主は生きておられる


ベック兄

(御代田喜びの集い、2009/08/02)

引用聖句:コリント人への手紙第I、15章1節-20節
1兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。
2また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。
3私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
4また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、
5また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。
6その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。
7その後、キリストはヤコブに現われ、それから使徒たち全部に現われました。
8そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現われてくださいました。
9私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。
10ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。
11そういうわけですから、私にせよ、ほかの人たちにせよ、私たちはこのように宣べ伝えているのであり、あなたがたはこのように信じたのです。
12ところで、キリストは死者の中から復活された、と宣べ伝えられているのなら、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はない、と言っている人がいるのですか。
13もし、死者の復活がないのなら、キリストも復活されなかったでしょう。
14そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。
15それどころか、私たちは神について偽証をした者ということになります。なぜなら、もしもかりに、死者の復活はないとしたら、神はキリストをよみがえらせなかったはずですが、私たちは神がキリストをよみがえらせた、と言って神に逆らう証言をしたからです。
16もし、死者がよみがえらないのなら、キリストもよみがえらなかったでしょう。
17そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。
18そうだったら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのです。
19もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。
20しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。

今朝の題名は、「主は、生きておられる。」、この集会の雑誌も同じ名前です。「主は生きておられる。」
毎日、何回も覚えるべきなのではないでしょうか。どういう状況におかれていても、どういう問題を持つようになっても、主は生きておられると覚えると希望が湧いてきます。
ですから、この生きておられる主、すべての背後に支配しておられる主を仰ぎ見ることこそが、大切なのではないでしょうか。ですから、ヘブル人への手紙の著者も書いたのです。イエスから目を離さないでいなさい。

人間は、確かに簡単に惑わされます。宗教に入った人々は、みんな知らないうちに騙されています。イエス様は、要求するお方ではない。与えるお方です。もちろん偽物ではなく本物です。
またイエス様は、導きたい、教えたい、守りたいと望んでおられるお方です。このイエス様とは、確かに人間の罪を明るみに出すお方です。
ある人は、「いやぁ、私の罪は大きすぎ。赦され得ない。」と思います。これこそ悪魔のうそです。イエス様は、どういう罪も赦したくて赦したくて仕方がないお方です。

確かに、罪を明るみに出すお方ですけど、赦してから忘れて下さるのです。そして、用いようと望んでおられるお方です。
イエス様は、へりくだる者に豊かなる豊かななる祝福を与えてくださるし、イエス様は近づいてくる一人一人を恵んで下さるに違いない。
主は、生きておられます。

イエス様が十字架につけられた時、皆さん覚えているでしょう。もう希望を持つ人は、一人もいなかったのです。3年半、イエス様と生活した弟子達は、みな逃げてしまいました。臆病ものよりも、もうどうしようもない者になっちゃったのです。
信じたつもりだった。けれども、もう終わり。この同じ人々はね、急にまた元気になった。彼らがなんと言ったかと言うと、「神は、このイエスを甦らせました。私たちは、みな、そのことの証人です。」
だから彼らは、当時の知られている全世界に出かけて、福音を宣べ伝えたのです。

キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるために死んでまた生きらてたのです。イエス様は、主です。絶対的な支配権を持つお方です。すべての背後にイエス様は目的をもって導いて下さるお方です。
イエス様は、確かに罪滅ぼしのために犠牲になられた。それだけではなく、どうしようもない人間が喜びの満たされるためにも、死なれたのです。
パウロはコリントに居る人々に書いたのです。

コリント人への手紙第II、5:15
15また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。

本当の意味で自由になろうと思えば、イエス様のために生きることによって大いに祝福されます。もはや自分のためではなく、復活なさった方、王の王、主のために生きることとは最高の特権です。
イエス様は結局、人間一人一人の過ち、わがままのために十字架につけられました。そして、葬られ、すべての罪人のために死ぬ刑罰を受けられたのですけど、イエス様は死んだままではありませんでした。
イエス様は甦られました。イエス様は、生きています。

確かに、この事実を心から信じ、宣べ伝える人々は少なくなった。悲劇です。ドイツの牧師さんたちの17%だけ、イエス様の甦りを信じています。もう悲劇的です。イエス様が、復活なさらなかったら、再臨もあり得ない。単なる夢に過ぎない。
けれども、イエス様は復活なさいました。生きておられるからです。釈迦は死にました、孔子も死にました。マホメットも死にました。死んだまま。復活したと誰も言っていない。
けれどもイエス様は生きておられます。言うまでもなく、聖書の中で、この事実について語っているだけではなく、当時の歴史の本の中で、はっきり書かれています。

イエス・キリストは、復活なさいました。生きておられるお方です。今日も支配しておられるお方です。
イエス様は、罪の山のような重荷を背負って、十字架に行かれました。そしてイエス様は、死んでその身を置かれたのです。そして、勝利者として、墓から甦りました。
イエス様は死から甦られた最初の方です。イエス様が甦らせた死人は、後で再び墓の中に戻らなければならなかったのです。けれども、イエス様は、死に対する勝利者であり、イエス様に対しては、死ももはや力を持っていません。

イエス様が甦られたということは、イエス様の死という犠牲が、我々のすべての罪を贖うのに十分であると、父なる神が認められたことを意味しています。主なる神は、死からのイエス様の甦りを行うことによって、結局、全世界に知らされました。
すなわち、イエス様は全世界にの罪の贖いとして、完全であり、十分であるということをお知らせになったのです。
私たちは、死んだ救い主を持っているのではない。イエス様の命は、十字架で終ったのではない。私たちは、復活なさったお方を持っているのであり、その主は、永遠の命に溢れているのです。永遠の命そのものです。

確かに自然の力は、すごいものです。北ドイツなんですけど、そこで一つの墓があります。この墓は、大きな固い岩で覆われていました。
おそらく死ぬ前に、持ち主は命令して書かれるようになったのです。すなわち何を書いたかと言いますと、「この墓は、永遠に開かれざるべし。」とあります。
けれども墓の中にいた小さな白樺の種が、大きくなって固い岩を壊した。この白樺は、傲慢な人間の言葉を、あたかもあざ笑うかたのように、岩の隙間から成長したのであります。

自然の生命力は、岩をも粉砕することができるのです。けれども、復活なさった、今日も生きておられるイエス様の生命力は、どんなことができるのでしょうかね。
このイエス様の生命力は、人の死んだ精神力を、生きた命に目覚まし、石のような人の心を、肉の心に変えることができるのです。
たとえば、新しく生まれた子供は、まさしく主なる神の力の奇蹟です。けれども、再び生まれた人間は、主なる神の命の奇蹟そのものです。イエス様の生命力は、非常に強いので、あらゆる病人はイエス様が触るだけで癒されたのです。

おそらく多くの医者は言います。「残念ですけど、手遅れ。」、イエス様はそういうことを言ったことがない。もし、そういうことを言ったなら偽物でした。詐欺師だった。本物ではなかった。
イエス様に出会った病人は、みんな例外なく癒されたのです。当時、それを疑った人は、もちろん一人もいませんでした。
イエス様が、その人に新しい命を与えるとき、その人の精神は、今日、当時の人々が体に経験した奇蹟を精神に体験するのです。

我々の精神は、主なる神に対して死んでいます。それが生きます。我々の精神は、主なる神の声が聞こえません。それが、聞こえるようになります。
我々の精神は、主なる神に対して盲目です。それが見えるようになります。
我々の精神は、主なる神の奉仕に対して、しびれています。それが働くようになります。これが、イエス様の命の奇蹟の結果であります。

人間の死んだ精神が生き、そして死から出て命に至るということは、絶対的に必要なことです。
イエス様は正しい生活を送った、そしてよく聖書を研究した学者に、ニコデモという男に言いました。

ヨハネの福音書3:3、7
3「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
7あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。

これは、もちろん誰にでも当てはまる言葉です。誰でもが、新しく生まれ変わらなければならない。
どうでしょうか。私たちが、今のままの状態では、主なる神の国で、生活できないということを知っているのでしょうか。自分の力で新しい生活を送ろうと試みたことがあるのでしょうか。
その新しい生活とはどういうものかと言いますと、絶対に誠実で、絶対的な愛をもって、絶対的に清く、完全に自己を滅ぼした生活を意味する。この新しい生活を送ろうと試みたことがあるのでしょうか。

その試みはいかがだったでしょう。みんなわかる。失敗の生活でした。まじめに試みれば、試みるほど、失望するに違いない。
たとえば、死んだ体が浅間山に登ることができないのと同じように、私たちは新しく生まれ変わることなしには、新しい生活を送ることはできません。
いくら自分の力であらゆる努力をしたとしても、それは、新しい生活の借り物や真似ことにしか過ぎません。

誰でもが、新しく生まれ変わらなければならない。けれども、どうやって新しく生まれ変わることができるのか。
死人が自分で再び生きることができないのと同じように、自分の力で生まれ変わることができる者は、誰もいません。主が、そのことを為すに違いない。そして、私たちは、それに反対してはいけません。
イエス様にそのことを知らせましょう。私たちは、イエス様との交換を認めます、すなわち私たちの持っているもの、すなわち、自分の罪を、自分の弱さ、自分の不信仰、自分の疑問、自分の疑い、悔い改めたくない心を主に与えるのです。

我々の罪は、イエス様の死となりました。イエス様は、我々のために十字架につけられました。これは幸いですが、これは効果の半分でしかない。今や、私たちは、イエス様の持っている命と義を受け取るのです。なんと言う効果でありましょう。
私たちは、死と命を交換します。イエス様の命は、我々の命となるのです。これが、新しく生まれ変わるということです。
パウロは、主イエスは私の命であると喜んで告白しました。これこそが、新生ということを味わったのです。

私たちはたぶん、今まで効果の最初の半分だけを知ったに過ぎないかもしれない。すなわちイエス様に自分の罪を与えた、主の前に告白しただけかもしれない。どうか意識して残りの半分の効果も有効にしたいと思わないでしょうか。
すなわち、イエス様の贈り物としての完全な義と命を受け取りたいと思わないのでしょうか。そうすれば、新しく生まれ変わり、イエス様がご自分の子供と呼び、ご自分の相続人として受け入れて下さるということを、よりしっかり確信するようになります。
よく知られているヨハネの福音書1章12節に、つぎのように、イエス様は言われました。

ヨハネの福音書1:12
12しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

イエス様の教えを信じ込んだ人とは書いていないのです。もちろん、キリスト教に入るものとも書いていない。洗礼を受ける人はとも書いていない。「イエス様を受け入れた人」です。「その名を信じた人々には、神の子供とされる特権をお与えになった。」
もし私たちが、新しい命という贈り物を受け取ったならば、主の最も大きな願い、どうしようもない人間との交わりという願いが満たされるのです。
そして、人間の最も深い要求である主なる神との交わりが満たされるのです。

主の命を内に宿した所の新しく生まれ変わった人間とだけ、主は、本当の交わりを持つことができるのです。復活なさったイエス様によって、主なる神は我々に非常に近いお方となります。イエス様との交わりは完全な満足です。
精神生活の孤独は止みます。愛情の渇きは静まるのです。あらゆる欲望と、あらゆるむなしい努力は無くなるから、私たちは完全な心の平安を得るのです。
私たちは、イエス様が、「私は小羊たちが命、すなわち豊かなる命、完全なる満足を得るためにやってきた。」と言われるとき、イエス様の思っておられることを知るのです。

これは、人間の完全な満足を見いだそうと試み、その当然の結果としてひどく失望させられたすべての人にとって、喜ばしい知らせです。
人の心を満足させることは、復活なさったイエス様だけができるのです。それから、イエス様を信じ受け入れた人にとって、非常に大切なのは、イエス様をよりよく知ることです。
どういうふうにイエス様をよりよく知ることができるかと言いますと、静まることによってです。朝ご飯の前や、仕事の前、聖書を開いて祈ること、いわゆる静かな時を持つことこそが、イエス様をよりよく知るために毎日の戦いのために必要なのであります。

私たちが、もちろん集会に行くことができること、そのことがそんなに大切でないとしても、この静かな時を持つこと、静まること、「イエス様語ってください。しもべは聞いています。」、この態度をとることこそが、考えられないほど大切です。
人が呼吸しないでは生きていけないのと同じように、信じる者は、この静かな時を持たない限り、主をよりよく知ることができないし、御心にかなう生活をすることは、もちろんできません。
このいわゆる静かな時に、イエス様の命が絶えず我々の命に染みこんで来ます。イエス様との交わりが、深くなれば深くなるほど、我々の交わりは豊かなるものになります。

イエス様は、我々の精神、魂、神経、体にとって、命の泉であり、力の泉です。
イエス様の中には、命の力が溢れています。私たちは、イエス様から命を得て生きるということをまずよく学ばなければならない。
信ずる者として、私たちはイエス様から絶えず流れている命を得ていなければならない。それは、時々であったり、気まぐれであったりしてはなりません。

もし、人が暗い部屋に明かりを持って入りますと、明かりがある間もちろん明るいです。けれども、その明かりのもとが無くなると、当然暗くなってしまいます。すなわち絶えず灯っている明かりを必要とするわけです。
そのことは、私たちの命においても同じことです。
私たちの命は、どういうものかと言いますと、いつも暗いものです。我々は、イエス様の光の泉に依り頼まなければ、いつも暗いものであります。

もし、子供が生まれると、その子供は、両親から離れて命を持ちます。その子供は、両親が死んでも生き続けます。けれども、新しく生まれ変わった人の命はそうではない。
その人の命は、自分自身の中に生命をお持ちになっているただ一人のお方、すなわち、復活なさったイエス様に依り頼まなければなりません。
新しい人の命の秘密は、なんという深いものでありましょう。すなわち、主イエス様と私の二人の毎日の絶えざる命の交わりです。

けれども、交わりには義務があります。どんな交わりも、別れるということが条件になっています。
交わりは、深くなれば深くなるほど、別れもまた深くなって参ります。
夫婦に於ける交わりも、別れることが条件になっています。

エペソ人への手紙5:31
31「それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる。」

もちろん旧約聖書の引用なんですけど、甦られたイエス様との命の交わりは、この世と別れることが条件となっています。
一週間に、土曜と日曜だけ自分の妻と過ごし、ほかの日は、他の者と過ごそうと考えてみたらどうでしょうかね。それは、日曜日だけ主と過ごし、ほかの日はほかの主人に仕えているというキリスト者に似てるのではないでしょうか。
聖書は、このようなごとくに生きる信者について、非常に厳しく語っています。イエス様の肉の弟のヤコブは、その手紙の中で書いたのですね。非常に厳しい言葉です。信じる者に書かれた言葉です。

ヤコブの手紙4:4
4貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。

この世との交わりは、イエス様とつながっている人にとっては、姦淫よりも悪い。それは、イエス様に敵対する姦淫であると、ヤコブははっきりと書いたのであります。
ある時、救われていない人々を、本当に心から導こうとして、ダンスホールへ行った娘さんがいました。その娘さんは、踊りながらパートナーに、「あなたは、イエス様を信じるの?」と尋ねますと、その男は、「もちろん、違うよ。」と答えました。
「けど、あなたは、キリスト者か?」と聞きました。娘が、「はい、そうです。」と言うと、その男は、「こんな所で、何をしようとするの?」と言いました。

この世の人々は、見せかけのキリスト者を嘲笑います。
また、この世の人々は、このようなものを身につけているキリスト者を笑います。

ローマ人への手紙14:9
9キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるために、死んで、また生きられたのです。

主は、絶対的な支配権を持つ方となるために、死んでまた生きられたのですとあります。イエス様は、完全に我々に満足しておられるのでしょうか。我々が、満足してるかどうかじゃないよ。主が、満足しておられるかどうかが問題です。
その過ごした時間が、イエス様との交わりだったでしょうか。また自分の心が、イエス様のほかにもちたいと思っているすべてのことから、完全に離れているのでしょうか。
あるいは、イエス様の御言葉であるヤコブの書いた、今読みました言葉は、我々に当てはまるのでしょうか。

貞操のない人たち、イエス様との交わりをおろそかにすることは、聖書によると罪です。
イエス様が我々をお呼びになる時、時間があるなのでしょうかね。義務と名付けているほかの事柄がもっと大切なのでしょうか。仕事が先、交際が先、本を読むことが先、その他、いろいろなことが先なのでしょうか。
そして、寝る前の最後の5分、すなわち一日の最後の残りを、甦られたイエス様に捧げるのでしょうか。

エペソにいる兄弟姉妹に、復活なさった、高くあげられたイエス様は言わざるを得なかったのです。「あなたには、非難すべきことがある。あなたは、初めの愛から離れてしまった。」
もちろんエペソの兄弟姉妹は、それを夢にも思ったことがない。私たちはイエス様から離れてたんて、あり得ない。けれども、主の判断はそういうものでした。
私たちは、イエス様が第一の場所をしめ、イエス様との交わりが、自分の一日の喜びとなるために、自分の一日の役割を変えようと思わないのでしょうか。

イエス様は、死んだ人にとっても生きている人にとっても、主となるために死んでくださいました。
イエス様との交わりが、自分の喜びなのでしょうか。それとも、自分は、イエス様との交わりを断ち切れられたなのでしょうか。
自分は、以前にはイエス様と一緒にいて、今では、再びこの世の中にいるようになってしまったかもしれない。

あなたの心には、復活なさったイエス様の愛に燃えていた時もありました。けれども今は、あんまりたくさんの灰が残っていますので、自分は下で燃える命にほとんど気がつきません。
自分は、この世と共に歩き、しかも私はキリストを知らないと言わないけど、状態で、それがわかる、キリストを否認する信者になってしまった。
私たちが、主に背中を向けたその時も、イエス様の愛は絶えず誠実に続いていたのです。

主の腕は、我々を抱きかかえようと毎日、手を広げられています。
イエス様は、そむいた人にも、私に来る者を決して拒みはしませんと言う素晴らしい言葉を、残しておられます。
誰でも、このイエス様の、言葉によって、イエス様のもとに行くことでき、主の前にすべてを告白して、イエス様の血はすべての罪から清めて下さるのです。そうすれば、すべてが元通りに良くなる。

そして、イエス様との交わりを曇らせる陰はありません。甦られたイエス様が、我々の主、我々を支配なさるお方にならなければならない。
十字架にかけられた救い主は、仕えられるためにではなく、仕えるために、多くの人の贖いとして自分の命を与えるために、来られました。
それに対して、復活なさったイエス様は、主であり、我々の生活を支配することを、要求するために甦られたのです。

イエス様は、我々にそれを要求する権威を持っておられます。それどころかイエス様は、我々に二重の権威を持っておられます。すなわちイエス様は、我々をお造りになり、私たちはイエス様に造られた者として、完全に主の御手のうちにあるのであります。
また、イエス様は、私たちをご自分の血で贖って下さったのです。ですから、私たちは二重に私たちのものです。
けれども、イエス様は、実際に我々の命において主なのでしょうか。主は、我々を、導くことができるのでしょうか。守ることができ用いることができるのでしょうか。

悲劇的なことがあります。多くのイエス様を信じる者は、イエス様を奴隷以上のものに取り扱っていることはないでしょうか。
悩みに沈んでいる場合、彼らはイエス様の助けを求めます。弱っている時、彼らは、力を得たいのです。自分一人でできない時、イエス様が飛び込んでもらいたい。助けてもらいたい。イエス様は、彼らにとって、彼らに仕えるお方なのです。
イエス様を信じながらそう言う人たちは、イエス様の支配は欲しくない。聖書は、そのようなキリスト者は、肉のキリスト者と呼んでいます。なぜなら、肉、すなわち自己は支配を持っているからです。

そこには、多くの悩みがないでしょうか。私たちは、自分のための生活が、本当の信仰生活にとって障害となっていることをしばしば感じます。
私たちは、しばしば傲慢になります。また、名誉欲もあります。劣等感もあります。これこそが、自己の支配の結果です。
けれども、自己の専制政治から解放されるためには、私たちは、どうやったらいいのでしょうか。その自己は、我々にとって、我々の一生涯の陰のようなものではないでしょうか。

それなら、新約聖書の求めているような生活は、我々のうちでできる人は誰もいないでしょう。もしそうなら、主の御言葉は、夢や妄想のようなものでありましょう。自分自身の権力から自由になるために、ここに一つの道があります。
すなわちイエス様は、全人類の代表者として十字架におかかりになったのです。そして、イエス様は、我々の代理人でもあります。イエス様に起こったことは、我々の自己にも、起こったのです。なぜなら、私たちはイエス様と共に十字架につけられたから。
イエス様が十字架で両手両足を打たれた時、我々の両手両足も、穴を開けられたのです。

イエス様は、十字架にかかり何にもすることが出来ず、行うことができなかったその時、我々の自我も活動の外に置かれたのです。
十字架にかかったものが、他に何ができるのでしょうか。十字架にかかった者は、消されたのであり、だめになったのです。
これと同じことが、十字架を通して、あなたや私に起こったのです。なぜなら、私たちの古き人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪の体が滅びて、私たちがもはやこれからは、罪の奴隷でなくなるためであることを私たちは知っていると、ローマ人への手紙6章に書かれています。

ローマ人への手紙6:6
6私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。

永遠に当てはまることは、すなわち聖書によれば、我々の古き人は、キリストと共に十字架につけられたということがすでに起こった事実であるということになります。
それと同時に、暴君である古き人に打ち勝とうとする努力は、むなしいものであり、無駄なものであり、必要でないものです。
私たちは、古き人を押さえつけることができず、それと戦うこともできません。また、私たちはその古き人を、良くすることも変えることもできません。

私たちは、一つのことをすることができます。すなわち古い人は、主とともに十字架につけられ、私たちがその古い人を主にゆだねる時に、イエス様がその古い人を十字架でしっかり掴んでくださる力を持っていることを、信じることです。
これは、我々の生活における支配者の交代です。支配者は、もはや私たちではなくて、イエス様です。イエス様は、我々の生活における制限されない主であります。
もし、イエス様が完全な支配者となった時、その命は、もっとも深い核心、すなわち新しくなることが起こるのです。

私たちはイエス様の意志を無条件に受け入れるのです。私たちは、自分をイエス様に与えるのです。100%。無条件に余すところ無く与えるのです。
我々の意志は、我々の主のものです。私たちは、祈るたびごとに、イエス様を主と呼びます。本当に、そういう気持ちでしょうかね。
制限されない主の支配より、ほかに人間の生活における偉大なものはありません。これが、真の自由であり、まことの解放です。

イエス様が、我々の生活の主である時、その主である程度に従って、イエス様は我々の生活に対する責任を持っておられるのです。
もしも、私たちがイエス様に半分だけ支配を与えているとしますと、私たちの肩には、なお半分の責任が残っているわけです。このことは、多くのキリスト者の生活を重苦しくしています。
甦られたイエス様は、すべてを、すなわち私たちの内部的、および外部的生活の全責任を、担いたいのです。

私たちは、イエス様に第一の場所を与え、私たちは第二の場所に立つのです。これは、我々を非常に苦しめていた課題からの解放ではないでしょうか。
私たちはなお自分自身の手や心の中に、自分の生活の支配を持っているのでしょうか。それはなんという重荷でしょう。
イエス様は、いつも困難ということを知らず、いつも問題の答えを持っておられる最も良いとりなし人です。

我々の生活の支配を、復活なさったイエス様の御手にゆだねましょう。イエス様は、十分です。
復活なさったイエス様は、我々の生活から何をお造りになることができるのでしょうか。それは、新しい生活、満たされた生活、イエス様の支配している生活、実を結ぶ生活です。
イエス様は、完全な命の交わりを我々に提供しています。すなわちイエス様、復活なさったイエス様と共にする二人の生活を差し出しておられるのです。

それは、婚約の場合と同じではないでしょうか。ある青年に、完全な生活の交わり、すなわち結婚を申し込まれた娘さんは、なんと答えることができるのでしょうか。もちろん、「はい」か「いいえ」です。
けれども、それは絶対的な「はい」か「いいえ」でなければならない。この「はい」と言う返事は、二人の人間を最も深い交わりに導くのです。また、この「いいえ」と言う答えは、二人の道を分けるのです。
甦られたイエス様が、もしもある人に永遠に続く聖なる交わりを提供されますと、それは、その人の生活における最も偉大で重要な時が来た時を意味します。

最後にもう一箇所読んで終ります。ホセア書の2章です。よく引用される箇所です。
確かに当時のイスラエルに与えられた御言葉です。けれども、我々にも与えられている主の言葉です。

ホセア書2:19-20
19わたしはあなたと永遠に契りを結ぶ。正義と公義と、恵みとあわれみをもって、契りを結ぶ。
20わたしは真実をもってあなたと契りを結ぶ。このとき、あなたは主を知ろう。

単なる助け手としてではなく、主を知るようになる。幸いに、ここでは複数形ではなくて、いつも単数形なのです。「あなた」。
主は、人間ひとりひとりを考えられないほど大切にするお方です。私たちは、イエス様になんと答えましょうかね。もしも、イエス様に、あなたが「はい」と言えば、あなたが何か失いますか?それとも全部を得るのでしょうか。どちらかでしょう。
無条件に自分の生活を、復活なさったイエス様の御手にゆだねましょう。イエス様の誠実なしもべであったパウロの告白を、今日、自分のものとして、名前をその下に書こうではありませんか。

ピリピ人への手紙3:8
8それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。

私の主であるキリストと言える人は、本当に幸せなのではないでしょうか。




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