引用聖句:使徒の働き11章19節-13章3節
今日のテーマは「祈りをしている教会」です。人は色々なことで悩みます。そして、「どうしたらいいの?」と聞く人もいるんですけど、大体みな分かってるんです。いつも自分で最後的には答えます。「祈るしかないね。」 もちろんその通りです。聖書とは勉強しなきゃならない教科書じゃないんです。ただ、祈りへの呼びかけです。 人間は色々な悩みを、苦しみを持ってるんですけど、どうしてであるかと言いますと、祈りの材料として与えられてるからです。祈ると何を経験するかと言いますと、「主は生きておられる。」 祈ろうとしないと救いはない。「求めよ。そうすれば与えられます。」、聖書の中のもっとも短い祈りのひとつは、「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。」一文章だけです。 けどもこの祈りをささげた人は神によってよしとされ、救われたのです。一文章だけ祈ることだって、そんな救いを得ることなのかと思う人もいるかもしれないけども、そうなんです。 人間は自分の救いのために何にもすることができません。罪滅ぼしのために何をやっても無駄。人間はどうしてそんなに簡単に救われるかと言いますと、イエス様にとって簡単ではなかったからです。 未信者にとってだけではなく、信じずる者にとっても、やっぱりもっとも大切なのは祈ることです。確かに浅薄な祈りがよくささげられるでしょうけど、私たちの際立ってる特徴は、主の御心にかなった祈りではないのではないでしょうか。 一体どうして多くの信ずる者はイエス様をよりよく知ることができないなのでしょうか。どうして主がもっともっと力あるわざを行なうことができないなのでしょうか。 どうしてある兄弟姉妹は急に姿を消して、ともに主を知りたいと望んでいないなのでしょうか。私たちは祈らなかったからです。御心にかなう祈りをささげなかったからです。 祈りの不足は悪魔の勝利を意味してるのです。私たちは新たに自分の罪を認めることができれば幸いと思います。そのために主の御心にかなった模範的な祈りをささげることは大切です。そして模範的な祈ってる教会を観察すると、よーく分かります。 ですから今日のテーマは「祈りをしている教会」であります。 今、兄弟がお読みになりました使徒の働き12章に書かれてる、祈り会の結果はとっても重要でした。 これはペテロの解放、エルサレムで行なった出来事だけではなく、24節のように、主の言葉はますます盛んに広まって行った。すなわち全世界に福音は盛んに広められました。 12章の1節に、「そのころヘロデ王は、教会のある者たちに圧迫の手を伸ばした。」と書いてあります。そのころ、と書いてありますが、一体何のころだったなのでしょうか。 すなわち大いなる祝福と霊的な勝利の時期でした。多くの人々が回心を経験し、兄弟姉妹が喜びながら主を賛美し、前進したころでした。 パウロとバルナバは大体一年間、アンテオケの教会に一生懸命奉仕して、主の祝福を豊かに経験することができたのです。アンテオケの兄弟姉妹が主にあって喜んで交わりをしたとき、そのころ、預言者たちがエルサレムからアンテオケに下って来たと書いてあります。 そして、御霊によって大ききんが起こるだろうと預言しました。 これは実際的な挑戦を意味していました。すなわち、祝福されたアンテオケの信者は何をするなのでしょうか。エルサレムに住んでる兄弟姉妹を助けるなのでしょうか。エルサレムの教会はききんによってひどい目にあったのです。 使徒の働き11:29
とあります。彼らは心を尽くして、「私たちは兄弟らを助けなければならない。」ということを決心したのです。アンテオケの信者たちは、「私たちはエルサレムから遠く離れている独立の信者の群れだ。こんなことは私たちの責任じゃないんだ。」と議論しなかったのです。 まことの主の祝福があったら、いつも全世界の兄弟姉妹に対する愛があります。 使徒の働き11:29-30
こういうふうに、バナバとサウルは起こったききんによってエルサレムに行ったわけです。もしアンテオケの祝福された信者たちが、私たちはエルサレムから遠く離れてるから、まったく独立な信者の群れであるからと考えたならば、サウルとバルナバはエルサレムへ行かなかったでしょう。 またエルサレムで行なわれた、主の力やみわざを経験しなかったでしょう。 アンテオケの兄弟は、かならずや束縛されたでしょう。またサウルとバルナバは宣教師として出掛けなかったでしょう。 御霊に対する従順は何という大切なことでありましょうか。この出来事によってひとつのことは明らかです。すなわち私たちの個人個人の問題や困難は、主とのもっともっと大きな活動との関係を持っているということです。 アンテオケの教会は、主の豊かな祝福を経験し、主との親しい交わりを味わい、聖霊の御声に従い、エルサレムに住んでる兄弟姉妹に援助を送ることに決めたときに、そのころヘロデ王は教会、すなわちエルサレムにある教会の者たちに悪の手を伸ばしていたのです。 ご存知のようにこのヘロデ王の攻撃は結局、悪魔の攻撃でした。彼は用いられた器にすぎなかったのです。もし主が教会に新しい啓示、新しい祝福、新しい愛と勝利を与えると、悪魔はいつも激怒して攻撃します。そして私たちは何としばしばそれに対してびっくりするでしょう。 もし何か起こるとすぐ、「私は失敗したなのでしょうか。私は悪かったなのでしょうか。私のせいだったなのでしょうか。」と考えるのです。 ヘロデ王は教会の長老であるヤコブを、イエス様の肉体の弟だったんですけども、剣で切り殺して、またペテロをも捕えにかかって獄に投じたのです。ところがこの兄弟姉妹はびっくりしませんでした。 「私たちのせいではないかな。」などと尋ねませんでした。彼らはこれは単なる人間の努力ではなく、これは悪魔の攻撃であることを分かったからです。 ヤコブは剣で切り殺されました。ペテロは捕えられ、獄に閉じられたのです。ペテロの状態はもちろん、まったく望みのない状態でした。信者たちはどうすることもできなかったのです。 使徒の働き12:4
当時の人々とは、確かに見込みのない状態の中でした。けども5節の後半に、教会は彼のために、熱心に神に祈り続けていた。祈っただけではなく、続けた。ヘロデや悪魔の攻撃に対する教会の答えは、熱心な祈りでした。 獄に入れられてるペテロだけが問題ではなかったのです。ペテロの奉仕を獄に封じられたのですから。けど、教会では熱心な祈りが主にささげられました。確かに、鎖、兵士、番兵があったのです。それにも関わらず教会では熱心な祈りが主にささげられたのです。 第一と第二の衛所と鉄門があったのですけど、教会では熱心な祈りが主にささげられたのです。 主の使いはこの鉄門を開けませんでした。聖書は10節ですが、それがひとりでに開いたと言ってます。すなわち、熱心な祈りによって開かれたのです。 三つの点についてちょっと簡単に考えたいと思います。 ・第一番目。教会の祈り。 ・第二番目。主にささげられた祈り。 ・第三番目。ペテロのための熱心な祈り。 についてであります。 第一番目、教会の祈りについてちょっと考えたいと思います。聖書はペテロの祈りについて語ってるのではなく、教会のすなわち兄弟姉妹の祈りについて語ってます。 ペテロは自分の経験についてよく知っていました。ところがすべてのことをゆだねて、彼はぐっすり寝てしまったのです。これは主に対する本当の信頼の現われなのではないでしょうか。 もし私たちは明日の朝、切り殺されるということ分かったら、おそらく寝られないなのではないでしょうか。 ここで、教会では彼のために熱心な祈りが主にささげられたと書いてあります。私たちはこの祈り会に出席している兄弟姉妹の名前を知りません。これはどうでもいいからです。 おそらくアンテオケから来られたサウルとバルナバも出席したでしょう。けど、このような長老たちは大切ではなく、単なる祈りも問題を解決する道具ではない。 問題なのは教会全体の祈りです。悪魔の攻撃に対する解決は教会の能動的な祈りです。 悪魔は今までに変わりません。悪魔は今日も、ヘロデたちよって私たちを攻撃するのです。けど私たちの愛する主も変わりません。イエス様は昨日も今日も、いつまでも変わらないお方です。 だから私たちは心から喜ぶことができます。主は今日も祈りを聞き届けられるお方です。また、まことの教会も変わりません。 まことの教会は霊的な一致を意味してます。聖霊の力によって生きてる霊的な一致はまことの教会です。この教会は変わらない。そして愛する兄弟姉妹たちは私たちもこの教会に属してる主体であると考えると本当に喜ぶことができるなのではないでしょうか。 ここで、教会では熱心な祈りが主にささげられたとあります。まことの教会の仕事や教会の奉仕は、熱心な祈りなのではないでしょうか。当時の兄弟姉妹は実際的に、私たちはどうすることもできませんという事実を認めたのです。 彼らは、だからこそ徹底的に主の助けを頼ったのです。もし主ご自身が奇跡を行なわなければもう見込みがない。だからこそ教会では熱心な祈りが主にささげられたのです。 彼らは熱心に、心から祈ったのです。どうしてでしょうか。ちょうど毎週の祈り会だったからでしょうか。そして、もしだれも祈らなければちょっと変だと考えたなのでしょうか。決して、そうではない。 彼らはどうしても主の助けが必要だったからです。もし主ご自身が力あるわざを行なわなければ、私たちはもうおしまいです。見込みのない状態に陥ってしまうと彼らははっきり分かったのです。 私たちの祈りは、何としばしば義務的な祈り、浅薄な祈りなのではないでしょうか。私たちは悩んでる兄弟姉妹とともに悩み、彼らのために熱心な祈りをささげてるなのでしょうか。 パウロはガラテヤ地方にいる兄弟姉妹に次のように書いたのです。 ガラテヤ人への手紙6:2
目に塗る目薬を買いなさいと、主は言っておられます。自分のことばかりを考えれば、主の望む祈りが湧いて来ないでしょう。希望を失った兄弟姉妹、絶望してる兄弟姉妹の回復のために、どうしても教会全体の祈りが必要です。もし主が彼らの心の目を新しく開けなければ、彼らは、また、私たちも見込みのない状態に陥ってしまいます。 あの兄弟姉妹に対する責任は自分のものではないと考えたら、本当に災いです。もし私たちは主に祝福された者であるならば、これで十分だと思う人が多いなのではないでしょうか。 けどこれはありえないことです。不幸への早道です。 からだの血がちょっとだけ止まると、からだが全部がもちろんそれをすぐ感ずるでしょ。ひとりの信者の信仰生活が制限されたら、教会全部がそれを感ずるでしょ。 からだの肢体のひとつだけでも病気だったら、からだ全部が病気なのです。ふたりの信者だけでも統一をもっていなかったら教会全部が前進しません。教会全体の祈りは本当に大切です。 第二番目、主ご自身にささげられた祈りという点についてちょっと考えましょうか。12章5節に、教会では彼のために、熱心な祈りが神にささげられたとあります。 この最後の二つの言葉、すなわち、主なる神に、というのはそんなに大切ではないと考えてる人もいるかもしれない。あるいは、私たちは偶像礼拝者ではないから、主にささげられた祈りは当たり前なのではないかと思う人もいるかもしれない。 まことの祈りは主にささげられた祈りです。当時の信者たちの祈りは、主ご自身にささげられた祈り、また煩悶から出た叫びでした。偽善な祈り、また習慣的な祈りは恐ろしいものです。傲慢はひどいものです。恐ろしいものですが、祈りの場合にはこの傲慢は二倍の醜さを現わします。 私たちはどういう態度で祈るなのでしょうか。人から褒められるためなのでしょうか。祈るとき自分自身を、またほかの兄弟姉妹を自覚しているのでしょうか。あるいは主のみを見るなのでしょうか。 私たちのうちに熱心な祈りがあるなのでしょうか。 もちろん、自分で祈れば一生懸命祈るでしょうけど、ほかの兄弟姉妹が祈ったら、私たちはほかの兄弟姉妹と一緒に心を合わせて祈るなのでしょうか。 あるいはこの兄弟に対して、あの姉妹に対して批評的な態度を取るなのでしょうか。はっきり言えることとは、エルサレムにいる兄弟姉妹はみな一つでした。 バルナバやサウルは、とってもすばらしい祈りの言葉を使ったか、年寄りのお婆ちゃんは非常に恥ずかしくて祈ったか、兄弟が熱心に祈ったか、姉妹が声を出さないで祈ったか私たちは知りませんけど、彼らはみな一つでした。 前に、喜んで集会に来て、ともに賛美し、主のために生きたいと思った兄弟姉妹は見えなくなりました。 どうしてなのかまったく分かりません。けども彼らは喜びも平安も今、持っていないはずです。私たちはこういう兄弟姉妹に対して無関心なのでしょうか。毎日彼らのために熱心に祈るようになるなのでしょうか。信ずる者の無関心によって、悪魔は勝利を得ます。 エルサレムにいる人々について書かれています。すなわち教会は彼のために熱心な祈りが神にささげられたと。私たちも一つになって熱心に、悩んでる困ってる兄弟姉妹のために祈ろうではないでしょうか。 エルサレムにいる兄弟姉妹は一つになってともに祈りました。また彼らは主ご自身に祈ったのです。ほかの人々自覚しないで、主だけを仰ぎ見たのです。 そして第三番目、エルサレムにいる兄弟姉妹はペテロのために熱心な祈りをささげられたとあります。ご存知のように (テープ A面 → B面) ・・・同じく殺されるべきでした。これは教会全体のために何と厳しい信仰の試練、何という恐ろしい試みだったでしょう。 悪魔は信ずる者たちを不安や絶望に陥れようと努力したでしょう。確かにペテロだけが獄に入れられていました。けど、これは教会全体のために恐ろしい試練でした。 兄弟姉妹は、「ペテロは明日殺されるでしょう。もうダメだ。諦めたほうがいいんじゃないか。」と彼らは考えないで、熱心な祈りが主にささげられたと書いてあります。 エルサレムにいる兄弟姉妹は、ペテロのために熱心に祈りました。疑いもなくこのペテロは、決して完全ではなかったのです。彼も失敗し、過ちを犯したに違いない。 けども兄弟姉妹は、「ペテロはもう少し注意したならば。」、「自分のせいだ。」などとは決して考えなかったのです。 あらゆる議論、あらゆる疑いは悪魔の働きの結果です。信ずる者の一致を壊すのは悪魔の目的です。けどもエルサレムの兄弟姉妹が信仰によって一つになって、ペテロのために熱心に祈りました。 彼らはペテロとともに悩んだからです。確かに私たちは今、当時の信ずる者たちの迫害を経験しないでしょうけど、毎日悪魔の憎しみを感じます。 信ずる者の霊的な交わりをダメにするために、悪魔はあらゆる手段を用いて攻撃して来ます。 批評、または疑いによって本当の交わりは不可能になります。悪魔の目的とは私たちが信仰や希望を失うこと、お互いの愛を誘惑することです。 エルサレムにいる兄弟姉妹はこの危険をすぐ感じたのです。だから彼らは一つになってペテロのために熱心に祈ったのです。もちろんペテロのためだけではなく、主のご栄光が現われるために彼らは祈ったのです。 私たちは一緒に祈るとき、はっきりとした目的を持ちましょう。はっきりとした目的をつかむこと、また、一致することは欠くべからざることです。 教会全体の祈りは一体何なのでしょうか。幾人か集まって、ひとりひとりが自分の悩み祈ったり、感謝したりするでしょうか。決してそうではない。 集まってる兄弟姉妹が個人個人のものではなく、主イエス様のからだ、イエス様の代表であるべきです。すなわち教会全体の祈りによって霊的な力が現われ、主イエス様の支配が明らかになるべきです。 エルサレムの教会では、ペテロのために熱心な祈りが主にささげられ、こういうふうにイエス様の支配が明らかになりました。私たちの祈りによって、姿を消した兄弟姉妹の生活の真ん中に、イエス様の支配が明らかになりますように。 一体どうしてエルサレムにある教会はペテロのために祈ったなのでしょうか。彼を愛したからでしょうか。それは当たり前のことです。けどもそのおもな理由は主の御心だったからです。 ペテロは獄に入れられていたとき、教会の喜びや、教会の証しと奉仕は制限されたのです。また主は栄光をお受けにならなかったのです。だから教会ではペテロのために熱心な祈りが主にささげられたのです。 私たちは一体どうして離れた兄弟姉妹のために祈らなければならないなのでしょうか。もちろん私たちはひとりひとりをどうしても愛さなければいけません。そうしないと悪魔は勝利を得るからです。けども主の御心が問題です。 兄弟姉妹が悪魔の獄に入れられてると、私たちの喜びや証しや奉仕は制限され、束縛されています。また主は栄光をお受けになれません。だから私たちは、どうしても離れた兄弟姉妹のために熱心に祈らなければならないなのではないでしょうか。 最近いろいろな人々と会って、十年ぶり、何年だったんです。それ本当にもう、ありがたい。ある人は二年間だけ姿を消して放蕩息子のように帰る人もいるし。 エルサレムの教会は、自分のために祈りませんでした。いつも自分、自分、自分のために祈ってる信者は決して前進しません。もしエルサレムの兄弟姉妹が自分のために祈ったとした場合を想像してください。ペテロは必ずそのままで獄に入れられていて、次の朝、殺されたでしょう。 しかし兄弟姉妹は、悪魔の攻撃に負けませんでした。自分のために祈らなかったのです。御霊に従い、ペテロのために熱心な祈りが主にささげられたのです。はっきりとした目的をもって祈ったのです。 ですから離れた兄弟姉妹のために祈りましょう。これこそが主の御心です。 イエス様は次のように約束してくださいました。わたしが来たのは、彼らにいのちを得させ、豊かに得させるためであると。 けど悪魔の獄に入れられている兄弟姉妹は、この豊かないのち、また主の喜びをもっていません。エルサレムにいる兄弟姉妹はみなペテロのために熱心な祈りをささげました。 すべての信者はただひとつの目的をもっていました。彼らは霊的な一致をもっていたのです。 信ずる者がともにするとりなしの祈りはとっても重要です。祈りをしてるエルサレムの教会はペテロのために熱心な祈りが主にささげられたのです。 この祈りは確かに恐ろしい闘いでした。われわれの闘いは血肉に対する、すなわち人間に対するものではなく、諸々の支配と権威と闇の世の主権者、また天上の悪の霊に対する闘いであると聖書は言っています。 エルサレムの兄弟姉妹は血肉に対する、すなわちヘロデ王に対して闘いませんでした。彼らは天上にいる悪の霊に対して闘ったのです。そのためにどうしても霊的な一致が必要です。 パウロは、「私は目標をはっきりしないような走り方をせず、空を打つような拳闘はしない。」と言いました。われわれの敵は悪魔です。ヘロデたちの後ろに悪魔が働いています。兄弟姉妹の疑いの後ろにまた、毎日の生活のいわゆる小さな出来事の後ろに悪の霊があります。 最後に、その祈り会の結果についてちょっとだけ考えたいと思います。一言葉で言えば、この祈祷会の重要な結果は、霊的な勝利でした。 悪魔はいかにしてこの信者たちを散らせようと努めたのです。彼らは不安や絶望に陥ってしまい、妥協し、止めるように、これが悪魔の目的でした。 けど、教会では彼のために熱心な祈りが主にささげられたとあります。もし悪魔の攻撃によって信者たちみんなが散らされて、不安や絶望に陥ってしまったということを想像してください。 これは主のみことばに何を意味していたなのでしょうか。エルサレムの教会の霊的な力やペテロの将来は、そんなに問題ではなかったので、主の言葉は重要でした。そしてこの霊的な闘いのあとで、12章24節に、「こうして主のことばは、ますます盛んに、広まって行った。」とあります。これはこの祈り会の大切な結果の一つでした。 またヘロデ王も滅んでしまいました。彼は神に栄光を帰することをしなかったからであると書いてあります。 教会全体の祈りによって霊的な力が現われ、イエス様の支配が明らかにならなければならない。エルサレムの教会はそうでした。 教会の祈りによって主イエス様の支配が明らかになりました。悪魔の道具であるヘロデ王は虫にかまれた、息が絶えてしまったと聖書は言ってます。こういうふうに主が栄光をお受けになりました。 祈りは、教会の祈りは何という奇跡を行なう力でしょ。12章の始めに、ペテロは獄に入れられていたと書いてあります。もちろんペテロは獄に入れられていたとき、教会の喜びも、教会の証し、そして奉仕も確かに制限されていたに違いない。 けどもヘロデや悪魔の攻撃に対する教会の答えは、熱心な祈りでした。この祈りの重要な結果について12章の終わりは語っています。すなわち主のことばはますます盛んに広まって行ったと。 と言いますと、全世界に福音が盛んに広められました。13章を見ると、これが分かります。 パウロとバルナバは、エルサレムからアンテオケへ帰ったらすぐに宣教師として出かけたのです。エルサレムの教会は普通の家庭で集まって、熱心な祈りが主にささげられました。そして主のことばはますます盛んに広まって行ったのです。 もうひとつの結果は、まことの礼拝だったなのではないでしょうか。ペテロには御使いのしわざが現実なこととは考えられず、ただ幻を見てるように思われたのです。しかしこれは幻ではなく、現実であるということをペテロはすぐに信じませんでした。 また祈ってるエルサレムの教会も、同じくペテロの解放されたことを初め信じませんでした。彼らは女中に、あなたは気が狂ってると言いました。けど、あとで彼らはペテロと一緒にまことに主を礼拝したのです。 結局主は生きておられます。祈りに答えてくださるのです。パウロはエペソにいる兄弟姉妹を励ますために次のように書いたのです。それを最後に読んで終わりましょうか。 エペソ人への手紙3:20-21
とパウロは祈ったのです。 パウロは、いつも私たちが求め、また思うところの一切をはるかに超えて、主はかなえてくださいます、だから賛美と誉れと栄光はおのずから出て来ます、自発的に喜んでささげられるようになりますと書いています。 エルサレムに集まった兄弟姉妹はこの祈り会の重大さをあまりよく理解していませんでしたけど、彼らはただこれだけは知っております。今、祈らなければならない。祈らなければ喜びがなく、教会は広まらない。このことを彼らは知っていました。 ペテロの解放に、これらの事がらは深い関係があったのです。だから彼らはペテロのために熱心な祈りを主にささげたのです。けど彼らはこの祈り会の結果、ヘロデ王が虫にかまれて殺され、主のことばが全世界に広まるということは考えもしなかったでしょう。 私たちがもし祈らなければ、イエス様は主であるという証しが私たちを通して立たず、また、私たち自身も信者として進歩がなく、そればかりでなく、離れた兄弟姉妹ももとへ戻りません。だから祈りましょう。 そうするならば私たちは祝福され、その証しは多くの人々に広められ、多くの人々は、イエス様は主であると告白し、離れた兄弟姉妹ももとへ戻るのです。 もし私たちがこのように祈るならば、この祈りは、日本だけではなく、全世界に大きな影響を及ぼすのです。 私たちの際立った特徴が祈りでありたいものです。そのために熱心な祈りを主にささげましょう。 |