引用聖句:ペテロの手紙第I、1章3節
今読んでくださった箇所は、もちろんペテロの証し、告白だけではなく、初代教会の気持ちの現われです。 すなわち、私たちは生ける望みを持っています。人間は、生ける望みを持っていなかれば本当に悲劇的ではないかと思います。 かつて、あるおばあちゃんは、イエス様に出会って88歳の時に、次のように証ししました。 「イエス様を信じましたから、本当に毎日平安に過ごさせて頂いています。 生きてる間にどれだけ読めるかわかりませんが、今は毎日聖書を読むこと、テープを聞くこと、お祈りすることだけが、楽しみになりました。」 こういうふうに聖書の素晴らしさを知るようになることは、本当にありがたいのではないかと思います。 生ける希望とは結局、悩んでる人しか得られないのではないかと思います。 もう一人の姉妹の証しも紹介します。彼女は癌になって非常に悩みました。 「病気を頂いて、家事やこの世のすべてのことから切り離されて、ただ主イエス様との静かなお交わりの中へと入れてくださっていることを感謝です。みことばは、命そのものです。 すぐに主から離れ自分勝手に生きようとする高ぶりを、いつも思わされます。またどういうわけか、救われる以前よりも私の周りには病気で苦しんでおられる方が多いのです。 今まで、その方々の心の痛みが全くわかならない者であるにもかかわらず、口先だけで慰めようとしたり、イエス様にのみご威光を帰す者でなかったことを悔い改めさせられています。 主は本当に素晴らしい方ですね。偉大なお方ですね。もっともっと主を知りたいです。 病んでますますイエス様の愛を教えられ、喜びに満たされています。 この素晴らしいイエス様を周りの方々に少しでもお伝えできますように。 私が、砕かれるようにこれからもお祈りに覚えて下されば感謝です。」 こういう証しを読むと、やっぱりうれしくなります。結局、生ける希望を頂いた者はこの態度をとることができます。 生ける希望こそが大切です。一般的に望みという場合には、将来の何か良いこと、たとえば幸せ、福祉、正義、救いと言うようなことを期待しつつある人間の態度なのではないでしょうか。 それは人間の本質であり、人間だけが望みを持つものです。望みを持つ犬を今日まで見たことはありません。 けども人間が望みを持つことは大切ですが、若い人は、希望でいっぱいでしょう。比較的、年をとった人もそれほど激しくはないけど静かな望みを抱いているのではないかと思います。もはや望むべきものが何もなくなってしまう時は、そこには絶望と死だけが存在しているに過ぎないでしょう。 これは一般的な望みです。聖書的な望みとは、将来行われる救いの完成を確信を持って待ち望むことです。そして聖書的な望みは、ただ信仰からのみ出てくるものであり、いかなる困難や試練の中にあっても、必ず勇気を与えてくれるものであります。 一般的な望みと、聖書的な望みは、お互いに相容れないものであることは明らかでしょう。 一般的な望みは、常にこの世にあるものであり本当の確信がないために、心の奥はむなしさが支配しているのです。聖書的な望みは、イエス様が与えられた望みの故に、この世のあらゆる世俗的なものを捨てる力を持っており、そのために常に満たされ、慰められ、力を与えられているのです。 生き生きとした望みの秘訣はいったい何なのでしょうか。生き生きとした望みの秘訣とは、私たちが自分自身を見たり、他人を見たり、私たちをとりまく周囲の状況を見たりすることをしないということであります。そして、望みである主ご自身を見上げることです。 ですから、ヘブル人への手紙12章2節のイエス様のご命令とは、考えられないほど大切な命令です。 ヘブル人への手紙12:2
生ける望みを持つようになる人々とは、いったいどういう人々なのでしょうか。苦しみを通して与えられるものなのではないかと思います。 生ける望みとは、内に住み賜う御霊の実です。努力の結果ではありません。生ける望みとは、自分が主によって選ばれたものである確信に基づいているものであります。 言えるのは、聖書から離れたら、生ける望みはあり得ないと言えるのではないかと思います。 人間のできることは、正しくできることは、計算することではないかと思います。 地図を書く人は、100%完全な地図を書くことは不可能です。どのような歴史家も過ぎ去った事実について100%完全に記述することもできません。人間のできることは、100%完全にできることは算術的な計算だけではないでしょうか。 2+2=4です。このことを疑う人はいないでしょう。パウロは手紙の中で計算するという言葉を使ったことがあります。ローマ人への手紙8章18節です。 ローマ人への手紙8:18
いろいろな聖書の翻訳に「考えます」という言葉が使われていますけど、ほんとうは、「計算する」という意味の言葉です。 パウロがここで、このように言っていることは事実です。パウロがここで言っている、今の苦しみとは、パウロの幻想でも夢でもありませんでした。パウロにとって現実そのものでした。 今の時という表現を使っていますが、「今の時」とは、永遠に続くのを意味していません。今だけに過ぎない。限界のあることに過ぎない。苦しみには、はっきりとした目的があり、どこかへ至る道であり、また手段のようなものであります。 パウロは自分の肉体が弱いことを知っていました。しばしば、病気になってしまったのです。常に病気であったと言っても良いくらいなのではないでしょうか。 パウロは、外にも内にも重荷を持っていました。外面的には迫害を受けたということであり、内面的には教会に対する、主の恵みによって救われた兄弟姉妹に対する心遣いがあったのです。そして、パウロは、滅び行くものの束縛によって悩まされました。 けれども、彼もまた来るべき栄光を待ち望んだのです。それゆえ彼は今の時、今の苦しみ、将来啓示されようとしている栄光と比較しました。彼は、この苦しみが栄光に比べれば取るに足りないものであることを、このローマ人への手紙8章18節に書き記したのです。 もし、パウロが自分の苦しみを、啓示されようとしている栄光と比べることをしなかったならば、彼はこの苦しみに押しつぶされてしまったでしょう。彼の喜びも、彼の平和も、力も、失せてしまったに違いない。 悪魔は、私たちを疑惑に陥れようと企んでいます。パウロもまたそのことを、知っていました。だから、彼は、苦しみと栄光を秤にかけて、今の現実的な苦しみは将来の栄光に比べればとるに足りないことを断固として確信したのです。 私たちは、イエス様を信じる者として将来の栄光にもうすでに部分的には預かっているのではないでしょうか。 イエス様は、祈りの中で次のように言われました。 ヨハネの福音書17:22
いつか与えるとも、与えられるでもなく、「与えました」と、おっしゃいました。けれどもこの栄光とはなんなのでしょうか。 それは、もうダビデの証しを見てもわかるのではないのでしょうか。彼は、解放された者として、次のように言えたのです。 詩篇32:1-2
また、パウロは、次のように言いました。 ローマ人への手紙5:1
私たちは、もうすでに良しとされた。神との平和を持っている。これは栄光なのではないでしょうか。 ヨハネの手紙第Iの手紙、1:3
いつかなるのではなくて、もうすでに交わりがあるのです。こういう言葉は、私たち信じる者が、今日すでに持っている栄光について述べているのではないでしょうか。 主を知らない人々は、自分の人生を運命とあきらめて未来に対して不安を持ちながら生活しています。信じる者は今の苦しみが、つかの間のものであり、将来イエス様の栄光に預かるものとされるということを確信しています。 捕虜になった人は家族と近い将来再び会えることがわっていれば、囚われの身であっても力が湧いてきます。生ける望みを持っていない人は悲惨です。生ける望みは、喜びと力を与えてくれるものであります。この生ける望みとは、前に話したように人間の作るものではない。上から与えられるものであり、すなわち御霊の実であります。 ローマ人への手紙8:26
生ける望みとは、栄光の御霊の結ぶ実そのものです。 ローマ人への手紙8章26節は、信ずる者がいかに弱く力のない状態にあるかということについて述べています。またパウロは、「弱い私たち」また「私たちはどのように祈ったらよいかわからない」という表現が使われています。 そして、ここでは信者の祈りではなく、信者のうちに住み賜う聖霊について書かれています。 ある悩んだ人は、次のように告白したことがあります。「私には聖書を読む力がない。祈る力もない。だから、私になしえることは、イエス様によりすがることだけだ。」と証ししたのです。 御霊の力により頼まない信者は、全く役に立たない者なのではないでしょうか。なぜならば、イエス様は、わたしから離れたら何もすることができないとはっきり宣告して下さったからです。 もし、私たちが自分自身を御霊にゆだね、御霊の導きに従うならば、御霊はいったい何をなさるのでしょうか。 御霊はまず、はっきりとした確信を与えます。すなわち私たちが救われた者であり、生けるまことの神の子供であり、栄光の御霊によって私たちが栄光に預かる者とされると言う確信を与えてくれます。 それから、言うまでもなく必要な力も与えてくださるのです。ですから、ローマ人への手紙8章26節に、「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。」と述べられています。 私たちはしばしば弱い、力のない、どうしたら良いかわからない自由を持たない状態に陥りますが、その時、御霊は助けてくださるのです。 信ずる者もしばしば八方ふさがりの状態に陥ります。けれども、どのような状態になろうとも信ずる者のうちに住んでおられる聖霊は力に満ち、確信に満ちています。 たとて、私たちが今絶望したとしても、御霊ご自身が私たちのために、とりなしをして、助けてくださいます。 こうして、私たちの弱さは祝福されたものとなります。 私たちが自分自身の求めることを追求するのではなくて、御霊ご自身に自分を明け渡すことができれば、本当に幸いであります。 私たちは救われるために救われただけではなく主によって特別に選ばれた者であるとパウロはよく手紙の中で書いたのです。 生ける望みとは、自分が主によって選ばれた者であるという確信に基づいています。 パウロは、永遠の昔からイエス様に与えられた人々をあらかじめ知っておられ、あらかじめ定められたとローマ人への手紙8章の29節に書いたのであります。 ローマ人への手紙8:29
主は、現在あらかじめ定められた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認めてくださるのです。 ある人は、人間はあらかじめ信者と未信者に定められており、未信者に定められている人は、いくら求めても主を見いだすことができないと言います。 けれども、これはもちろん決して聖書的ではないし、とんでもない間違いです。 イエス様は、私のもとに来る者を決して拒まないとおっしゃいました。もちろんイエス様のところへ意識して行きたくない人は、強制されません。 聖書は、イエス様がすべての人のために死なれたこと、そしてすべての人がイエス様にあって生きること。そのために死なれたとはっきり言っているのです。 父なる神は、永遠の昔からイエス様を受け入れる人をご存知であられ、イエス様の血によって清められ義とされる人々を永遠の昔からご存知でした。 父は私たち人間に自由意志をお与えになり、私たちが恵みを受けるか、恵みを意識して拒む者になるかを、私たちの自由意志におまかせになりました。 父は恵みを受ける人を救われる人をあらかじめ知っておられましたけど、定めておられたのではありません。 父が定めておられたことは、自由意志をもってイエス様を受け入れた人々が御子に似る者となることを定めてくださっているのです。 いわゆる予定説と言うのは、救われる人々が後になって間違いなく栄光に預かる者とされるということを述べているのです。 義と認められた人々は、必ず栄光に預かる者とされます。 ですから、パウロは次のように記しました。 ローマ人への手紙5:1
私たちは結局、義と認められている。良しとされている。永久的に良しとされているのです。 救われることに対しては、すべての人が救われることが主の御心であると、聖書ははっきり述べています。 テモテへの手紙第I、2:4
すべては、すべてです。 ペテロの手紙第II、3:9
主は、すべての人々がただへりくだる心を持って恵みを受け入れれば、恵みを与えてくださるということを約束しておられるのです。 言うまでもなく、人生において最も大切なことは、イエス様を救い主として受け入れることです。 死んでからの後悔は、役に立ちません。 恵みによって信仰に導き入れられた人々が、イエス様の姿に似た者と変えられる。この確固とした確信によって、生ける望みが生まれます。主のご計画を成就するためにすべてが働きます。 悪魔は、私たちをイエス様から引き離し、私たちの確信をぐらつかせようとチャンスをねらっています。けれども、悪魔でさえも主の目的を成就するための道具にすぎません。 イエス様は、私たちの手をしっかりと握っておられ、私たちが離そうとしても、イエス様のほうで、その手を離されません。ですから、ヨハネの福音書の10章28節は、素晴らしい約束です。 ヨハネの福音書10:28
私たちは、すべての悩みの背後にはイエス様がおられ、すべてご存知であられるということに私たちは確信を持っています。 すべてのことを働かせて益としてくださるためには、ひとつの条件があります。その条件とは、主を信じるだけではなくて、主を愛することです。 主を愛する愛は、無条件の愛でなければなりません。主の愛を受け入れる人は、主を愛さざるを得なくなります。聖書の一番知られている箇所は、言うまでもなくヨハネの福音書3章16節でしょう。 ヨハネの福音書3:16
もうひとつは、ローマ人への手紙8章29節も、やっぱり考えられないほど大切です。 ローマ人への手紙8:29
ここでは、「ひとり子」ではなく「長子」と書いてあるのです。神のひとり子。それから長子となられると書いてあります。 このふたつの言葉の違いは、いったいなんでしょう。主なる神のひとり子は、彼に続いて、ほかの兄弟が生まれることによって、長子となります。 父のご目的は、ひとつの家族を作ること。イエス様と多くの兄弟達の家族を作ることです。 イエス様を救い主として受け入れる人は新しく生まれた人です。新しく生まれた人は、御子の姿に似た者になるということを主は定めてくださったのです。 父が定めてくださったことは必ず成就します。私たちは、イエス様と似た者と変えられるようになります。これこそが、私たちの確信です。私たちの確信であり、生ける望みでもあります。 もう一箇所ヨハネの手紙第Iの手紙3章から読みましょう。 ヨハネの手紙第I、3:2-3
最後に、はじめに読んでもらった箇所を読んで終わります。 ペテロの手紙第I、1:3
こういうふうに言える人は本当に幸せなのではないでしょうか。 |