引用聖句:ダニエル書9章1節-9節
ダニエル書9:21-23
ダニエル書10:9-12
ダニエル書10:19
私たちは、いったいどうして、何のために救われたのでしょうか。いつも考えるべきだと思います。 まず、主に仕えるため。それから、再臨を待ち望むためです。 従って、再臨を待ち望まない人、主のために生きたいと思わない人は、果たして救われているかどうか問題なのではないかと言えます。 パウロ、また一緒に働いている同労者たちは、「私たちは、神の同労者です。」と言うことができました。「私たちは、神と共に働くものである。」と心から言うことができたのです。 いわゆる「祈りの輪」、大きくなり、現在671人だそうです。それだけだったら少し、自分の名前、書いてない人割合多い。今朝も電話があって、「私は、入っていないけれど、本当は祈っているよ。」、他の人よりも祈っているのではないでしょうか。 今、ずっと38度5分の高い熱があって、どういうふうになるかわからないけれど、「祈っているよ。」と聞くと、やっぱり嬉しくなる。 主の望んでおられるのは、それなのではないでしょうか。 「主と共に働きたい。」これこそが我々の切なる願いであるべきなのではないでしょうか。 何があっても祈り続けましょう。 ダニエルとは、どういう男であったかと言いますと、我々は彼について何を考えているか、あるいは、彼は自分について考えていたのか、それはどうでもいいことだけれど、言えることは、彼は主と共に働く者でした。 今、読んでもらいました箇所で、三回も同じ表現が出てきました。「神に愛されている人」「神に愛されている人」「神に愛されている人よ。」 これは、すごい言葉なのではないでしょうか。最後の10章19節ですか。 ダニエル書10:19
結局、今歌いましたように、「主よ、語ってください。」そういう心からの願いがあればもう心配ない。 けれど、ここで何回も、「神に愛されている人」とあります。この言葉は、主の口から出た、実に、驚くべき恵みに満ちた言葉です。 主は、もちろん、決して嘘を言いません。小さなことを、いかにも大きいものであるかのように誇張して話すことをいたしません。主が語られるなら、真実をもってご自分のみこころのあることを、そのままお語りになります。 主は、ダニエルに「我が愛する人よ。」と御声をおかけになりましたが、そうお語りになるには、何か理由があるはずです。 主なる神、全知なるお方こそ、そう言われるには、その後に何か理由があるはずです。 「私は、あなたを愛している。」これは、ダニエルに対する主なる神の判断でした。もし、我々にも同じみことばがかけられるならば、どんなに幸いなことでしょう。 もちろん、主によって愛されていない人はいない。みんな大いに愛されている。 聖書の一番よく知られている箇所を見ても、わかる。 ヨハネの福音書3:16
私を、あなたを ヨハネの福音書3:16
ローマ人への手紙5:8
イエス様の代わりの死こそが、考えられないほど愛されている証拠です。また、ヨハネもヨハネの手紙第Iの4章9節に書いたのです。 ヨハネの手紙第I、4:9-10
主は、汚れた罪人を愛し、この世すらも愛してくださっているということを思うと、主の愛に感じて、賛美と感謝が湧き上がってまいります。 全宇宙をお造りになられたお方、限りない栄光のうちに住んでおられ、そしてこのみ位を捨てて、「罪を犯し、汚れ、主に逆らう人たち」を救うために肉のからだをおとりになり、地上に来られたというのは、人間の頭では決して理解することができない。 けれども、主の驚くべき神の愛そのものです。 けれど主は、ダニエルに向かって、何故、大いに愛されている人ダニエルよと言われたのでしょうか。ダニエルが罪人だったからでしょうか。主に逆らうものだったから、主はダニエルを愛したのでしょうか。決してそうではありません。 ダニエルは、主と共に働く者でした。すなわち、祈りにおいて主と共に働くものだったから、主に大いに愛された人と呼ばれたのです。 ダニエルの祈りとは、天に届いたのです。ですから、天にまで届く祈りとは、どんな祈りであるべきかについて一緒に考えてみたいと思います。 第一番目、みことばに基づいた祈りです。ダニエル書9章の2節ですね。 ダニエル書9:2
彼は、必ず「主よ、語ってください。」と祈って、それから心の眼が開かれるようになって悟った、とあります。これを見ると、ダニエルは聖書を読んでいたことがわかる。みことばは、ダニエルの第一の場所を占めていました。 ダニエルは、自分の考えをまじえず、祈りながら、主のみことばを読みました。「主よ、語ってください。」 彼は、ただ聖書の知識を蓄えるだけではなくて、主のみこころを正確に知り、それを行なおうとしてみことばを読んだのです。 私たちは、どのような態度でみことばを読んでいるのでしょうか。どういう理由でみことばを読むのでしょうか。 天に届く祈りをする前には、まず、私たちは今の時代における我々に対する主のみこころは何か、主のご目的は、主は私たちをどのようにお考えになっているかを知る必要があります。 ダニエルが祈ったとき、その祈りは確かに聞かれました。天に届きました。それは、彼が主のみこころを良くわきまえ、知っていたからである。主は、何を考えているのか、どういうふうに導こうと思うのか、ダニエルははっきり確信しました。 もし、ダニエルが主のみこころを知っていなかったなら、どんなに熱心に祈っても、何も起こらなかったでしょう。 多くの人は祈り求め、いろいろな願いを主に申し述べますが、聞き届けられません。それは、主のご目的を知らないで、むやみに祈るからです。 ダニエル書には、将来、何が起こるかいろいろ預言されていますが、この預言を研究して、その知識を蓄えても、もし、私たちの実際生活が主によって変えられていかなければ、何の役にも立ちません。 従って、ダニエル書の中から預言的なことよりも、むしろダニエルの人格を学び、それを自分のものにしていきたいと思うべきなのではないでしょうか。 とりわけ、ダニエルの祈りを学び、我々もダニエルのように祈り人となりたいと思います。 私たちは何よりもまず、今の時代における主のご目的を知らなければなりません。その他のことはみんな第二次的なものです。 ダニエルは、信ずる者たちに対する主のみこころをよく知っていました。もし、私たちが「愛されている人よ。」と主に呼ばれたいならば、私たちもダニエルと同じように主のご目的を知らなければなりません。 新約聖書の時代、あのパウロは全世界に伝道旅行し、全世界の信者と連絡を取り、各地でご奉仕しました。けれど主は、そのパウロを突然牢屋に入れることを良しとされました。どうしてでしょう。 それは、パウロに今の時代における主のみこころは何であるかを教えるために、それを考えるときをお与えになりました。 パウロが、牢獄で記したエペソ人への手紙、コロサイ人への手紙、ピリピ人への手紙を見ると、その書簡の中に、主の永遠の秘密がパウロにあらわされたことが、すぐわかります。 すなわち、信ずる者がイエス様のからだであり、まったく天的なものであり、かしらにイエス様をいただいているものです。 多くの人々は、信ずる者の群れがまったく天的なものであり、霊的なものであり、世界的なものであることを知りません。 ダニエルは、当時の時代における主のご目的をよく知っていたばかりではなくて、主はこの目的を一つの狂いもなく、成就されるお方であることを確信したのです。 これこそ、ダニエルの祈りが天を動かした原因だったのです。それが、必ず実現されないことだったら、熱心に祈る人は誰もいません。それは、必ず実現するという確信があって初めて、熱烈な祈りを捧げることができます。 ダニエルは、主がご目的を変えないことを知り、ご目的を必ず成し遂げられることを確信して祈りましたから、彼の祈りは、天に届きました。パウロは、エペソ人への手紙の終わりに次のように書いたのです。 エペソ人への手紙6:18
と書いたのです。絶えず祈り、どんな時にも御霊によって祈り、すべての聖徒のために祈りなさいと。 我々は、この標準から、何と遠ざかっていることでしょう。 ダニエルは、主のみこころを知るとともに、今、自分が置かれている周囲の状態をもよく知っていました。彼は、主の敵、バビロンに捕らわれの身となっていました。 バビロンに、主の民イスラエルが捕らわれているということは、主の最善のみこころではない、とダニエルは確信したのです。 イスラエルの民は、バビロンに捕らわれ、今は仕方がない、ここでできるだけいい暮らしをしよう、妥協しても仕方がないと思い、霊の力を失くしてしまっていたのです。 ダニエルは違いました。彼は、バビロンに捕らわれていたにもかかわらず、あらゆる周りの環境に打ち勝ち、天に属する民であるとの誇りと確信とを失わず、何とかしてイスラエルの民の霊的な状態を回復させ、エルサレムに導き戻そうと主に祈り求めたのです。 聖書を見ると、ダニエルは毎日三回、窓を開け放し、エルサレムを望み見て祈りを捧げたとあります。エルサレムは、我々にとって、主のからだなる教会を象徴するものです。 私たちは、主のご目的をよく知っているときにのみ、周りの状態もよくわきまえ知ることができます。 私たちは、自分の状態をよく知っているのでしょうか。我々の群れは、エペソ人への手紙に書いてあるような素晴らしい教会なのでしょうか。エペソ人への手紙から、また、何箇所か読みましょうか。1章ですね。 エペソ人への手紙1:22-23
エペソ人への手紙2:21-22
エペソ人への手紙3:9-11
エペソ人への手紙3:20-21
エペソ人への手紙4:12-13
もう一箇所、5章の27節。 エペソ人への手紙5:27
エペソ人への手紙5:30
私たちは、まだまだ、主のみこころから程遠いところにいます。ある兄弟姉妹は来なくなりました。また、霊的に押しつぶされて立ち上がれなくなっています。 このようなとき、ダニエルのように霊の燃え上がりを待ち望み、新しく生かされるために、主のみこころを注ぎ出す祈りの勇者はどこにあるのでしょうか。私たちは一つになってこのために祈りたいものです。 天に届く祈りをする前に、まず私たちは、今の時代における我々に対する主のみこころが何であるかを知る必要があります。それから、周囲の状態をも知る必要があります。 私たちが悩み苦しむ目的とは、いったい何なのでしょうか。主は、ご自分の目的を達成するために、ありとあらゆることがらを用いてくださいます。これを心に深く止めておくことが大切です。 ダニエルは、今、イスラエルの民が、バビロンで苦しんでいる苦しみも、主が用いてエルサレムに連れ戻すために役立たせてくださると信じていました。 主は、ご自分のご目的がなんであるかに、心の目が開かれるように、ご自分に属するものを試みられます。その試みは、病い、死、いろいろな苦しみなどがあります。これは、我々にどうしても説明のできないことが、たくさんあるのです。 主は、私たちの理性を高め、動かないものにするため、あらゆる出来事を用いられます。主は、全世界に対して、どのようなご目的をもって働いておられるのか、また、教会や我々個人の生活に対して何を望んで働いておられるのか、私たちは、それを知っているでしょうか。 私たちは、次の二つのうちどちらを選び取って、日々、生活するのでしょうか。イスラエルの民のように、バビロンに捕らわれ、仕方がないと諦め、この世を友として妥協し、毎日を過ごすのでしょうか。 あるいは、ダニエルとその友達のように、主のご目的は必ず成ると信じ、主のみこころにかなった聖い歩みをなしているのでしょうか。 ダニエルとその友達は、自らを主に捧げることにより、主と共に働くものとなりました。 ダニエルが祈ったとき、この祈りは聞かれました。天に届きました。低き天にいる悪魔にも届きましたが、いと高き所におられる主なる神にも祈りは達し、みこころをダニエルをして行なうために、天使が遣わされました。 10章ですね。ダニエル書10章から少し読みます。 ダニエル書10:12-14
とあります。へりくだろうと決めた日、動きがありました。心の目が開かれ、主の永遠のご目的がなんであるか、また私たちは今、どんな状態に置かされているか、また、私たちに与えられる悩みの目的はいったい何なのであるかを知るならば、祈りに力が加わります。 これをよく知っている人たちは、ダニエルと同じように、天を揺り動かす祈りをすることができます。 天にまで届く祈りはどういうものなのでしょうか。今、話したように、みことばに基づいた祈りです。祈ることだけでは、結局、充分ではない。祈りとは、みことばに対する答えでなければならないのではないでしょうか。 天にまで届く祈りをするためには、もう一つ答えがあります。生活のうちに生きた証を持っている人でなければなりません。 ダニエルの祈りは聞き届けられました。いったいどうしてでしょうか。 彼は、あらゆる点において、主に反するものからまったく離れた生活をしたからです。 第一番目、彼は自分自身を喜ばせることから離れていました。 もし、私たちが主のご目的を思わず、自らの願いだけで祈るなら、祈りは天に届かないでしょう。自らの目的は、本当の祈りを妨げます。ダニエルは、自らを喜ばせようとする何物も持っていなかったので、主は、「愛されている人よ。」と、ダニエルに呼びかけることができたのです。 パウロは、悩みながら書いたでしょう。ローマの刑務所からピリピ人への手紙2章21節 ピリピ人への手紙2:21
ピリピ人への手紙1:21
まったく違う。 二番目、ダニエルは、この世のやり方から、まったく離れていました。異邦の民が願い、目指している主に反する目的、やり方には、少しも妥協しなかったのです。今日の信ずる者はどうでしょうか。 多くの信ずる者は、この世と同じ生き方をしたいと願っています。ダニエルとまたダニエルの友達とは、まったく違いました。よく読む箇所ですが、もう一度読みましょうか。ダニエル書3章16節。 ダニエル書3:16-17
信ずる神だけではない ダニエル書3:17-18
多くの信ずる者は、この世にあって認められ、賞賛されようと努め、上にある朽ちないものを求めようとしません。 この世の流行を追い、この世と同じ生き方をして、どうして証ができるのでしょうか。 三番目、ダニエルは人を恐れませんでした。ダニエルは当時、最も権力を持っていた王をさえ、決して恐れなかったのです。 ダニエル書1:8
ダニエル書6:10-11
ダニエル書6:16
たまにではない ダニエル書6:16
ダニエル書6:23
もし、私たちが人をおそれ、人にへつらうなら、ダニエルのように力ある祈りは、決してできません。 もう一つ、四番目、ダニエルは、この世のいかなる関係にも心を奪われなかったのです。この世と関係を持たないことは、ダニエルとその友達にとって、決して、生易しいことではなかったのです。 ダニエルは、獅子の穴に投げ入れられ、友達は、燃える火の炉に投げ込まれてしまったのです。主は全部許したのです。 彼らの前には、その時二つの道が置かれていたでしょう。一つは世と妥協して居心地の良い生活をすること、もう一つは、獅子の穴と火の炉でした。 彼らは主の道を選び取りました。妥協せず、自らを主に捧げきって命までも惜しみませんでした。主は彼らの祈りを聞き、み栄をあらわしました。 ダニエルは、このように主に反するものから、まったく分離していましたが、それと共に一つの目的に心を定めました。 ダニエル書10:12
心を定めとあります。ダニエルの心は主のご目的に集中されていました。 我々の心は主に許婚された清い乙女であるキリスト集会のために集中され、祈りにその心が注ぎだされているでしょうか。 パウロは主のみこころを知って祈りを捧げました、 コリント人への手紙第II、11:2
とあります。浮き草のように定まらない心ではなくて、主のご目的に思いを定めた心を、主は祝福してくださるのです。 私たち信ずる者が、銘々、イエス様をかしらとする生ける神の教会であるとの自覚をもって集まり、心を定め祈るなら、天の窓が開く。祈りは豊かに聞き届けられるのです。 パウロの証は本当に素晴らしいものです。コリント人への手紙第Iの9章24節と25節をお読みいたします。 コリント人への手紙第I、9:24-25
ピリピ人への手紙3:14
ヘブル人への手紙の著者も、同じようなことを書いたのです。 ヘブル人への手紙12:1
ダニエルは大いに用いられました。どうしてでしょう。彼は、主に反するものから、まったく分離していたから。彼は一つの目的に心を定めたから。 もちろん、彼は忍耐を持っていたからです。 もう一度、ダニエル書にもどりまして、10章の12節。 ダニエル書10:12-13
とあります。ダニエルは心をこめて、ちょうど3週間ですね、21日間、主のみ前に祈りこんだのです。一つの問題について21日間祈るということは、決して簡単ではない。 我々の場合はどうでしょう。このような祈りを捧げたことがあるでしょうか。 主の前に一つの問題を携えて、ほんのしばらくの間祈り、すぐに立ち上がってしまう。だから何も起こらない。祈りの答えがない。 ダニエルは、忍耐深く一つの目的のために、主の前に留まり、祈り続けました。 忍耐深い祈りをもってして、初めて、ダニエルのように、素晴らしい経験をすることができるのです。 アブラハムも、同じ態度を取ったようです。創世記18章の22節。 創世記18:22
意味は、祈り続けたということです。そして、創世記の19章の29節。 創世記19:29
とあります。アブラハムの祈りの結果として。 ダニエルの用いられたもう一つの理由は、彼の節制だったのではないでしょうか。前に読みました10章の12節によると、ダニエルは「主の前でへりくだろうと決めた」と書いてありますが、これは、ダニエルが己に打ち勝った、その戦いを表しています。 ダニエルは、自分の考え、自分の意志、自分の感情に負けずに、それを克服しました。 ダニエル書10:3
にも、ダニエルがいかに節制したかが書かれています。 ダニエルは、少しも自分に益することを考えないで、すべてを主にささげました。 御霊が私たちを支配してくださり、私たちが一つのご目的をなさんとする熱意に燃えるようにしてくだされば、本当に、幸いではないでしょうか。 パウロは、コリントにいる兄弟姉妹に書きました。 コリント人への手紙第I、9:25
ダニエルが用いられた、また別の原因とは、彼の確信でした。 ダニエル書10:12
のです。「すでに聞かれた。」とダニエルは確信しました。ダニエルは、主のみこころを知っていましたし、祈りの通りに主はなしてくださることを信じて、待ち望んでいました。 祈りが主に聞き届けられるには、このように、主のみこころを知り、結果を期待し、確信することが必要です。主のみこころを知っていなければ、何をどのようにして祈っていいかわかりません。 もし、私たちが主のことばにより、そのみこころを知るならば、それは我々の力となることは間違いない。主と共に働くことこそ、我々に与えられている最も大切な使命なのではないでしょうか。 私たちは、ダニエルと同じように、主は何をなさんとしておられるのか知っているでしょうか。もし、それを知ると、ダニエルに襲ったような悪の霊の働きの攻撃も、身近に感ずるようになります。 パウロも、同じことを経験しました。悪魔は、パウロを集中的に攻めました。 コロサイ人への手紙4章をみると、次のように書かれています。 コロサイ人への手紙4:2-3
もう一箇所、読んで終わります。テサロニケ人への手紙第I、2章の18節です。 テサロニケ人への手紙第I、2:18
主が、ダニエルやパウロにしてくださったように、我々の心の目を開く、何をおいても、まず主とともに働く者となりたいという願いをもたらしめてくださるならば、本当に、幸いと思います。 主が、我々に向かって、「大いに愛されている人よ。」と呼びかけられるようになったら、本当に幸いです。 |