引用聖句:マルコの福音書6章30節-46節
もっとも大切なのは、もちろん主イエス様を知ることです。 イエス様について色々なこと知ることではない。考えられない多くの人々は、イエス様について色々なこと知ってるんですけど、それは慰めにもならないし、励ましにもならないし、力にもならない。イエス様ご自身を知らなければ、なんにもならない。 イエス様をどういうふうに知ることができるなのでしょうか。よりよく知ることができるなのでしょうか。みことばと祈りによってなのではないでしょうか。 利用法は大切です。ただ聖書を読めば、ちょっと不十分です。みことばを通してやっぱり祈らざるを得なくならなければなにもならない。 そしてただ祈れば、みことばに頼らなければ、やっぱりちょっと無理。知らないうちに変な方向に行くなのではないでしょうか。 イエス様の弟子たちはあるとき、イエス様の所へ行って、頼んだんです。「主よ。祈ることを教えてください。」、どうしてこういうふうに頼んだか、当然の話でしょう。 イエス様は、祈ったあとで、もう解放され、大いに喜ぶことができ、力に満たされていたからです。弟子たちは、やっぱり私も、私たちもそういうふうにならないとダメ。だからイエス様、お願い。祈ることを教えてください。 祈ることとは、イエス様に話すことです。暗記した祈りをすることとは、あんまり意味のないことです。印刷された祈りだけ読というのも、ちょっと違うなのではないでしょうか。 祈ることとは結局、直接、例えば、子どもは母親に向かって話すように、主に話すことです。 と同時に、自分の無力さを認めることです。自分で頑張ればなんとかなると思う人は、心から祈れないよ。まったく必要ないからです。 そして祈ることこそが、光の源です。もちろん祈ることとは助けを求めるこ とだけではなく、同時に、聞く耳をもつことです。「主よ。語ってください。しもべは聞いております。」、この態度取ると、祈れば、知らないうちに礼拝に変わるんです。 すなわち、「私のものではなく、御心だけがなるように。」、けど、そこまでいくのはやっぱり弟子たちにとって、大変だったなのではないでしょうか。 今読んでもらいました箇所を見ると、弟子たちはその日、「イエス様はできる。イエス様にとって不可能なことはない。」ということをもちろん経験しました。 五千人以上の人々は、パンが五つ、魚が二匹しかそこになかったんですけど、結局、彼らが満足したのです。この二匹、魚二匹とパン五つとは、小さいパンだったんですけど、これは主がそれを食べる分なんですよ。ですから大切。 けども、五千人以上の人々は十分に食べただけじゃなくて、余るほどだったのです。もちろん初めは弟子たちだけがパン五つと魚の二匹しかないことを知っていたのです。周りの人、なんにも分からなかったのです。 けどもイエス様がそれを分け与えられたことを二、三人の人が聞くや否やそれは枯れ草に火の点いたように、みんなの間に広まりました。いや。信じられない。 けど、見てみるとその通りじゃないか。結局、「イエス様はすごい!イエス様はできる。こんなイエス様の近くにいると心配する必要はない。」、と群衆は必ず思ったに違いない。 結局だれも、そんなことを今まで経験したことがないからです。そして彼らは、群衆は、この予測はやっぱり旧約聖書で約束されてる救い主なのではないでしょうか。それから必ず、「イエス様。私たちはあなたから離れたくない。」、「イエス様。あなたさまは約束された救い主に違いない。」 ある人々が集まったでしょう。イエス様を、自分の王としようと決めたんです。あなたは救い主です。私たちはあなたを王さまとして迎えたい。私たちはあなたに従いたい。あなたのために戦いますと、ユダヤ人たちは結局、だいたいそういう気持ちだったのです。 救い主は、自分の問題を解決する。おもにローマ帝国の奴隷化から解放するなのではないでしょうか。イスラエルはその当時、独立の国ではなかった。莫大な税金を払わなければならなかったのです。 ですから救い主が来ると、やっぱり私たちはおまかせするに違いない。イエス様のなさったことを見た弟子たちは、大いに喜びました。そして群集は結局イエス様を王さまにしようと思ったとき、弟子たちは、「ああ良かった。今までわれわれは、この聖書学者たちに迫害されてきた。今、イエス様は王となる。と自分たちは必ずあの王国の大臣になるに違いない。今までの聖書学者たちと立場が逆になるのだ。」と、弟子たちは必ず嬉しかったに違いない。イエス様は弟子たちを呼ばれました。 もちろん弟子たちは期待を持ってイエス様の近くにいたのです。これこそまさに大切な瞬間、劇的な瞬間でした。けどイエス様がなんて言ったかと言いますと、「弟子たちを舟に乗り込ませ、向こう岸に行く。」、弟子たちはもう、がっかりしたに違いない。 これは本当にイエス様の気持ちなのでしょうか。「なにを考えてるなのでしょうか。」、けどもイエス様は、たぶんもう一回、もしかすると、三回、四回、言わなければならなかったでしょう。「向こう岸に行きなさい。」 弟子たちは咎めて言ったんですけど、イエス様のことを全く理解することができなかった。いいチャンスなのではないか。群集は必ず、「あなたはわれわれの助け手です。救い主です。王になってください。」と、叫びながらイエス様に押し寄せたでしょう。 けども、イエス様はなんて言ったかと言いますと、 「わたしの国はこの世にはない。わたしがこの世に来たのは、王となるためじゃない。わたしは仕えられるべき者ではない。わたしは与えるために、自分のいのちを与えるために。結局十字架の上で死ぬために来られたのだ。 この世の王として来たなのではない。いつか将来、わたしは間違いなく王の王、主の主となる。けども今、わたしは死ぬために来たのだ。」と。 もちろんいくら話しても、群集はイエス様の言ってることを分からなかったし、イエス様のことを理解することもできなかった。 イエス様は、大きな慈愛を込めて群集に、十字架の死について、ご自分の犠牲について、色々なこと話されたに違いない。 人々は自分たちの望むことが叶えられないことが分かったとき、諦めて、うちへ帰り始めました。五千人以上だったから、ちょっと時間がなかったなのではないでしょうか。当時の人々は経験させられた奇蹟によって、非常に動かされていました。 おそらく帰りながら、何度もイエス様を振り向いたことでしょう。イエス様も長い間自分たちのほうをご覧になっているのを見たのです。それからイエス様は、ゆっくり山のほうへ歩いて行かれたのです。 イエス様とはどういうお方だったなのでしょうか。 父の御心にかなったお方でした。イエス様はただただ、父の御心を行ないたいという一つの願いを持っておられたのです。イエス様は、このことが一番貴重であり、大切であることをよく知っておられました。 ですから、イエス様の生涯では、父との交わりがなにものにもまして大切だったのです。 イエス様とはいったいどういうお方だったなのでしょうか。一番適当な答えとは、イエス様とは祈りの方でしたなのではないでしょうか。 弟子たちは、何回も何回も、祈られたイエス様を見たのです。このイエス様とはわれわれとまったく違う。けどイエス様は、平安と喜びと希望に満たされることから、「イエス様。お願い。私たちに祈ることを教えて。」と言ったのです。46節でそこを去りました。最後の節です。 マルコの福音書6:46
とあります。確かにイエス様は、私たちのようなからだをもっていたから疲れていたはずです。一日中、もう仕事でいっぱいでした。 イエス様は必ず毎日毎日、何時間もみことばを宣べ伝えたに違いない。必ず、多くの病人をいやしたに違いない。けども弟子たちは、イエス様の思ってること理解できなかったし、だからイエス様に失望したのです。 当時の宗教家たち、すなわち聖書学者たちは、イエス様を絶えず攻撃し続けました。「主よ。語ってください。教えてください。導いてください。」、そういう気持ち一切合切なかったからです。 言うまでもなく、悪魔もずっとイエス様を攻撃したのです。結局イエス様のおられるところ、そこには、必ず悪魔の攻撃があります。イエス様のなさるることごとに悪魔は攻撃の手を加えます。 イエス様は五千人にパンと魚を分け与えたときに、そこにいる病人も必ずみないやされたに違いない。しばしば病気は、罪を原因としています。ですから病気を治す場合、悪魔を追い出さなければならない。 このような霊的な戦いは、非常に疲れるものです。イエス様もやっぱり疲れました。あるとき、大嵐の中で、イエス様は舟の中でぐっすり寝たんです。 弟子たちは、もう大変だ!死ぬのではないか。けどイエス様は、もちろん平安があったから、心配する必要はないとご存知だったから、寝たんです。 けどもどうして寝たかと言うと、結局、疲れた。ここでイエス様は眠りに至ることなく山へ上り始めました。一人になりたかったからです。 ですから弟子たちに、「あなたがた向こう行きなさい。」、結局弟子たちの考えと、イエス様の考えとはまったく違ったからです。イエス様は一人になったとき、もちろんいっつも祈ったんです。 人間は一人になるとなにをするなのでしょうか。一番好きなことじゃないでしょうか。あるいは一番必要なことなのではないでしょうか。みんな同じです。 イエス様もそうしたんです。イエス様も一番大切な、また、一番気になることをなさったのです。すなわちイエス様は祈りました。祈りが一番大切であることをイエス様は知っておられます。 イエス様はご自分ではなにもやれないことを知っていたのです。ですから、父との交わりが一番大切であると、イエス様はいつも意識したのです。イエス様にとっては、父との交わりは一番好ましいことだったから、祈られたのです。例えば、 マルコの福音書1:35
ルカの福音書を見ても似てる箇所はいっぱいあります。例えば ルカの福音書5:16
荒野で一人になりたい。これこそがイエス様の願いでした。 ルカの福音書6:12
結局、夜じゅう祈られた。 ルカの福音書9:28-29
祈ってる間に輝いた。弟子にとって忘れられない経験だったに違いない。結局祈ると変化がある。祈ると奇蹟が起こる。祈ると主のご栄光を拝することができると、あの三人は必ず経験したから忘れられなかったのです。 ルカの福音書22:41-42
これは、読むとね、一つの祈りだと思う人もいるかも知れないけど、ちょっと違うんじゃないか。これは本当の礼拝なんです。 「ああしてください。こうしてください。」、これは祈りなんです。けどもイエス様は、「わたしの願いではなく、御心だけがなるように。」と心から思って望んだのです。これがまことの礼拝です。 イエス様はもっとも誠実で、結果の多い祈り人でした。またイエス様は、見せかけの祈りはしなかったのです。イエス様はどうして祈ったなのでしょうか。弟子たちの模範となるためなのではないと思います。 霊とまことをもってイエス様は祈ってくださったのです。また、深く感じたい要求から祈られたのです。 確かに私たちはイエス様の偉大さを想像することはできないし、いくら聖書読んでもピンとこないし。 例えばイエス様によってすべてが救われたと聖書は言っています。考えられない。このイエス様とは、あとで人間になることによってなにを言われたかと言いますと、「わたしは無力です。わたしはなんにもできません。なに話していいか分からないから祈ります。わたしは自分の無力さを感じるから、父に頼ります。わたしの話してることだけは、わたしの考えてるものではない。父から聞いた言葉だけ。病人がいやされたとしても、わたしはできるからじゃなくて、わたしの中にいる父のなさった奇蹟にすぎないよ。」とイエス様は言われました。 結局、イエス様の祈りの生活とは、本当に不思議なものなのではないでしょうか。イエス様はなぜ祈ったなのでしょうか。色々なこと言えます。 まずイエス様は、父の栄光のために祈りました。父が栄光をみられたわたしは大丈夫。もう無視されても、捨てられても、殺されても結構。父が中心になってもらいたい。 二番目、イエス様はどうして祈られたかと言いますと、父との交わりをもつため。父から離れたらわたしはなにもできないと、イエス様は弟子たちにあてて、「わたしはぶどうの木であなた方はその枝です。枝を切れば実にならないよ。」 もう、イエス様はわたしは父とつながっていればもう心配ない。 三番目、イエス様はなぜ祈ったなのでしょうか。父との交わりによって父の御心を知るために祈られたのです。わたしの願いではなく、御心だけがなるように。 四番目、イエス様はどうして祈られたかと言いますと、イエス様は、人々に父の力が起こるものを与えるために祈られたのです。 イエス様の祈りは、本当の祈りでした。父の栄光のために主の十分?からくみとることでした。イエス様は深く感じた要求から祈られたと、ヘブル人への手紙の著者は言ったのです。 ヘブル人への手紙5:7
それを見ても分かります。祈ることとは戦い。大きな叫び声と涙をもってイエス様は祈られたんです。 イエス様はしばしば静かな孤独、荒野、寂しい場所、また山などに行かれました。このような所ではイエス様はもはや世の中をざわめきを去り、誰も見ることなく、誰も邪魔をせずご自分の心を父の御前に注ぎだすことができました。 そしてイエス様は、よく夜通し祈り続けられたと福音書に書かれてます。結局イエス様は、非常に多く父と話されることがありました。そしてイエス様は再び公の生活に戻りますと、多くの人々が、イエス様の話してることは聖書学者たちに話してることといっしょだろ、やっぱりイエス様が霊的をもって語られる。 イエス様の話された言葉とは結局、自分の思ってることよりも・・・ (テープ A面 → B面) いつも助け求める人々がもちろん、毎日毎日やって来たんです。けどイエス様は、ますます積み重なる仕事にも過労に陥ることなく、祈るために静かなときをおつくりになりました。 本当は暇がなかった。なかったからつくっちゃった。そのようにしてイエス様は、あらゆる戦い、あらゆる困難のさなかにおいてもいつも元気で、喜びまた、力強くあったのです。 心からの、また絶え間ない父との交わりがイエス様の休息でした。休むこととは、イエス様にとって父と話すことだったのです。イエス様はそこに心から絶え間なく、まどろむことなく、しかもなにか重大なことを決っする場合、祈りました。 例えば、使徒たちを選ぶ前。また死の苦しみの始まりに際して。結局、どういう人々を自分の弟子として選ぶべきか。もちろんイエス様は自分で考えようとしなかった。決めたいと思わなかった。父に聞いたのです。 そして父は、十一人は死ぬまで従順的になり、福音を世界中に広めるようになる。あなた紹介するようになる。けど、その一人は、ユダという男は、大嘘つきで、「主よ。主よ。」と毎日、何時間も言うでしょうけども、一度もそう思わない。詐欺師そのものです。金を愛する者です。彼はあなたを裏切るようになる。けども彼を選びなさい。 これはやっぱり辛かった。もちろん、イエス様は罪を犯す可能性がなかったよ。けども毎日、三年半、こういう偽善者と一緒に生活することとやっぱり辛かった。 けどもイエス様は、役目を果たしてくるそのほかの弟子たちとユダもまったく同じように愛したのです。人間はできません。絶対に。イエス様は平等にみな、同じ愛でもって愛したのです。 ですから最後の夜イエス様は、「あなたがたの中の一人はわたしを今晩、裏切るようになる。」と言ったとき、みんな恐れて、「主よ。私ですか。私ですか。」 普通だったら、「あいつでしょ。ユダでしょ。」と、分かるはずでしょう。けどだれも分からなかった。けどもこのユダであることとはやっぱり面白くなかった。 けども祈った結果として、イエス様はもちろん、耐える力をもつようになったのです。イエス様はご自分のたましいが、父のうちに完全な休息を得るまで、安らぎを得るまで祈り続けました。 信ずる者はみな祈りますけど、大部分は途中でやめます。祈り続けません。「ああ、彼は、彼女はどうせダメなのじゃないか。」 聖書は、あなたの信じたとおりになる。なにもならなければやっぱり信ずる者の不信仰のせいなのではないでしょうか。 イエス様は、祈りのあとで勝利を確信して行動することができたのです。イエス様は、悩むことも、耐え忍ぶことも、負い目を負うこともできたのです。イエス様は父の御心を行ないたいと思っただけではなく、行なうことをしたのです。 イエス様はこの地上におられたとき、祈っただけじゃないんです。イエス様は昨日も今日もいつまでも変わらないお方ですから、すなわちイエス様は、今日も祈っておられます。 だから大祭司と呼ばれています。 イエス様は瞬間瞬間、昼間だけじゃなくて、夜も私たちのこと考えて、祈ってくださっているのです。それを本気になって自分のものにすれば、もう心配することがないはずです。 イエス様は祈っておられるから、もう安心してすべてをゆだねることができるなのではないでしょうか。 イエス様は、私たちの過ち、わがままのために十字架に釘つけられただけではなく、われわれのために生きておられ、祈って、とりなしていてくださるのです。 十字架の上でイエス様は、「すべてが終わった。」と叫ばれたとき、救いを完成されたのです。イエス様は勝利を完成されたから、父の栄光に帰せられたのです。 イエス様は、ご自分のからだなる教会、すなわち信ずる者の群れのかしらであると聖書は言っています。ご存知のように、かしら、あたまはいつも身体の中心です。 ですからイエス様は、今日も私たちのために悩み、祈って、とりなしてくださるのです。それを私たちは、人々を迫害していたときのパウロにみられます。 イエス様はそのときパウロになんと言ったかと言いますと、「サウロ。サウロ。なぜわたしを迫害するのですか。」と。 もちろん彼は、イエス様は迫害するつもりではなかった。もう殺されたから、もういないから、イエス様に対する思い出を消すためにだけ、信ずる者を迫害した。 けども主の目から見ると、これはわたしを迫害することであるとはっきり言われたのです。結局私たちの受ける迫害は、イエス様の受ける迫害であると、この言葉を通して知ることができます。 ヘブル人への手紙7:25
イエス様とはどういうお方だったなのでしょうか。祈りのお方でした。 私たちとはいったいどういう者なのでしょうか。ドイツのひとつの歌があります。その歌には、 祈りのないために、なんと多くの良きことがらが失われていくことだろう。 だれがそれを言い表わすことができるだろう。 結局、祈らない者はみじめです。あわれむべき存在です。祈らなければ本当の喜びがありえない。祈りがなければもちろん、実を結ぶことも不可能です。祈らなければ周りの人々ももちろん、導かれ得ない。 イエス様のための働きは、祈りに代えることは決してできない。私たちはイエス様との親しい交わりがなくても、集会をもったり、人を導いたり、孤独だったり、救いの道をとることができるでしょうけど、イエス様との交わりがなければ主の御心にかなった生活をすることができない。 結局主は、祝福することができないということです。 イエス様のための働きは、すこしも祈りに代えることはできない。人間にとってもっとも大切なのは祈ることです。 祈りの材料は前に話したように、聖書です。みことばです。みことばに基づいて祈ると、祈りはきかれます。 イエス様はただひとつの要求をもっておられます。すなわち、どうしようもない私たちとの交わりをもちたいということ。 確かにイエス様は、世界の創造主であり、見えるものも、見えないものもすべてを御造りになったお方ですけど、人間のために悲しんでおられます。 結局イエス様は、人間ひとりひとりを思っておられます。そして、「われわれ、どういう状況に置かれているの?」、どういう気持ちがあっても、われわれと交わりをもちたいと望んでおられるのです。 もし私たちも同じ願い、同じ要求をもっていいれば、非常にありがたいなのではないでしょうか。 イエス様の生活とは祈りの生活でした。 われわれの祈りの生活の様子はいったいどうでしょうか。私たちが祈りの霊がなくなる理由はいったいどこにあるなのでしょうか。 すべての邪魔者を取り除かねばならない。なんの罪かいちいち名前を挙げて、イエス様の前に告白しましょう。 結局、 自分の祈りの生活は、罪によって光のないものとなってるなのではないでしょうか。 自分の祈りの生活は、焦り、不規則、不信仰によって妨げられていないなのでしょうか。 自分の祈りの生活は、実りがなかったのではないでしょうか。 あるいは自分が主との交わりをもって、人々のたましいを救う力をもってるなのでしょうか。 私たちは自分のこと、自分の仕事、自分の家族のためにだけ、祈るなのでしょうか。 それとも全世界のために祈るなのでしょうか。 自分の祈りの生活は、色々な思い煩いのために弱くされてしまったなのではないでしょうか。 祈りのうちに大きな仕事することができる。それをいつも覚えるべきです。もしもそれを信じないと、悪魔の勝利になってしまいます。 この問い、質問に対するわれわれの答えとはいったいどういうものなのでしょうか。 今日は、イエス様を祈りのお方として見ることができました。イエス様の祈りの生活は、確かにもっとも理解するに難しいなのではないでしょうか。 イエス様は神の御子であったにも関わらず、もちろん罪を犯す性質をもっていなかったのですけど、夜通し祈らなければならなかったのです。 結局、自分の生活見ると、その失敗のすべては祈りがなかったことから来てることが、言えるなのではないでしょうか。 祈りによってすべてが可能であると、イエス様は何回も何回も約束してくださったのです。もし私たちが祈るならば、必ず周りの人々は導かれ、救われます。 もし心から祈るならば、家族の者ももちろん救われます。このことを私たちはもちろん知ってる。約束されてるから。 そうしたらどうして、少ししか祈らないなのでしょうか。祈り続けないなのでしょうか。 イエス様との交わりを妨げてる一番大きな原因は、私たちが自分の計画、自分の考え、自分の見解、自分の目的を捨てようとしないからなのではないでしょうか。 ですから私たちは、イエス様に向かって自分が開かれていないなのではないでしょうか。 イエス様は、われわれとの交わりを望んでおられます。交わりは愛の目的です。 イエス様は自分を愛し、自分のためにご自身をささげられた。 敵のために死ぬよりも大きな愛はない。イエス様はそれをなさったのです。 私たちはまだ悪魔の奴隷であったときに、イエス様は私たちを愛し、私たちのためにご自身のいのちを犠牲にされました。 イエス様はそのように私たちを愛しておられたので、私たちとの交わりを求めておられます。 イエス様は、当時のペテロに聞いたことがあります。もっとも大切な質問です。「ペテロ、あなたはわたしを愛するか。」 私たちは、毎日いかにしてイエス様を喜ばせることができるなのでしょうか、と考えるべきなのではないでしょうか。 イエス様は、自分になにを望んでおられるかを、もう分かります。 どういう仕事していても、どうしたらイエス様を喜ばせることができるか、考えるべきなのではないでしょうか。 これこそ、なにごとにもまさって大切なことです。 |