祈ることの大切さについて


ベック兄

(春日部家庭集会、2006/09/13)

引用聖句:ルカの福音書11章1節-13節
1さて、イエスはある所で祈っておられた。その祈りが終わると、弟子のひとりが、イエスに言った。「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」
2そこでイエスは、彼らに言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。
3私たちの日ごとの糧を毎日お与えください。
4私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します。私たちを試みに会わせないでください。』」
5また、イエスはこう言われた。「あなたがたのうち、だれかに友だちがいるとして、真夜中にその人のところに行き、『君。パンを三つ貸してくれ。
6友人が旅の途中、私のうちへ来たのだが、出してやるものがないのだ。』と言ったとします。
7すると、彼は家の中からこう答えます。『めんどうをかけないでくれ。もう戸締まりもしてしまったし、子どもたちも私も寝ている。起きて、何かをやることはできない。』
8あなたがたに言いますが、彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう。
9わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。
10だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。
11あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。
12卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。
13してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」

私が何十年か前に出たスイスの神学校の中で、印刷会社もあったのです。神学のために必要なもの全部、印刷されるようになったのです。
その会社の名前はちょっと変わった名前なのです。「大いなる喜び」ドイツ語で「Grossfreude」という名前なのです。そして毎月、印刷された小冊子の題名は、「聖書と祈り」だったのです。
聖書だけではない。聖書と祈り。聖書は結局祈りの材料として与えられている。勉強するためよりも、祈りの材料とならなくてはいけない。結局、一方通行だけではない。

いくら聖書を勉強しても、祈りがなければ心は満たされない。聖書を通して主はちっぽけな人間に向かって語ろうと望んでおられます。
そして祈ることによって人間は答えるのです。今晩ちょっとだけ、祈ることの大切さについていっしょに考えてみたいと思います。
五つのことがらについてだれでも考えたことがあると思うのです。

まず、祈りの難しさについて、だれでも考えたことがあると思う。祈りはある意味で非常に難しいことです。
福音を宣べ伝えること、人を誘うことはそんなに難しくない。けれど一旦祈るとなると、戦いが始まるのです。そればかりではなくて、祈りによって勝利を得ることは何という難しいことでありましょう。
多くの人は祈るけれど途中でやめてしまう。諦めます。どうせダメじゃないか。結局、祈り続けることは戦いの連続です。

二番目。私たちはもっともっと祈りの特権ということを深く知らなくてはならないのではないでしょうか。
天にいます主の御前にいずるということは、何というすばらしい特権でありましょうか。例えばイスラム教徒は毎日5回、7回ひれ伏して拝まなくてはならない。けれども彼らの拝んでいる神は永久的に近づき得ない。知ることができない神である。悲劇的ではないでしょうか。
私たちはすごい特権を持っている。天と地を創造されたお方に向かって私たちは、「お父さま」と呼ぶことができるのです。
祈りは本当に大きな特権です。絶えず覚えるべきことではないでしょうか。

三番目に、私たちは心のうちに祈りは大切だということをもちろん知っているのです。
私たちの天というつながりは、非常に大切です。われわれのできる奉仕のうちで一番大切な奉仕は祈りの奉仕であると聖書は言っているのです。
主イエス様のために、また教会のためにもっとも大切なことは祈ること。

四番目に、私たちはもうすでに、祈りのうちにそれを妨げるものを何回も何回も経験したでしょう。
悪魔は、私たちは何があっても祈らないように、あらゆる試みを設けてまいります。このことは祈りがいかに大切であるかということを示しているのではないでしょうか。
悪魔は大切でないものをひどく攻撃するはずがない。私たちは聖書を読んだり、勉強をしたり、色々な人のために努力したりすることとは、まあまあ悪魔はそんなに攻撃しない。けれども祈ろうと思えば大変です。なぜならば、祈ると悪魔はどうすることもできなくなってしまうからです。

五番目に、祈りはわれわれの霊的生活の鏡のようなものです。祈らない人は成長しない。例えば集会に何人来るかは別にどうでもいい。決して大切ではない。私たちがいかに主のみこころにかなった祈り人であるかということこそが大切です。
祈りの土台なるものとは、いったい何なのでしょうか。
まず、われわれの祈る対象とは、この宇宙を創造されたお方です。森羅万象を制憲されずに支配しておられるお方です。この方にとって不可能なことは一つもない。

この宇宙を支配するおきてを、さらに支配するおきてが祈りであると聖書は言っているのです。
多くの人は、私たちの祈りは主のみこころに影響を及ばし得ないと考えています。祈りは恒久不変の宇宙現象を絶対に覆し得ないと言います。けれど、そうでしょうか。
聖書を読むと違う。ヨシュアは祈りによって太陽を1日、24時間沈まないままにしておきましたと聖書は言っているのです。学者たちは色々なことで、どういうふうに研究したか分からないけれど、やっぱり1日無いと言うのです。どうしてか、なぜか分からない。

聖書ははっきり答えています。ヨシュア記の10章を見ると次のように書かれています。ヨシュア記10章の12節から14節までお読みいたします。

ヨシュア記10:12-14
12主がエモリ人をイスラエル人の前に渡したその日、ヨシュアは主に語り、イスラエルの見ている前で言った。「日よ。ギブオンの上で動くな。月よ。アヤロンの谷で。」
13民がその敵に復讐するまで、日は動かず、月はとどまった。これは、ヤシャルの書にしるされているではないか。こうして、日は天のまなかにとどまって、まる一日ほど出て来ることを急がなかった。
14主が人の声を聞き入れたこのような日は、先にもあとにもなかった。主がイスラエルのために戦ったからである。

これによって分かることは、主を支配するおきてを、さらに支配するおきてがあるということです。この上のおきてを動かすのが、結局祈りなのです。
これをもっと分かりやすくするために、もうひとつの例を挙げてみましょうか。ニュートンという学者が発見した万有引力の法則は、定まったひとつのおきてです。
この引力があるから、人間は空中高くひとりで舞い上がることができないのであり、また、鉛筆や万年筆を落とした場合、それらが空中にとどまったり、また、はるかに大空に飛んでいってしまうというようなことがないのです。

けれど飛行機はこの引力を克服して空を飛びます。引力は相変わらず、常に存在している。けれど、その飛ぶ法則が引力に打ち勝っているために、飛行機は大空を飛んでいるわけです。祈りも同じことです。
主はおひとりでは働こうとしない。どうしてか、なぜか分からない。けれど聖書ははっきりそう言っているのです。
祈りの人とともに、主は働こうと望んでおられます。この事実を私たちが聖書や教会の歴史を学ぶとき、はっきり分かります。

例えばダニエルはかかる祈りの人だったのです。そのとき、主の民であるイスラエル人は捕われの身であり、悪魔が勝利を取っておりました。けれどダニエルは主のみこころを知っていましたから、熱心に主に祈り、結果として奇蹟を経験することができました。
主のみこころにかなった祈りは、実に奇蹟をもたらす力です。主のみこころにかなった祈りに不可能なことは無いとイエス様は何回も何回も約束してくださったのです。
まことの祈りは、この地上における実り多き働きです。私たちが祈りのうちに主と交わることは、主のみこころです。ですから私たちはこの祈りの特権、祈りの責任を十分に自覚し、今の世の中にあって、ひたすらに祈ろうではないでしょうか。

祈ることこそがもっとも大切です。どうしてでしょうか。祈りとは、主ご自身との交わりであるからです。
信仰生活の秘訣は、イエス様とひとつになることです。これと同じように、祈りの秘訣でもあります。私たちはイエス様との交わりによって天のお父さまに近づかせられた者です。この事実を深く考えてみたいものではないでしょうか。
コリント人への手紙第Iの中でひと文章なのですけれども、次のように書かれています。

コリント人への手紙第I、6:17
17しかし、主と交われば、一つ霊となるのです。

また、ヨハネの手紙第Iの1章3節。よく知られているすばらしい個所です。

ヨハネの手紙第I、1:3
3私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。

私たちが主イエス様および天のお父さまと交わりにあずかっていることは、すごい特権です。
救われた兄弟姉妹とそうでない人々の違いは、どこにあるのでしょうか。救われていない人は、何かある神や偶像に祈ります。
ですから、それらの神々はどこか遠くに離れており、また、沈むもののごとくでありますが、イエス様を知るようになった者は、イエス様とひとつになることによって、生きる唯一のまことの神との交わりを持っています。ここにその違いがあります。

神の敵である悪魔の働きは、実に巧みであって、悪魔は常に私たちに、「おまえたちは神から遠く離れているのだ。」
けれどももし私たちが主イエス様にあるならば、主なる神とわれわれの間では、決して決して隔たりはない。なぜならば、主によって恵みを受けた者としてのイエス様より、父なる神の御側近くにおる者はなく、私たちはその御子主イエス様にあるのですから。
祈りは霊的なことがらであるということを知ることが本当に大切です。

人の霊は新たに生まれることによって生き返り、聖霊とひとつになります。この結び付きからまことの祈りが生まれてきます。多くの人々はこの交わりを持っていないから、祈りの答えがやって来ません。
聖書の、おもにガラテヤ人への手紙の中で、何回も触れている事実です。すなわち、肉による祈りには答えが無い。この肉による祈りとは何なのでしょうか。
私たちの意思、私たちの願い、私たちの望み、私たちの考えのような祈りは、結局肉の祈りであり、自分勝手な祈りです。このような祈りは、もちろん主のみこころにかなわない祈りであることはいうまでもない。

もし私たちがイエス様のうちにとどまり続けるならば、常に霊によって祈ることができ、主の答えは、私たちに常に確実に与えられることです。
イエス様ご自身が約束してくださったのです。ヨハネの福音書の15章7節を見ると、次のようにイエス様は当時の弟子たちに言われました。

ヨハネの福音書15:7
7あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。

祈りの秘訣は、イエス様との交わりです。もしこのことをしっかりと記憶に留めておくならば、多くの失敗から免れるでしょう。
この失敗のひとつは、マタイの福音書6章に書かれています。いわゆる山上の垂訓に出てくることばなのですけれども、

マタイの福音書6:7-8
7また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。
8だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。

このような祈りは決して主のみこころにかなった祈りではないけれど、私たちは時々このような祈りを主にささげはしないでしょうか。
また私たちは長い祈り、熱心に祈るなら、主は必ず聞き届けてくださると考えるのではないでしょうか。
かかる祈りが、主との親しい交わりに変えられてささげられているのが現実ではないでしょうか。

まことの祈りの秘訣は、主との交わりです。祈りは、主が与えたくないものを求めるのではなく、主が与えたいところのものを祈り求めるのが、本当の祈りです。
聖書の中に、イエス様は夜を徹して祈られたと書いてあります。けれどこの祈りは前から計画されていた祈りではない。イエス様はただただ祈らざるにはおられなかったのです。祈るよりほかに仕方がなかったのです。
祈りは自分の努力ではなく、御霊のおしだしです。主との交わりにある人々の祈りは、人間から出た最長の祈りより、はるかに価値のある祈りと言わなくてはならない。イエス様との親しい交わりこそが問題です。

それから当然ですけれど、作った祈りはやはり誤りのひとつです。
私たちは色々なことに対し、主の関心を呼び覚ますために祈ります。祈りの重要さは、信ずる者みんなが等しく認めていることです。したがって、主のための新しい計画がなされると、私たちは熱心に祈ります。
けれどその働きが主のみこころであり、主のなさるわざであるかどうかを知ることを、たまに忘れているのではないでしょうか。

私たちがなすこと全てが主との心の交わりから出て来るものでなければなりません。
主は、私たちの主に対する最上の努力でも、それが人間的な努力であれば、それに対して全然関心を持ち給いません。主のみこころは、私たちが主の働きに関心を持つことです。
もし私たちがこれを知らなければ、私たちが祈る多くの時間は無駄に過ごしたことになります。

主ご自身が働きの設計者であり、建設者でなければならない。主だけが、どうしてその働きを成し遂げるかをご存知です。ですから私たちにとって大切なのは、主と交わることです。
イエス様はよく言われました。「わたしはわたしの教会を建てる。」すばらしい約束です。
主のみこころは、そのときも今も変わりがない。ですから私たちは、主と絶えずひとつでいなければ空を打つ健闘をすることになってしまう。主との交わりの第一段階は、主の御前に静まることです。

ダビではよく祈ったのです。

詩篇62:1
1私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。

主の前に静まることを私たちも学ばなくてはならないのではないでしょうか。
自分の思い、自分の知識、あらゆる自分にまとわりつくものを捨て去って、主から新しい啓示を受け取る備えを整えなければならない。もし私たちが主の御前に心を静めるならば、おのずから主の偉大さ、すばらしさを意識して、その前に小さくなり、ひれ伏し、心から礼拝せざるを得ない。
私たちが王の王、主の主に近づけば近づくほど、心からの礼拝をささげずにはおられなくなる。主はそういう人々を捜し求めておられます。

今まで述べてきたような、かかる祈りの生活を送り、祈りの奉仕をなすことが、われわれに現実的にできるのでしょうか。
答えは、「うん、出来る。」」、と言いますのは、父なる神は私たちに御子イエス様と御霊をお与えになったからです。
主との交わりにはいることができることは、本当にすばらしい特権です。また、何という大きな責任が私たちに課せられていることでしょう。

「私は祈ることができない。」という人もいるかもしれないけれど、主はもうすでに備えを成してくださいました。
私たちははばからずして、主に近づくことができ、主のたえなるご臨在のうちに住むことが許されています。主がもうすでに供えてくださった事柄をふたつの言葉に縮めることができます。
すなわち信頼と助け。主に信頼し、勇気を持ち憚らずに主の前に出なさいという勧めは、新約聖書の書簡にたくさん見られるところです。

主に信頼する霊は、私たちの祈りの生活に欠くべからざるものです。
もし私たちの主との交わりが正常な関係になければ、われわれの今の生活はもちろん危なくなってくるのです。
ヘブル人への手紙から、ちょっと一ヶ所見てみましょうか。

ヘブル人への手紙10:19-22
19こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。
20イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。
21また、私たちには、神の家をつかさどる、この偉大な祭司があります。
22そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。

まことの信頼には次の知識が必要だと思います。すなわち、私たちはイエス様によって主の臨在のうちにはいり得る、疑いもない権利を持っている。
イエス様ご自身が、私たちが父なる神に近づくにあたってのわれわれの権利です。
私たちはイエス様の御名によって父に近づきます。私たちは己の名によって主に近づくなら、それはいけないことです。けれど私たちはイエス様の御名によって、はばからずして御前に近づき得るのです。

私たちはイエス様によって天のお父さまに近づき、相まみえることができます。
私たちのイエス様は、私たちをご自身の尊い血によってきよめられた者として、父なる神に紹介してくださるのです。
私たちはひとりぼっちで、何もできないまま父に近づく必要はない。イエス様がご自身の義をもって、われわれを覆い包み、私たちとともにいまして、父に導いてくださいます。イエス様こそ、われわれの信頼すべきお方です。

信頼のほかに、もうひとつの祈りの要素である助けは、聖霊によって用意されております。
私たちは確信をもって、はばからずして、ご臨在にはいることができる。けれど、一方私たちは己の全く望み無き状態を知っております。この弱い私たちを助け、励ましてくださるのは聖霊です。
ローマ人への手紙の8章。パウロ、また、初代教会の兄弟姉妹の告白のようなものでもあります。ひとつの証しです。

ローマ人への手紙8:26-27
26御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。
27人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。

パウロも含まれている。彼の書いた文章なのです。私たちは確かに救われている。信じている。けれどたいした者ではない。弱い者です。弱い私たちを助けてくださるのは、御霊です。
祈りの時、聖霊の助けが無いときほど、あわれなことはない。
ゲッセマネの園でイエス様が苦しんで祈った時、弟子たちがほとんど祈り得なかった。ということは、私たちはよく理解できることです。けれど私たちは助け主なる聖霊を持っております。

聖霊は私たちのうちに宿ってくださり、私たちの力となり、私たちのうちに働くお方です。
御霊はわれわれの弱きを助けて、補ってくださる。また、何を祈ったらよいか、私たちの無知を補ってくださるのです。聖霊のみが、主のみこころを知っておられます。その聖霊は私たちが主のみこころにかなった祈りをなすために、与えられているのです。
イエス様ご自身が私たちの信頼の対象であり、聖霊は私たちの助け主です。私たちはだから、安心して喜びをもって祈ることができるのです。

どうして祈ることは難しいのでしょうか。前に言いましたように、悪魔が何とかしてまことの祈りを妨げようと攻撃しているからです。
悪魔がわれわれの祈りの生活に対して、常に攻撃に加えていることを私たちも絶えず覚えているのではないでしょうか。
どの教会も、いかなるキリスト者も、このことを告白せざるを得ない。

悪魔が私たちを祈らなくしたならば、悪魔は完全な勝利を得たことになります。悪魔はこのことがらを十分に知っていますので、私たちを絶えず攻撃しているのです。悪魔は色々な攻撃方法を用います。
初めに、われわれの信頼に対してなのではないでしょうか。悪魔は私たちが主に対し、近づくにふさわしくない者であり、また、望み無き者であることをささやいてきます。
もし私たちがそのささやきに耳を貸すならば、悪魔の大勝利になります。イエス様ご自身がわれわれの信頼の対象であり、聖霊は私たちの助け主であることをしっかり握って祈りましょう。

悪魔は次にわれわれの肉体に対して、また神経に対して激しい攻撃を加えてきます。悪魔は私たちを過労に陥れ、祈らなくさせてしまいます。
この過労はしばしば私たちのがわに原因があります。主イエス様がわれわれの信頼の対象であり、またイエス様を喜ぶことは、われわれの力です。
もし私たちが主にある喜びをもっているならば、肉体の疲れをそんなに感じないはずです。

それから、定まった定めた時を祈りに用いようと計画していても、それを実現できないことが、往々にしてあります。これも悪魔の攻撃のひとつです。
私たちは日々刻々、父との交わりを持ち続けることができるのですけれども、この交わりを断ち切ろうとして悪魔はいつも戦いを挑んでまいります。
もし悪魔がこの戦いの勝利を収めるなら、悪魔は全てを得たことになるのです。

悪魔は私たちをおして世界の悩み、苦しみを見る目を眩ませようとします。もし私たちがいつも自分のためにだけ祈るなら、悪魔は大笑いすることでしょう。
イエス様は、働きは世界であるとよく言われました。私たちは全世界のために祈る責任を持っています。だから私たちは目を覚まして、祈らなければいけない。
ひとつの疑問もあります。もし、あるひとりの人が祈り、その答えがなかなか得られないような場合、何か方法があるのでしょうか。聖書の答えは、「そうです。」教会の祈りです。自分の祈りだけではなく、兄弟姉妹とともに祈ることです。

個人個人の祈りは、確かに大切です。けれども、お互いに助け合い、お互いがお互いを必要とし、決してひとりでいることができない。これは主の思いです。私たちはどうしてもお互いに必要としています。特に、祈りにおいてはそうです。
マタイの福音書の21章の13節を見ると、次のようなことばがあります。イエス様の言われたことばです。非常に厳しいことばです。当時の聖書学者たちに言われたことばです。

マタイの福音書21:13
13そして彼らに言われた。「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる。』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている。」

同じく、

マタイの福音書18:19-20
19まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。
20ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」

そしてヘブル人への手紙の著者は3章6節に、私たちが神の家なのですと書いたのです。イエス様はご自身の家、ご自身の教会の真ん中におられます。
イエス様はまた、二、三人、ご自身の名によって集まる、その真ん中におられる。ひとりだけで祈っているところとは書いていない。
もちろん私たちがひとりで祈っても、主のご臨在はありますけれど、イエス様はここで、教会がいかに大切であるか、また、ともにする祈りがいかに大切なものであるかを教えるために、こういうふうに言われたのです。

すべてのことを主に話すこと。主に告げることこそが大切です。私たちの生活にとって、どんなささやきも意味の無いというものはありません。
日常生活のどんな小さなことがらをも、私たちは主に告げることが許されている。ひとりぼっちで悩まなくてもいい。
パウロはピリピ人への手紙の4章の6節に次のように書いたのです。

ピリピ人への手紙4:6
6何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。

主は、「求めよ。そうすれば与えられる。」
ヤコブの手紙のよく知られている個所なのですけれども、ヤコブの手紙1章を見ると次のように書かれています。

ヤコブの手紙1:5-6
5あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。
6ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。

ヤコブの手紙4:2
2あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。

と。
もし、私たちが主に拠り頼んでいなければ、まことの求めをなすことができない。拠り頼んで求める者は、必ず主が生きておられることを経験することができます。

マタイの福音書7:7-8
7求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。
8だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。

イエス様は働こうと望んでおられ、勝利を与えようと望んでおられますけれど、そのために必要なのは、祈ることです。
もう一ヶ所、ちょっと見てみましょうか。使徒の働きの4章の中で、祈りとは結局戦いなのですと書かれています。
いくら望み無き状態にあっても、戦いの祈りをするときに十字架の勝利が現わされます。初代教会は祈りのうちに戦って、復活なさったイエス様の勝利を経験しました。

使徒の働き4:23-31
23釈放されたふたりは、仲間のところへ行き、祭司長たちや長老たちが彼らに言ったことを残らず報告した。
24これを聞いた人々はみな、心を一つにして、神に向かい、声を上げて言った。「主よ。あなたは天と地と海とその中のすべてのものを造られた方です。
25あなたは、聖霊によって、あなたのしもべであり私たちの先祖であるダビデの口を通して、こう言われました。『なぜ異邦人たちは騒ぎ立ち、もろもろの民はむなしいことを計るのか。
26地の王たちは立ち上がり、指導者たちは、主とキリストに反抗して、一つに組んだ。』
27事実、ヘロデとポンテオ・ピラトは、異邦人やイスラエルの民といっしょに、あなたが油を注がれた、あなたの聖なるしもべイエスに逆らってこの都に集まり、
28あなたの御手とみこころによって、あらかじめお定めになったことを行ないました。
29主よ。いま彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。
30御手を伸ばしていやしを行なわせ、あなたの聖なるしもべイエスの御名によって、しるしと不思議なわざを行なわせてください。」
31彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだした。

初代教会とは、結局、祈る教会でした。祈りの中で戦う教会でした。
大切なのは信仰の祈りです。この祈りは、主のみこころが何であるかを明確に知ることが前提となっていなければならない。かかる祈り手は、直ちに答えをいただく祈り手です。
ペテロはそれを経験したことがあるのです。使徒の働きの9章の40節です。

使徒の働き9:40
40ペテロはみなの者を外に出し、ひざまずいて祈った。そしてその遺体のほうを向いて、「タビタ。起きなさい。」と言った。すると彼女は目をあけ、ペテロを見て起き上がった。

祈ることこそが大切です。ともにある祈りも大切でしょう。パウロはそういう祈りを知っていたのです。
せっかくイエス様の救いにあずかり、だけど、なかなか成長しなかった人々のために彼は書いたのです。よく知られているガラテヤ人への手紙4章19節。

ガラテヤ人への手紙4:19
19私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。

この祈りは父の心との交わりを意味しています。
祈りの目的とはいったい何であるべきなのでしょうか。尊き教会ではないでしょうか。尊き教会、御子主イエス様にふさわしい着飾った花嫁は父のみこころにかなう者です。
ですから私たちは尊き教会となるべく、集中的に祈らなければいけないのではないでしょうか。

私たちが、主イエス様が十字架にお架かりになる前のヨハネの福音書17章とパウロの祈りを考えるときに、この尊き教会ということが、いかに大切であるかを知ることができます。祈る時に、どうかこの事実を常に心に留めるべきではないでしょうか。
失われゆくたましいを獲得するということだけではなくて、救われた私たちがイエス様とひとつになるということが、本当に大切であり、また必要なのです。
また、主の持っておられる富とひとつになることも大切です。

今日もっとも大きな問題と言わなければならないことは、救われた人々を通してイエス様のご栄光が輝き渡ることではないでしょうか。
御霊がこの世にイエス様の富を現わす道具は、結局、主の恵みによって救われた兄弟姉妹より、ほかありません。
これらのことがらをすべて包括しますと、主はわれわれに、もっともっと内面的な交わりを持っておられるということになります。これが祈りのみです。

父は多くの神の子が、御子主イエス様のうちにあって、ご臨在のもとにあることを望んでおられるのです。
父なる神は大祭司であるイエス様とともなる祭司をおくということを求めておられます。
祈ると、主をよりよく知ることができるし、まことの喜びに満たされるようになるし、また、みこころにかなう礼拝者となるようになります。




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