私を再び生かしてください2


ベック兄

(レトロテープ聞き取り)

引用聖句:エゼキエル書22章30節
30わたしがこの国を滅ぼさないように、わたしは、この国のために、わたしの前で石垣を築き、破れ口を修理する者を彼らの間に捜し求めたが、見つからなかった。

今読まれました個所とは、ちょっと大変な個所です。主ご自身が捜し求めましたけど見つからなかったと、ここで書かれています。だからこそリバイバルが必要です。
最近ずっとリバイバルの大切さ、必要性について話し合いました。なぜならば、日本中はこのことこそが強調されています。

いわゆる宣伝文句を見ると、ちょっと悲しくなったのです。何が書かれたかと言いますと、「未信者に覚醒が起こるように。」
説明会が開かれるようになるし、いわゆるプログラムも作られるようになりますし、その中で確かに聖書の個所も引用されています。

「『わたしの霊によって。』と主は言われる。」、「わたしは死ななければならないとすれば、わたしは死にます。」
そういうすばらしいみことばが引用されていますけど、全部読むとちょっと悲しくなっちゃったのです。
結局、計画しているのは人間だけなのではないか。人間は全部計画した上で、「主よ。よろしくお願いします。」、それだけだったらまだいいのです。そのあとでやっぱり献金の願いがあるのです。「金を出せ。金必要ですから。」

聖書はリバイバルについて語ると、未信者のリバイバルについてではなく、救いにあずかった、もうすでに救われた人々の間に起こるべきリバイバルについて語っています。それだけ考えても、何を考えているのですか。的外れなのではないかと。
リバイバルされた人々は喜んで告白しています。聖歌の中で出てくる文句なのですけど、「重荷もなく、迷いもなき旅路ぞ楽しく、共にいますキリストこそわが身の神なり。」と。これを喜んで証しすれば、周りの人々はやっぱり開かれた心をもつようになります。
宗教生活から信仰生活に移されることこそ、リバイバルの結果なのではないでしょうか。

今の読まれました個所を見ると、主は人間を用いようと望んでおられたのです。捜したのです。必死になったけどダメだった。見つからなかった。
どうして見つからなかったかと言いますと、いなかったからです。主にとって大変な悲しみでした。
周りの人々はどうしてなかなか導かれないかと言いますと、これは未信者のせいよりも、信ずる者の不信仰であり、わがままであり、不従順なのではないでしょうか。救われた兄弟姉妹の犯す大きな罪は、親戚、肉親、友人たちに対する愛の欠乏であり、また、無責任です。

エゼキエル書3:18
18人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの家の見張り人とした。あなたは、わたしの口からことばを聞くとき、わたしに代わって彼らに警告を与えよ。

結局イエス様は私たちのような者を見張り人として用いようと望んでおられます。
ここで私たちに対しても、「主のことばを聞き、それから主の代わりにわれわれの周りの人々を注意するように。」と命令されています。何と多くの兄弟姉妹は自分のことだけを考え、それによって自己中心になっているのでしょうか。
見張り人じゃなくてちょっと別のことばを使われていますけど、内容として同じ意味なのですけど、使徒の働きの20章の28節です。ここで、監督という表現が使われていますけど、見張り人と呼んだほうがわかりやすいでしょう。

使徒の働き20:28
28あなたがたは自分自身と群れの全体とに気を配りなさい。聖霊は、神がご自身の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、あなたがたを群れの監督にお立てになったのです。

監督の代わりに見張り人と読むべきです。
あなたがたは自分自身に気を配りなさい。さもなければ悪魔はあなたがたを惑わし、捕えるようになる。そしてまた群れの全体に気を配りなさい。群れはまず第一に見張られ、それによって守られるべきです。

聖書は、初めての人間の長男であるカインは、「のろわれるようになった。」と言っています。彼の態度は遺憾な態度でした。「私は弟の番人でなければならないのか。」と彼は言ったのです。弟殺されたあとで。
私たちは守り、見張り、祈り、戦い、それによって私たちの周りの人々を自由にし、贖われ、祝福されるために任務をもっています。結局、周りの人々のために重荷を感じ、責任を感ずるようになれば、人々は導かれます。

親戚、肉親、友人たちに対する愛の欠乏はとんでもない罪です。主はそういう人々を用いられ得ない。結局主は捜し求めているけど、見つからなければ大変なことになります。
エゼキエルのずっと前の時代で、主は捜し求めた。そして一人を見つけた。けど一人は十分ではなかったから、ソドムとゴモラの町は滅ぼされてしまったと聖書に書かれています。

創世記の18章22節に、「アブラハムは、主の前に立っていた。」と書かれています。ちょっとだけ祈っちゃっただけじゃなくて、祈り続けたということです。
アブラハムは神の友と呼ばれていたのです。神はちょっと考えられないけど、何と思ったかと言いますと、「自分のやっていることをアブラハムに隠してよいのでしょうか。やっぱりやる前にアブラハムに知らせましょう。」と主は決心したのです。
主からソドムとゴモラの町が滅ぼされるとアブラハムは知らせを受けた。けどそのとき、「ああそうか。当たり前の罰じゃないか。」と思わなかったのです。彼は無関心ではなかったのです。主の前にとりなし、祈り続けました。けどダメだった。

ソドムとゴモラは滅ぼされてしまいました。どうしてでしょうか。もし住人の中に主を恐れる信者がいたならば、滅ぼされなかったと主は説明として言われたのです。
その中で、もう住人だけじゃなくて、もしかすると何百人、「主よ。主よ。主よ。」と言った人々いたはずです。いただけで、そう思わなかったのです。「主よ。」と言う人はやっぱり条件なしに主に従うべきです。みこころだけを大切にすべきです。
そういう人々は結局いなかったから、ソドムとゴモラはダメになってしまったのです。彼らは妥協して、主を大事にしなかったから、本当の意味で主を恐れなかったから、町全体はダメになったのです。

われわれは滅びゆく東京、全国の多くの人々を考えると、真剣な気持ちになるべきなのではないでしょうか。この多くの人々のために責任を覚えると、やっぱり祈らざるを得なくなる。自分で何にもできないからです。
「自分でしなさい。」と、もちろん主は言わないよ。けど、「期待を持って待ち望みなさい。祈り続けなさい。」、周りの人々のこと考えると無関心でいることとは、やっぱり赦され得ない罪です。主は信ずる者を用いようと切に望んでおられるからです。
パウロはローマ人への手紙の中で、あなたがた信ずる者が眠りからさめるべき時刻がもう来ています。イザヤは次のように書いたのです。

イザヤ書44:3
3わたしは潤いのない地に水を注ぎ、かわいた地に豊かな流れを注ぎ、わたしの霊をあなたのすえに、わたしの祝福をあなたの子孫に注ごう。

主は与えたい、注ぎたい。けどもアブラハムのように主の前に静かになり、祈り続ける人がいなければ、主は結局何もできません。
主によって新しくされること、新しく生かされることこそが、リバイバルと言い、主の心からの願っていることであります。

私たちはこの世のあらゆるものよりも、主との交わりを得たいと願ってるのでしょうか。真剣にリバイバルのために祈るのでしょうか。
私たちは健康であってもなくても、また人から認められる立場にあってもなくても、われわれはひたすらにリバイバルを求めているのでしょうか。
われわれの心構えですか、動機とはいったいどういうものなのでしょうか。

結局われわれを動かす動機とはどういうものか、これこそがもっとも大切なのではないでしょうか。
パウロの時代の、いわゆる福音を宣べ伝えた人々の中で色々な人々がいたのです。ピリピ人への手紙2章の21節に、パウロは必ず泣きながら次のように書いたのです。

ピリピ人への手紙2:21
21だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません。

このことばがわれわれにも当てはまるのではないでしょうか。
人はだいたい4つの大きな願いを持っています。これによって人は自分のことを思っているかどうかがわかります。まず第一に、人は安全を願います。身の安全を願います。
多くの建築会社の宣伝文句は、「安全第一」、人は結局あらゆる面で安全でありたいと願っています。

だから銀行が存在しているのではないでしょうか。人はお金を銀行に預金し、将来子どもの教育費を与えようとしますし、多くのことを考え、生命保険に入ったりします。
これは別にやってはいかんということじゃないよ。ちゃんと理性が与えられているから、知らん顔すればとんでもない無責任になります。けども自らの安全だけを考えることとは、もちろんちょっと的外れです。

イエス様は次のように言われたことがあります。「地に宝をたくわえるな。思い煩ってはならない。」、結局問題はそれなのです。心配することは絶対に許されていない。
「神の国とその義を求めよ。そうすればこれらのものはすべてみな添えて与えられる。」とイエス様は約束してくださったのです。もちろん金のことだけじゃなくて、教育のことを考えても、人は結局安全を求めているから、教育は第一と考えている人もいるのです。
キリスト教内の世界もだいたい同じことなのです。神学校を出て初めて一人前になり、人の前で話すことができるのだと普通思われます。けどこれもひとつの身の安全を考えている心の態度にほかならない。

パウロはイエス様との交わりを得る前にそういう考えを持っていたらしい。やっぱり、「聖書を徹底的に研究して、知識が無ければダメ。自分の最大の宝物は聖書の知識だ。」と彼は思ったのです。
けど主を知るようになってから、「私は十字架につけられたキリスト以外、何にも宣べ伝えない。」と決心するようになったのです。
結局、今まで蓄えたいわゆる聖書の知識は妨げになっちゃったのです。ちりあくた。意味のないものになってしまったのです。

もし私たちが自分の身を主に任せ、主にゆだね切るなら、不安定なものになるはずです。パウロも人々に語ったとき、弱く、不安であったことを聖書は教えています。
主を知る前に、もう喋ることだって彼にとって全然難しくなかったし、そういう賜物をもつ、能力をもつ男だったから。
けど主を知るようになってから急にやっぱり私はダメだとわかっていました。

このパウロは危険にさらされ、不安を身に感じ、死ぬのではないかと思ったときがあっても、聖書ははっきり教えています。「どうしよう。もう終わり。」と彼は思ったのです。
パウロは圧迫されている。われわれには逃れ道がない。迫害され、地に倒された者のようになっていると言ったのです。これは安全とおおよそかけ離れた状態なのではないでしょうか。

二番目の人間の願っていることは、いわゆる安楽です。人の心に深く願っていることは、安楽な生活を送りたい、この身をいたわって生きたいという気持ちです。これをイエス様は全然願わなかったらしい。
イエス様の証しとはマタイの福音書20章28節に書かれています。ここでイエス様は、

マタイの福音書20:28
28人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。

と。結局イエス様は、仕えてもらいたい気持ち全然なかったのです。仕えるために、自分のいのちを与えるためにイエス様は来られたのです。
イエス様はこの地上にひとつの持ち物も持たれず、この世にふるさとをもっていなかったのです。布団一枚も無かったでしょう。
イエス様は辱められて黙り、誤解されて自らを弁護せず、黙々として歩まれたお方でした。

詩篇の作者は預言としてイエス様のことを指して書いたのです。

詩篇22:6
6私は虫けらです。人間ではありません。

ちょっと不思議な個所です。この個所はイエス様についてピッタリ当てはまるのではないでしょうか。人間は自らを弁護することができます。虫はできない。
蛇と虫の違いはどういうものなのでしょうか。大きさと力が違うだけではない。蛇は身の危険を感ずると、鎌首をもたげて攻撃します。向かって来ます。虫は何にもしない。できないからです。
私たちは、私たちの自我はあたかも蛇に似ているのではないでしょうか。虫はどんなにされても逆らうことをしません。ただなすがままにされています。

イエス様は、わたしは虫のような者だと言えたのです。イエス様は、辱められ、犯罪人のように捨てられ、殺されてしまったのです。結局イエス様は私たちのために、虫のような者になってくださったのです。
このイエス様は「父がわたしを遣わしてくださったように、とまったく同じように、わたしもあなたがたを遣わす。」と言われました。
イエス様はわれわれの自我が打ち砕かれ、ヤコブが・・・

(テープ A面 → B面)

・・・安全を願います。二番目。安楽な生活を送りたいと願います。
第三番目。願っているのは、楽しみなのではないでしょうか。

私たちが疲れると休むと言いますけど、この休みがみことばを自分のものにすることを怠り、祈ることを休み、信ずる者同士の交わりをやめることを意味しているならば、霊的ないのちを殺してしまうことを意味します。
そうするといくら休んでも、元気になりません。

イエス様はわれわれの心の状態を、動機をよくご存知です。私たちが自分の時、自分の富、自分の計画、自分の楽しみを持っているかどうか、あるいは、「主よ。私も、私の持っているものも全部あなたのものです。あなたのみこころだけがなるように。」と願っているかどうかを、主はもちろん全部ご存知です。

「わたしは自分のいのちを与えるために来た。要求するためじゃない。与えるために来た。仕えるために来た。」と言われました。
結局意味は、「わたしは自分の願いを持ちません。自分の立場を取りません。どうかわたしの思いではなく、父よ。あなたのみこころだけをなしてください。」、イエス様はこの態度を取り続けたのです。

四番目に、人の心に深く根差しているもうひとつの願いは、人に認められたいという気持ちです。
人々は何とかして自分の人気を集め、人々に自分の力を及ぼしたいという願いを心の中に持っているのです。大切にされ、誉れを得、自分を忘れてもらいたくないという願いを持っています。人に認められたいと願わない人はみじめになります。
信ずる者の世界にも、この、人から誉れを得たいという願いが伝染病にようにはいってきて、このために多くの人は主に捨てられ、用いられなくなってしまっています。イエス様はわれわれに人よりの人気を求めず、上のものを求めよと言っておられます。

今挙げたこれら4つの、安全を願う心、それから安楽を願う心、楽しみを求める心、人気を得たいと願う心はどこから来るのでしょうか。
傲慢な、パリサイ的な心から出てきます。パウロはガラテヤ人への手紙5章の中で書いたのです。

ガラテヤ人への手紙5:19-21
19肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、
20偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、
21ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。

と。これらの肉の働きはみなわれわれの誇り高ぶる心から出てきます。イエス様もまったく同じことを言われました。
マルコの福音書のよく知られている7章の21節です。

マルコの福音書7:21-23
21人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、
22姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、
23これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」

と。
なぜまた滅びに向かってゆく何百万という人々が一度もイエス様のことを聞かないまま、歩み続けているのでしょうか。これは結局信ずる者の罪のゆえです。自分のことを大切にするからです。
なぜイエス様のからだであるわれわれの兄弟姉妹は弱く、力なく、悩んでいるのでしょうか。結局、自分のことを、われわれは自分のことを大切にするからなのではないでしょうか。

主イエス様は、用いられる器を捜し求めておられます。なぜならばイエス様は人間のたましいを非常に価値のあるものとして、尊重なさるから、たましいを滅びから救うためにイエス様は喜んで天の栄光を捨てて、この罪にまみれた父の貧しさ、悩み、恥、死の苦しみを受けてくださったのです。
ひとつのたましいの価値がそれほど高価なものであるならば、その救いのためには、どれほどの距離も遠すぎることはなく、また、どれほどの重荷も煩わしくなく、いかなる配慮も大きすぎず、いかなる仕事も難しすぎることはありません。主は捜し求めておられます。
われわれの中で用いられる器を見つけられるのでしょうか。




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