引用聖句:出エジプト記32章32節
ローマ人への手紙9:3
今、読んでもらいました二箇所は、もうみなよくご存知ですし、この箇所について、もちろん学んだことがあります。けれど最近、やはり、こういうふうに祈る人はあまりいないのではないでしょうか。 今、はっきりわからないけれど、六百七十何人の人々は、いわゆる「祈りの輪」に入っているのですけれど、今朝、あるもらったメールを読んでもらいました。結局、祈るようになったのは、良かった。ちょっと30分では足りないらしい。 結局、祈りながらみことばを読み、みことばを読んだら祈ると、本当に、主は働いていてくださるのです。 今日の集いも、「喜びの集い」。どうして?悔い改められるからです。 後で、証しする姉妹のお母さんを知るようになったのは、姉妹がまだ生まれていなかったのです。そういうふうに考えるとやはりありがたいけれど、もっと、もっと祈らないとダメなのではないかな。 エレミヤは次のように書いたのであります。 エレミヤ書8:20
このみことばをもとにして、あるスイスの神学校の創設者は、一つの歌を作ったのです。 前に、紹介したことがありますけれども、私は、初めてあの歌を読んだとき、歌ったことがないけれど、読んだとき、やはり、感銘を受けました。紹介します。 「恵みの時は、終わりに近づいている。広い世界に、今や、静かに終わりの日が近づいている。 遠いさばきの底から不安な叫びが聞こえてくる。 私たちの真っ暗な夜には、決して光が差し込まない。 私たちを照らす神の恵み無くしては、私たちは、苦しみと闇の中、暗い道を行かなければならない。永遠に、永遠に。 あなたたちは、歌い喜びに満ちている。自分は神の子であると言う。 私たちは、死のいけにえであり、恐怖に満ち、ひどい苦しみに満ちている。 あなたがたは、なぜ立ち止まっていて、夜始まる今、私たちを救おうとしないのか。 あなたがたは、神様がそのひとり子を遣わして自分たちを愛していることを教えないのか。 あなた達のおかげで、自分たちは、それを知らずに希望無く滅びゆくのだ。 自分たちは死ぬために生まれたのであり、死は、永遠から永遠に至る私たちの運命なのだろうか。 私たちには星が輝かない。約束の光も照らされない。遠くの方に、さばきの雷が聞こえる。 なぜ、なぜ、あなたがたは急がないのか。神は、行って全世界に十字架の勝利者を宣べ伝えよと言っているのに。 あなたがたは、私たちの哀れな心のために喜ばしき知らせを持っている。 傷を癒す薬を、苦痛を永遠に癒す薬を持っているのに。なぜ、そんなに長く沈黙しているのですか。 あなた達の信仰の岩に至る道を、示す言葉を私たちに、聞かせてください。 私たちの涙をぬぐってください。 私たちが死につくのも、あなたがたのせいです。私たちの罪は、私たちを悩ませ夜が近づいています。 私たちは、私たちの魂をサタンの力に預けなければならない。永遠に、永遠に。 遠くの国々から幾百万と言う人が収穫の主よ。聞きたまえと呼ぶ。 私たち信者に新しい恵みを与えて下さい。私たちの罪を赦してください。 待ちこがれている魂の所へ、十字架の言葉を運ぶ者とならしめ賜え。 彼らが永遠に滅びないように。」 ある時、兄弟姉妹は本当に一つだったのです。買い物に行っても、用事に行っても、会う人にイエス様を伝えなければ、平安がなくなった。結局、こういう精神を持つことこそが大切なのではないでしょうか。 人を救うために、イエス様はいかに悩んだのか、苦しんだのかについて考えると、やはり、イエス様を知らない人々のために、もっともっと主を紹介すべきなのではないでしょうか。 結局、イエス様の精神こそが、我々を支配すべきなのではないでしょうか。 私たちは、今、兄弟も言われたように、ただ救われるためにだけ救われたのではない。 与えられている使命とは、主の器となるためです。 器そのものは、たいしたものではない。使わなければ、まったく役に立たないものです。我々信者もそうなのです。主によって用いられなければ、悲劇的です。 今、読んでもらいました二箇所を見ると、二人の男、モーセとパウロが、救われただけではなく、彼らは主に仕える者でした。どのような精神で、主に仕えたか、この二箇所を読むとわかるのではないでしょうか。 もちろん、モーセとパウロは、各々、旧約聖書と新約聖書を代表する、偉大な主に頼る人、主に用いられる器でした。だから、この二人が、奉仕に対してどんな態度を取っていたか考えることは、必要なのではないでしょうか。 私たち一人残らず、主に仕え、主に用いられたいと願っているのではないでしょうか。だから、みこころにかなう精神とは、どういうものなのか、と知るべきなのではないかと思います。 このモーセとパウロの告白とは、ただの証しではないようです。二つとも、祈りです。祈りの言葉です。そして、この祈りの言葉を通してみこころにかなう精神がどんなものであるか知ることができるのではないかと思います。 この言葉を読むと、直感的にピンと来ることは、モーセとパウロは、全く自分に死にきっていたということです。 自分は、もうどうでもいい。二人とも、この態度を取るようになりました。 モーセは、同胞のためなら、いのちの書から私の名が消されても構わない、と少し思っただけではなく、祈ったのです。心から祈るようになったのです。 もちろん、パウロの場合もそうでしょう。同胞のためなら、自分は呪われても構わない、と祈っています。 この二人のように、己に死にきった人が、他にいるのでしょうか。この二人の主のしもべたちは、まったく自分を忘れたのです。自分の目的も、自分の願いも、自分の利益も、全然、頭の中にありませんでした。 もちろん、彼らは奇跡を経験したからではなくて、奇跡そのものになったのです。普通は、ありえないことであるからです。主に選ばれた人々、すなわち、まことの教会が、モーセとパウロのすべてでした。 自分の祝福、自分の義、自分の誉れ、それらは、全然、二人にとっては、問題ではなかったようです。別の言葉で言いますならば、主の民、主のからだなる教会は、モーセとパウロのいのち、彼らにとって、すべてでした。 この二人は、自分の持ち物、自分の時、力、いのちは、主の体なる教会のためにあるのだ、主にある兄弟姉妹のためにあるのだと、堅く信じたのです。 もちろん誰かによって、洗脳されたのではない。この二人は、主の霊に支配されるようになったから。 もし、信ずる兄弟姉妹が、霊的に成長せず、悩みを持ちながら、その前に立ちはだかって、とりなし守ることができないなら、自分の生きがいはないと、この主のしもべたちであるモーセとパウロは、告白しています。 これこそ、みこころにかなうあり方なのではないでか。主が我々に与えようとしておられる精神なのではないでしょうか。もう一回読みましょう。 出エジプト記32:32
また、ローマ人への手紙9章3節ですね。 ローマ人への手紙9:3
彼らは立派だったよりも、彼らの内に主の霊が働くことができた。二人の祈りを読むと、二人には、共通しているところがありました。すなわち、二人の祈りに導かれた原因は、救われていない人の悩みではなくて、信ずる者の罪でした。 イスラエルの民、主の選民は、エジプトの国から救い出されました。すごい経験をしたのであります。これは、もちろん、新約聖書では、主に選ばれた民、罪赦され、救いの確信を頂いた主を信ずる信者を表しています。 主なる神の憐みにより、エジプトから救い出されたイスラエルの民は、主の恵みを、間もなく忘れてしまいました。モーセがシナイ山に入っている間に、とんでもないことになってしまいました。 モーセの来るのが遅いと思って、アロンの導きにより、金で牛の偶像を作り、この自分たちの作った物は、我々をエジプトの国から導き上った主であると言って、子牛を礼拝するようになりしました。 考えられない。主の救いを経験した人々は、偶像礼拝者になってしまった。主のなさったことを、きれいに忘れてしまいました。そして、モーセは、このとんでもない道を行くようになった民のために祈っています。 主の元に帰って、そして言った。 出エジプト記32:32
いわゆる、いのちの書から、 出エジプト記32:32
そして、ローマ人への手紙9章を読むと同じようなことが書かれているのではないでしょうか。 イスラエルの民は、主から離れ、主に背き、ついに主の一人子なる救い主イエス様を、十字架につけてしまい、もう考えられない過ちを犯してしまったのです。 この恐るべき罪を犯した民のために、パウロは祈りました。 ローマ人への手紙9:3
ちょっと、考えられない祈りなのではないでしょか。この祈りを読むと、モーセとパウロは、愛するに値する者のためにとりなしたのではない。悪魔との結びつき、罪を犯して、愛するにも愛することのできないような人々のために祈っているのです。 これを考えると、我々の心に何か教えられるものがないでしょうか。私たちが愛して、その愛に答えてくれる人々のために、仕えるのはありがたい。喜び、簡単です。 モーセとパウロの場合は、まったく違いました。モーセとパウロの愛に全然答えてくれない人々を愛して、愛して、愛しぬいた二人でした。私たちも、主の元から離れていった兄弟姉妹に対して、同じ心の態度を持ちたいものではないでしょうか。 モーセとパウロには、その他にも共通している点がもちろんあります。例えば、モーセもパウロも、心からその人々を愛して、すべてを捧げた為に、誤解されてしまった。いじめられた、ということ。 モーセは、イスラエルの民をエジプトから解放しようと思い立ったとき、イスラエルの人々に誤解されてしまいました。自分の身に危険を覚えて、逃げなければならなかったのです。 また、民を導いて、荒野の上をさまよった40年の間、モーセはどれほど、このイスラエルの民に誤解され、民から苦しみを受け、民の為に悩んだかわかりません。 パウロの場合もモーセと同じだったでしょう。信仰を同じくするイスラエルの民によって、彼はいじめられ、迫害され、誤解され、悪者のように取り扱われてしまいました。 けれど、この二人の主のしもべは、自分を理解してくれない人々の為に、自らの生涯を与え尽くし、捧げつくした。 モーセは、自分をいじめ抜いた民であることを、よく知りながら、今、主の前でとりなしているのです。 「今、もし、彼らの罪をお赦しくだされるものなら――。しかし、もしも、かないませんなら、どうか、あなたがお書きになったあなたの書物から、私の名を消し去ってください。」 「彼らの罪を赦してやってください。」と祈るモーセの心の内には、民に対する苦々しい思いは一つもありませんでした。これも考えられない奇跡そのものです。 パウロも、主の前にひれ伏して、「もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。」と。 これこそ、主の与えたいと思う精神ではないでしょうか。我々の主イエス様の場合が、そうだったでしょう。イエス様は、のろいとなりました。これは、なんという奉仕でしょう。 我々の罪のために、父なる神は、自分にとってすべてのすべてであるイエス様を捨てたのです。御顔を背けられました。父の沈黙とは、イエス様は、経験したことがなかった。想像することもできなかった。 父は、いつも聞いてくださる。だから、イエス様は、何があっても頼ることができたけれども、十字架につけられる前に、イエス様は、わかった。罪の塊とされるわたしは、のろわれ、捨てられます。 イエス様は、一番辛いそのことに、耐えてくださいました。またイエス様は、ご奉仕の間、多くの人々にいじめられ、責められ、誤解され通しでした。 ご自分を誤解し続けた兄弟たちのために、十字架上の断末魔の苦しみの中で、イエス様は祈りました。 「わが神、わが神。」、初めてです。その前はいつも、父、わが父、と祈ったのです。その時、初めて、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」と言わざるを得なかったのです。 けれどもイエス様は、ご自分を捨て、ご自分を否んだ人たちに対し、兄弟と呼びかけるのを恥とされませんでした。これは、イエス様を動かした精神でした。 イエス様は、愛され、価値のない我々のために、のろいとなってくださったのです。このイエス様の霊は、パウロの内にも、生きていました。 パウロはやはり、イスラエルの民のためなら、この身はのろわれても構わない、と思っただけではなくて、祈ったのです。願ったのです。心から。 我々は、この主の標準から、何と遠く離れていることでしょう。もちろん、今、話したように、モーセとパウロは、立派だったのではない。 けれども、主の霊が導くことができ、彼らを用いることができたのです。 そして、二人について考えると、主の目的を実現するために、やはり、戦いが必要であったということです。 ここまで、出エジプト記32章とローマ人への手紙9章から、モーセとパウロについて考えてきたのですけれど、ここで、出エジプト記の32章とローマ人への手紙9章の前にどのようなことが起っていたか、見るべきではないでしょうか。 すなわち、出エジプト記の31章は、本当に素晴らしい書です。モーセはシナイ山に入り、そこで、主との親しい交わりを持っていたのです。40日間、すごい時を過ごしたに違いない。 主から幕屋の雛形を見せられました。ですから、シナイ山は結局、啓示の山です。聖なる主のみこころがあきらかにされた山です。そして、啓示された幕屋は、言うまでもなく、イエス様を象徴するものです。 主はご自分を住もうとされる幕屋の模範を、モーセに示されました。長さ、幅、深さ、どういう材料を使うべきか云々と、全部細かく教えられました。主は、モーセに示された幕屋に住み、ご自分の栄光を表したかったんです。 モーセにとって幕屋が上から示されたということは、素晴らしい体験でした。けれど、示された幕屋の建設は、すぐには、できなかった。32章を見ると、イスラエルの悪魔に惑わされてしまいました。 「主よ、導いてください。教えてください。」そういう気持ちが全然、なかったのです。イスラエルの民は堕落した。 モーセにとっては、これは考えられない悩みであり、苦しみでした。また、戦いだったでしょう。 主のご目的を実現するために、いつも戦いが伴います。 同じく、ローマ人への手紙8章を見ると、これも、出エジプト記31章に劣らず、素晴らしい書です。ローマ人への手紙8章1節2節、読みましょうか。 ローマ人への手紙8:1-2
ローマ人への手紙8:17
とあります。 ローマ人への手紙8:18
この8章の28節、29節もよく知られている箇所ですね。 ローマ人への手紙8:28
すべては、すべてです。大部分だけではない。 ローマ人への手紙8:28-30
このローマ人への手紙8章は、本当にすごい書です。31節から、もう一回、読みましょうか。 ローマ人への手紙8:31-38
これはパウロの証ですね。 ローマ人への手紙8:38-39
もう心配ない。安全。 このローマ人への手紙8章を読むと、私たちは、高い所へ思わず知らず、引き上げられていくような気がします。 この章を読んでいくと、主の永遠からのご目的が明らかになるのです。今読んだように、29節 ローマ人への手紙8:29
これが主のご目的です。 さらに続いて、結局、9章、10章、11章を読むと、まったく内容的に違うものを書いているのです。 本当の続きはね、12章。ローマ人への手紙12章4節、5節には、主のご目的の実現について書かれています。 ローマ人への手紙12:4-5
けれども、今、話したように、8章と12章の間には、非常に暗いことが書かれています。特別に選ばれたイスラエルの民が、主から離れ、約束された救い主であるイエス様を、十字架につけて殺してしまった悲しむべき陰惨な出来事が書かれています。 モーセとパウロは二人とも、素晴らしい主の奥義を上から示されていました。すなわち、モーセは、神の家、神の住まいである幕屋を教えられ、パウロは、同じく神の宮、神の住まい、まことの体なる教会を教えられています。 けれど、二人とも、この主のご目的を示されて、それを実現するまでの間には、あまり面白くなかった。非常な戦いがありました。民は、金の牛に礼拝を捧げました。主から離れてしまいました。 悪魔は、今、我々の生まれながらの性質を用いて、主のご目的を実現させないように働きかけています。もし、私たちが、弱い点に気付くなら、そのまま今日、主に新たにすべてを委ねるべきなのではないでしょうか。 自分を尊び、ありのままの姿でいることをしない人々は、主を否定することになります。主の御前では、私たちは、貧しい者であり、どうしようもない惨めな者であり、憐れむべき者であり、目の見えない者であり、裸な者であるとヨハネの黙示録にあります。 主にすべてを捧げ、我々の内に、我々を通して、主に働いていただきたいものです。 主の宮が、一体、いつ建てられるようになったのでしょうか。結局、恐ろしい戦いの後でした。すなわち、偶像礼拝者を除くという、恐ろしい戦いの後でした。 モーセとレビの子達は、偶像を拝んだ人たちを殺さなければ、除かなければならなかったのです。ちょっと大変ではないでしょうか。 出エジプト記の32章にもう一回、戻りましょうか。32章、25節から。 出エジプト記32:25
証しではなかった。 出エジプト記32:26-28
結局、殺されてしまった。 出エジプト記32:29
我々の場合も同じだと信じます。心の偶像が取り除かれ、自分の利益、自分の考えを主の前に恥じるようになって初めて、主の宮が建てられていくのです。それまでの間には、戦いと悩みがあります。 パウロはガラテヤという地方に住んでいる兄弟姉妹に、この戦いを戦いました。ガラテヤ人への手紙を読むと、パウロがガラテヤ人のために、恐るべき戦いをしたことがわかる。 彼らは、誤ったユダヤ教に足を踏み入れてしまい、掟に縛られ、その霊的状態は、荒野を彷徨ったイスラエルの民のように、荒れに荒れてしまいました。 主のご目的が、実現されていくところには、いつも戦いがあります。主のご目的は、ご自分の住む家であるまことのイエス様の体なる教会を建て上げることです。 エペソ人への手紙1章、一番最後の23節に、それがはっきりと書かれています。 エペソ人への手紙1:23
もちろん、一つの組織ではない。人間の造るものではない。 エペソ人への手紙1:23
この教会が実現しますと、あらゆる問題は、たちどころに解決するようになります。けれど、この教会が建て上げられていくには、多くの悩みや、苦しみや、誤解が伴うでしょうけど、栄光に満ちた主の教会が建て上げられていくことを約束されているから、間違いない。 今まで、二つの点について考えたね。すなわち、モーセとパウロの内に宿ったイエス様の精神について。それから、主の目的を実現するための戦いについてです。 もう一つ、三番目になりますけれど、すべてを捧げることの大切さですか、必要性について少し考えてみたいと思います。 主のご目的を我々は、上から教えられて知るべきです。これは、頭の知識とまったく違う。主がモーセとパウロに示されたように私たちにも、もう既に示してくださったのでしょうか。 そして、その主のご目的が達成されるように、私たちのすべてをお捧げてもいいと思うのでしょうか。 すべてを主にお捧げすることは、考えられないほど大切です。すべてをお捧げする時、自らの利益、立場、名誉それらのものは、どこかへ行ってしまいます。 主のご目的が何であるかを、頭の知識としてではなくて、心の目で見て、すべてを主にお捧げする時、教会、主にある兄弟姉妹がその人のいのちとなり、すべてとなるはずです。モーセとパウロの場合はそうでした。 モーセは、イスラエルの民を思い、主のみ前に心を注ぎ出しました。「今、もし、彼らの罪をお赦しくだされるものなら――。しかし、もしも、かないませんなら、どうか、あなたがお書きになったあなたの書物から、私の名を消し去ってください。」 イスラエルの民が、立ち直るか、または、自分がダメになるか、どちらかを主に迫っているモーセの姿が目に映るような気がします。 すべてを主に捧げ、主の家を思う時、二つの道を選び取ることができません。私たちを通し、主の家が建て上げられるか、あるいは、自分がダメになるかのどちらかです。 主が我々を通して、思うがままに働くことができるように、自分で何か役割を演じようなどとは、思わないようにいたしましょう。自らは、何の価値もないものだから。 モーセは、この祈りの中で、言っています。「自分は価値のないものだ。私の救いや、私のいのちは、必要ではない。」 また、パウロは、「もし、主のみこころが、信ずる同胞の内になされていかなければ、私は何のために救われ、何のために生きているのか分からない。」と言っています。 主は、私に主のみこころの全部、教会に、イエス様の体なる教会に、傾けておられることを示してくだりますと、やはりすごいのではないでしょうか。 集会、いたるところの集会が、主のみこころのままに、主によって建て上げられなければ、どうして救われたのか、まったくわからなくなってしまいます。 私たちは、何故、救われたのでしょうか。何か得るためでしょうか。天国に入るためなのでしょうか。それから、色々な祝福を頂くために救われたのでしょうか。確かに、多くの人々は、それらのために救われたのだと思っているのです。 けれど、聖書を見ると、決してそうではない。私たちは、主のご目的を成し遂げる、主に仕えるしもべとなるために救われた。 この主のご目的を成し遂げるためには、いろいろな値を払わなければなりません。主の家を建て上げるという、主のご目的を成就するためには、いのちをも捧げなければならないでしょう。イエス様は、マタイの福音書16章25節で、次のように言われました。 マタイの福音書16:25
主の体である兄弟姉妹のためなら、死も厭わない。兄弟姉妹は、自分のすべてであると思うまでに、主イエスと一つになっているのでしょうか。 私たちは、主の家である教会、主にある兄弟姉妹が一人ひとりのすべてとなっており、この霊的知識が、いのちとなっているのでしょうか。 この主の家を建て上げたいという願いは、モーセとパウロのすべてでした。この二人は、ご奉仕に際しても、自分の名誉を求めず、ただ、ただ、主にのみ栄光あれと思ったのです。エペソ人への手紙5章27節のごとく、主の教会を建て上げるために、いのちを懸けていました。 エペソ人への手紙5:27
とあります。主のご目的とはそれなのです。 パウロは、前に言いましたように、救われていない人々のために、もちろん祈り続けました。けれども、もっともっと祈ったのは、救われた人々のためです。 結局、救われた人々は、主に用いられないように、これこそが悪魔の攻撃の目的です。だから、彼は、コリント人への手紙第II、11章2節に、次のように書いたのです。この節は、やはり、パウロの心の表れではないでしょうか。 コリント人への手紙第II、11:2
こういうふうにパウロは、全然証しになっていないコリントにいる兄弟姉妹に、書いたのです。 パウロと同じように、この目的を持ってご奉仕しなければ、主は、我々を悲しく思われることでしょう。 主は、モーセやパウロと同じように、我々を通してご自分のご目的を達成されるために、我々を救ったのです。このように主に仕える準備が整っているのでしょうか。このご奉仕は、死にいたるまで従順に主にお従いして行く奉仕です。 最後に、もう一つの点について、少しだけふれて終わります。まことの奉仕に、必ず伴う火のような試みについてです。 主のしもべたちは、特別に激しい試みにあったことがある、と告白しています。私たちが救われるためには、苦しみがありませんでした。救われるために、私たちは、何の値も払いませんでした。 けれど、救われて、神の子として歩み始めたその時から、色々な悩みが、また、苦しみが襲ってきた。これは、一体どういうわけでしょうか。 それは、私たちが、ただ救われるために救われたのではなく、主に仕えるために救われたから。私たちは、主に用いられるしもべとなるべきです。 けれど、自分を無にしない限り、主のしもべとなることはできません。自分を無にするには、激しい試みを通されなければならない。何と多くの自らを喜ばせ、自らを愛する心が、我々の内に残っているのでしょうか。 だから主は、ご奉仕を妨げる我々の自我を取り除くために、色々な悩みや、苦しみの中を通されるのです。 私たちは、いったい、心から、主に仕えたいと思うのでしょうか。モーセとパウロとは、用いられました。結局、主を喜ばせたいと心から願ったからです。 イエス様は、己をむなしくされました。彼らもそういう精神に支配されたのです。 マタイの福音書20:28
結局、私が マタイの福音書20:28
イエス様の証しとはそれです。私は仕えるために、いのちを与えるために遣わされた。イエス様こそがみこころにかなうしもべでした。 私たちもまことの主のしもべとなるためには、すべてを主にお捧げしなければならないはずです。いのちさえ捧げなければなりません。すなわち、自分の自我を捧げなければ、自分の意思を捧げなければならない。 それがためには、多くの悩みや、苦しみや、困難を通らなければならないでしょう。この試みを通った時、仕える器となります。 民数記12章3節に、モーセについて、ちょっと考えられないことが書かれています。 モーセとは、ご存知です。怒りやすい男でした。ある時、エジプト人を殺してしまったのです。 けれども、主の霊に導かれるようになってから、彼は変わりました。 民数記12:3
モーセがこうまで言われるようになるまでには、想像に絶する試みを通されたのです。旧約聖書の中でよく出てくる文章は、「神のしもべモーセ」は・・・。モーセは、主に仕える器となりました。 また同じ御霊は、もちろんパウロに対して、「イエス・キリストのしもべパウロ」と呼んでいます。パウロは、地にひれ伏し、心から祈りました。 「もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。」と言っています。これが、主が我々にも、与えようとしている精神なのではないでしょうか。 祈りの輪を作った理由とは、それなのです。 結局、「主よ、語ってください。しもべは聞いております。」何があっても、あなたのご栄光が現れるようにと祈り続けましょう。 |