祈りの重要さ


ベック兄

(御代田喜びの集い、2004/08)

引用聖句:マルコの福音書6章30節-46節
30さて、使徒たちは、イエスのもとに集まって来て、自分たちのしたこと、教えたことを残らずイエスに報告した。
31そこでイエスは彼らに、「さあ、あなたがただけで、寂しい所へ行って、しばらく休みなさい。」と言われた。人々の出入りが多くて、ゆっくり食事する時間さえなかったからである。
32そこで彼らは、舟に乗って、自分たちだけで寂しい所へ行った。
33ところが、多くの人々が、彼らの出て行くのを見、それと気づいて、方々の町々からそこへ徒歩で駆けつけ、彼らよりも先に着いてしまった。
34イエスは、舟から上がられると、多くの群衆をご覧になった。そして彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深くあわれみ、いろいろと教え始められた。
35そのうち、もう時刻もおそくなったので、弟子たちはイエスのところに来て言った。「ここはへんぴな所で、もう時刻もおそくなりました。
36みんなを解散させてください。そして、近くの部落や村に行って何か食べる物をめいめいで買うようにさせてください。」
37すると、彼らに答えて言われた。「あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。」そこで弟子たちは言った。「私たちが出かけて行って、二百デナリものパンを買ってあの人たちに食べさせるように、ということでしょうか。」
38するとイエスは彼らに言われた。「パンはどれぐらいありますか。行って見て来なさい。」彼らは確かめて言った。「五つです。それと魚が二匹です。」
39イエスは、みなを、それぞれ組にして青草の上にすわらせるよう、弟子たちにお命じになった。
40そこで人々は、百人、五十人と固まって席に着いた。
41するとイエスは、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて祝福を求め、パンを裂き、人々に配るように弟子たちに与えられた。また、二匹の魚もみなに分けられた。
42人々はみな、食べて満腹した。
43そして、パン切れを十二のかごにいっぱい取り集め、魚の残りも取り集めた。
44パンを食べたのは、男が五千人であった。
45それからすぐに、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませ、先に向こう岸のベツサイダに行かせ、ご自分は、その間に群衆を解散させておられた。
46それから、群衆に別れ、祈るために、そこを去って山のほうに向かわれた。

最近、色々な人々は、たぶん適当じゃなくて、心から言うようになったんです。「祈ってます。」
これやっぱり非常にありがたい話なのではないでしょうか。人間にとって一番大切なのは祈ることなのではないでしょうか。
祈れば、主は必ずこたえてくださるからです。

ですから今朝のテーマは、「祈りの重要さ」としたいのです。
ほかのテーマを使ってもいいでしょう。すなわち、「主イエス様と私たち」
もちろん比べられない。けども考えるべきことなのではないでしょうか。

今読まれました、最後の二節、もう一回読みましょうか。

マルコの福音書6:45-46
45それからすぐに、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませ、先に向こう岸のベツサイダに行かせ、ご自分は、その間に群衆を解散させておられた。
46それから、群衆に別れ、祈るために、

疲れていたはずです。寝るためにとは書いてない。祈るために、

マルコの福音書6:46
46そこを去って山のほうに向かわれた。

前に読んでもらいました箇所を見ると分かります。それは本当に非常に、力強いみわざのなされた日でした。
五千人以上の人々に、パンが五つ、魚が二匹しかそこになかったんです。結局、これだけのものをもって、五千人以上の人々が満腹したと書いてあります。考えられない。

始めは弟子たちだけが、パン五つと魚の二匹しかないことを知っていたでしょう。けどもイエス様がそれを無限に分け与えられたことを、二、三人の人は聞くや否や、それは枯れ草に火の点いたように、みんなの間に広がりました。
「イエス様はなんという主なのでしょうか。」と群衆は必ず思ったに違いない。こんなことは今までかつて経験したことがなかったんです。

「主イエス様は創り主だ。」、「イエス様は神の子であるに違いない。」、このことが突然、群衆にはっきりと知らされました。
一つの群れが集まって、イエス様を王さまにすることに決めました。イエス様のほうへ近づいて来ました。彼らは興奮して真っ赤になっていました。
「あなたは救い主です!私たちはあなたを王さまとして迎えたいと思います。私たちはあなたに従いたい。あなたのために戦います。」と彼らは心からイエス様に言ったのです。

弟子たちはこれを聞いて嬉しくなったなのではないでしょうか。
自分たちは、今まであのパリサイ人たち、聖書学者たちに迫害されてきた。今はイエス様がわれわれの王になる。自分たちはその王国の第一になることができる。
今までのパリサイ人たちと立場が逆になるのだと、弟子たちは喜んだでしょう。

すると突然弟子たちはイエス様に呼ばれました。弟子たちは大きな期待をもってイエス様に近づきました。
これはまさに劇的な瞬間でしたけど、イエス様は弟子たちを舟に乗り込ませ、向こう岸に行くように言われたのです。
弟子たちは打ちのめされたような気持ちだったでしょう。これはイエス様の本当のお気持ちなのでしょうか。

イエス様は彼らをご覧になり、もう一度、二、三回だったかもしれない、「向こう岸へ行きなさい。」と言われました。
弟子たちは、もう仕方がなくて行きました。
けど、自分たちの主を理解することができなかったのです。

「あなたは救い主だ。」「私たちの王になってください。」
群衆たちはなおも叫びながらイエス様に押し寄せました。イエス様は手をあげた。群衆を静められた。群衆はイエス様が何を言うかと緊張して期待しています。

「わたしの国はこの世にはない。わたしがこの世に来たのは、十字架の上で死ぬためであって、この世の王としてたたえられるためではない。」とイエス様は言われたのです。
人々はイエス様を理解したなのでしょうか。イエス様は真面目に遠くのほうを見つめました。イエス様は大きな慈愛を込めて彼らに、ご自分の犠牲の死の必要なことを説かれたのです。

イエス様は彼らに、「彼らの代わりに身代わりとなって死ぬときに、本当の救いと解放がやって来るのだ。」と言われたのです。
人々は自分たちの望むことがかなえられないことが分かったから、だんだんうちへ帰り始めました。何という別れだったなのでしょうか。
イエス様はなんという深い慈愛のあわれみの持ち主だったでしょう。イエス様の愛ははかり知れない大きなものです。

人々は、経験させられた奇蹟によって、内心非常に動かされていました。彼らは帰りながらも、何度もイエス様を振り向いたことでしょう。
人々は、イエス様も長い間自分たちのほうをご覧になっているのも見ました。イエス様はそこれからゆっくり山のほうへ歩いて行かれたのです。

イエス様は父のみこころにかなったお方でした。イエス様はただただた、父のみこころを行ないたいと一つの願いをもっていました。
イエス様はこのことが一番必要であり、大切であることをよく知っておられたのです。
ですからイエス様の生涯では、父との交わりが何ものにもまして大切だったのです。

このイエス様を見つめたいと思います。イエス様が祈りの人であることを見ましょう。

マルコの福音書6:46
46それから、群衆に別れ、祈るために、そこを去って山のほうに向かわれた。

とあります。イエス様は非常に疲れたに違いない。一日中、もう仕事でいっぱいでした。

弟子たちはイエス様に失望しました。宗教家たちはイエス様を絶えず攻撃し続けたのです。悪魔もイエス様をダメにしようと思ったでしょう。
イエス様のおられるところ、そこには必ず悪魔の攻撃があります。イエス様のなされる事々に悪魔は攻撃の手を加えます。

イエス様は五千人にパンと魚を分け与えたときに、そこに病人もいやされたに違いない。
しばしば病気は罪を原因としています。ですから病気を治す場合、悪魔を追い出さなければならない。このような霊的な闘いは非常に疲れるものであります。

けどもイエス様は眠りに就かれることなく、山へ上り始めました。イエス様は祈るために、一人になりたかったのです。
多くの人々は孤独病にかかってるから、一人でいるのはもう一番嫌いなことです。イエス様と逆なんです。
イエス様は一人になりたかったのです。

イエス様は一人でおられます。これは人間が一人でいる場合、何をなすべきかを表わしています。
もちろんあなたが一日中一人でいるとしたら、何をなさるなのでしょうか。もちろん、一番好きなこと。一番大切なことをするなのではないでしょうか。
イエス様は一番大切な、また一番好きなことをなさったのです。イエス様は祈られたのです。

イエス様は祈りが一番大切であることをよく知っておられました。イエス様はご自分では何にもやりたくないことを決心したからです。ですから父との交わりが一番大切でした。
イエス様にとっては、父との交わりは一番好ましいことでした。だからイエス様は祈られたのです。

マルコの福音書1:35
35さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。

朝早く、暗いうちに起きて祈られたイエス様です。ルカの福音書からもまだ二、三ヶ所読みましょか。

ルカの福音書5:16
16しかし、イエスご自身は、よく荒野に退いて祈っておられた。

荒野とはもちろん寂しい所です。けども一人になろうと思えばやっぱり、荒野行かなくちゃと、イエス様は思われたのです。祈るために。

ルカの福音書6:12
12このころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた。

結局イエス様は夜じゅう祈られた。

ルカの福音書9:28
28これらの教えがあってから八日ほどして、イエスは、ペテロとヨハネとヤコブとを連れて、祈るために、山に登られた。

景色を見るためじゃなくて。祈るために。

ルカの福音書9:29
29祈っておられると、御顔の様子が変わり、御衣は白く光り輝いた。

とあります。もう一ヶ所、

ルカの福音書22:41-42
41そしてご自分は、弟子たちから石を投げて届くほどの所に離れて、ひざまずいて、こう祈られた。
42「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」

「この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」、もし私たちは毎日、このような心構えをもつと、溢れる祝福が与えられます。

イエス様はもっとも誠実で、結果の多い祈り人だったのです。またイエス様は、見せかけの祈りはしませんでした。
このイエス様の祈りとは、祈りと言ってもちょっと間違ってるかもしれない。これは本当の礼拝でした。

ひとつの悩みの種とは何であるかと言いますと、多くの集会の礼拝は、礼拝じゃないんです。祈り会なんです。根本的に間違ってます。
礼拝のとき、自分のため、他人のために祈る必要はない。礼拝の中心とは、十字架の上で犠牲になり、代わりに死なれたイエス様です。

イエス様の犠牲について、イエス様の愛について考えるともう嬉しくなる。自分のことについて祈っても、おそらく嬉しくならないでしょう。
他人についても祈ったら、やっぱりどういう結果になるか分からない。けどイエス様のなされた救いについて感謝すると、もう解放されます。
本当に全国の集会のためにこういうふうに祈りましょう。本当の礼拝になるように。

ですから、自分のこと忘れ、周りのこととか忘れ、イエス様のなされた救いのためにだけ感謝するとやっぱり全然違う。
イエス様の祈りとは本当は祈りではなかったよ。礼拝でした。
「わたしの思いではなく、みこころだけがなるように。」

イエス様はどうして祈ったなのでしょうか。
弟子たちの模範となるために祈りをしたのではない。霊とまことをもって、祈られたのです。また、深く感じた要求から祈られたのです。
イエス様はなぜ祈られたか。4つのことが言えるかもしれない。

一番目。イエス様は、父の栄光のために祈ったのです。
二番目。イエス様は、父との交わりをもつために祈ったのです。
三番目。イエス様は、父との交わりによって、父のみこころを認め、知るために祈られたのです。イエス様はよく、「わたしはなにも知らない。なにもできない。」と言われたのです。だからイエス様は祈られたのです。
四番目。イエス様は、人々に主の力と贈り物を与えるために祈られたのです。

イエス様の祈りは、本当の祈りでした。父の栄光のために、主の十分さから汲み取ることでした。
イエス様は深く感じた要求から祈ったことを、私たちはヘブル人への手紙にはっきりと見ることができます。

ヘブル人への手紙5:7
7キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。

イエス様はしばしば静かな孤独、荒野、寂しい場所、また山などに行かれたのです。
このような所では、イエス様はもはや世の中のざわめきを聞かず、誰も見ることなく、誰も邪魔をせず、ご自分の心を父の御前に注ぎ出すことができました。

イエス様はしばしば夜通し祈り続けましたから、非常に多く父と話されることがありました。
そしてイエス様はまた再び公の生活に戻りますと、多くの人々がイエス様が権威をもって語られると証ししたのです。
イエス様はいつも忙しく動いておられました。

イエス様の愛はあらゆるところから多くの人々を惹きつけ、イエス様のしるしと奇蹟はご自分を知れ渡ったものとしたのであります。
いつも助けを求める人々がやって来ましたけど、イエス様はますます積み重なる仕事にも過労に陥ることなく、祈るために静かなときをお作りになりました。

多くの人は暇がないと言うんです。これ嘘です。作ろうと思えば必ずできるのです。
イエス様はいつも、祈るための時間をお作りになったのです。
そのようにして、イエス様はあらゆる闘い、あらゆる困難のさなかにおいても、いつも元気で喜び、また力強くあったのです。

心からのまた絶え間ない父との交わりが、イエス様の休息だったなのではないでしょうか。
イエス様は特に心から絶え間なく、あどけなく、しかも大胆になにか重大なことを決する場合、祈られたのです。
例えば弟子たちを選ぶ前。また、死の苦しみの始まるに際して、イエス様は夜じゅう祈られたのです。

主イエス様はご自分のたましいが父のうちに完全な休息を得るまで、安らぎを得るまで祈り続けました。
このような祈りのあとで、主イエス様は勝利を確信して行動することができたのです。

イエス様は悩むことも耐え忍ぶことも、重荷を負うこともできたのです。イエス様は父のみこころを行ないたいと思われたし、また、行なうことをしたのです。
もちろんイエス様は2,000年前に祈っただけじゃない。今日も祈っておられます。

昼、夜、人間ひとりひとりのこと考えて、祈ってとりなしていてくださるのは主イエス様です。
イエス様は我々のわがままのために十字架に釘付けにされただけではなく、われわれのために生きておられ、とりなしていてくださるのです。
イエス様は十字架の上・・・

(テープ A面 → B面)

罪の赦しの確信をもつことができます。
イエス様は勝利を完成されたから、父の栄光に帰せられました。
大祭司として私たちのために祈り、私たちのことを考えて思っておられるのです。

イエス様はご自分の教会、すなわち信ずる者の群れのかしらであると聖書は強調しております。
かしらはいつも信仰の中心です。ですからイエス様は今日もわれわれのために悩み、祈っておられます。

それを私たちは、人々を迫害していたときのパウロに見られます。イエス様はそのとき、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」と言われました。
ですからわれわれの受ける迫害は、イエス様の受ける迫害であります。

ヘブル人への手紙7:25
25したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。

イエス様はいつも生きていて、私たちのこと考えて、とりなしてくださるのです。

今まで私たちは主イエス様を見てきました。最後に少し私たちのことについて考えてみたいと思います。
ドイツにひとつの歌があります。その歌には、

祈りのないためになんと多くの良きことがらが失われていくことだろう。
だれがそれを言い表わすことができるだろう。
天国行ってから分かるでしょう。
もっと祈ったならば、主はもっともっと大いなるわざをなすことができたと。

祈りのない兄弟姉妹は、惨めな姿です。
祈りのない兄弟姉妹は、あわれむべき存在です。
祈りなき兄弟姉妹は、本当の喜びがありません。
祈りなき兄弟姉妹は、実を結びません。
祈りなき兄弟姉妹は、求霊者とはなり得ません。

イエス様のための働きは、祈りに替えることは決してできません。
私たちはイエス様との親しい交わりがなくても、集会をもったり、人を導いたり、本を配ったり、救いの道を説くことはもちろんできます。
けど、イエス様との交わりがないならば、みこころになかった生活をすることができません。
イエス様のための働きは、少しも祈りに替えることができないということです。

イエス様はただ一つの要求をもっておられます。あなたとの交わりをもちたく思っておられる。
確かにイエス様は世界の創造者であり、見えるもの、見えざるもの、すべてをお造りになりましたけど、われわれ人間のために悲しんでおられます。

イエス様はあなたを思っておられます。私たち一人一人と、イエス様は交わりを持ちたいと望んでいます。
私たちもこれと同じ要求を持っているならば、イエス様との交わりを持つことができるようになります。

イエス様とは確かに祈り人でした。私たちとはいったいどうでしょうかね。
私たちの祈りの生活の様子はどうでしょ。私たちが祈りの霊がなくなる理由は、いったいどこにあるなのでしょうか。
すべての邪魔者を取りのぞかなければならない。なんの罪かいちいち名前を挙げて、主の前に告白しましょう。

主の前に、次の質問についてゆっくり考えるべきなのではないでしょうか。
すなわち、自分の祈りの生活は罪によって、力のないものとなっていなかったなのでしょうか。
自分の祈りの生活は、焦り、不規則、不信仰によって妨げられていなかったなのでしょうか。

自分の祈りの生活は、実りがなかったのではないでしょうか。
あるいは、自分はイエス様との交わりを持って、人々のたましいを救う力を持ってるなのでしょうか。

私たちは自分のこと、自分の仕事、自分の家族のためにだけ、祈るなのでしょうか。それとも、全世界のために祈るなのでしょうか。自分の祈りの生活は、色々な思い煩いのために弱くされてはいないなのでしょうか。
祈りのうちに大きな仕事をすることができる。それをいつも覚えるべきです。

もしもそれを信じないと、悪魔の勝利になってしまいます。
私たちの祈りの生活は、成長してるなのでしょうか。私たちは毎日、祈りの意味と力をよりよく学んでいるなのでしょうか。
この問いに対するわれわれの答えとはいったいなんなのでしょうか。
今日、祈り人としてのイエス様を見ることができました。

イエス様の祈りの生活は、もっとも理解するにむずかしいなのです。
イエス様は神の御子であったにも関わらず、夜通し祈らねばならなかったのです。

私たちの生活を見ると、その失敗のすべては祈りがなかったことから来てることが分かります。
私たちは祈りによってすべてが可能になることを確信できるのです。
もし私たちが祈るならば、必ず多くの人々は導かれます。

もし心から祈るならば、家族の者も救われます。そのことを私たちはみな知っていますけど、それを知りながらどうしてこんなに少ししか祈らないなのでしょうか。

イエス様との交わりを妨げてる一番大きな原因は、私たちが自分の計画、自分の考え、自分の見解、自分の目的を捨てようとしないからです。
ですから私たちは主に向かって、自分が開かれてはいないなのでしょうか。
私たちは主イエス様のご計画、考え、見解、目的をそんなに大切に思っていないのではないでしょうか。

主はわれわれとの交わりを望んでおられます。
組織された交わりはもちろん交わりではなく、組織です。組織は形式であり、冷たく親しみがない。組織は実りがなく、喜びがなく、心はからっぽです。
これが多くの人々の悩みなのではないでしょうか。

交わりは愛の目的です。イエス様はあなたを愛し、あなたのためにご自分をささげられました。
敵のために死ぬよりも大きな愛はありません。イエス様はそれをなさったのです。
私たちはまだ悪魔の奴隷であったときに、イエス様は私たちを愛し、私たちのためにご自身のいのちを犠牲にされたのです。

イエス様はそのようにわれわれを愛しておられたので、私たちとの交わりを求めておられます。
どうでしょうか。私たちはイエス様を心から愛してるなのでしょうか。
もしほかの仕事をした場合、そのうちにいかにしてイエス様を喜ばせることができるなのかと考えるなのでしょうか。

イエス様は今日、自分になにを望んでおられるか、よく考えましょう。
どこ行って、どういう仕事をしても、どうしたらイエス様を喜ばせることができるか、よく考えるべきなのではないでしょうか。これこそ何事にもまさって一番大切なのであります。

イエス様とは心から祈られたお方です。祈り人そのものでした。
そしてイエス様はこんにちも、そういう祈る人々を捜し求めておられるのです。




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