引用聖句:創世記3章1節-14節
ローマ人への手紙5:12、18、21
聖書の中で、4章だけ素晴らしいんじゃないか。すなわち創世記の1章と2章。罪と言う問題が存在していなかった。それから、ヨハネの黙示録の21章、22章です。もう罪のない状態になります。 はじめての人間とは、神によって造られたから完全でした。けれどもはじめての人間は、造られた命しか持っていなかったのです。主なる神が人間を創造された時、もちろんそれを思ってたのです。造られた命は、たいしたものじゃない。永遠の命を持ってもらいたい。 けれどもはじめの人間は、結局、提供された永遠の命を拒んだのです。だから私たちは、今日まで悩んでいるのではないでしょうか。けれども、主なる神様の提供しているのは、単なる創造された命ではなくて、永遠の命です。 永遠の命は、聖書の中に含まれている最も大切な真理です。どうしてでしょうか。3つの答えがあると思います。 天国には、主なる神様の命があるだけです。ほかの命は天国にはありません。この永遠の命、主なる神の命を持っている人だけが天国へ行きます。そうでない人は、天国へはいれません。ですから永遠の命は、聖書の中で一番大切な事柄です。 どんな人間も、永遠の命を持たなければなりません。ですからこれは、欠くことのできないものです。神のみことばである聖書によると、すべての人間は死んでる。霊的に死んでいる者であるとあります。 エペソ人への手紙2:1-3
ローマ人への手紙6:23
ここで罪から来る報酬は死であると言っています。死ぬであろうではなくて、死んでいる。 この死は、将来の死ではなくて今ある死です。この死は、我々の葬式を意味しているのではなくて、罪によって死んでいる我々の今の状態を言っています。 人間は、ご存知のように三つの要素からなっています。それは、精神(霊)と魂と肉体です。創造主が人間をそのようにお造りになりました。けれども主なる神が人間をエデンに置き、園を耕し守らせられた時に、善悪を知る木を置かれました。 主なる神は、創世記2章17節で次のようにおっしゃいました。 創世記2:17
けれども人間は、主なる神のいうことを聞こうとしないで、とって食べてしまいました。その第一の人が罪を犯した時、その人の何が死んだのでしょうか。 もちろん体ではなかった。アダムの体は、全く以前と同じように生きていました。それともアダムの魂が死んだのでしょうか。アダムの理解力が死んだのでしょうか。または感情が死んだのでしょうか。 いいえ、絶対にそうではありません。 その第一の人、アダムはまだ考えることも出来たし、感ずることもできたし、計画することもできたのです。そうすると、何が死んだのでしょうか。 精神(霊)が死んだのです。アダムは、自分の精神(霊)によって、主なる神との交わりを持っていました。罪を犯すまで、主との交わりを持っていたのです。 けれども罪を犯して、その時、主なる神とのつながりが切れてしまいました。交わりがなくなったのです。ですから、人間の精神(霊)は生き返らなければならないのです。 生まれながらの人間の体は生きています。魂も生きています。けれども精神(霊)は、死んでいます。そして、その精神(霊)を新しい命に、新しくされなければならないのです。 生まれながらの人間は、主なる神によって永遠の命を精神(霊)にもらわなければいけません。さもないと、永遠に死ななければならない。 永遠の命が、なぜ聖書の中でそんなに大切かと言えば、その訳は、どんな人も永遠の命を持たなければ永遠に死んでしまうと言う点にあります。それをいま説明したわけです。 第二番目の理由。「どうして、永遠の命は、そのように大切か?」 永遠の命は、イエス様が、この新しい命を与えるために、イエス様がこの世に来なければならなかったから大切です。 ヨハネの福音書10:10
豊かなる命。結局、永遠の命を持つことこそが、主の願いであり目的です。 永遠の命を与えるためにイエス様は、天から来られました。イエス様は、人間が永遠の命を持つために、死ぬことのないために、すべての人間のために犠牲になり、身代わりに死なれました。 もし、イエス様が来られなかったら、いったいどうでしょうか。恐ろしい死を取り去ってくださらなかったらどうでしょうか。永遠の命を、罪びとにくださらなかったら、すべての人間は、死と名づけられる恐ろしい状態に留まらなければならなかったのです。 人間の種類はただ二つです。人間は、魂と体が生きていますから、生きているように見える。けれども、主なる神が人間を眺めた場合、人間の二つの種類。生きている者と、死んでいる者の二つに分けて見えます。 私たちはこの瞬間に、この二つの種類のうちのどちらに属しているのでしょうか。 主なる神から見れば、私たちは、生きているか、死んでいるかのどちらかです。 私たちは、道を歩いている人を見ます。「この人は、確かに生きている。」と言います。私たちは、それを見て、その人の体が生きていることを考えるのです。その人は肉体的な命を持っている。けれども、その人の精神(霊)は、死んでいるかもしれない。 もし、死んでいるならば、まだ生まれ変わっていないならば、主なる神の目から見るとその人は死んでいるのです。 次に、ある事務所で熱心に働いている商人を見てみましょうか。私たちは、「この人こそが確かに生きている。」と言います。 けれども、私たちは、ただその人の魂の命が働いていることだけを見ています。すなわちその商人は、考えることも出来るし、感ずることも出来るし、欲することもできます。ですから、生きていると私たちは判断します。 けれども、主なる神の判断は違います。全く違います。主イエス様に出会っていない人間、イエス様との交わりを持たない人間は、死んでいると主は言われます。私たちは、限りある命について話しますけど、主なる神は、永遠の命について言われます。 私たちは、確かに限りある命について考えます。けれども主なる神は違う。主なる神は永遠の命について話されます。 私たちは、今度へりくだって悔い改めた、イエス様を信じていた葬式に参加します。そして、その人の屍を見ます。そのとき、私たちは、「この人は、死んでいる。」と言うかもしれない。 私たちは、その人の肉体の死を考えています。その人は、もはや考えることも、動くこともできません。けれども、主なる神の判断は違う。主は、「この人は、生きているよ。」と判断なさいます。 主なる神の言われることがわかりましたね。 その亡くなった信者の精神(霊)は、生きているのです。 永遠の命を受け、生まれ変わっていたのです。ですから、たとえ肉体が死んだとしても、実際には、生きているのです。 三番目の理由。「どうして、永遠の命は、そのように大切なのか。」 永遠の命は、人間の永遠の運命を決定しますから、聖書の中で最も大切な真理です。聖書の中で一番よく知られている箇所、ちょっと読みましょうか。 なぜならば、永遠の命と言う表現が出てきます。 ヨハネの福音書3:15-16
永遠の命を持っている者は、決して滅びません。反対に言えば、永遠の命を持っていなければ、人間は滅びなければならないのです。 けれども、滅びると言う言葉は、いったい何を意味しているのでしょうか。私はそれを知りません。けれども、滅びるとは命の反対であり、それは非常に恐ろしいということだけは知っています。 主なる神は、永遠の命がいらないと言う人間に裁きを現すために、この言葉を使われたのです。同じく、ヨハネの福音書3章36節 ヨハネの福音書3:36
一方には命、他方には神の怒りがあるのです。主なる神の怒りとは、何を意味しているのでしょうか。私も知りません。けれどもここに書いてあります。 また、私たちはこの言葉がうそだということはできません。 もし、私たちが永遠の命を受けたくないならば、主なる神の怒りを受けるようになります。神は、人間に決して強制なさいません。もう一箇所、 ヨハネの福音書5:24
このみことばにも二つの面、二つの道が記されています。すなわち、命と滅亡を見ることができるのです。 私たちが永遠の命を受け取りますと、死に打ち勝ったことになります。死とはなんでしょう。滅亡とはなんでしょう。主なる神がそれをご存知です。 私たちは、それを知ろうとは思いません。自分が永遠の命に向かって進んでいるのだということがわかれば、それで十分です。永遠の命を持っていないということは、死、滅亡を意味しているのです。 ヨハネの福音書10:28
イエス様の言われた言葉です。命の贈り物を拒めば、滅亡するだけです。私たちは、どちらかに決めなければなりません。 人間は自分の将来を決めます。人間は自分の運命を決定する権利を、主なる神から与えられています。私たちは、この永遠の命を持っているのでしょうか。それとも持っていないのでしょうか。これに対する答えによって、私たちは幸福にもなり、不幸にもなるのです。 もし永遠の命を持っていなければ、将来は確かに真っ暗闇です。永遠の命を持っていれば、将来はほかに比べることのできない栄光に満ちたものであります。 インドで働いた女宣教師の夢を、ちょっと紹介したいのです。彼女は次のように、見た夢について語りました。 青草の生えている牧場に座っていました。 足元には、果てしのない深い広い穴が大きく口を開けていました。 私は下を見下ろしましたが、その穴の底は見ることができなかったのです。 そこには、雲のような黒いものが、また、荒れ狂う竜巻のようなものだけが見えたのです。 死んだ人を包んだ蓑に似たような大きなうろと測り知れない深い穴がありました。 私はこの穴を見たとき、目がくらんで後ろに思わず飛びました。 長い列を作って青草の上をあちらこちら歩いている人々がいました。 その人たちは、みな、その穴に向かって歩いてきました。 それに、小さな子供を腕に抱いて、もう一人の子供を連れていた母親を見ました。 その三人は、穴の淵に向かって、近づいて行くではありませんか。 私は、その母親が目が見えないということがわかりました。 母親は、また一歩前に進もうとしましたが、足は、穴の所を、踏んだのです。 子供たちと一緒に、落ち込んでしまいました。 落ちるときの叫び声は、なんと言う声だったことでしょう。 いろいろな所から、たくさんの人々がやってきました。 みんな、目が見えません。 完全に、目が見えません。 みんなが、穴に向かって歩いて行きました。 彼らは、突然、落ち込んで恐ろしい叫び声を上げました。 また、ほかの者は黙ったまま、深みに足を踏み入れ、 声もなく落ち込んでいきました。 ここまでが、その宣教師の夢です。前に言いましたように、主なる神様の目から見ると、人間は二つの種類に分けられます。それは、精神(霊)的に死んでいる者と、精神(霊)的に生きている者のふたつです。 この二つの種類の区別は、どこにあるのでしょうか。精神(霊)的に死んでいる人は、自分が死んでいるということを知らないのであり、精神(霊)的に生きている人々は、自分が永遠の命を持っていることを知っているのであり、確信するのです。 そこに違いがあります。 私たちの周りにいる多くの人々は、精神(霊)的に死んでいるのです。その方々は、自分達も目が見えなくて、穴、すなわち滅びに向かって歩いていることを知りません。 今生きている人間は、みな永遠の滅びで主なる神から遠ざかって、永遠の死の中に生きるか、主なる神の家、すなわち栄光と永遠の命に生きるかのどちからです。 人間は、この世に生きていますが、その短い年月の間にその人間の精神(霊)が、その肉体に宿っている間に、永遠の死か、永遠の命か決定されます。 もしかすると、今日もまだ救われていない、永遠の命を持っていない方々がおられるかもしれない。その方々はどうしたら、永遠の命に至ることができるかと思案していることでしょう。 ただ、一人の生きておられる主なる神だけが、その道を指し示そうとしておられます。 神のみことばである聖書は、主なる神はもうすでに与えられたと言っています。私たちは、救いを買うことも、働いて得ることもできません。救いは自由な贈り物であり、この救いは贈り物としてもらわなければなりません。そうでなければ、救いを我々のものとすることはできません。 ローマ人への手紙6:23
ヨハネの福音書10:28
このみことばは、なんとはっきりしていることでしょう。なんと力強いことでしょう。 永遠の命は贈り物です。永遠の命は贈り物ですから、働きや人間の手柄によって、自分のものにすることは接待にできません。 主なる神は、我々に永遠の命を与えられます。この命は、神のひとり子、すなわち主イエス様のうちにあります。 ヨハネの手紙第I、5:11-13
原語を見ると、「わからせる」と言うよりも「確信する」ためですとなっています。 今まで、ひとつの点について考えて参りました。すなわち聖書の中に含まれている最も大切な真理とは、永遠の命です。 今から主なる神の道、すなわち主イエス様と一緒になることについて少し考えて終わりたいと思います。 永遠の命は、私たちとイエス様の間の問題です。すなわち永遠の命とは、イエス様との一致です。 聖書によると永遠の命は、イエス様のうちにあるとはっきり言っています。 ですから、もし私たちが永遠の命を持ちたいのなら、イエス様が我々の心に入らなければなりません。イエス様ご自身が、命そのものです。 もし、私たちがイエス様を受け入れようとしたくなければ、わたしたちは何も持っていません。 けれども、イエス様を受け入れることによって、私たちは満たされ、結局、すべてを持つ者となります。 ヨハネの福音書17:3
イエス様の祈りの中の告白です。 ヨハネの福音書5:39-40
どうしたら、命そのものであられるイエス様は、我々の心に入ることができるのでしょうか。 ただ、生まれることによってのみそれができるのです。 ヨハネの福音書3:3
生まれることなしに命はありません。普通の体の命は、この世に生まれることによって得られます。同じように、霊的な命、永遠の命も、そのようにして生まれます。誰でも、新しく生まれなければならない。 永遠の命であられるイエス様が我々の心に入って来なければならないのであり、イエス様が入るとき、私たちは命を、永遠の命を持つのです。 パウロは、「キリストが私のうちに生きている。」といいました。私たちは永遠の命を持ってるのでしょうか。今、この瞬間にキリストは、私のうちにおられると正直にいうことができるのでしょうか。 私たちがいかに信心深い生活をしていても、いかに良い生活をしていても、そのようなことは大切ではありません。永遠の命を持っているか、いないかだけです。 もし私たちがイエス様を持っていれば、私たちは命を持っているのであり、イエス様を持っていなければ永遠の命を持っていません。 もし、私たちが生まれ変わっているならばイエス様を持っており、生まれ変わっていないならば、結局イエス様を持っていない。 永遠の命を得るために、イエス様のみもとに行こうではないでしょうか。 イエス様は、私のもとに来る者を私は決して捨てませんと言われました。 |