一緒になる大切さ


ベック兄

(広島喜びの集い、2008/09/07)

引用聖句:使徒の働き3章1節-11節
1ペテロとヨハネは午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。
2すると、生まれつき足のきかない男が運ばれて来た。この男は、宮にはいる人たちから施しを求めるために、毎日「美しの門」という名の宮の門に置いてもらっていた。
3彼は、ペテロとヨハネが宮にはいろうとするのを見て、施しを求めた。
4ペテロは、ヨハネとともに、その男を見つめて、「私たちを見なさい。」と言った。
5男は何かもらえると思って、ふたりに目を注いだ。
6すると、ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」と言って、
7彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、
8おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮にはいって行った。
9人々はみな、彼が歩きながら、神を賛美しているのを見た。
10そして、これが、施しを求めるために宮の「美しの門」にすわっていた男だとわかると、この人の身に起こったことに驚き、あきれた。
11この人が、ペテロとヨハネにつきまとっている間に、非常に驚いた人々がみないっせいに、ソロモンの廊という回廊にいる彼らのところに、やって来た。

使徒の働き4:1-4
1彼らが民に話していると、祭司たち、宮の守衛長、またサドカイ人たちがやって来たが、
2この人たちは、ペテロとヨハネが民を教え、イエスのことを例にあげて死者の復活を宣べ伝えているのに、困り果て、
3彼らに手をかけて捕えた。そして翌日まで留置することにした。すでに夕方だったからである。
4しかし、みことばを聞いた人々が大ぜい信じ、男の数が五千人ほどになった。

使徒の働き4:13-14
13彼らはペテロとヨハネとの大胆さを見、またふたりが無学な、普通の人であるのを知って驚いたが、ふたりがイエスとともにいたのだ、ということがわかって来た。
14そればかりでなく、いやされた人がふたりといっしょに立っているのを見ては、返すことばもなかった。

使徒の働き4:22-32
22この奇蹟によっていやされた男は四十歳余りであった。
23釈放されたふたりは、仲間のところへ行き、祭司長たちや長老たちが彼らに言ったことを残らず報告した。
24これを聞いた人々はみな、心を一つにして、神に向かい、声を上げて言った。「主よ。あなたは天と地と海とその中のすべてのものを造られた方です。
25あなたは、聖霊によって、あなたのしもべであり私たちの先祖であるダビデの口を通して、こう言われました。『なぜ異邦人たちは騒ぎ立ち、もろもろの民はむなしいことを計るのか。
26地の王たちは立ち上がり、指導者たちは、主とキリストに反抗して、一つに組んだ。』
27事実、ヘロデとポンテオ・ピラトは、異邦人やイスラエルの民といっしょに、あなたが油を注がれた、あなたの聖なるしもべイエスに逆らってこの都に集まり、
28あなたの御手とみこころによって、あらかじめお定めになったことを行ないました。
29主よ。いま彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。
30御手を伸ばしていやしを行なわせ、あなたの聖なるしもべイエスの御名によって、しるしと不思議なわざを行なわせてください。」
31彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだした。
32信じた者の群れは、心と思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものと言わず、すべてを共有にしていた。

今読んでもらいました「使徒の働き」という本は、歴史の本です。もちろん大切な教えも含んでいますけど、歴史の本です。
初代教会はどういうふうにできたのか、如何にして祝福されたのか、どうして用いられたのかについての報告のようなものです。
私たちにとって覚えるべきことは、「一緒になる大切さ」なのではないでしょうか。

今のばらばらになった世界の中で、ひとつになることこそが最も大切なのはないでしょうか。
ひとつになればOK。ひとつになれば豊かな祝福が注がれるに違いない。そのことが使徒の働きの中で、何回も何回も書き記されています。
2章は、今日は読まなかったのですけど、いわゆる五旬節、すなわち教会の誕生について書いてあります。主なる神の御霊が下って以来、はじめの数週間のうちにエルサレムでは1万人以上の人々が、イエス様を信じ救われたと伝えられています。

使徒の働き2:41
41そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。

12人から3,000人になった。

使徒の働き2:47
47神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。

毎日です。

使徒の働き4:4
4しかし、みことばを聞いた人々が大ぜい信じ、男の数が五千人ほどになった。

この2章には、多くの人々がみことばを受け入れ、イエス様を信じ受け入れたことについて書いてあります。
救われた人々がいかにして救われたのか。また救いによって何を経験したかは、2章には書いてありません。3章に書いてあります。
宮の美しの門に置かれていた、生まれながらの足なえが治されたという記事が書かれていますが、これは私たち救われた者をイエス様の御霊がどのようにして導き、その信仰を全うさせたいかを教えているひとつの例なのではないでしょうか。

最近、イエス様を信じ受け入れて救われた兄弟姉妹は、これから先いかにして進むべきか、もちろん疑問を持っているでしょう。この疑問に答えるために、3章、4章の病を癒された人を見てみるとわかります。
この男は全く新しくされました。新しい命、新しい喜び、新しい目的を持つようになったのです。
けれども、この男に起こったもうひとつの事柄は、彼が、信者の群れに加えられた、すなわち、イエス様の体なる教会である信ずる者の群れに加えられたということです。

この足なえは、イエス様のもとに来たその時に、信ずる者の群れに加わったのです。
これは理屈ではありませんが、その男がイエス様のもとに来たときに、自分の生活を、主にある他の兄弟姉妹と共にし、分かち合う生活に自然と入れられたのです。
2章では、イエス様は救われる者を毎日、毎日、信者の群れに加えて下さったことが書いてあります。けれども3章では、救われて、体なる教会に加えられたということは、一体何を意味しているのか書かれています。

イエス様によってとらえられた人は、高くひきあげられて天にいらっしゃるイエス様とひとつになるだけではなくて、イエス様の体なる教会、地上の信者の群れとも一つになったのです。
イエス様を信じ、イエス様を受け入れ、イエス様に自分をゆだねた人々は、その瞬間に救われています。共にこの救いを経験した人は、救われた瞬間に、信ずる者の群れに加えられたのです。
3章と4章を見ると、癒された足なえは、いつもペテロとヨハネと歩んだことが分かります。

使徒の働き3:8
8おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮にはいって行った。

ふたりと一緒にでした。一人ではありませんでした。

使徒の働き3:11
11この人が、ペテロとヨハネにつきまとっている間に、非常に驚いた人々がみないっせいに、ソロモンの廊という回廊にいる彼らのところに、やって来た。

ここにも「彼ら」と記されています。

使徒の働き4:14
14そればかりでなく、いやされた人がふたりといっしょに立っているのを見ては、返すことばもなかった。

イエス様が、この癒された足なえを体なる教会に加えられたので、彼はペテロとヨハネと一緒に居たのです。
今朝、ひとつの質問について、一緒に考えたいと思います。すなわち、「信ずる者の群れに加えられたとは、何を意味しているのでしょうか。」
4つのことを意味しているのではないかと思います。

第1番目、ほかの信者により頼みあうこと。お互いに助け合うことです。今の世の中で、そういう気持ちを持つ人々はあまりいない。だから、今の世界はもうばらばらになってしまった世界です。
兄弟姉妹によりたのみ会うこと、お互いに助け合うこと。普通の人にとってちょっと考えられない。
夕べもある姉妹が相続の問題でたいへん悩んでいました。皆、わかるでしょう。相続問題になると、家族の中でもお互いにもうたいへんです。人間は結局そういうものです。初代教会の場合は違ったのです。みんな本当の意味でひとつでした。

ここで、新しく主なる神の命に預かった人達が、これから成長して行くには、どうしても信者の群れに加わっていかないとまずかったのです。
だから今読みました、使徒の働き3章11節、4章14節をみていくと、癒された足なえは、ペテロとヨハネと一緒でした。
病の癒されたこの足なえは、信者と一緒に同じ道を歩いていきました。この足なえは、自分にとってこの交わりは、どうしても必要であることを信じました。

もう十何年か前に、ある兄弟はイエス様を信じるようになりました。もういっぺんに変わったのです。
今度入院したらヒマ人になるから政治の本、経済のほんの勉強しよう。山ほど持っていってたんですって。でも全部、本を返しちゃった。結局、経済の本を読んでも、政治の本を読んでも、希望が湧いてこない。
それから、部屋の前の自分の名前を隠してもらったのです。イエス様を信じる兄弟姉妹とだけ会いたい。そういう風になったのです。いっぺんにですよ。

けども彼は、宗教が大嫌いな男でした。もちろん、ヨーロッパでも人気者になり、アメリカでも人気者になり、日本でも、毎日2回もTVに出たのです。本当に人気者でした。だから彼は、まともな男でしたから、宗教が大嫌いでした。
奥さんからそれを聞いた時ね、うれしくなったのです。宗教が大嫌いな男は、救われやすい。本物が欲しいからです。偽物はもう結構です。
彼は、本当にいっぺんにイエス様こそ救い主と思うようになり、喜んで死に向かうことができたのです。

そして、やっぱりイエス様を知らない人々ともう結構です。彼は、知らないうちに信者の群れに加えられたのです。
ほんとうは、もうあまり集会に出ることができなかったのです。昔の、軽井沢のキャンプ場に来ましたし、うちまでも来ましたし、吉祥にも何回か出たのですけど、それから病気が重くなって出られなくなりました。
けども彼は、やっぱり、私は信じる者群れの中の者である。そうわかったのです。

この交わりに加わるということを、足なえは自分で自発的にしたのです。
足なえは、私は天にいらっしゃるイエス様とひとつであるばかりではなく、イエス様の体であるこの地上に住む信者ひとりひとりとも一つであることを知っていたのです。だから彼は、ペテロとヨハネと一緒だったのであります。
この足なえはペテロとヨハネの前を喜びの余り飛んで先へ行ってしまったとは書いてないのです。彼らと共に、二人と一緒に宮に入ったとあります。

ペテロとヨハネももちろん間違いなくうれしかった。本当に喜びました。けれども躍り上がって歩くことはしなかったのです。普通に歩いたに違いない。
癒された足なえは、どうしてペテロとヨハネを待って、一緒に宮に入らなければならなかったのでしょうか。
彼は、40年間も動けないままで、宮の門の前に座り続けたのです。なんとかして、一度宮に入りたいと願い続けていたことでしょう。そんなに長い間動けないでいたこの男がいっぺんにその病を癒されたのですから、大喜びで一人で宮の中に駆け込み、主を賛美し、感謝したとしても不自然ではなかったと思います。

けれども彼は一人で宮の中に駆け込むことをしませんでした。二人と一緒に宮に入ったとあります。
また彼がいち早く家族のもとに帰り、また友達の所に行き、自分の身に起こった不思議なことを語ったということも書いてありません。
なぜ、この足なえは、ペテロとヨハネと一緒に居たのでしょうか。

ペテロは足なえに向かって、足なえを癒すとき、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」
ペテロはイエス様を指し示し、イエス様の力によって足なえを癒したのです。今、足なえが癒されたのは、ペテロやヨハネのおかげではありません。イエス様がお癒しになったのです。
足なえは、別にペテロやヨハネについて行く必要はなかったのではないでしょうか。自分の道を行くことができたはずです。

けれども、彼はそうしませんでした。癒された足なえは心の内で、すぐにでもこの喜びを家族に伝えたいと思う心もあったでしょう。けども心の奥底で、このペテロとヨハネに従って一緒に行かなければならないということを悟ったのです。
ペテロとヨハネは、あなたは我々によって病が癒されたのだから、我々に従ってこなくちゃ行けない、あなたは我々の群れと一つにならなければいかんと言いませんでした。
足なえが、群れに加えられたということは、人が定めた規則ではありませんでした。足なえの心の内から湧いて出る深い願いでした。

足なえがペテロとヨハネに従って行ったのは、彼らに対する感謝の気持ちからではなくて、また規則を守りたかったためでもなく、またペテロとヨハネの人柄を見て良い人達である、自分の友達としようと思ったからでもありません。
彼らとどうしても命の交わりを持たなければならないと、心の奥底でのやむにやまれぬ気持ちからそうしたのです。
癒された足なえは、使徒達と信者達に拠り頼みました。そうしなければ、自分の信仰生活が成長しないことを知っていたのです。

確かに、たまにいろいろな人に出会います。「もういいよ。集会行きたくないよ。うちで聖書読めば、祈ればいいだろう。」、けれども、成長がない。結局、自分勝手に聖書を解釈するとかわいそう。
確かに一人だったらけんかにならないよ。集会に行くと、やっぱりいろいろ変わった人もいる。違う意見を持つ人も居るでしょうし、やー面白くない。
けれども、主によって与えられた兄弟姉妹であると思えば、全然違うよ。なんでも主から受け取ればいい。

この足なえは、そういう愚かな男ではなかった。やっぱり、ほかの兄弟姉妹に頼まないと成長がないとはっきりわかったのです。
足なえは毎日毎日、近所の人に連れられて美しの門のそばに置かれました。今度は、ペテロとヨハネに動けない実を運んでももらうということになったでしょうか。それでは何の役にも立ちません。
信ずる者の使命は、障害のある人を背負って歩く責任を負っているわけではない。足なえの人が癒された一人で歩くようになったように、障害のあるが主の恵みによって独り立ちするようになってもらう。これが信ずる者の群れの使命なのではないでしょうか。

救われた者は、イエス様の力によって歩み、自分で主を経験して前に進むことにしましょう。人からそうさせられることはできないのです。
信ずる者の間の誤った交わりに対する考えに注意しなくちゃいけないのではないでしょうか。信ずる者同志の交わりは、内面的な力となります。外面的な支え合いなら、あまり役に立ちません。
足なえは、40年間足を使いませんでした。ですから癒されたとき、ペトロとヨハネにしがみつき、そのうちにだんだんくるぶしが強くなり、体の平均がとることができ、しばらく立ってから一人歩きするようになったかと言いますと、そうではありません。
癒されたとき、ペテロとヨハネに頼らないで、ひとりで歩いたのです。聖書は、足なえが一人で歩くことができただけではなく、踊り立ち歩み出したとあります。彼は、支えを必要としませんでした。イエス様の力によって、癒されたのですから一人で歩くことができたのです。

ですけど、一人で歩けたのに、どうしてペテロとヨハネと一緒に行ったのでしょうか。それは、癒された彼は、もっともっと知らなければならないことがたくさんあり、それは兄弟姉妹との交わりで知ることができるということを知っていたからです。
その時のペテロとヨハネでさえ、まだまだ知らなければならなかった事柄をたくさん持っていました。
私たちもまた、古い信徒も新しい信徒も同じく、まだまだもっともっと多くのことを、イエス様のことを知らなければいけませんし、知りたいと願っています。

信ずる者の間で、交わりを持つことで心の成長が期待できるのです。お互いに支え合い、保ちあわなければ、本当の信仰を期待できません。一人で行こうとすると、その先は袋小路です。
信者の集いは、信仰成長の場所です。心の成長を願う人は、信者の間の交わりを保つ、信者の内に溶け込み信者と一つになることです。
ほかの信者と拠り頼みあうこと、ほかの信者と助け合うことこそが、考えられない程大切です。

第2番目、ほかの信者と一緒に証しする。すなわちイエス様を人に伝えること、イエス様を紹介することです。
ペテロとヨハネまた癒された足なえが3人で、イエス様の救いを証明したわけですが、3人が3人とも救われたと言いましたので、ほかの人々は納得しないわけにはいきませんでした。
前に読みました4章14節を、もう一回読んでみましょうか。

使徒の働き4:14
14そればかりでなく、いやされた人がふたりといっしょに立っているのを見ては、返すことばもなかった。

目に見えませんし感ずることもできませんが、主の霊はイエス様が救い主であることを人々に証明するために証しするために、信ずる者を全く一つにしたのです。
ペテロとヨハネまた救われた足なえは、マタイの福音書18章の言葉を経験したのではないかと思います。

マタイの福音書18:20
20ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」

この3人は心が一つになっており、イエス様はその人々の中に住み、イエス様は人々の中に留まっておられるということが、周りの人々には自然とわかりました。
3人の周りに3人に反対する人達が取り巻いていましたけど、イエス様が3人のうちにおられるということが明らかにされました。
これこそ信ずる者の集いの勤めなのではないでしょうか。

一人一人がばらばらになっていたのではなく、ペテロとヨハネと足なえがイエス様の御臨在を現したことが大切です。
一つになると私たちの内からイエス様が光り輝いて現されることができます。
この主の証しは、3つに分けられると思います。

まず、ペテロは群衆に向かって語りました。そして、主の霊は、ペテロの言葉を用いてイエス様を人々に証ししたのです。
2番目は、一緒にいたヨハネは黙っていたのです。けど、ペテロの傍らに静かに立っているヨハネは、主に向かって祈った。イエス様を内に宿し、御臨在を持ち運び、ペテロの説教を祈りによって支えたに違いない。
3番目に、癒された足なえは、死なれ復活され高められ、今なお実際にすべての背後で支配されているイエス様の力を証明する、救われた人でした。

この癒された足なえの名前は、ここの書かれていません。けど、イエス様が生きておられる救い主であることを証明するために、多くの役割を果たしたのです。
これと同じように、信ずる者の多くの信者の名前はそとに出ません。けど、まだイエス様を信じていない悪魔に捕らわれている人々に、イエス様が神の子であり、救い主であることを証明するために、大きな鍵の役割を果たしていることを忘れてはならないと思います。
癒された者がいなければ、イエス様を証明する証しは決して完全ではない。

この使徒の働き3章を見てはっきり分かることは、一人で証ししないで、3人で一緒になってイエス様が救い主であることを証ししたことです。もし私たち信じる者が本当に一つになるなら、イエス様が救い主であることを証しすることができます。
癒された足なえがそこに居たことは本当に考えられない程大切でした。けど、ペテロは、この癒された足なえについては話さなかったのです。ただ、癒し主であるイエス様を人々に紹介したのです。
御霊はいつもイエス様を中心にしようと望んでおられます。民の司や長老達は、3人から出てくる超自然的な力を説明することができなかったのです。

民の司、長老、聖書学者たちは、その力の原因はペテロとヨハネがかつてイエス様と共に居たからだと考えたのです。
もちろん、その理由は十分ではないでしょう。
なぜならば、癒された足なえは、まだイエス様を見たこともないし、けど本当にペテロとヨハネと同じように、深い喜びと平安と静けさを持っていたからです。

使徒の働き3:11-12
11この人が、ペテロとヨハネにつきまとっている間に、非常に驚いた人々がみないっせいに、ソロモンの廊という回廊にいる彼らのところに、やって来た。
12ペテロはこれを見て、人々に向かってこう言った。「イスラエル人たち。なぜこのことに驚いているのですか。なぜ、私たちが自分の力とか信仰深さとかによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか。

ペテロはここで、「なぜ私たちを見つめるのですか?」と叫び、自分たち3人ではなくイエス様を、イスラエルの人々に指し示しました。人々は、3人の中にイエス様を見たのです。信じる者が一つになっていればいるほど、疑うことのできない証し人となります。
その証しは、信者の中にイエス様がおられるという素晴らしい証しです。もし一人で証しするなら、人はあなたを素晴らしい人として認めるかも知れない。けど、それもそうかもしれないけど、自分が認められるのではなくて、自分の内におられるイエス様が、崇められないなら、結局、なんにもなりません。
もし私たちが一つになって、みんなで証しするなら、一人一人は確かに見えなくなるかもしれない。けど、イエス様が必ず中心になります。

生まれながらの能力は問題ではない。イエス様の御臨在が一人一人のうちにあることが一番の問題です。
ペテロとヨハネと足なえが、3人で立って居ましたとき、イエス様は生きておられ、主の御座に座しておられることが鮮やかに証しされたのです。
この主を証しすることは、信じる者の群れの義務であり、また、素晴らしい特権と言わなければならない。

信ずる者の群れに加えられることとはいったい何を意味しているのでしょうか?
ほかの兄弟姉妹に拠り頼むこと、お互いに助け合うこと。2番目は、ほかの信者と一緒に心を一つにして証しすることです。
今度は第3番目、ほかの信者と共に戦うことです。

イエス様が、二人でも三人でも私の名において集まるところには、私もその中に居るからですと言われた時、その信者の群れに悪魔の攻撃が加えられることも予告されました。
ペテロとヨハネと癒された足なえも、このことを間もなく経験しました。もし、3人がばらばらに宮に入り、ひとりで祈りをしたならば攻撃はなかったでしょう。けれども彼ら3人は一緒に行き、一緒に証しし、反対が起こりました。
一緒に証しするなら、その人数の大小にかかわらず悪魔の攻撃があります。癒された足なえが二人と一緒に行くなら必ず攻撃が来ることを知っていたのです。3章と4章を読むなら癒された足なえは、夜、ペテロとヨハネと一緒に牢屋の中に入れられたことがわかります。

使徒の働き4:14
14そればかりでなく、いやされた人がふたりといっしょに立っているのを見ては、返すことばもなかった。

癒された足なえはペテロとヨハネと一緒に居たと書いてありますから、夜も牢屋で3人一緒に過ごしたのに違いない。
癒された足なえも一緒に訴えられたのです。足なえは癒されて、主のものとなった最初の夜を牢屋の中で過ごさなければいけなかったとは、面白い信仰生活の始めだと言わなければならないと思います。
戦いが始まった翌日エルレムへ行った時、そしてほかの信者に会った時、なぜそんなに迫害が大きくなっているかがわかりました。詩篇の2篇は、その答えであります。

詩篇2:1-4
1なぜ国々は騒ぎ立ち、国民はむなしくつぶやくのか。
2地の王たちは立ち構え、治める者たちは相ともに集まり、主と、主に油をそそがれた者とに逆らう。
3「さあ、彼らのかせを打ち砕き、彼らの綱を、解き捨てよう。」
4天の御座に着いておられる方は笑う。

主は笑う。現在の政治家達は、一緒になったりいろいろなことを相談したりすると主は笑います。全く、意味のないことです。
人間は本当に惨めで、どうしようもないものです。

詩篇2:4-12
4天の御座に着いておられる方は笑う。主はその者どもをあざけられる。
5ここに主は、怒りをもって彼らに告げ、燃える怒りで彼らを恐れおののかせる。
6「しかし、わたしは、わたしの王を立てた。わたしの聖なる山、シオンに。」
7「わたしは主の定めについて語ろう。主はわたしに言われた。『あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。
8わたしに求めよ。わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。
9あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、焼き物の器のように粉々にする。』」
10それゆえ、今、王たちよ、悟れ。地のさばきづかさたちよ、慎め。
11恐れつつ主に仕えよ。おののきつつ喜べ。
12御子に口づけせよ。主が怒り、おまえたちが道で滅びないために。怒りは、いまにも燃えようとしている。幸いなことよ。すべて主に身を避ける人は。

信ずる者はエルサレムに集まり、その3人と共に祈りのうちに働いたのです。この詩篇2篇を開き声をあげて主に向かって祈りました。この一致があったから、大きな迫害が伴ったのです。信ずる者が全く一つになり共に証しするなら、必ず迫害もやって参ります。
癒された足なえは、エルサレムにおけるこの祈り会を通して、信じる者の戦いは血肉、すなわち人間に対する戦いではなく、天上にるもろもろの悪霊に対する戦いであるということを信仰生活の始めにおいて知ったのです。
悪魔がこの世を支配しようとする目的はいったい何でしょうか。悪魔の憎しみは、油注がれた主なる神の御子イエス様に向けられています。イエス様は十字架上で悪魔の働きに打ち勝ちましたが、この戦いはなんと大きな戦いだったでしょう。

約束された助け主、慰め主である御霊が下って記念すべき日、五旬節以来、イエス様の御臨在を現すものは皆、悪魔の攻撃の目的となったのです。イエス様を信じる者の群れに加わったということは、この悪魔との恐るべき霊的な戦いに加わったことを意味しています。
ペテロとヨハネと足なえが迫害にあった時に、この3人に属する同じ信じる者の群れがエルサレムの一所に集まり、心を合わせ祈っていたことは、少し前話したのですけど、詩篇の2篇を開いて祈っていました。
この詩篇の2篇は、神の御子がこの世を支配して下さるようにという願いをこめた詩、また祈りです。初代教会のこの信者達と同じように、同じ願いを持つ者は地獄の攻撃を身に覚えるのです。

信ずる者は、悪魔に防御的ではなく攻撃的でなければいけません。初代教会の人々はあらゆる面から攻撃を受けましたが、決してがっかりしてしまうことはありませんでした。逆に攻撃しました。祈りによって攻撃しました。
癒された足なえは癒された時、大喜びで旅をし歩きましたが、この喜びだけを持って、主のうちに救いがあると宣べ伝えるだけではだめで、どうしても他の信ずる者と祈りをあわせて戦わなければいけないということを、エルサレムの最初の日の理解で、よく分かったでしょう。
信ずる者は、平安のために祈らなかったのです。また霊的な戦いが、休戦状態になるようにとは祈りませんでした。信ずる者は、祈りの内に戦いました。主の御臨在を証しし続けるための大胆さを願い求めたのです。その祈りは、すぐに聞き届けられました。

使徒の働き4:31
31彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだした。

私たちも祈りにより、初代教会の信者と同じようになりたいものです。
疑いもなく癒された足なえは、ペテロとヨハネと一緒に大勢の信者の群れの所に行ったに違いない。
また足なえが癒された時、己の道を歩んでいたのならかかる大いなる祝福には預かれなかったことでしょう。

集まった人々は皆、ペテロとヨハネの兄弟姉妹であり、主は同じである。また、自分とペテロとヨハネは兄弟姉妹で、主はひとつであるから、この信者達は自分の兄弟姉妹でもあることをよく悟ったことです。
足なえが癒されてペテロとヨハネと共に行くということは、何を意味していたのでしょうか。それは憎しみを受けることであり、迫害であり、牢屋であり、霊的な戦いであり、祈りの戦いでした。
これはすべて、救われた結果として自動的に起こった結果ではありませんでした。もし前に話したように、足なえが癒された時に、そのまま自分の家へ帰って行ったのなら、このようなことは起きなかったはずです。ペテロとヨハネと一緒に居たからです。

苦しみと困難は、共にする生活の所から起ったのです。共に証しする所から起こってきたものです。
信ずる者の群れは、悪魔の力を滅ぼす勝利者なる主の道具です。私たちが一つになって共に生き抜いていくことは、なににもまして大切です。
主がこれに対して、私たちの目を開いてくだされば本当に、素晴らしいと思います。

信ずる者の群れに加えられることとは何を意味するのでしょうか?
今話したように、他の信者に拠り頼みあうこと、お互いに助け合うこと。2番目は、ほかの信者と一緒に証しすること。3番目は、ほかの信者と一緒に戦うこと。
最後に、第4番目は、ほかの信者と共に満たされることです。

信ずる者の群れは、満たされる所です。イエス様の満たしは、共にする生活においてのみ経験することができるのです。そしてこれこそが、主の秘密です。
癒された足なえが、聖霊がなんであるか、ほとんどなんであるかさっぱりわかりませんでした。けれども、ほかの人々と同じように御霊に満たされました。
きっと足なえは、五旬節について聞いていなかったに違いない。けど足なえは、五旬節の力を自分に経験したのです。

使徒の働き4:31
31彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだした。

祈っていた信者たちは、五旬節に満たされたことを経験した人々でした。今またここに新しくここに満たされなければいけなかったのです。
これと同じように、私たちも絶えず満たされ続けなければいけません。高く引き上げられ天におられるイエス様は、ご自身に属する私たちの満たしとなり、命となり、力となりたく願っておられます。
エペソ人への手紙1章23節は、今話したことを明らかにしています。

エペソ人への手紙1:23
23教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

信者の群れはイエス様の体であり、イエス様の満ち満ちておられる所であります。この意味を、祈りながらゆっくり考えるべきじゃないでしょうか。
もし癒された足なえが自分の道を歩んでいたら、この満たしを経験しなかったでしょう。
足なえは、自分の生活は、主にある兄弟姉妹と助け合わなければ成り立っていかないと思いましたので、一緒に行ったのでした。

コリント人への手紙第I、12:13
13なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。

ひとつ御霊によりひとつ体となる事実をこの足なえは経験しました。回心によって、彼は一人だけで個人的な油注ぎ、聖霊の満たしを経験しなかったのです。彼は、回心して信者の群れに加わりました。
イエス様の体に加わり、頭なるイエス様より、体なる信者たちに下さる満たしに預かることができたのです。ほかの兄弟姉妹と共に満たされたのです。
聖書に書いてないですけど、ほかの信者たちは、この足なえによって大いに祝福されたということになったでしょう。なぜなら祈り会を始めたのも、足なえの癒しがきっかけだったのですから。

信ずる者の群れは満たされる所です。この満たしのうちにあって、初めておのおのの信者は満足される状態にあるのであり、この時はじめておのおのの方々が、おのおのの奉仕に預かっているということができるのです。
もし私たちが主に満たされて生活しているなら、もしこの私たちの群れに誰かが入ってくる時、その人もただちに満たされるようになります。
私たちは、このようにイエス様に満たされ、主が溢れ出るまでに満たされた者になりたいものなのではないでしょうか。




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