としての生活をしていたのです。 悪魔は、そこにつけ込んできました。第1の攻撃よりも、この攻撃の方がどんなに恐ろしかったか知りません。エジプトとエジプトの宝をモーセの前に差し出し、誘惑し、モーセの心の火を消そうとしました。 悪魔は今、私たちをそのようにして、攻撃しているかもしれない。よく心の目を開き、悪魔の誘惑に陥らないようにしていなければ、私たちの火は、すぐに消えてしまうでしょう。 火が消えてしまう理由は、今話したように、まず歩き回っている悪魔です。それだけではなく2番目には、希望を失ってしまうことです。 モーセは、40年間待たねばなりませんでした。この長い間、待たねばならない時間は、モーセにとっていろいろな影響を与えました。 日は過ぎ年は去り、以前約束した主の約束はだんだん古くなってしまったのです。主の約束の成就を見ることができません。この間モーセは焦りました。 もし神がやらなければ自分がやると言って、エジプト人を殺してしまいました。モーセが自らやったことは当然失敗に終わりました。 モーセは、主の目的を知っていましたが待つ時期があったのです。けれども、忍耐できずに自ら行って失敗を招き、希望を失いそうになってしまいました。 私たちも神の目的を心の内に深く知りながらなかなかそこに到達できないことがあるかも知れません。そのようなとき焦って望みを失ってしまう危険があるわけです。 火が消えてしまう理由は3つです。歩き回っている悪魔、それから希望を失うこと。そして3番目は絶えず誤解され続けることでした。 モーセはパロの娘の子と呼ばれることを厭い、将来に約束されていたエジプトの多くの宝をきれいに捨て去り、主のために尽くす決心をしました。 そしてモーセは敢然と立ち上がり、神の民の敵、エジプト人を殺しました。しかしその時、自分の兄弟、イスラエル人達はモーセを理解してくれなかったのです。モーセは自らの命を気遣ってエジプトを離れミデヤンの地に逃げなければならなかったのです。 モーセは辛かったと思います。主が自分を召してイスラエルの解放者として下さった、だから自分はいまエジプト人を打った。しかし、民は自分を理解してくれなかった。命を気遣って自分は遠くへ逃げなければならない。モーセは矛盾に苦しんだことに違いない。 けどその後のモーセはどうだったでしょうか。イスラエルの民を率いて、エジプトを出て荒野の40年間さ迷ったとき、モーセはやはり誤解され続けたのです。 モーセが率いていたイスラエルの民は神の民であり、主を信じたものでした。救いに預かったものでした。けれども、この民はモーセを理解せずモーセを攻撃し、批判し、モーセに逆らい続けました。 モーセの心の内に燃えている火は風前の灯火のように、消されてそうにならないはずがありません。 モーセはそのような時いつも、神の山ホレブで目の当たりに見た燃えて尽きない神の炎を思い浮かべて、裏切ることのない、極みまで真実な神にすがり常に光を受けて立ち上がったのです。私たちもどのようなことがあっても真実なる主におすがるしていきたいものなのではないでしょうか。 燃える神の炎は、モーセがそれを見たとき、モーセの心の内にも灯されました。 モーセが主にお会いしたとき親しく主を拝しましたので、主のご性質がモーセの中に注ぎ込まれました。 モーセは、主が燃えている柴の中から、我はありてある者なり、わたしは「わたしはある。」という者であると語られて以来、モーセの心に燃えて尽きざる炎が灯されました。 この燃えて尽きざる炎は、モーセを全く解放したのです。そしてこのモーセにより、燃える火を心の中に宿しているモーセにより、イスラエルの民はエジプトから導き出されました。 モーセが出会った神の炎はどういうものだったでしょうか。5番目、聖なる炎でした。 この炎は普通の炎とは違っていました。この炎は主なる神のきよい臨在を示す炎でした。炎は燃えていましたが燃え尽きませんでした。この炎は役に立たないものを燃やし尽くし、役に立つものを成長させる炎でした。 もし主が臨在し賜うなら、主は私たちの不法を焼きつくし、主の御心にかなうものを芽生えさせて下さるはずです。ヘブル人への手紙の著者は言ったのです。 ヘブル人への手紙12:29
モーセが炎を見定めようとして、それに近づきました。すると主はモーセに、ここに近づいてはいけないと言われたのです。どうしてでしょうか。主は、モーセの本来のあり方を教えようとされたのです。 次に、足から靴を脱ぎなさいと言われましたが、これは自らの計画や、自らの思いを捨て、ただ主にのみ頼りなさいという意味です。ただ主にのみ頼りなさい。 パウロたちも、これを学ばなければならなかったのです。ですからパウロは、コリント人への手紙第IIの手紙で、次のように証しとして、書き記したのであります。 コリント人への手紙第II、1:8-10
伝説によりますと、モーセはエジプト人の長官であったということです。従ってモーセには人々を指揮し指図する癖がついていました。けどそのようなものを捨て、すべて主にゆだね、主にだけ信頼しなさいとここで教えたのです。 燃えて尽きない炎は、どこまでも忍耐し、耐え忍ぶ主の性質を示しています。これはモーセにはなかった性質でした。 モーセは神に召し出され、まことのご奉仕にあたる前に、自らの靴を脱がなければならなかったのです。すなわち、自らを全く捨て去らなければなりませんでした。 私たちの場合も同じです。主のみ顔を親しく拝するには、まず自らの靴を脱ぎ、己を全く捨てなければなりません。 それは主の順序です。それは、十字架に来て救われるという意味ではありません。 救われた命、主の十字架を負い、主のみ足跡をたどることを意味しています。 モーセが出会った神の炎はどういうものだったでしょうか。今話したように、生きてる炎であり、神によってつけられた炎であり、盛んに燃える炎であり、燃え尽きない炎であり、聖なる炎です。最後に、預言の炎でもあります。 モーセの時代に一番大切なのは、イスラエルの民をエジプトからカナンの地に導き出すことでした。このためにモーセは燃える炎によって召し出されました。 この炎は、未来の時代に起こることを預言しています。 はじめに言いましたように、モーセはイエス様の雛形です。 イエス様は預言の炎によって預言されたように、それからしばらくの後、全人類を救いに導くために、おいでになられたのです。 救われてる私たちも、イエス様と共に多くの人を主のもとに導き、それらの人々をイエス様の満たしにまで至らせるために、働く者です。 出エジプト記3:12
出エジプト記19:18
出エジプト記24:17
モーセが召されたときには燃える柴がありました。しかしその後、モーセは燃える山に出会いました。これはまた私たちに対して、約束を意味しています。燃える柴の経験をした者は、続いて他の人々を同じ経験に導くことができるのです。 燃える柴を経験したモーセに導かれた、イスラエルの民は皆、燃えるシナイ山を目の当たりに見るという経験をしました。 私たちは自分で経験しないことを人に伝えることはできません。どんなにお話ししてもそれが自らの体験でなければ、人々に生きて働きません。もし、私たちがモーセのように主の僕として奉仕したいのなら、モーセと同じ体験が必要です。 モーセは燃える炎を見た時、モーセ自身も炎に変わりました。私たちも、主のために奉仕する燃える炎となっているのでしょうか。 主は頭の良い人を求めてはいません。どんなに貧しい荒野の柴のような者でもいい。その柴をご自分の火によって燃やし用いたいのです。 モーセは神の僕でした。主は、今日もご自分に仕える僕を求めておられます。 私たちは聖霊の火によって、主の僕となることができます。 ギデオンはうちに聖霊を宿し、聖霊を包んでいる着物のような者でした。アブラハムには、一人の忠実な僕がいたのです。彼はある日、主人アブラハムの息子イサクの花嫁を捜す使命を負わせられて遠くへ旅出しました。 僕の使命は、イサクの花嫁を見つけ出すだけではなく、花嫁をイサクのもとに連れてきて、イサクのものとさせる使命でした。 神の僕の使命は、失われていく人々を導いて、救いに入れることだけではありません。花嫁を見つけ出すことだけではありません。 救われた信者をキリストの花嫁とし、全くキリストと一つにされることも、キリストの僕として大切な勤めです。 もし、私たちが聖霊により火をつけられ、私たち自身が生きている炎となるなら、まことの神の僕です。 アブラハムはただ一人の僕をもって用に立たせました。それと同じように今日、一人の忠実な僕、聖霊をお用いになります。 この聖霊によって、目立たない荒野の柴は盛んに燃えて、尽きない炎と変えられます。 主の御心は、荒野の柴のような私たちが、神の火をご御聖霊を持ち運ぶ者となることです。 もし私たちがそうなったら、柴の裏から主の声を聞くことができます。その時柴は、ほとんど目に入らず主だけが外に現われます。 モーセにとって、なかなかできなかったのは、自分が取り柄のない普通の荒野の柴であるということを素直に認めることでした。モーセは、何かすぐれた特別な柴でありたかったのです。 けれどもモーセは40年間かかって、自らをわきまえ知ることができたのです。主は、特別に際だった柴を求めておられません。きわめて普通の柴を求めておられます。 主は自らを「ありてある者」と仰せになりました。このありてある者は、全く無きに等しい者の中に宿リ賜いて、自らを現したいのです。 私たちも神の僕であるモーセのように、普通の荒野の柴になりたいものです。 バプテスマのヨハネと同じように「彼は必ず栄え、私たちは必ず衰えるように。」という心を、主の御前に絶えず持ち続けたいと願えば、主は必ず恵んで下さるのです。 |