引用聖句:使徒の働き26章1節-20節
今朝の題名は、「光に照らされる大切さ」について一緒に考えてもらいたいと思います。 ヘブル人への手紙10章32節に「あなたがたは、光に照らされた」という表現が出てきます。どうして、光に照らされることとはそんなに大切なのでしょうか。光に照らされた人は、救われ、新しく生まれ変わっているからです。 今読んでもらいました箇所の中で書いていますね。もう一回13節を見てみましょうか。 使徒の働き26:13-15
この一文章によって、彼はペチャンコになっただけじゃなくて、想像できないショックを受けたのです。 ご存知のように彼は、信じる者の大迫害者でした。けれども彼は光に照らされて、天からの声を聞いて本当にびっくりしました。 「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」という声を聞いて「あなたはどなたですか。」と尋ねました。そしてその答えは、「わたしは、イエスである。」 パウロはここで予想しなかったでしょう。「何ですか。イエスはまだ生きているの?イエスは十字架の上で死んでしまったのではないか?このイエスに対する思い出を殺すために、私は夜昼、信じる者を迫害しているじゃないか。イエスは生きているの?」、パウロにとって想像できないショックでした。 けども彼は光に照らされた瞬間から、イエス様によって捕らえられたのです。イエス様によって閉じ込められ、監禁されてしまったのです。光に照らされたことによって、パウロは自分自身の本当の心の立場、心の状態を見たわけです。それだけじゃなくてイエス様の価値、イエス様の偉大さをすばらしさを知るようになりました。 後で彼は、ガラテヤにいる兄弟姉妹にこの体験について次のように言ったのです。よく知られている箇所です。 ガラテヤ人への手紙1:12
人間に教えられた、納得させられたのではない。上からの光によって照らされた。イエス・キリストの啓示によって、彼は奇跡的に導かれ、救われました。 後で彼は、ピリピにいる兄弟姉妹に、この考えられない変化について書いたのです。 ピリピ人への手紙3:8-9
すばらしい証しです。 イエス様によって捕らえられたパウロの使命は何だったでしょうか。前に読んでもらいました箇所の中で出てきた、使徒の働き26章17節 使徒の働き26:17-18
光に照らされたサウロという男は、パウロになったのです。 イエス様の一人の弟子ヨハネは、また次のように言ったのであります。ヨハネの福音書1章5節 ヨハネの手紙第I、1:5
主なる神は、ご自身を「光の父」と呼んでおられます。すなわち主なる神は、近づきがたい光に住んでいます。 悪魔の罪の結果は、荒廃と闇夜でした。主なる神は身を引かれました。だから地は闇となったのです。 けども神のことばによって、光ができました。 創世記1:2-3
主は命令すると、命令どうりになる。 詩篇の作者は、33篇9節で言ったのです。 詩篇33:9
光のない世界はどんなでしょう。考えることができませんが、けれども喜びのない世界であることは確かです。光は、主なる神から出るいのちの力です。光はいのちであり、闇は死です。 神は光あれと言われた。すると光があった。何と簡単なことでしょう。何という主の御業でしょう。信じる者とは結局、それを経験したのではないかと思います。 だからパウロはコリントにいる兄弟姉妹に書いたのであります。 コリント人への手紙第II、4:6
私たちはすでにこれを経験したのでしょうか。主なる神は、私たちの生活にまた私たちの暗きうちに、すでに語りかけたのでしょうか。「光よ。あれ」人間の生活にも、回復の奇跡が行なわれます。 それは十字架への道です。もし聖霊が、我々の心の奥底を照らすならば、その時私たちの心の目は開き、罪人であることを悟り、イエス様なしには永遠に滅びることを知ります。 いくら顔が汚く汚れていても、夜では見ることができません。そんな時、明かりがついたら汚さに驚いてしまいます。 上からの神の示しがない限り、光に照らされることがない限り、誰も自分の心の汚さを認めることはできません。私たちの不幸な暗い心の内に、「光あれ」という主の御声がかかる時に、私たちは新しく作られます。もし主が、我々の暗い心に「光あれ」と言われれば、私たちの心に光が差し込みます。 イエス様は約束しておられました。「わたしは、世の光そのものです。わたしに従ってくる者は、闇の内を歩まずいのちの光を持つ」と言われたのであります。 私たちは皆、もうすでにいのちの光をお持ちでしょうか。 もしもイエス様に従わなければ、その光を持つことができません。選ぶことが必要です。 私たちはイエス様の光を持っているのでしょうか、あるいは自分の闇なのでしょうか。意味は、イエス様を光として受け入れるか、拒むかのどちらかです。 「光よあれ。」すると光があったと経験する人は本当に幸いです。光に照らされることとは何でしょうか。今話したように新しく生まれ変わることです。ヨハネの福音書3章5節イエス様は、ある宗教家、聖書学者であるニコデモに言いました。 ヨハネの福音書3:5
宗教を持つことは大切なのではない。神の光に照らされることは最も大切です。ニコデモは当時の宗教家、パリサイ人であって、ユダヤ人の指導者でした。彼は、非常に良くできた立派な人格者であったことは明らかです。イエス様でさえも彼に、「あなたはイスラエルの教師である」と言われました。 彼も他のパリサイ人と同じように、必ず毎日祈り、祈るために宮に登りました。また彼は確かに週に2度断食して、全収入の十分の一を捧げました。けれども彼は神の国を見ることが出来なかったのです。なぜならば、彼はまだ神の光に照らされていなかったからです。 彼は、初めからイエス様を先生として認めました。けど彼は、後で光に照らされて主を信じたに違いない。ちょっと2箇所を見ると解かりますね。 ヨハネの福音書7:50-51
はっきり結局、イエス様の側に立てたのです。 ヨハネの福音書19:39-40
ニコデモとはどうしてこういう風になったかと言いますと、もちろん光に照らされたからです。 光に照らされることは救いを経験することです。だからパウロは、エペソにいる兄弟姉妹に書いたのです。 エペソ人への手紙2:8
だだで与えられるプレゼントです。多くの人は、働きによって、行ないによって救われると思い込んでしまっています。救いを働いて自分のものにしたいと思っていますけど、神の光に照らされた人はそう思っていない。救いは完全に、ただで与えられると確信する人々です。 イエス様のなされた救いは、お金なしに値段なしに受け取ることができるのです。もし私たちが、イエス様のところへ行くなら、そして私たちをイエス様が十字架で完成された働きにまかせるなら、そしてまた私たちがこの瞬間にイエス様に頼るなら、私たちは救われます。 光に照らされることは、イエス様を受け入れることを意味します。ヨハネは書いたのです。 ヨハネの福音書1:12
一つの人格すなわち主イエス様を受け入れることが大切です。だから聖書ははっきり言っています。 すなわちどうか福音を信じ、イエス様のために、あなたの心の扉を開きイエス様を心に入れてください。イエス様は入ることを待っておられます。入ることを願っています。 ヨハネの黙示録3:20
すばらしい約束であり、主の御心を表すことばです。 私たちは、イエス様が扉をたたいているのを聞いても、扉を開けないままでいるのでしょうか。言うまでもなくイエス様は、強制しません。鍵はただ内側に、人間の側にあるということを絶えず考えるべきです。人間がその扉を開かなければならない。 扉を開いた瞬間にイエス様は入ってこられます。「わたしは入りたい。」と主は言われます。どうでしょうか。 イエス様を受けさせるのでしょうか。この恵みの提供を受け取らないと、いつか後悔するでしょう。近い内に遅くなるかもしれない。 大切なのは、今何回も言いましたように、光に照らされることです。どうしてであるかと言いますと、光に照らされると、新しく生まれ変わるからです。また光に照らされることとは、救いを自分のものにすることです。 3番目、光に照らされることとは、主に立ち返ることを意味します。パウロは、テサロニケにいる人々に書いたのです。 テサロニケ人へ手紙第I、1:9
光に照らされた人は、生けるまことの神を礼拝することだけが本当の礼拝であり、他のもの全部が偶像礼拝であると知っている人です。 私たちはいったいどうしてイエス様を信じるようになったのでしょうか。解かったから、理解できたから、勉強したからなのではない。パウロは、どうしてこういう風に変えられたのか。簡単に説明したんです。 彼は、いつも啓示という言葉をつかったのです。上からの光によってという意味です。たとえばガラテヤ人への手紙1章12節、16節 ガラテヤ人への手紙1:12、16
「啓示」こそがパウロを変えたのです。主なる神の御子主イエス様を、私たちの内に啓示してくださることは、大切なのはそれだけなのです。これこそが、我々の生活の根本とならなければならない。 使徒の働きの中で同じようなことを書いています。 使徒の働き14:15
光に照らされることは、今話したように新しく生まれ変わることです。 2番目、救いを自分のものにすることです。3番目、主に立ち返ることです。 4番目、悔い改めることです。 ルカの福音書15:7、10
悔い改めることとは、悔い改めとは、罪を認め、告白し、捨て、憎み、善くすることです。自分の罪を認めることは、主なる神から与えられる大きな贈り物です。誠実な告白をするということは、もっともっと大きな贈り物です。 けれどもその罪人が自分の罪を憎み捨てるならば、そして元通りに善くするならば、それは主なる神の目的を達したことになります。悔い改めることは、180度転換することです。光に照らされた人は、罪を犯したくないと思っています。もちろん日々、罪の試みと力を感じます。 また自分の弱さを知っています。けれども罪を犯したくない。光に照らされた人は、自分の力で自分を救うことは絶対に出来ないと悟った人です。光に照らされた人は、自分で自分を救う努力が無駄であることを教えられた人です。 光に照らされることこそが大切です。 光に照らされることとは、今話したように新しく生まれ変わることです。救いを自分のものにすることです。主に立ち返ることです。また悔い改めることです。 それだけではなく、赦しが提供されていることを意味しているのであります。 エペソ人への手紙1:7
ローマ人への手紙3:24
私たちは、イエス様の働きによって、イエス様の血によって義とされます。ですから私たちは、主の働きによってのみ義とされるのであり、私たち自身の行ないや手柄によっては、義とされません。 私たちの義とされる根拠はただ一つです。それは何でしょう。 イエス様のしみのない義、すなわち汚れたところのない正しさ、私たちが当然受けるべき刑罰を、イエス様が支払って下さったこと、ここに私たちが義とされるただ一つの根拠があります。 私たちは、免れがたいただ一つの選択を迫られています。私たちは自分の罪を欲しますか、それとも十字架にかかったイエス様を欲しますか。 私たちは罪過の罪を受けたといえるでしょうか。その咎が赦され、その罪が消される者は幸いであると、ダビデはもうすでに3,000年前に証しすることができたのです。 自分がまだ救われていないことを知っているかもしれない。そしてそれを他の時にのばすかもしれない。主はこのような遅い適当な時期をご存知ない。主はこう言われます。「見よ。今は恵みの時、見よ。今は救いの日である。」と。 今何回も言いましたように、大切なのは光に照らされることです。なぜならば、新しく生まれ変わることを意味しているから。救いを自分のものにすることを意味しているから。また主に立ち返ること、悔い改めることを意味しているからです。 また赦しが提供されていることも意味しています。また決定せざるを得ないのであります。 有名な山上の垂訓の最後のマタイの福音書の7章を見ると次のように書いてあります。 マタイの福音書7:13-14
イエス様は、たとえをもって救いの道を私たちに教えておられます。 この世には2つの門がある。一つの門は広く、一つの門は狭い。またこの世には2つの道がある。一つの道は広く、一つの道は狭い。またこの世には、2つの群れがある。一つの群れはたくさんの人があり、もう一つの群れは少しの人しかいない。また、この世には2つの目標がある。一つは永遠の滅びであり、一つは永遠のいのちです。 このようにイエス様は、全世界の人々を2つに分けておられます。イエス様は、我々の心の深みまでご存知です。主が私たちを見られると同じ目を持って、私たちも自分自身を見ることができたら幸いです。 私たちの心の目を開いて、自らを省みる時、主の御前に自分は恐るべき罪人であることが解かるはずです。自分が罪人であることを教えられると、罪の告白もせずにはおれないようになるでしょう。 光に照らされた人は、狭い門から入った人です。それだけじゃなくて、イエス様のところへ行った人であるということです。イエス様を知る道は、イエス様に来ることです。イエス様に話すことです。 イエス様は必ず約束します。「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は、赦されている。」、イエス様のすばらしい約束は、ヨハネの福音書6章37節 ヨハネの福音書6:37
マタイの福音書11:28-30
光に照らされることこそが大切です。どうしてであるかと言いますと、もう一回繰り返して言いましょう。新しく生まれ変わることです。救いを自分のものにすることです。主に立ち返ることです。悔い改めることです。また赦しが提供されていることであり、また決定せざるを得ないのであり、主イエスのところに行った人です。 結局、光に照らされると、人々は信じるようになり、救われます。 聖書の中で一番よく知られている箇所とは、ヨハネの福音書3章16節ですね。 ヨハネの福音書3:16
信仰とは、望みを持ってゆるぐことなく、恵みの神を信頼することです。信仰は、差し出されているイエス様の手を掴むことです。 |