引用聖句:ヨブ記5章8節-9節
ま、いつも言われますようにわれわれの持っている聖書とは、ま、学ばなければならない教科書ではない! どうして読むべきかと言いますと、希望を得るためです。 ま、元気になるためです。 そしてこの聖書とは祈りへの呼びかけです。 ヨブは4千年前に生きた人なんですけど、彼は今読まれたように告白したのです。 ヨブ記5:8-9
人間はいろんなことで悩んでますし、けど人に聞いても結局答えられない。一人一人の気持ちとは違うからです。 ヨブもいろんな人に聞かれたでしょう。どうしましょうか?彼は、祈ったら良いじゃないか。それしかないよと言ったのです。 2、3日前にいろんな人々と会いました。ここで、集会のある姉妹の同級生もその中のひとりだったのです。46歳と言われたから、若いんですね。 46歳、脳腫瘍で倒れて手術受けたし、子ども何人ですかと聞くと、6人!、名前は?そこでちょっと黙っちゃったんです。おそらく、5分間たったと思いますね、自分の子どもの名前を思い出すのに。年はすぐわかった。でも名前がちょっと苦労したんです。 けども、見舞いに行ったとき本当に喜んでいたし、奥さんははっきりわからないけど結局、どなたかこういうふうに不幸になるといろいろな宗教家たち、たずねて来るでしょう。もう、うるさくなっちゃうし。結局お入りになれば何とかなる、奥さんはおそらく賢い女性ですから「いやです!」、という態度とってるでしょう。 けれども彼は結局自分で一番大切なことしかできなくなっちゃった。『祈る。』ことができたから、彼も祈り始めたんです。 今、兄弟言われたように、「ごめんなさい。」、どうしてこういうふうに不幸になったのかね。家族のために、結局一番下の子は5歳なんです。やっぱり大変です。 けども不平不満を言わないで、「イエス様。ごめんなさい。私のわがままのために死なれたことをありがとう。」と、言える人は幸せなのではないでしょうか。 もうひとりの若い女の娘、15歳だったんですけど、もう2、3回自殺未遂を経験しまして。結局、希望が無ければ当然じゃないでしょうか。 土曜日会ったんですけど、どうしてもまた行きたい行きたいと、おそらく初めて行ったんじゃないでしょうか。喜んで、ちょっとちがう顔つきで来るようになったんです。結局、祈るようになったから。 もう一夫婦は、非常に悩んでいたんです。子ども無くしちゃったからです。結局、こういう人たちを慰めようとしても何もできないでしょう? けども、慰め人であるイエス様に祈ると、やっぱり違います! 別の夫婦がいまして、彼は45歳なんです。奥さんは42歳。けど奥さんはもう5年間精神病院に入ってます。精神病院の中でやっぱりもちろん自殺しようと思って入院して。ですからもっともきびしい病院に入るようになったんです。外から見ると刑務所と全く同じ。 そしてご主人は、もう良くなる可能性はないし、、離婚したいと会社の人に言ったんです。その会社の人がイエス様を信ずる人だったから、やっぱりそれも解決には至らないよと、はっきりわかったのは決して分裂ではない。心の病だけなんです。でも、だけといったら誤解されるかもしれない。大変なのは大変なのです。 ですからご主人は希望も無くしちゃったんです。けども医者に頼んでちょっと2、3時間だけ出させてもらいたい。そして病院にいた時ちょうど車の中で待ってたんです。 そして、別の兄弟の所に行ってだれもいなかったけど、部屋だけ借りて三時間ほど交わることができたんです。奥さんよりもご主人が泣いちゃったんです。もう、泣きっぱなしでどうしたら良いか。 あの奥さんのお父さんも、お母さんも自殺しましたし、ひとりの弟と親が死んだあと、何かあって、結局もうそれから全然離れてしまっています。結局もう独りぼっちです。皆さん。この夫婦のために特別に祈ってください。 20何種類もの薬を飲まなくちゃいかないから、そうすると薬の影響でも病気が重なる。本当にまともな人です。明かです! 瞬間、私は英語ばかり話すんですよ!もう、うまいよ。英語は。全然おかしくないけど、さびしくてさびしくてしょうがないんです。結局、主人はいわゆる会社人間ですから、奥さんと結婚する前に会社と結婚したようだから、まずかったかな。 けども、彼もできるだけ一度集会に出てもらいたい。薬をドクターに従った量で、集会の姉妹と親しく交わり、イエス様に頼るとちょっとちがうんじゃないかなと思う。 結局人間はみんな悩んでいます。どうしたら良いのかといいますと、結局祈ることしかない! ヨブというひとりの男は、祈りの人に変えられました。 ヨブ記5:8-9
ちょっと遅くなっちゃったのは、ひとりの娘と孫が、おじいちゃんを連れてきたんですね。以前一回だけ会ったことがあるのですけど、やっぱりどうしても祈ってもらいたい。もう永くないし、それから余り座れないから、結局ちょっと交わって今、帰りの途中。 結局、あのおじいちゃんも、娘も孫も、祈るしかないとわかってるんです。そのため、もちろんここまで来なくても良かったけど。結局、祈りましょう。祈ると主は必ず答えてくださいます! このヨブは、いろいろなこと経験しました。結論として彼は次のように言ったのです。 ヨブ記42:2
いろいろな経験を通して知るようになったのです。 ヨブ記42:5-6
ヨブ記42:10
祈ることによって希望が与えられます。 ヨハネの黙示録22:20
と書かれてます。パウロは何回目だったかわからないけど、また捕まえられ、ローマの刑務所に入れられた時、彼はその刑務所の中で告白しました。 「主は近いのです。」 もちろんパウロは、再臨を待ち望んでいただけではなく、毎日主の約束されたご臨在を経験したのですと、言えるのではないでしょうか。主の再臨を待ち望む人は、主のご臨在を前より知るようになるなのではないでしょうか。 刑務所に入ると淋しくなると彼は思ったに違いない。けど違ったんです。主は一緒だったから。 主が来られます。主が来られることは、イエス様を知らない人々にとって恐れとおののきに満ちた事柄でしょう。けど、信ずるものにとってこの上のないほどの大きな喜びです。 イエス様を知ることとはどうして大切なのでしょうか?生ける希望を持つ必要があるからです。イエス様を知らない人は本当の意味で希望を持つことはできません。 パウロはエペソにいる人々に、「その後のあなたがたは、キリストから離れ、この世にあって望みもなく神もない人々でした。」 イエス様から離れている状態とは、もちろん望みのない状態です。テサロニケにいる人々でさえも、ある時ちょっと落ち込んでしまったんです。 だからパウロは、あなたがたが他の望みのない人々のように、悲しみに沈むことのないように、ら主の再臨を待ち望みなさいと。 主イエス様を知らない人々は、来るべき将来の事柄に関して確信を持つことができないし、漠然とした不安を持っています。信ずるものは次のように告白することができます。 「私たちの望みはイエス様が再び来られることであり.その時主はほんとの平和をもたらすということを告白することができます。」 ユダの手紙の中で、次のような箇所があります。主を知らない人々にとってイエス様が来られることは、救いではなく、さばきを意味するとあります。 ユダの手紙1:14-15
結局、未信者にとって主はさばくために来られる。エノクはこういうふうに、さばきについて言ったのであります。 マタイの福音書25章、イエス様の言われた言葉なんです。イエス様もエノクと全く同じように、さばきについて語ってくださったのです。 マタイの福音書25:41
マタイの福音書25:46
エノクもイエス様も、さばきについて語っただけではなく、パウロも同じようにさばきについて次のように書いたのです。 テサロニケ人への手紙第II、1:6-9
結局、福音に従わないのは、従いたくない、聞く耳を持たない、頭を下げたくないことを意味してるのです。 救われようと思う人はみな救われます。なぜならば、求めよそうすれば与えられるとはっきり約束されているからです。求めたくなければ、正直になりたくなければ、全能なる神さまでさえお手上げなのです。主なる神さまは決して強制なさいません。 結局、罪の問題が解決されていなければ必ずさばかれるようになります。 罪の中でも最大な罪は、イエス様を信じない、信じたくない、結局悔い改めたくないことです。この罪のゆえに人間は滅びるようになります。 イエス様を信ずることとは聖書に書いてる事柄を理解することよりも、イエス様に導かれ、イエス様の助けを求め、「赦してください、ゆだねます。」という態度をとることです。 信者たちは、さばきの日にあたって不安を持つことがなく、喜びを持ってその日を待ち望むことができる。 主は「あなたの罪を決して思い出さない。心に留めない」と約束しておられるからです。 初代教会の人々の切なる祈りとは、主よ来てください!という祈りでした。主よ来てください、というこのような願いを持つものは、三つのことがらを語ることができます。 第1番目、喜びに満たされている。 第2番目、目覚めて祈る者であり、 第3番目、聖められる。 この三つの事柄についてちょっとだけ考えてみたいと思います。 まず喜びに満たされることについて、コリント人への手紙第IIの3章2節を見ると次のように書かれています。 コリント人への手紙第II、3:12
喜んで証します。信ずる者は、イエス様とつながってる者は、不安や思い煩いによって打ちのめされる必要はない! イエス様を待ち望む者は、真に自由な者であり、人間の評価からまぬがれ得る者。この希望を持つ者は、喜びに満たされ、喜んで大胆に自発的に証することができ、主を紹介することができるのです。 マタイの福音書の中で、心に満たされていることが、おのずと言葉になって口に上ると書かれています。 またイエス様を待ち望む者は目を覚まして祈る者です。 祈りの人について聖書は一体なんといってるのでしょうか?祈る人の特徴とは、7つかな? すなわち祈りの人はまず召されている人です。 それから、もちろん待ち望んでいる者です。 荷造りを整えている者です...テサロニケ人への手紙第Iに全部含まれています。 テサロニケ人への手紙第I、5:6、8
祈りの人は、主のために迫害を受ける用意のある人であり、祈りの人は人々に対して主を証しする用意のある人々です。 もう少し後になります。テモテへの手紙第II、4章の5節です。 テモテへの手紙第II、4:5
パウロはテモテに書き記したのです。「祈りの人は恵みを待ち望む者です。すなわちこのような人は自分自身の不確かさというものをわきまえ知る者であり、イエス様により頼む者です。」 ペテロの手紙第Iの1章13節にそういうふうに書かれています。 ペテロの手紙第I、1:13
と、ペテロは当時の迫害されている兄弟姉妹に書き送ったのです。もう一つ祈りの人とは、自覚的に悪魔と戦ってる者です。 ペテロの手紙第Iの5章8節、9節。ペテロは当時の信ずる者に書いたのです。 ペテロの手紙第I、5:8-9
とあります。イエス様を待ち望むものは不安、恐れから解放され悩みながら喜ぶことができる。またイエス様を待ち望むものは、祈るようになります。 もう一つイエス様を待ち望むものは、聖められます。ヨハネの手紙第Iの3章2節と3節。 ヨハネの手紙第I、3:2
キリストに対するこの望みを抱くものは、キリストが聖くあられるように自分を聖くします。 イエス様を待ち望むものは、イエス様が今日にでも来られるかもしれない、という期待を持っています。すなわちそのような人たちは、自分自身のことだけに目を奪われるというようなことがなく、来るべきお方に心を向けているのです。 イエス様を待ち望むものは、イエス様の血とみことばによって、日々自分自身を新たに聖めます。コリント人への手紙第IIの7章を見るとパウロはこう言うふうに当時の信ずるものを励ましたのです。 コリント人への手紙第II、7:1
もう1箇所見ましょうか...。 テサロニケ人への手紙第I、5:23
要約しますと、個人的なイエス様の交わりと愛がなければ希望も、喜びも、主を証しすることも、自由も、本当の祈りも、自分を聖めることも、聖なる者と変えられることはない!と、いうことです。やはりすべてのすべての鍵とは祈ることなのではないでしょうか。 前に読みました、ヨブ記の42章の10節をもう一回読みます。 ヨブ記42:10
ヨブ記という本とは、確かに特別な本なのではないでしょうか。なぜならば、人間はどうして苦しむのかという疑問に対する、答えになるのではないでしょうか。 あるいは、人間は悩むようになるとどういう態度をとるべきか、についても詳しく書かれてあります。 今の10節を見ると次のようなことが言えます。「かつて友だちのために祈ったヨブは、あるときから彼らのために祈ることをやめた。」 そしてこれはもちろん良くなかった。主の目から見ると罪だった。 エペソ人への手紙の中で次のように書かれています。 エペソ人への手紙6:18
これこそ大切なことなのではないでしょうか。 ここで、ただ祈りなさいじゃなくて、御霊によって祈りなさい。結局、主とつながっていなければ、人間は全く意味のないことです。 あなたがたは、わたしから離れたら何もすることができない。離れたら実にならない、離れたら祈りは聞き届けられない!と、言うことです。 エペソ人への手紙6:18
そしてここで、「ある」聖徒のためにと書いてないんです。『すべて!!』 エペソ人への手紙6:18
いろいろな集会を見ても、ある集会は非常に早く大きくなって、もうすぐわかります。やっぱり主のおかげです。祝福がある。 他の集会は、多分全然だめなのではないでしょうか。なぜならば一致がないんです!? それは、もうからだと呼ばれるものではなく、ただの仲良しクラブです。好きな人だけ集まりましょう。好きな人だけいっしょになって祈りましょう。これは悪魔のわざです。 『すっべて!』とここで書かれています。ヨブは、そういうこともちろんなかったよ。 けどあるとき彼は、「もういや!あの連中たちのために祈りたくない。」、という気持ちになったんです。誰でもわかります。 非常にいい友達だったんです。けどもヨブは全部なくしてしまった時、結局皆、彼を攻撃するようになったんです。「全部あなたのわがままのせいです。あなたは悪かったから、あなたはだれも知らない罪を犯したはずですから、結局あなたの不幸とは天罰です。」と、あの友達は言ったんです。 本当はヨブ記を読むと違うんです。けどもヨブはやっぱり、その時主を見ないで友達を見た時、もうがっかりだったんです。「もういいよ!。」、けどもやっぱり主に示されて、祈りなさいよ! あなたが祈らなければ、わたしは彼らを導くことができない。あなたの祈りにかかってるよ。 そしてここではっきり書かれてるでしょう。ヨブがその友人達のために祈った時、そのときはじめてですよ。 主はいつも人の祈りの結果として働くのです。感謝です。 ありがとう、イエス様。 |