祈りの家か強盗の巣か


ベック兄

(吉祥寺福音集会、2005/09/18)

引用聖句:ヨハネの福音書11章1節-5節、21節、32節、35節-36節、43節-44節
1さて、ある人が病気にかかっていた。ラザロといって、マリヤとその姉妹マルタとの村の出で、ベタニヤの人であった。
2このマリヤは、主に香油を塗り、髪の毛でその足をぬぐったマリヤであって、彼女の兄弟ラザロが病んでいたのである。
3そこで姉妹たちは、イエスのところに使いを送って、言った。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」
4イエスはこれを聞いて、言われた。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」
5イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。
21マルタはイエスに向かって言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。
32マリヤは、イエスのおられた所に来て、お目にかかると、その足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」
35イエスは涙を流された。
36そこで、ユダヤ人たちは言った。「ご覧なさい。主はどんなに彼を愛しておられたことか。」
43そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。「ラザロよ。出て来なさい。」
44すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」

ヨハネの福音書12:1-3、9-11
1イエスは過越の祭りの六日前にベタニヤに来られた。そこには、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロがいた。
2人々はイエスのために、そこに晩餐を用意した。そしてマルタは給仕していた。ラザロは、イエスとともに食卓に着いている人々の中に混じっていた。
3マリヤは、非常に高価な、純粋なナルドの香油三百グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった。家は香油のかおりでいっぱいになった。
9大ぜいのユダヤ人の群れが、イエスがそこにおられることを聞いて、やって来た。それはただイエスのためだけではなく、イエスによって死人の中からよみがえったラザロを見るためでもあった。
10祭司長たちはラザロも殺そうと相談した。
11それは、彼のために多くのユダヤ人が去って行き、イエスを信じるようになったからである。

ルカの福音書24:50-53
50それから、イエスは、彼らをベタニヤまで連れて行き、手を上げて祝福された。
51そして祝福しながら、彼らから離れて行かれた。
52彼らは、非常な喜びを抱いてエルサレムに帰り、
53いつも宮にいて神をほめたたえていた。

今日の題名は、「エルサレムかベタニヤか」、違う題名をつけてもいいかもしれない、「祈りの家か強盗の巣か」

聖書を読むと言えるのではないでしょうか。イエス様にとってエルサレムとは、だんだん悩みの種になってしまったのです。ベタニヤは喜びの種だったに違いない。
ヨハネの福音書12章の1節、ラザロがいた。2節、マルタは給仕していた。3節、マリヤはイエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった。兄弟3人揃っていたのです。そして3人ともはやっぱりイエス様の喜びの種だったに違いない。

そしてルカの福音書24章を見ると、イエス様の昇天なさる最期の行ないとは何であったかといいますと、イエス様は弟子たちを祝福した。
祝福された弟子たちとは非常な喜びをもつようになった。それから結果として、神をほめたたえたのです。主によって祝福された人々とは喜びに満たされますし、そして主を心から礼拝せざるを得なくなります。
エルサレムを見てイエス様は涙を流されたと聖書は言っています。

マタイの福音書21:13
13そして彼らに言われた。

当時の聖書学者たちにイエス様は言われたのです。

マタイの福音書21:13
13「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる。』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている。」

結局当時のエルサレムの宮とは祈りの家ではなく、強盗の巣になったのです。

マタイの福音書23:37
37ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。

預言者たちとは神のみことばを運ぶ者でした。エルサレムの住人たちは、おもに宗教家たち、聖書学者たちは聞く耳を持っていなかったのです。だから彼らは預言者たちを殺したのです。

マタイの福音書23:37
37わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。

聞く耳がなかったから、イエス様は涙を流された。
確かにイエス様はベタニヤに行って、同じように涙を流されたと書いてあります。これはちょっと違う涙でした。イエス様はどうしてベタニヤで涙を流されたかといいますと、ともに悩むお方であるからです。
そのときマルタはラザロの墓の前に、もう泣いてしまった。「どうしてイエス様は早く来なかったのか。イエス様がおられたならば、ラザロは死ななかったのに。」、もう寂しくて、寂しくてしょうがなかった。

イエス様は泣いているマルタを見たとき、もう我慢できないでいっしょに涙を流された。私たちの主イエス様とは結局そういうお方です。ともに悩むお方です。どういう人であっても知らん顔をするお方ではない。
もちろんすぐあとでイエス様は、「ラザロよ。出て来なさい。」、4日間も屍は墓の中にいたのに、健康人として出て来たのです。
ここで、「ラザロがいた。」と書いてあるのです。それだけなのです。説教したと書いていない。証しをしたと書いていない。必要ない。いることだけで十分でした。

言いたいのは、エルサレムよりもイエス様にとってベタニヤは大好きな場所でした。ですからマタイの福音書21章17節に、

マタイの福音書21:17
17イエスは彼らをあとに残し、都を出てベタニヤに行き、そこに泊まられた。

もうできるだけあの宗教家たちから離れたい。ベタニヤに行くと喜ぶことができたのです。結局ベタニヤにいる3人の兄弟たちはみんな聞く耳を持っていたのです。

何年前だったかちょっと忘れましたけれど、ひとりの兄弟が癌で天に召されたのです。次男は先にイエス様を信じ救われ、それからお母さんもお父さんも、お兄さんも、おばあちゃんも次々とイエス様を信じ救われ、やっぱりもう、喜びのうちになったのです。
けれども兄弟は癌になったのです。「癌だと宣告されたときから最期まで、家はいつも明るかった。私たちは全然同情しなかった。主人はますます新たにされ、精神的に元気になり、全てをイエス様に任せたから感謝です。」と残された奥さんは証ししたのです。

そして兄弟は最後にお医者さんに頼んだのです。「先生。お願い。輸血をやめてください。もったいない。ほかの人のために使いなさい。イエス様のところに行きますから。」、結局彼は何を言いたかったかといいますと、「行かせてください。」
昔のアブラハムの召し使いである僕はちょっと似ていることを言ったことがあります。創世記の24章の56節です。

創世記24:56
56しもべは彼らに、「私が遅れないようにしてください。主が私の旅を成功させてくださったのですから。私が主人のところへ行けるように私を帰らせてください。」と言った。

今話した兄弟の気持ちは、結局そういうものでした。「行かせて。」、「私の主であるイエス様のところへ行けるように私を帰らせてください。」

ベタニヤのマリヤという女性は結局そういう気持ちでいっぱいだったのです。すなわち、「主よ聞かせて。あなたの話を聞きたい。」
結局彼女の一番好きな場所とはイエス様の足もとでした。イエス様の足もとに座り、みことばに聞き入っていたマリヤは本当に元気になり、喜びに満たされたに違いない。主のことばは結局彼女の心の糧となり、心の喜びとなったのです。

宗教によって毒された人間がみんな思っているのは、「聖書は勉強しなくてはいけない教科書です。」と。
ひどい考え方です。食べれば元気になる。わからなくても書かれているから信じますという素直な態度を取ると、やっぱりみことばとは最高の薬ではないでしょうか。

イエス様の足もとに座ること、主の前で静まることこそがもっとも大切ではないでしょうか。
間違いなく現代人が一番必要としているものは静まることです。なぜならば多くの人の特徴は疲れであり、無力さであり、たゆむことであるからです。
もしも私たちが本当に正直に、偽ることなく主の前に出るならば、私たちは自分が疲れ、無能力で、たゆむ者であることを告白せざるを得ません。

ルカの福音書24:50
50それから、イエスは、彼らを

弟子たちを

ルカの福音書24:50
50ベタニヤまで連れて行き、手を上げて祝福された。

とあります。イエス様の弟子たちを結局ベタニヤの近くまで導いたのです。結局よみがえられた主イエス様が一番最後になされたこととは、弟子たちをベタニヤまで連れて行くことでした。
弟子たちがイエス様とともにベタニヤに行ったとき、そこでイエス様は弟子たちを祝福され、その後弟子たちの目の前で天に引き上げられたのです。
はっきり言えることは、イエス様が弟子たちをベタニヤに導かれたのは、よくお考えになった祈りの結果、イエス様の末のことがらでした。

イエス様はベタニヤに弟子たちを導くことによって、結局弟子たちに大切なことを教えようと思ったに違いない。
「さあ、ベタニヤに来た。この地を末永く記憶にとどめなさい。このベタニヤをいつでも忘れずにいなさい。」と言いながらイエス様は弟子たちを祝福してくださったのです。

このベタニヤはマルタ、マリヤとラザロが住んでいたところでした。そしてイエス様は好んでこのベタニヤに来られたのです。いい町だったから、景色が良かったからではない。あの3人の兄弟たちのためでした。
そこでイエス様はお休みになり、食事をとったりされました。いつも楽しみにしてベタニヤを訪れた主イエス様でした。
イエス様はいったいどうしてそんなにベタニヤを大切にし、愛されたのでしょうか。愛された原因とは何だったのでしょうか。今話したようにこの3人の兄弟姉妹です。

マリヤという女性はもちろんイエス様を愛し抜いた者でした。イエス様に対する純粋な愛こそが彼女の満たされた生活の秘訣そのものでした。
それから彼女の姉、マルタという女性はよく働く者だったのです。ある聖書の個所を見るとちょっと的外れだったらしい。けれどそれ一回しか書いていないのです。
そのあとで彼女ははっきり違う態度を取ったに違いない。結局彼女はイエス様を喜ばせたい気持ちでいっぱいでした。

そしてラザロという男は、彼は何と何をやったかではなくて、彼はどうして有名人になったかと言いますと、よみがえらせてもらったからです。それだけなのです。
自分の力で何にもできなかったのです。もう4日間墓の中だったからです。
ベタニヤに住むこの3人の兄弟姉妹はイエス様を通して初めて内容のある人生を見いだしたに違いない。イエス様との出会いによって、彼らはだれにも教えられなくてもわかった。「本物です。」
私たちが必要としているのはこのイエス様との交わりです。イエス様の近くにいるともう心配から、不安から解放されます。希望をもつようになると彼らは何回も何回も経験したに違いない。

私たちは神なき人生の無意味さを認識しているのでしょうか。それだけではなく、いくら頑張っても、努力しても、いわゆる罪の問題を解決することができないと思うようになったのでしょうか。
それから自分が破産したことを宣告し、自分を債務を、またわがままをイエス様に告白したことがあるのでしょうか。
イエス様の流された血によって自分が贖われ、主なる神の子どもとされていることを確信できるのでしょうか。そしてもはやさばかれることがないことも知るようになったのでしょうか。

もっとも大切なのはいったい何なのでしょうか。もっとも大切なことを知ること、また成すことです。
もちろんみんな忙しいし、「このことあのことはやっぱりどうしてもしなくてはならない。」とだれでも思っています。
なるほど、あのこともこのこともやりたいと思うけれど、実際問題として無理です。やるべきこと全部やろうと思ってもできません。ですから選ばなくてはいけない。

何が一番大切か。あんまりたくさんですから、一番大切なのは何かと考えるべきではないでしょうか。いうまでもなく一番大切なのは、マリヤのように主の足もとにすわること。聞く耳を持つこと。「主よ聞かせて、お話しになってください。しもべは聞いております。」
もちろん一方通行ではなかったと思う。イエス様が30分、40分、1時間話して、彼女はただ黙って聞いただけではない。彼女もやっぱりちょっと話したと思う。
「イエス様、ちょっとちょっと。どういうこと。もう少し教えてください。」、結局イエス様に話すこととは祈ること。

みことばを聞くこととは大切です。けれど一方通行だったら良くない。ですから聖書と祈りは一つにならないとダメなのです。
みことばを通して主は私たちに語ってくださり、そして祈ることによって私たちは主に話すのです。そういう会話だったに違いない。
結局、聞く耳を持つこと。エルサレムの聖書学者たちとは聞く耳を持っていなかったのです。ベタニヤに住む3人の兄弟たちは聞く耳を持っていたのです。

ベタニヤに住む3人の兄弟は、周りの人々もこの小さな家族をイエス様がどんなに愛しておられたか、よくわかるほどイエス様は3人を愛していたのです。
このヨハネの福音書の11章を読むと何回も書いています。「イエス様は彼らを愛した。」、これこそが彼らのしあわせの源でした。

マリヤは自分が自分たちを全く欠けたところなく、愛しておられることをよく知っていたから、彼女もイエス様を少しも欠けるところなく、真心から愛したのです。
聖書を見ると、ヨハネの福音書12章を見ると書いてある通りに、彼女は非常に価の高いナルドの匂い油をイエス様の上に惜しげもなく降り注いだと書いてあります。
ためらうことなく、余すところなく匂い油をイエス様に降り注ぐことによって、イエス様に対する愛を示したのです。三分の一にしましょうか。半分にしましょうかと彼女は考えなかった。

結局この匂い油を買うためにひとりの男は一年間働かなければならなかったのです。一年間の収入でもって買うことができたものです。
もう彼女の全てだったに違いない。ですから自分のためにも使いたくなかった。もったいないと思ったのですけれど、イエス様のためだったら急に嬉しくなった。
イエス様を喜ばせたいと思っただけなのです。

私たちもマリヤのようにイエス様を愛しているのでしょうか。
「愛している。」と多くの人々は言うのです。たぶんエペソにいる兄弟姉妹も思っていたのです。「私たちはイエス様を信じているだけではなくて、私たちはイエス様の再臨を待ち望んでいるし、イエス様を愛している。」
けれど主の判断は違ったのです。ヨハネの黙示録の2章4節に、

ヨハネの黙示録2:4
4しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。

彼らはこの手紙を読んだときもうびっくりした。がっかりした。怒ったか悔い改めたかわからない。けれども教会歴史を見ると、悔い改められなかったらしい。このエペソの教会はダメになってしまったのです。
証しにならなくなってしまったのです。用いられなくなってしまったのです。本当の意味で、やっぱり初めの愛から離れてしまったと認めたくなかったからでしょう。

初めの愛とはいったい何なのでしょうか。マリヤのような態度を取ることです。イエス様との交わりのことです。イエス様なしに何事も得ず、何事も成し得ない。これこそが初めの愛の特徴です。
もし、毎日毎日主のみことばである聖書がわれわれの喜びの泉、力の源になれば、そして私たちの考えと行ないの中心はイエス様がおいでになるならば、それこそが私たちの初めの愛が保たれていることの証拠です。

多くの人々は自分のことについて考えると悲しくなる人は多い。満足する人もいるかもしれないけれど、そういう人々こそがかわいそうではないでしょうか。
結局私も初めの愛から離れてしまったと、正直な人間はみな認めざるを得ないのではないでしょうか。

「ああ、今日はダメだったけれど、明日から今日よりも早く起きましょう。たくさん聖書を読みましょう。」、「今日よりも明日からもっともっと聖書に頼ろう。イエス様のために何かをやりたい。」という気持ちがあっても夜になるとどうですか、「やっぱりイエス様。またダメだったでしょう。ごめんなさい。」としか言えない。
それだけだったらもちろん絶望的です。けれどイエス様はダメな者を捨てない。

変わった人間はいっぱいいます。変人たちはいっぱいいる。けれどももっとも変わっているのはイエス様です。ダメな者を捨てないお方です。すごいでしょう。
人間はダメな者、役に立たない者、邪魔する者、もう嫌です。関係を持ちたくない。けれどイエス様は決して捨てない。
ですから夜になって、「イエス様。またダメだったでしょう。私はそういう者なのです。ごめんなさい。けれどあなたはダメな者を捨てないから嬉しい。今からどうしたらいいですか。相変わらずわからない。お導きになってください。」

イエス様を喜ばせようと思えば、この態度を取ればOK。ほかのこと、何をやっても的外れです。イエス様は喜ばない。なぜならば、人間は知らないうちにやっぱり自分の力を頼って頑張るのではないでしょうか。
マリヤはそういう女性ではなかったのです。彼女はやっぱり私の考えていることはどうでもいい。大切なのはイエス様の話していることです。ですから、「イエス様。お願い。語ってください。」と彼女は思ったのです。
初めの愛とはイエス様を中心に置かせます。そしてこのことはわれわれの過去における一時的なことがらであってはならない。われわれの全生涯を貫くことがらでなければならない。

イエス様をある意味で否定したペテロは3回も、「何言っているの。ピンと来ない。わからない。関係がない。」と言ったのです。
想像できないことです。けれどもイエス様はあとでペテロに同じく3回も言ったのです。「ペテロ。あなたはわたしを愛するか。」
彼は心から言えたのです。「はい。私はあなたを愛しています。」、なぜならば主は彼を捨てようとしなかったからです。前よりも祝福するようになったからです。

イエス様はもちろん今日も、このようなベタニヤを求めておられます。けれどもマリヤだけではなくマルタもいました。このマルタの満たされた生活の特徴なるものは、忠実な奉仕だったのではないでしょうか。
イエス様はどうしてそんなにベタニヤを愛されたか。イエス様がベタニヤを愛されている理由は、本当の真心からの奉仕であります。

マルタは本当にイエス様から愛された者として、心から奉仕したかったのです。結局彼女は色々なご馳走を作りました。もちろんイエス様のだけではない。いつも12人の若者を連れて来たのです。
みんなお腹、もう空いていて、もう食べて食べて、大変な量を作らなければならなかった。けれども彼女はもう、「いいよ。喜んで犠牲を払います。」
もちろんご馳走を作りながら彼女は必ず思ったでしょう。「これを作るとイエス様は喜ぶかなぁ。これをやるとイエス様、嬉しくなるでしょうか。」

結局、イエス様を喜ばせたい。上手く料理できたか関係ない。まずくてもイエス様は喜んだはずです。なぜならば動機がわかったからです。心から喜ばせたいと彼女は思ったのです。
この2人の姉妹を見ると、イエス様に対するまことの愛、まことの奉仕という主のみこころにかなった2つの大切なことがらを見ることができます。
けれどこの2つのこと、すなわちイエス様に対する愛、そしてイエス様に対する奉仕が最後ではない。主はもっと上なることを望んでおられるお方です。

これは最後の第三番目の点ですけれど、イエス様は自分の力、自分のよみがえりの力を明らかにしてくださったのです。
ラザロはベタニヤで死よりよみがえらせられたのです。もう希望を持っていた人は一人もいなかったでしょう。もう葬儀も終わり、屍は4日間墓の中ですから。けれども死は終わりではない。この墓場の中でイエス様は大きな声で叫んだのです。

「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信ずる者は死んでも生きるのです。」、イエス様は何を願っておられるのでしょうか。
当時は死の暗やみを通り、そののちみことばによってよみがえらせられたラザロと食を共にし、交わりを持ちたく願ったのです。まずこのヨハネの福音書11章を見るとラザロのことがわかります。

「彼はイエス様を愛された。」、何回も書いています。イエスはラザロを愛した。すると問題はないはずではないでしょうか。そんなに愛されていれば病気になるはずがないのではないでしょうか。
けれど違う。彼は病気になりました。もちろんそれもイエス様のせいだったでしょう。病気になることをイエス様は一度許してくださったのです。
ラザロは心からイエス様を愛し、また主イエス様も心からラザロを愛しておられましたのに、どうしてラザロは病気になったのでしょうか。ラザロは病の床に倒れました。だんだん衰弱していきます。

イエス様は来られない。頼まれたのに。もしイエス様がここにおられたら、そうしたら何の問題もない。本当でしょうか。もしイエス様がおられるなら、本当に問題ないのでしょうか。
もちろんラザロにとっては主がおられれば何の問題もないでしょう。病はすぐに治ったはずです。けれどもそれは父なる神のみこころではなかったのです。
だからイエス様はすぐに来ようとしなかったのです。心の中で3人の兄弟姉妹をあわれみ、泣いておられたのです。

もしイエス様が自分の気持ちに頼ったならば、もう走って行ったのです。けれどもイエス様はそういうことを一回もなさったことがない。
行動する前に、自分で考える前にイエス様は、「お父さま。どうしたらいいのですか。教えてください。」、「ダメ。」、「うん。ダメ。」、「けれどあとで行きなさい。死んでからよみがえらせなさい。」
ですからイエス様は遠く離れていたとき、それを弟子たちにはっきり言いました。

だれも伝えないのにイエス様は「私の友であるラザロは死にました。」、結局イエス様は本当に、一刻も早くラザロを助けたかったのですけれど、父は許さなかったのです。
そしてイエス様のいつも取られた態度とは、「わたしの思いではなく、お父さま。あなたのみこころだけがなるように。」、私たちの信仰生活におきましても、主は同じような導き方をされます。

恐ろしい自分を愛する愛と、主を愛する愛はともにあることはできません。また自分の名前を人に知ってもらおうというような気持ちとイエス様に対するまことの奉仕は両立しません。
おのれの考えと計画もこれらといっしょに主に渡さなければならない。そうしないとよみがえりの力を自分のものとすることができないからです。

私たちの信仰生活は色々思いがけないことが起こる。そうすると、「いったいどうして?なぜでしょうか。」と考えます。
けれどそれも乗り越え、見えないところを信仰によって希望を抱き、前進しますが、その結果は思いがけなく悲劇に終わることもあります。
全てを主にゆだねて進んでも、何の変化も起きてこないことがあります。

信仰によって歩み、絶望し、その絶望の中から小さな光を見つけ、それにすがり、何とかして浮かび上がろうとしますが、打ちのめされて、全く絶望してしまいます。
自分はもうダメ。自分の前に死が待っているだけだとさえ思うこともあるでしょう。そこにまで主は私たちを導いてくださるとき、そうなって初めて、結局絶望して初めて、主は私たちをしっかりと握ってくださいます。
それはいったいどういうわけなのでしょうか。それは、主は私たちを通してよみがえりの力を現わしたいからです。

私たちの生活そのものは主のよみがえりの力の証しでなければならない。
もちろん主のみこころは最終的に死ではなく、いのちです。けれどいのちは死を通して初めてやって来るというところに目を留めなければならない。
前に読みました、ヨハネの福音書12章の2節に、「イエスといっしょに食卓に着いていた者のうちに、ラザロも加わっていた。」とあります。そして多くの人々はそれを見て、イエス様を信ずるようになったと聖書は言っています。

前に話したように、彼は説教したと書いていないのです。短い5、6分間の証しをしたとも書いていないのです。けれどラザロのよみがえらせられたいのちそのものは、生きた証しだったのではないでしょうか。
よみがりの力で生活するとは、いったい何なのでしょうか。すなわち、「主よ。あなたが召してくださった奉仕に力がない。何一つできません。この奉仕をするのはあなたでなければダメ。どうか導いて、力を与えてください。」という、まったく自分の無力を認めた生活がそれなのです。

すなわち生まれながらの力、人間の知恵で送る生活ではなくて、まったく主に拠り頼む生活こそ、よみがえりの力による生活への道です。
ラザロを見て多くの人々は、「イエス様はすごい。何でもできるお方である。」と確信して、イエス様を信じました。もちろんそれで終わりではなかったのです。
悪魔は当時の聖書学者たちを通して、ラザロを殺そうと計画したのです。結局悪魔にとってよみがえりの力より嫌なものはない。私たちはラザロと同じように、主とともなる交わりを持ちたく思っているのでしょうか。

主とともなる交わりを得るには、苦しみも経験しなくてはいけないでしょう。誤解もあり、迫害もあるでしょう。それとも、もっと楽な道を選びたいのでしょうか。
自分自身が中心となって、イエス様を主としてのけ者にするか、あるいは自己否定によってイエス様がわれわれの中で私たちを通していつも自由に働くことができるか。2つのうちのどちらかの状態にならざるを得ません。
パウロは常に用いられたのです。どうしてでしょうか。犠牲をささげる備えができたからです。コリント人への手紙第IIの4章を見ると次のように書かれています。

コリント人への手紙第II、4:10-11
10いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。
11私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。

生きておられるイエス様の前に静まることこそが大切です。
イエス様は永遠の神であり、初めも終わりもないお方です。主は変わることなく、とこしえに変わらないお方です。
そしてまたイエス様は万物の造り主で、過去において、目に見えるもの、目に見えないものを全て創造されただけではなく、今もなお新たなるものをお造りになっておられるお方です。

主は生きておられます。そしてまた無いものを有るもののようにお呼びになるお方でもあります。
主が仰せられるとそのようになり、主が命じられるとそれは堅く立つと書いてあります。イエス様が仰せられ、命じられると、無から有が出現し、死んでいた者が生き返ることが実現される。これこそがラザロの経験でした。

結局私たちのがわはどうかといいますと、ただ無力さ、疲れなどが満ちておりますが、主のがわはどうかといいますと、そこには全知全能の力があることがわかります。
そしてその永遠なる主、造り主、また支配者なる主はわれわれの敗北を勝利に変えてくださるお方です。詩篇の作者は97篇の5節に次のように書いたのです。

詩篇97:5
5山々は

聖書の中で山とは色々な障害物、問題、悩みを意味することばです。

詩篇97:5
5主の御前に、ろうのように溶けた。全地の主の御前に。

溶けたと言ってもいいし、溶けると言ってもいいと思う。

イエス様は昨日も今日もいつまでも変わらないお方であるから、イエス様は昔、新たなことを創造しただけではなく、今日も新たなことを創造するお方です。
結局イエス様はわれわれにとって必要なもの、すなわち力と平安と喜びを私たちに与え、提供するお方です。

主は与えてくださいます。そして私たちはそれをいただく、受け取る、自分のものにする必要がある。これこそが要求されています。
問題を受け取るとは何を意味し、どのようにしたらば自分のものにすることができるかということです。答えは、主の足もとに静まることによってです。主のご臨在の前で静まることです。
それは何を意味しているのでしょうか。すべてを主に明け渡すこと。主に拠り頼むこと。主の声に聞く備えがあること。またみこころに従うことによってです。




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