今から


ベック兄

(石川喜びの集い、2006/10/01)

引用聖句:ヨハネの黙示録1章8節
8神である主、常にいまし、昔いまし、後に来られる方、万物の支配者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。

ヨハネの黙示録22:20
20これらのことをあかしする方がこう言われる。「しかり。わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。

ドイツでひとつの諺があるのです。「昨日は過ぎ去った。明日はまだ来ていない。今日のために主は助けてくださる。」
いいですね。けれども今日の題名は、今、兄弟が言われたように、「今から」という題名です。これこそやっぱり恵みなのではないでしょうか。「今から」

今、読みました個所によると、主とはいったいどういうお方なのでしょうか。

ヨハネの黙示録1:8
8後に来られる方、

ある姉妹は、ちょっとショックを受けて言ったのです。
「私は今まで十字架の上で犠牲になられたイエス様を家族の人々に、知り合いの人々に宣べ伝えました。この十字架の上で、罪滅ぼしのために犠牲になったイエス様を紹介しただけではなく、このイエス様は復活なさった。生きておられる方も紹介したのです。けれど忘れたことがある。後に来る方、と宣べ伝えなかった。」
これも確かに大失敗です。イエス様は来られます。

われわれよりもイエス様はそれを望んでおられるに違いない。イエス様は来たくて、来たくてしょうがない。
救われるべき人は、救われるとその瞬間、イエス様は来られます。これは今日、飛行機が出る前かもしれない。イエス様は来られるお方です。
このイエス様は、しかり、わたしはすぐに来る。

初代教会の人々は、「アーメン。主イエスよ、来てください。」、これは、毎日私たちの祈りになるべきではないでしょうか。
今度またドイツに行きます。今までのドイツの憲法では、「神」という言葉は出て来たのです。結局、神を恐れることの大切さが強調されていました。
今の新しいEUの憲法の中で、もちろん「神」という言葉は出て来ない。宗教戦争になるからです。

ヨーロッパのだいたいの国々は、神とは、もちろん天と地を創造されたお方であり、十字架の上で犠牲になったイエス様です。それをイスラム教徒の人たちは絶対に許さない。だから神無しにしましょう。結局神を恐れる恐れはない。
けれどもヨーロッパから必ず反キリストが出てきます。
今の法はドイツのものなのです。頭がいい。けれども政治家にすぎません。神を恐れる恐れはない。仲良くしましょう。

イスラム教徒の神と、聖書の神とは同じです。そうすると、ある意味で円満にいくのです。けれどこの平和とは、主の与える平和ではない。悪魔の勝利です。
ですから現実を見ると、もうがっかり。けれど、イエス様は近いと考えると、やっぱり嬉しくなります。
みんなは結局、大変なことが起こると感じていますけれど、いったい何なのでしょうか。このままの状態が続くはずはない。

けれど次に起こることとはいったい何なのでしょうか。この不安が今の時代の多くの人々を重苦しく、意味無く抑え付けて、またしびれさせています。
将来はどういうものになるのでしょうか。この質問に対して答えようとする者は、いったいだれなのでしょうか。
確かに多くの人々は、自分たちの頭でこの謎を解こうとします。その結果は、別のものとなります。

多くの人々は、易者や星占い、トランプ占いによって、結局悪魔に尋ねています。その結果は、魔術や悪魔の力の中に落ち込むのです。
私たちはだれに尋ねようとするのでしょうか。将来に関して、ただ一つの権威あるものがあります。すなわち、聖書です。
私たちはこの神のみことばの権威を認めるのでしょうか。真理そのものであり、嘘を知らないイエス様は言われました。

マタイの福音書24:35
35この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。

マタイの福音書5:18
18まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。

あらゆることばだけではなくあらゆることばの綴りもすたることはないと、イエス様は言われます。私たちは自信をもって将来を聖書に尋ね、聖書に目を光らせたいものです。
ヨハネの福音書の12章の中で、イエス様は次のように言われました。イエス様は多くのことを話されたのですけれども、多くの人は、それをやっぱりひとつの教えだよと言いますけれど、違う。
イエス様のひとつひとつのことばは、イエス様ご自身の啓示そのものです。私たちは何と何と何を信ずるかは別にどうでもいい。だれを知っているのか。結局イエス様を知っているかどうかが問題なのです。このことばも、やっぱりイエス様の啓示です。

ヨハネの福音書12:46
46わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれもやみの中にとどまることのないためです。

すばらしいことばではないでしょうか。わたしは光です。宗教家ではない。昨日も今日もいつまでも、イエス様は光そのものです。
愛の光、平和の光、希望の光そのものです。イエス様を光として知るようになる者はだれでも、その人の人生の中ですべてが新しくなります。
光に照らされることを拒まない人、そして過ちを犯す者として、どうしようもない者としてまことの光であるイエス様のみもとに来る者は、拒まれません。受け入れられ、救われます。

光に来る人は、罪から離れます。聖書は言っています。コリント人への手紙第II、6章14節。
昨日も、ある迷っている姉妹に引用した個所です。多くの人々は、やっぱり集会の考え方は狭い。厳しい。けれど集会の考え方とは別にどうでもいい。聖書は何と言っているか。それしかない。そして聖書を無視すると、やっぱり祝福がない。
ただイエス様おひとりだけが言うことができたのです。わたしはまことの光です。私たち人間は光ではない。やみです。

人間の内側には暗さと不純と邪と偽善があります。だから多くの人々は、大部分の人々は、光であるイエス様と関係を持ちたくない。
あるアルコールの中毒者は言ったのです。恐ろしいものが三つある。第一番目。警察。第二番目。税務署。第三番目。聖書。
いやー、大変です。

聖書を通して主は語りたいと思っておられます。
イエス様の時代の大部分の人々は、結局分かったのです。イエス様の判断とは、恐ろしい判断です。

ヨハネの福音書3:19
19光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。

ちょっと考えられないのではないでしょうか。光よりもやみを愛する人がいますか。そうなのです。どうしてでしょう。

ヨハネの福音書3:19
19その行ないが悪かったからである。

結局、正直になりたくなければ、大変です。けれどもイエス様の呼びかけとは、「わたしのもとに来なさい。わたしは光です。」
光のもとに行きたくない人は、自分の過ちを隠す者であり、正直になりたくない思いの表われです。すなわち、不幸への道、そのものです。
人間にとってもっとも大切なのは、光に照らされること、罪の赦しを得ること、そして光であるイエス様との交わりを持つことです。

ですから主イエス様を信ずることとは、イエス様のことを分かること、理解することなのではない。
取りも直さず、光に来ることです。主イエス様のもとに来ることです。そしてイエス様のみもとに来る者は、間違いなく受け入れられ、その債務は赦されます。
ヨハネの手紙第I、1章の7節は聖書の中の真珠のようなものです。宝物です。

ヨハネの手紙第I、1:7
7もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。

交わりの源とは、光に照らされることです。光に照らされなければ、人間同士も本当の意味での交わりを持つことは出来ない。ましてや、聖なる主と交わることが出来ない。
最近ちょっと示されたこととは、ヤコブの言っていることです。すなわち、悪魔に抵抗しなさい。色々な人々が本当に悩んでいます。苦しんでいます。どうしましょうか。
一般的に言われるのは、光であるイエス様のところに行けばいいでしょう。自分のわがまま、過ちを告白すればいいではないか。けれど、それで果たして十分でしょうか。

結局、多くの場合は、悪魔のわざです。確かにイエス様は悪魔のわざを滅ぼすために来られましたし、イエス様は勝利者です。
けれども人間ははっきりイエス様のように、「悪魔よ、退け。」「あなたと関係を持ちたくない。」「イエス様の血によって守られていることを感謝します。」、この態度を取る必要があるのではないでしょうか。
悪魔の力は、われわれの力よりもずっと大きいものです。私たちはもうダメなのです。
けれども、「悪魔よ、退け。」という態度を取ると、悪魔はどうすることも出来ません。イエス様の流された血は、聖める力を持つだけではなく、守る力も持つものです。ですからこのヨハネの手紙第I、1章7節のみことばは、本当にすばらしい。

ヨハネの手紙第I、1:7
7もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。

意識をもって犯した罪だけではなくて、無意識に犯す罪とは山ほどあります。ここで、すべての罪から私たちをきよめるとあります。
まことの満足の秘訣は、暗やみから脱出して、光であるイエス様のみもとに行くことです。イエス様はすべてを新しくしてくださるのです。
ですからイエス様の呼びかけとは、やみの中を歩かなくてもいい。何も隠さなくても結構です。わたしに従いなさい。光であるわたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがない。いのちの光をもつ。

いのちの光とはもちろんイエス様ご自身です。
エペソ人への手紙5章の8節。パウロはエペソにいる兄弟姉妹に次のように書いたのです。

エペソ人への手紙5:8
8あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。

あなたがたは光となったから、だから大丈夫なのではない。結局パウロが強調したのは、あなたがたは主にあってのみ、光である。
すなわち、光であるイエス様から離れると、自分勝手に生活すると、自分の知恵や力に頼ると、一度にダメになります。
光である主とつながっているときのみ、私たちは光であるとイエス様ははっきり言われました。わたしを離れてはあなたがたは何にもすることが出来ないし、わたしから離れたら、あなたがたが救われていても相変わらず暗やみです。
コロサイ人への手紙1章13節を見ると次のように書かれています。

コロサイ人への手紙1:13
13神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。

これが救いです。神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。
結局イエス様は私たちの助け手、救い主になろうと思うお方だけではなく、われわれの主とならなければ簡単にとんでもない方向に行ってしまう。
暗やみの圧制と御子主イエス様の支配と書かれていますが、何という違いなのでしょうか。ここでも同じことが言えます。

すなわち、もし私たち信ずる者がイエス様に頼らなければ、全ての努力は全く無駄であり、的外れの行動になります。だから捕えられた者として走りましょう。
うしろのものを忘れ、目標を目指して走ろうではないかとパウロはよく書いたのです。走る者の心構えは、いったいどういうものなのでしょうか。イエス様を知るようになってからの心構えは、どういうものであるべきなのでしょうか。
ピリピ人への手紙の3章。パウロのローマの刑務所の中から書かれたことばです。

ピリピ人への手紙3:12-14
12私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。
13兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、
14キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。

栄冠を得るために。救われるためではない。栄冠を得るために、目標を目ざして走っている。とパウロは告白したのです。
前に読みましたヨハネの黙示録の22章の12節をちょっとお読みいたします。

ヨハネの黙示録22:12
12「見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。

とあります。結局大切なのは、イエス様の再臨を信ずることではなくて、期待することです。
イエス様のものになった人々はみんな例外なく、イエス様はいつか来ると信ぜざるを得なくなります。けれども、いつかよりも、今日かもしれないと考えるべきではないでしょうか。
イエス様を本当の意味で愛している人々は、「イエス様、早く来てください。」と祈るべきではないでしょうか。

パウロは多くの手紙を書いたのです。一番最後に、殉教の死を遂げる最後の最後の手紙は、テモテへの手紙第IIなのです。
そのとき、もうちょっとでネロという皇帝によって殺されると分かったのです。その時彼は言えたのです。
なかなか私たちは言えない。4章の7節、8節。

テモテへの手紙第II、4:7-8
7私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。
8今からは、

今からは。これは大切です。今からは、

テモテへの手紙第II、4:8
8義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。

これが終われば、やっぱりパウロですから当然でしょう。けれどもパウロは続いて書いたのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。
ですから私たちは主の現われを慕っているかどうかが問題ではないでしょうか。イエス様の現われを慕う者、すなわち、首を長くして心から待ち望む兄弟姉妹だけが、主を知らない人々にとって魅力的となり、用いられるようになるのではないでしょうか。
私たちは再び来られるお方としてのイエス様を見ることが許されています。私たちの主はすぐに来ます。私たちが考えているよりもずっと早く、イエス様は再臨なさいます。

そもそも、最も確実なことは、イエス様の再臨です。本当にイエス様は来てくださいます。イエス様は今、来つつあります。
イエス様は今晩12時に来てくださるということが確定的になったとしたら、いったい私たちはどのような反応を示すのでしょうか。
イエス様の呼びかけ、絶えざる呼びかけとは、「おいで、わたしのところに来なさい。」、結局、「おいで。」、救われるために必要なのは、イエス様のところに行くことです。

ある兄弟姉妹は、先生ですが、家庭集会の前に自分の教え子たちだけではなくて、先生たちもよく案内したのです。
彼はあるとき、E−mailを出したらしいのです。「疲れていれば、いらっしゃい。」、来たのです。「疲れたから来た。」と言ったのです。
結局、イエス様は疲れた人々、悩んでいる人々しか呼べない。ほかの人はどうせ来ないからです。必要ない。

(テープ A面 → B面)

主は一時的な問題の解決よりも、「与えたい。」と望んでおられます。イエス様の呼びかけとは結局、神の子となるためです。
初代教会の人々とは、はっきりとした確信を持っていました。ヨハネの手紙第Iの3章。

ヨハネの手紙第I、3:1-2
1私たちが神の子どもと呼ばれるために、――事実、いま私たちは神の子どもです。――御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。
2愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。

いつかなるのではない。今現在、私たちは、天と地を無から材料無し、お造りになったお方の子どもです。これこそ、考えられない恵みです。
なぜならば、自分の努力の結果、聖書の勉強をした報いではないからです。けれどもイエス様は、救われるために、おいで、おいでと呼んでおられるだけではなく、報いを受けるためにも呼んでおられます。
イエス様は報いるために来られると書かれています。マタイの福音書25章の22、23節をちょっとお読みいたします。

マタイの福音書25:22-23
22二タラントの者も来て言った。『ご主人さま。私は二タラント預かりましたが、ご覧ください。さらに二タラントもうけました。』
23その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』

どのようにして私たちはイエス様を知るようになったのでしょうか。ただ、主の恵みによるのです。主は、みもとに来る者を決して、決して拒まないと約束してくださったから、主が受け入れてくださったことを信ずることができ、確信することができました。
赦されているという確信を、なぜ持つことができるのでしょうか。なぜならばイエス様は嘘つきではないからです。必ずご自分の約束を守るお方であるからです。
私は赦されているという確信の結果は何かと言うと、愛と感謝の表われとして、自分の人生は今から、ただイエス様おひとりのものとなるべきであるということになるに違いない。

救われることとは確かに大切です。すばらしいことです。けれども、私たちは主に仕えるために、また、主の再臨を待ち望むために、救われたと聖書は言っています。
よく知られている個所なのですけれども、もう一回読みます。テサロニケ人への手紙第Iの1章。
パウロは3週間だけこの町で福音を宣べ伝え、イエス様を紹介した結果として、多くの人々が導かれただけではなく、模範的なキリスト者になったのです。

テサロニケ人への手紙第I、1:9-10
9私たちがどのようにあなたがたに受け入れられたか、また、あなたがたがどのように偶像から神に立ち返って、生けるまことの神に仕えるようになり、
10また、神が死者の中からよみがえらせなさった御子、すなわち、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスが天から来られるのを待ち望むようになったか、それらのことは他の人々が言い広めているのです。

彼らの救いの結果とは、主に仕えること。それから、イエス様を待ち望むことでした。

主に仕えていこうと望む者は、また、イエス様の再臨を待ち望む者は、人殺しと呼ばれている悪魔の攻撃の的になります。
救われている者は救われています。救われている者は永久的に主のものです。悪魔でさえもそれを認めざるを得ない。けれど悪魔の目的とは、救われた人々は主に仕えないように、主の同労者にならないように、主の再臨を待ち望まないようにとのことです。
イエス様ははっきり言われました。有名な山上の垂訓の中なのです。

マタイの福音書6:24
24だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。

厳しいことばです。
イエス様の弟子になったヤコブも、結局、「そうだ、イエス様の言われたとおりに。」と言われたのですけれど、ちょっと大変なことばを使ったのです。ヤコブの手紙4章4節。信ずる者に書き記されたことばです。

ヤコブの手紙4:4
4貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。

イエス様は救われた人々に報酬、王冠を分け与えたいと望んでおられます。
パウロはコリントにいる人々に次のように書いたことがあります。コリントの教会とは、大したものではなかった。パウロの悩みの種でした。
コリント人への手紙第Iの3章を見ると、結局ふた種類の信者について書き記されているところです。

コリント人への手紙第I、3:11-15
11というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。
12もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、
13各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。
14もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。
15もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。

救われている者は救われている。ある人は報いを受け、ほかの人は損害を受けるということです。その火がわれわれの生活を明らかにします。
すなわち再臨の日が、金、銀、宝石と、木、枯れ草、わら、すなわちイエス様から出た物か、または、自分から出た物かを明らかにするのです。
やっぱり山上の垂訓の中の最も厳しいことばとは、マタイの福音書7章に出てくることばではないでしょうか。イエス様の口から出たことばですから、間違いなくそうです。

マタイの福音書7:21-23
21わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。
22その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』
23しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』

そういう人々は救われていたと思い込んでしまった。主に仕えていると、本当に思った。けれど嘘でした。的外れでした。主は、わたしはあなたがたを全然知らない。
イエス様は救われている人々をよく知っている。昼、夜彼らのためにとりなしていてくださる。わたしはわたしの羊を知っているとイエス様は何回も言われたのです。
もしイエス様が、わたしはあなたがたを全然知らないと言うようになれば、もうおしまい。失われるいのちは、何と悔やまれることか。それは取り戻すことも取り替えることもできません。

永遠の実を結んだいのち。これは大きな喜びであり、勝利です。もしそのときイエス様が私たちに次のように言うことができれば幸いです。
前に開いたマタイの福音書25章21節。

マタイの福音書25:21
21その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』

われわれの生活に何が残るのでしょうか。私たちが本当にイエス様から出て、イエス様のために生活したか、それとも、自分から自分のために生活したかのどちらかなのでしょうか。その日がそれを明らかにします。
パウロはローマにいる兄弟姉妹たちに大切なことを書いたのです。ローマ人への手紙13章の11節から。次のように書かれています。

ローマ人への手紙13:11
11あなたがたは、

もちろん、あなたがた信ずる者は、

ローマ人への手紙13:11
11今がどのような時か知っているのですから、このように行ないなさい。

知っているだけでは十分ではない。はっきりとした態度を取ってもらいたい。

ローマ人への手紙13:11
11あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。というのは、私たちが信じたころよりも、今は救いが私たちにもっと近づいているからです。

救いとは何ですか。救い主です。結局、イエス様は近づいている。

ローマ人への手紙13:12-14
12夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。
13遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。
14主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。

ひとつの命令です。自分の力で守るものではない。だから徹頭徹尾、主に拠り頼まなければならない。イエス様の再臨に対する生き生きとした希望から聖くなるという力も湧き出てきます。
実際生活において、罪に支配されている者が、イエス様の再臨を待っているなどということはあり得ないことです。
前に読みました、ヨハネの手紙第I、3章の3節を見ると、次のように書かれています。

ヨハネの手紙第I、3:3
3キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。

もう一ヶ所、コロサイ人への手紙3章の3節、4節です。

コロサイ人への手紙3:3-4
3あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。
4私たちのいのちであるキリストが現われると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現われます。

コロサイ人への手紙3:1-2
1こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。
2あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。

われわれの生活において、イエス様の再臨に対する希望が、あらゆる悩みに耐えるための、もっとも大きな力ではないでしょうか。
イエス様は近い。イエス様はすぐに来られると絶えず思うべきではないでしょうか。もうちょっとでイエス様は来られます。
これこそが初代教会の兄弟姉妹の力の源、喜びの根拠だったのであります。イエス様は今日かもしれないという希望の光によって、毎日をささげることを主は望んでおられます。

イエス様の再臨という希望は、初代教会の時ほど生き生きとしていた時はなかったのです。そして当時ほど、イエス様のお告げが生き生きと力強かった時もなかったのです。
イエス様は来られますと期待している者はだれでも、主の使命を一秒も早く行なわなければなりません。すなわち、全世界に出て行って、全ての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。
イエス様はみことばのうちに非常にはっきりと語っておられます。イエス様は今日の時代においても、世界の出来事を通してはっきりと分かるように語っておられます。すなわち、その時は近い。

イエス様はすぐに来られます。
この期待を持つ人々こそが幸せではないでしょうか。




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