引用聖句:出エジプト記32章30節-35節
ローマ人への手紙9:1-3
今みんな一緒に歌いました。そう思われたどうかわからないけど、何回も「愛するイエス様」、私たちは本当の意味で、イエス様を愛しているなのでしょうか? もちろんイエス様の存在を認めてますし、イエス様を信じてますし、けど本当にイエス様を愛しているなのでしょうか? 私たちはどうしてイエス様のものになったかといいますと、言うまでもなく、積極的に求めたからじゃない。全く予期せずして、救われたなのではないでしょうか? どうして救われたかといいますと、主に仕えるためです。 もちろん、どういう気持ちで仕えるかも、問題なのではないでしょうか。やっぱり、中心になってもらいたいか、あるいは無視されても、やっぱりイエス様だけが中心になってもらいたいか、によって決まるものなのではないでしょうか。 今、兄弟の読みました2箇所を見ると、二人の主に仕えるしもべたちは、どういう精神で主に仕えたかとありますね。 モーセとパウロは各々、旧約聖書と新約聖書を代表する偉大な二人でした。ですから、二人がご奉仕に対してどんな態度を取っていたか見ることは、本当に大切なのではないかと思います。 言うまでもなく、彼らの内に主の霊が働いたから、彼らの動機は主の栄光だけでした。 パウロとモーセの言葉、この出エジプト記32章、、またローマ人への手紙9章2節に書かれてますけど、二つともは祈りの言葉です。 この言葉を通して、主のみこころにかなった精神がどんなものであるかを知ることができるなのではないかと思います。 このみことばを読んでいきますと、直感的にピンと来ることは、モーセも、パウロも全く自分に死にきっているということです。 モーセは、同胞のためならいのちの文から私の名が消されても構わないと、告白しただけじゃなくて祈ったんです。主に頼んだんです。 パウロは、同胞のためなら自分は呪われても構わない、と祈っています。 この二人のように、己に死にきった人が、他にいるなのでしょうか。言うまでもなく主は、今日もそういう人を探し求めておられます。 二人の意思表明は、全く自分のことを大切にしなかった。自分自身のことを忘れた。自分の目的も、自分の願いも、自分の利益も、全然頭の中にありませんでした。 主に選ばれた者、すなわちまことの教会が、モーセとパウロのすべてでした。自分の祝福、自分の義、自分の誉れ、それらは、二人にとって全然問題ではなかったのです。 別の言葉で言いますと、主の教会は、主にある兄弟姉妹は、モーセとパウロのいのちであり、結局、すべてでした。 この二人は自分の持ち物、自分の時、自分の力、自分のいのちは、主の体なる教会のためにあるのだ、主にある兄弟姉妹のためにあるのだと、堅く信じました。 もし信ずる兄弟姉妹が霊的に成長せず、悩みを持ちながら、その前に立ちはだかって、とりなし守ることができないなら、自分の生きがいはないと、この主のしもべたちであるモーセとパウロは信じたのです。 主のしもべの心のあり方とは、一体どういうものなのでしょうか。 主が我々にも、どうしても与えたいとしておられる精神とは、一体どのようなものなのでしょうか。 ちょっとだけ、4つの点について一緒に考えてみたいと思います。 第一番目、モーセとパウロの内に宿った主の霊について考えたいと思います。 もう一回出エジプト記32章32節をお読みします。 出エジプト記32:32
それから、ローマ人への手紙9章3節ですね。 ローマ人への手紙9:3
もちろんこの精神とは、生まれつき与えられた能力ではない。二人共の内に宿ったイエス様の霊です。 モーセとパウロの祈りを読むと、二人にはいろいろな点で共通しているところがあるなのではないかと思います。 二人の祈りに導かれた原因は、いわゆる主を知らない人々、救われていない人々、未信者ではなかったのです。信ずるものでした。信ずるものの罪でした。 イスラエルの民、主によって特別に選ばれた選民は、エジプトの国から救い出されました。これは、もちろん新約聖書では、主に選ばれて、罪赦され、救いの確信を頂いた主を信ずる兄弟姉妹を表しています。 主なる神の憐みにより、エジプトから救い出されたイスラエルの民は、主の恵みを間もなくきれいに忘れてしまいました。 モーセがシナイの山に入っている間に、とんでもないことをしてしまいました。モーセの来るのが遅いと言って、アロンの導きにより、金で子牛の偶像を作りになり、これは私たちをエジプトの国から導き上った主であるといって、子牛を礼拝するといったことをしました。考えられないものです。 まことの神を知っていて、心から賛美した、真心から礼拝した人々とは、偶像礼拝者になってしまいました。 モーセは、罪を犯したこの民のために祈ってます。モーセは、主の元に帰って、そして言いました。 「今、もし、彼らの罪をお赦しくだされるものなら――。しかし、もしも、かないませんなら、どうか、あなたがお書きになったあなたの書物から、」、結局いのちの書から、「私の名を消し去ってください。」 そして、ローマ人への手紙9章を読むと同じようなことが書かれているなのではないでしょうか。 イスラエルの民は主から離れ、主に背き、ついに主の一人子であられるイエス様を、十字架につけてしまい、考えられない罪を犯してしまいました。 この恐るべき罪を犯した民のために、パウロは祈っています。すなわち、「もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。」 この祈りを読んでいくと、モーセとパウロは、愛するに値する者のためにとりなしてはいません。悪魔との結びつき、罪を犯して、愛するにも愛することのできないような民のために祈っているのです。 これを考えると、我々の心に何か教えられるものがないでしょうか。私たちが愛して、その愛に答えてくれる人々のために奉仕することとは、簡単なんです。 モーセとパウロの場合は、ちょっとだけでなく、全然違いました。モーセとパウロの愛に全然答えてくれない人々を愛し、愛し、愛しぬいた二人でした。 私たちも、主の元から離れていた兄弟姉妹に対して、同じ心を持つべきなのではないでしょうか。 モーセとパウロには、その他にも共通している点があります。それはモーセもパウロも、心からその人々を愛して、すべてを捧げた為に誤解され、いじめられたのです。全く感謝の気持ちがなかったのです。 モーセは、イスラエルの民をエジプトから解放しようと思い立ったとき、やっぱり民に誤解され、自分の身に危険を覚えて逃げなければならなかったのです。結果として、40年間荒野の中で、生活するようになりました。 また民を導いて荒野のを上を彷徨った後で、40年の間、モーセはどれほどイスラエルの民に誤解され、主を信ずるものに誤解され、民から苦しみを受け、民の為に悩んだか知れません。 パウロの場合もモーセと同じでした。信仰を同じくするイスラエルの民によっていじめられ、迫害され、誤解され、悪者のように取り扱われました。 けど、この二人の神のしもべは、自分を理解してくれない人々の為に、自らの生涯を与え尽くし、捧げつくしたのです。 モーセは、自分を苛め抜いた民であることを、よーく知りながら、今、主の前でとりなしています。 「今、もし、彼らの罪をお赦しくだされるものなら――。しかし、もしもかないませんなら、どうか、あなたがお書きになったあなたの書物から、私の名を消し去ってください。」 彼らの罪を赦してやってくださいと祈り、モーセの心の内には、民に対する苦々しい思いは一つもありません。 パウロも、主の前にひれ伏し、「もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。」と。これこそまことの奉仕の精神ではないでしょうか。 もちろん、我々の主イエス様がそうでした。イエス様はのろいとなってくださいました。これはなんという奉仕でしょう。 我々の罪の為に、我々の我侭のゆえに、父なる神はイエス様を捨て御顔を背けられました。イエス様は、一番辛いそのことにも耐えてくださったのです。 イエス様は、ご奉仕の間、多くの人々に虐められ、責められ、誤解され通しでした。ご自分を誤解し続けた兄弟たちの為に、十字架上の断末魔の苦しみの中で、父に向かって、叫んだのです。「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」と。切ない祈りをなさいました。 けどもイエス様は、ご自分を捨て、ご自分を否んだ人々に対して、兄弟と呼びかけるのを恥となさいませんでした。これが、イエス様の精神でした。 イエス様は愛され、価値のない我々のために、のろいとなってくださいました。この主の霊は、パウロの内にも生きていました。パウロはやはり、民のためならこの身はのろいとなっても構わない、と心から祈ったのです。 私たちは、この主の標準から、何と遠く離れているなのでしょうか。まぁ、主イエス様の霊が彼らの内に支配することができたから、こういう態度取ることができた。 第二番目、主の目的を実現させるための戦いについて、ちょっとだけ一緒に考えてみたいと思います。 ここまで出エジプト記32章とローマ人への手紙9章から、モーセとパウロの祈りを考えてきましたが、ここで、出エジプト記の32章とローマ人への手紙9章の前にどんなことがおこっていたか、ちょっと見てみましょうか。 出エジプト記の32章の前の31章は、本当に素晴らしい書です。モーセはシナイ山に入り、そこで主との親しい交わりを持ち、主からの幕屋の雛形を見せられました。 シナイ山は啓示の山です。啓示された幕屋は、言うまでもなくイエス様ご自身を象徴するものです。 主はご自分を住もうとされる幕屋の模範を、モーセに示されました。主は、モーセに示された幕屋に住み、ご自分の栄光を表したかったんです。 モーセにとって幕屋が上から示されたということは、素晴らしい体験でした。けど示された幕屋の建設は、すぐにはできませんでした。32章を見ますと、民が罪を犯して堕落したことが書かれています。 モーセにとっては、これは非常な悩みであり、考えられない苦しみであり、また戦いでした。主のご目的を実現するには、いつも戦いが伴います。 同じく、ローマ人への手紙8章を見ると、出エジプト記31章に劣らず、素晴らしい書です。ローマ人への手紙8章、皆さんよくご存知ですけど、もう一回部分的に読みましょうか。 ローマ人への手紙8:1-2
ローマ人への手紙8:17
それから、18節ですか、 ローマ人への手紙8:18
ローマ人への手紙8:28-30
云々。 あるいは、31節から、 ローマ人への手紙8:31-39
このローマ人への手紙8章を読んでいくと、私たちは高い所へ思わず知らず、引き上げられていくような気がします。 この章を読んでいくと、主の永遠からのご目的が明らかになります。今読んだように、 ローマ人への手紙8:29
これが主のご目的です。 さらに続いて12章。ローマ人への手紙12章4節、5節には、ご目的の実現について書かれています。 ローマ人への手紙12:4-5
けども、このローマ人への手紙8章と12章の間には、非常に暗いことが書かれています。すなわちイスラエルの民が主を離れ、油注がれた、約束された救い主であるイエス様を、十字架につけて殺してしまった悲しむべき陰惨な出来事が書かれています。 モーセとパウロは二人とも、素晴らしい神の奥義を上から示されました。すなわち、モーセは神の家である幕屋を教えられ、パウロは、神の宮であるまことの体なる教会を教えられています。 けど二人とも、この主のご目的を示されて、それを実現するまでの間には、非常な戦いがありました。それは、主のご目的が達成されるための、本当に激しい戦いでした。 出エジプト記32章を見ると、悪魔は荒れに荒れて、主のご目的をダメにしてしまおうとしていることがよくわかる。偶像礼拝の霊が、当時の救われたイスラエルの中に入ってきました。 民は、金の牛に礼拝を捧げました。まことの主から離れてしまいました。悪魔は今、我々の生まれながらの性質を用いて、主のご目的を実現されないように働きかけています。 もし、私たちが弱い点にお気づきなら、そのまま主に今日、すべてをゆだねましょう。 自分を尊び、ありのままでいない人は、主を否定することになります。主の御前では、私たちは貧しい者であり、惨めな者であり、憐れむべき者であり、目の見えない者であり、裸な者です。主にすべてを捧げ、我々の内に私たちを通して、主に働いていただきたいものです。 主の宮が、一体いつ建てられるようになったなのでしょうか。恐ろしい戦いの後でした。すなわち、偶像礼拝者を除くという恐ろしい戦いの後でした。 モーセとレビの子達は、偶像を拝んだ人たちを除かなければならなかったのです。出エジプト記の32章25節から書かれていますね。 出エジプト記32:25
決して証し人にならなかった。 出エジプト記32:26-29
我々の場合も同じだと信じます。心の偶像が取り除かれ、自分の利益、自分の考えを主の前に恥じるようになって初めて、主の宮が建て上げられていくのです。それまでの間には、戦いと悩みがあります。 パウロはガラテヤ人の為に、同じように戦いました。ガラテヤ人への手紙を読むと、パウロがガラテヤ人の為に、恐るべき戦いをしたことがわかる。 ガラテヤ人たちは、誤ったユダヤ教に足を踏み入れてしまい、掟に縛られ、その霊的状態は荒野を彷徨ったイスラエルの民のように、荒れに荒れてしまいました。 主のご目的が実現されていくところには、いつも戦いがあります。 主のご目的は、ご自分の住む家であるまことのイエス様の体なる教会を建て上げることです。 エペソ人への手紙1章23節に、それがはっきりと書かれています。 エペソ人への手紙1:23
とあります。この教会は実現しますと、あらゆる問題はたちどころに解決するようになります。 けど、この教会が建て上げられていくには、多くの悩みや、苦しみや、誤解が伴うしょうけど、栄光に満ちた主の教会が建て上げられていくことを確信します。 今まで、二つの点について考えたね。第一番目、モーセとパウロの内に宿ったイエス様の霊。二番目、主の目的を実現するための戦い。 第三番目の点は、すべてを捧げることの必要性であります。 主のご目的を私たちは、上から教えられて知っているなのでしょうか。主がモーセとパウロに示されたように私たちにも、もう既に示してくださったなのでしょうか。 そして、その主のご目的が達成されるように、私たちのすべてをお捧げしているなのでしょうか。 すべてを主にお捧げすることは、本当に大切です。すべてをお捧げする時、自らの利益、立場、名誉それらのものは、どこかへ行ってしまう。 主のご目的が何であるかを心の目で見て、すべてをお捧げする時、教会がその人のいのちとなり、すべてとなるはずです。 モーセは、イスラエルの民を思い、主の教会を思うのあまり、主の前に心を注ぎだして祈りました。「今、もし、彼らの罪をお赦しくだされるものなら――。しかし、もしも、かないませんなら、どうか、あなたがお書きになったあなたの書物から、私の名を消し去ってください。」 イスラエルの民が立ち直るか、または、自分がダメになるかどちらかを主に迫っているモーセの姿が目に映すような気がします。 すべてを主に捧げ、主の家を思う時、二つの道を選ぶことはできません。 私たちを通して主の家が建て上げられるか、あるいは、自分がダメになるかのどちらかです。主が我々を通して、思うがままに働くことができるように、自分で何か役割を演じようなどとは、思わないようにいたしましょう。自らは、何の価値もないものだから。 モーセはこの祈りの中で言っています。「自分は大したものじゃない。本当は、役に立たない。私の救いや、私のいのちは、必要ではない。」 またパウロは、「もし、主のみこころが、信ずる同胞の内になされていかなければ、私は何のために救われ、何のために生きているのか分からない。」と言っています。 主は、主のみこころの全部を教会に、イエス様の体なる教会に、傾けておられることを示してくださったのです。 もしこの吉祥寺の集会が、またいたる所の集会が、主のみこころのままに、主によって建て上げられなければ、例えば私が日本に来たことも、色々なことで悩んだことも、全く意味のないなのではないでしょうか。 私たちは、どうして救われたなのでしょうか。何か得るためなのでしょうか。天国に入るためなのでしょうか。それから、色々な祝福を頂くために救われたなのでしょうか。 残念ながら、多くの人々は、それらの為に救われたのだと考えています。けど、決してそうではありません。主のご目的を成し遂げる、主のしもべとなるために救われました。 この主のご目的を成し遂げるためには、色々な値を払わなければなりません。 主の家を建て上げるという、主のご目的を成就するには、いのちをも捧げなければなりません。 イエス様は次のように言われました。マタイの福音書16章25節です。よく知られている箇所です。 マタイの福音書16:25
主の体である兄弟姉妹のためなら、死も厭わない。兄弟姉妹は、自分のすべてであると思うまでに、主イエスと一つになっているなのでしょうか。 私たちは、主の家である教会、主にある兄弟姉妹の一人ひとりがすべてとなっており、この霊的知識がいのちとなっているなのでしょうか。 この主の家を建て上げたいという願いは、モーセとパウロのすべてでした。この二人は、ご奉仕に際しても自分の名誉を求めず、ただただ主を思い、エペソ人への手紙5章27節のように、主の教会を建て上げるために、いのちを懸けていました。 エペソ人への手紙5:27
パウロはそのために、もう祈りの中で戦いました。コリント人への手紙第IIの11章の2節、ちょっと読みましょうか。 パウロの気持ちですかね、心はよくわかる。 コリント人への手紙第II、11:2
あなた方とは、主の恵みによって救われた兄弟姉妹です。 「私はあなたがたを、清純な処女として、ひとりの人の花嫁に定め、キリストにささげることにしたからです。」 パウロと同じように、この目的を持ってご奉仕しなければ、主は私たちを悲しく思われることでしょう。 主は、モーセやパウロと同じように、我々を通してご自分のご目的を達成されるために、私たちを救ってくださったのです。このように主に仕える準備が整っているなのでしょうか。このまことのご奉仕は、死にいたるまで従順に主にお従いして行く奉仕です。 最後に、短くもう一つの点について考えたい。すなわち、まことの奉仕に必ず伴う火のような試みについてです。 主のしもべたちは、特別に激しい試みにあったことがあると告白しています。私たちが救われるためには、もちろん苦しみがなかったんです。救われるために私たちは、何の値も払いませんでした。全部ただなんです。恵みでした。 けど救われて、神の子として歩み始めたその時から、色々な悩みがまた苦しみが襲ってきた。これは、一体どういうわけでしょうか。 それは、私たちがただ救われるために救われたのではなく、奉仕するために救われたから。私たちは、主に用いられるしもべとなるべきです。 けど、自分を無にしない限り、主のしもべとなることはできません。自分を無にするには、激しい試みを通されなければなりません。何と多くの自らを喜ばせ、自らを愛する心が、我々の内に残っていることでしょう。 ですから主は、奉仕を妨げる我々の自我を取り除くために、色々な悩みや、苦しみの中を通されるのです。 私たちは、偉大な主の遣い人であられるイエス様を見上げましょう。衣を脱ぎ、帯を締め、タオルを手にし、桶を持って回った、弟子たちの足を洗ってくださったイエス様を見上げたいものです。 これは、しもべ、当時の奴隷のした仕事でした。イエス様は、そういう態度を取ったのです。己を空しくされました。 自らの名誉も、名前も、利益も、お考えにならなかったのです。これこそが、本当の奉仕の精神です。マタイの福音書20章28節を見ると、イエス様は証として次のように言われました。 マタイの福音書20:28
これがイエス様の証であり、告白です。イエス様は、まことの父なる神のしもべでした。私たちもまことの主のしもべとなるためには、すべてを主にお捧げしなければならないはずです。いのちさえ捧げなければならない。 すなわち自分の自我を捧げなければ、自分の意思を捧げなければなりません。 それがためには、多くの悩みや、苦しみや、困難を通らなければならない。この試みを通った時、まことの主のしもべとなっていくのです。民数記12章3節に、次のように書かれています。 民数記12:3
と書いてありますが、モーセがこうまで言われるようになるまでには、想像に絶する試みを通されたのです。 また御霊は、歴代誌第Iの6章49節に、「神のしもべモーセ」とモーセを呼んでいます。 また同じ御霊は、パウロに対して、「イエス・キリストのしもべパウロ」と呼んでいます。 パウロは地にひれ伏し、心から祈りました。「もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。」と言っています。 これが、主が我々にも与えようとしている精神なのではないでしょうか。 |