引用聖句:イザヤ書53章4節-6節
この6節の後半は、聖書全体の言わんとしてること言ってるんではないかと思うんです。主は私たちのすべての咎を彼に負わせた。 旧約聖書の内容とは何であるかと言いますと、どういう状況におかれていてもあきらめる必要はない。造り主なる神、支配者なる神が生きておられ、この神こそが、人間の救い主になる約束された救い主とは人間の罪の問題を解決するお方である。この約束された救い主について旧約聖書の中で333の預言の言葉が書き記されています。 この救い主とは、たとえばどこの町でお生まれになるのか、それからどういう奇跡をなすようになるのか、いかにして救いの道を開くようになるのか、そういうこと全部、細かく旧約聖書の中で預言されたのです。そして全ては預言通りになったんです。考えられないすばらしい事実です。 私たちは確かに神の存在を証明しょうと思ってもできません。いくら人間を納得させようと思っても無理です。けども聖書こそが、神の証明そのものではないかとはっきり言えます。 333の預言の言葉は全部、キリストを通して成就されたことは考えられないすばらしい事実なのではないでしょうか。一つの約束は、今読みました個所です。すばらしい預言です。もう一回読みましょうか。 イザヤ書53:4
約束された救い主 イザヤ書53:4-6
とあります。 主は私たちの全ての咎を彼に負わせた。今読みました個所を分けようと思えば三つの点に分けられるのではないかと思うんです。 第一番目は人間の悩みについて書かれています。 第二番目は神の啓示についても書き記されています。 第三番目は比類なき逃れ道について書き記されています。 人生の特徴とは一体何でありましょうか?人間は悩んでることではないでしょうか。人間はやっぱり悩むものです。 鳥は飛ぶものです。魚は泳ぐものです。人間は悩むものです。悩んでいない人間はいません。 もちろん自分に別に悩みがなくても、家族の中うまくいったとしても、結局親戚の中で、友人たちの中で、知り合いの人々の中で、悩んでる人々がいっぱいです。 今の個所で四つの言葉が出てくるんです。一つは病、もう一つは痛み、もう一つはそむきの罪、そして四番目は咎。 病があるから、痛みがあるから、そむきの罪があるから、咎があるから、人間は悩んでると言えるのではないでしょうか。 今の世界とは一つの大きな病院ではないかと言えます。なぜならば人間はみんな悩んでるからです。 一つの悩みの種とは確かに病であり、病気でしょう。人間は疲れてるものです。肉体的に疲れる場合別にどうでもいい、そのために神さま信じなくても結構ですし、一晩ぐっすり寝れば元気になるからです。 けども精神的に疲れれば、いくら寝ても、どういう薬を飲んでも、なかなか治らないものです。精神的に疲れている人々は非常に多いのではないでしょうか。 一番広がってる病気とは孤独ではないでしょうか。どこへ行っても人間だらけですけど、それにしても人間は孤独なんです。親しい友だちがいても、やっぱり人間の孤独とは、ちょっと違った種類のものです。もっと深いものです。心の病のいやしは主なる神だけが提供されています。 この間北海道で悩んでる一人の夫婦と二回目だったんですけども、会いまして二人とも精神病院に入っていたらしいし、医者の判断は分裂らしいんです。二人とも、そう言ってるんですけど、私は違うだろうと思ってたんです。 精神的に疲れ果ててしまってることだけであって、けども医者は結局どうしようもなければ分裂だと言うんです。もちろん神の目から見ると人間はみんな分裂です。程度の差だけです。けどもあの夫婦は、確かに疲れ果ててしまったし、もう希望がなかったし、喜びもなかったし、どうしたらいいかわからなかったですけど、この間本当に素直にイエス様の御名を呼び求めるようになり、顔の表情が一遍に変ったんです。 イエス様だけがあらゆる孤独から解放してくださるお方です。病い、それから痛みということばがでてきます。言うまでもなく、肉体的な痛みよりも精神的な痛み、心の痛みを持つことはもっとも苦痛でしょう。 ある人は、10年間の友がうそついて私を裏切ったと話したんです。一週間は食べ物はのどに入らなかった。理解できません、苦しいと言われました。友だちに裏切られることは確かにつらいことでしょう。 精神的に悩んでいる人々は数え切れないほどいます。病い、痛み、それからそむきの罪という言葉が出てきます。 そむきの罪とはおもに不真実です。愛を拒むことです。もし主人に裏切られるようになれば、あるいは子供に捨てられるようになれば、考えられない痛みなのではないかと思います。 病い、痛み、そむきの罪、四番目の言葉は咎という言葉です。 咎とは人間のわがままなんです。パウロは1900何10年前に当時の人間について次のように書いたのです。 「だれも(みんな)、自分自身のことを求めるだけです。」 聖書は時代遅れじゃないんです。現代人は不幸なんです。結局人間はどうして悩んでるか、どうして孤独になるのか、どうして満たされないかといいますと、みな自分のことしか考えないからです。 私たちが周囲を見ると、何か正常でないものが感ぜられるのではないでしょうか。国々の悩みこそがそれを物語っています。解決のできない経済問題、訴訟問題、精神病院、刑務所、家庭に起きる困難な問題がそれなんです。 それは正常ではありません。一体この世界は悩みと苦しみの世界になってしまったのでしょうか。パウロは次のように書いたのです。 「ちょうど、一人の人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類に広がったのと同様に、それと言うのも全人類が罪を犯したからです。」 結局初めの人間であるアダムとエバは悪魔に誘惑され、惑わされ、だまされてしまったから、今の世界はこういう悲しみに満ちたものになってしまったのです。私たちもみんなアダムとエバの子孫ですから、結局あの二人のために私たちは今日まで悩まなければならない。」と聖書は言ってるんです。 神の判断とは義人、正しい人はいません、一人も。善を行なう人間はいない、一人もいない。これは全てを知りたもう真の神の判断です。ですから人類をながめると誰かがすばらしい完成された日にインクをぶちまけ、全てがだめになったように思われます。 すばらしい交響曲の真っ只中に、全てを壊し滅茶苦茶にするひどい音をゆるぐかのように、その状態に思われます。 人間はわがままであり、自分の知恵また力に頼り、気ままに行動し、もはや創造主なる神に尋ねることをしない。だから結果として人間は羊のようにさまよう者になってしまったとイザヤは言ってるのです。 人間はおのおの自分勝手な道の向かう者になってしまった。だからこそこの世界は大きな病院になってしまったんです。 人生の特徴とは病いであり、痛みであり、そむきの罪であり、また咎であると書かれています。けど毎回、ただ単に病とか、痛みとか、そむきとか、罪とか書いていません。いつも私たちということばが付いているんです。 私たちの病い、私たちの痛み、私たちのそむきの罪、私たちの咎と書かれています。 どうしてであるかと言いますと、誰でもが含まれているからです。例外なく人間は悩んでる者であるということです。だれでもが病気であり、悩んでいるものであり、そむきの罪、また咎を犯す者であるからです。 確かに多くの人々はそれを認めようとしないけども、認めても認めなくても事実は事実です。多くの人々は自分の病気を知りません。平気な顔をして毎日過ごすんです。病気が発見されたら、結局痛みを感ずるようになってから、手遅れだと聞くとペチャンコになるのです。 私もすでにガンになってるかも知れない、まだ感じてないことだと言ってるんです。だから平気な顔をして過ごすんです。大体そういうものなんです。 人間はみんな例外なく精神的に悩んでる。みんな例外なく苦しんでる。結局みんなは孤独なんです。満たされていない。人間は絶えざる喜びを知りませんし、真の心の平安を持っていない者です。 ですから6節に、みなということばが出てきます。「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分勝手な道に」、もちろん聖書の言われている罪とは人間の行いと関係なし、人間の神から離れてる状態を指す言葉です。 日本語を見ると罪という言葉が出てきますけど、それは単数形か複数形かわからない。文法的に日本語は非常に曖昧なことばなんです。一番専門家の話によると、言葉は2000いくつかあるらしいんです、この世で。 けど一番正確な、文法的な、100%正確な言葉は二つしかないらしいんです。ギリシャ語とヘブライ語です。 旧約聖書はヘブライ語で書かれているのであり、新約聖書はギリシャ語で書かれてるのです。それも偶然じゃないんです。原語を見ると単数形と複数形との罪とは、もちろんはっきりと区別されています。 人間の考えてる罪とは全部、複数形の罪だけなんです。すなわち人間の犯す罪です。誰でもがうそをつくことがあるでしょうし、誰でもが怒ったことがあるでしょうし、愛のない態度をとったことがあるでしょうし、これら全部、複数形の罪です。 本当の罪の結果は、荷のようなものにすぎないのです。 けども神の問題にしているのは複数形の罪じゃないんです。単数形の罪なんです。 単数形の罪とは神から離れてる状態をあらわしているのです。そして1秒前に生まれた赤ちゃんであっても、百歳になった老人であっても、人間は神から離れているものです。だから罪人です。罪を犯したからじゃないんです。 1秒前に生まれた赤ちゃんは罪犯さない。けどそれにしても罪人です。どうして?罪人の間にできたものだからです。かえるはかえるです。ワニの子はワニです。罪人の子は罪人です、当たり前。 私たちはアダムとエバの子孫ですから、仕方がなくて罪人として生まれたんです。それはわれわれの所為じゃない。ですからそのために人間は滅びません。 罪人として生まれたから、過ちを犯したから、地獄だとこれは宗教的な考えです。聖書的じゃないです。もし人間がそのためにだめならば、神はひどい。けども聖書はそう言ってません。 どういう人間が一番だめになるかといいますと、意識して死ぬまでに神の前に絶対に頭下げません。自分のわがまま絶対に認めようとしません。何があっても正直になれません。救われたくない人は、救われたくない。こういう態度をとる人は結局だめになると聖書は言ってるんです。 けどこれは神の所為じゃないです。人間の所為です。そういう人はもちろんいますし、何人いるのかちょっとわからないけど、私は個人的として、まだ一人も会ってないんです。 ですから病院行くのはちょっと楽しいんです。重病人に会うといつもうれしくなるんです。どうしてかといいますと、いくら頑固な人であっても、今まで「ヤソ教いやだー。黙れ。」と言う人であっても、死ぬ前に子供のようになっちゃうんです。正直になります。素直になります。 「神様、わがままだった。ごめん。」そういう気持ちになっちゃうんです。そういう気持ちになればもう安全だ、必ず全滅です。聖書の知識があってもなくても関係ない。神の要求しているのはそれだけです。 変なことを要求するのは人間です。「聖書勉強しなさい。いい子になりなさい。ああしなさいこうしなさい。」それは人間の考えてることなんです。 聖書の言ってることは違う。ですから人間は罪人として生まれたから、過ちを犯したからだめになるのではない。救われたくないからです。 天国へいけない人は、結局天国意識して行きたくない人ばっかりなんです。 罪とは、神から離れてる状態を表す言葉です。神なしに生活することも、もちろん罪であると聖書は言ってます。 けども、このイザヤ書の中で人間の悩みについて、人間のちょっと解決できない罪の問題について書かれてるだけではなく、第二番目に神の啓示についても書かれています。 4節に「神」ということばがでてきます。6節に「主」ということばがでてきます。もちろん神とは主です。主とは神です。この主なる神は初めのない終わりのない永遠のお方です。 永遠とは何でしょうか?もちろん神です。神とは何でしょうか?永遠です。 結局ピンと来ないんです。つかめません。神を理解できる人間はいない。いくら聖書勉強しても、人間は自分のみじめさを感ずるとありがたい気持ちを持つようになり、神を信ずるようになり、神の救う力を経験することができますけど、神を理解しようと思っても無理です。 神とはもちろん無宗教です。 ある人々は変なこと言うんです。真の神は実はキリスト教の神です。仏教の神じゃないと言うんですけど、それもちろん的はずれ。 キリスト教だって、仏教だって人間の造った宗教でしょう。 神は無宗教です。宗教と関係持ちたくないお方です。 もしイエス様が今日、この世に来るようになれば、100%あらゆる宗教を否定するようになります。 一番否定される宗教は、もちろんキリスト教です。当然です。 当時イエス様のこと一番憎んだ人々とは、みんな神を信じ、聖書を徹底的に研究した聖書学者たちだったんです。 結局彼らは、「われわれは聖書勉強した。神のこと知ってる、理解した。」と思い込んでしまって、傲慢になって結果としてめくらにされてしまったのです。 真の神とは無宗教です。宗教を受け入れないお方です。 なぜならば宗教の要求してることと、神の要求されてることは全く違うからです。 宗教は、「勉強しなさい。理解しなさい。必死に勉強すればわかるもんだ。」と、それは宗教の言ってることです。うそです。聖書に書かれてることはピンこないことばっかりなんです。理性でもってつかめないことばっかりなんです。 それから宗教の言ってることは、「頑張なさい。立派になりなさい。」、うそ!夢の世界だよ。人間は立派になれません。 けど神は、「立派にならなくても結構。私のところにきなさい、あなたのできないことは私はできる。」、主は呼びかけておられます。 あなたのたましいはどんな医者に見せても治らないような、からからに渇いた土地のような渇きを持ってるのでしょうか? イエス様は、だれでも渇く者は私のところ来て飲むがよいと呼び掛けておられるんです。一日は失望と誘惑と試練に満ちていて、あなたの目の前は真っ暗闇でしょうか? イエス様は、私そのものは世の光です。私に従がう者は闇の中を歩くことがなく、いのちの光をもつと約束しておられるのです。 あなたのたましいが罪で汚れているのに驚き、このたましいが聖められるのかどうかと疑ってるのでしょうか? イエス様は、「私のところに来なさい、私に呼び求めよ。たとえあなたの罪は緋のようであっても雪のように白くなる。」と約束しておられます。 このようなみことばによって、約束によって、主なる神が自分自身を明らかにしておられるのです。 このイザヤ書の中で人間の悩みについて、神の啓示についてだけではなく、比類なき逃れ道についても書き記されています。 主なる神によって備えられた比類なき逃れ道とは、もちろん一つの宗教ではありません。道徳でもないし、一つの教えでもありません。彼なんです。彼と言うことばは、何回も何回も何回も出てきます。彼とはもちろん約束された救い主であります。十字架につけられたイエス様であります。 ですから、このイザヤ書53章の中に出て来る彼という言葉は、6回も出て来る言葉ですけれども、彼の代わりに十字架につけられた主イエス様と入れたほうがわかり易いのではないでしょうか。ちょっとこういうふうに入れましょう。 まことに、十字架につけられた主イエス様は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。十字架につけられた主イエス様は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。 しかし、十字架につけられた主イエス様は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。十字架につけられた主イエス様への懲らしめが私たちに平安をもたらし、十字架につけられた主イエス様の打ち傷によって、私たちはいやされた。 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を十字架につけられた主イエス様に負わせた。 となります。 聖書の救いとは、すなわち贖いです。罪の赦しです。最後の問題は解決されなければ、真の救いはあり得ません。罪の支払う報酬は死であると彼は判断したのであります。罪を犯したたましいは、必ず死ぬと聖書は言ってるんです。刑罰は背負われねばならないと言うことになります。 たとえば泥棒が自分の過ちを正直に告白したら、それはもちろん十分じゃない。警察官はあなたは正直に認めたからいいよ、帰っても結構ですと絶対言わないと思うんです。裁判官はそのような態度とろうと思ってもとれません。 自分の子供がやってもとれません。刑務所に入ってる人は後悔したら、それで決して十分じゃない。刑罰を受けねばならない。刑罰を済ませてはじめて自由の身となります。 だから裁判官の同情だって役に立たない。裁判官があの犯罪人をいくら愛していても、理解することができても、それは結局役に立たない。刑罰を済ませることのみが、救うのであると聖書ははっきり言ってるのです。 結局、神の義は死の判決の執行なしには罪を赦すことができない。そうすると罪人だって死なねばなりません。けど主なる神の愛は罪人が死ぬほど欲しくない。 神の愛は罪人を救いたいと切に望んでるのです。けど神の愛と神の義とは、どんなにしてお互い一つになることができるなのでありましょうか。主なる神の愛は世界がはじまる前、すなわち人間に罪が入り込む前にその答えを見出したのです。 聖書の中で、この世界が造られる前に「ほふられた小羊」という言葉を使ったのです。 結局人間は罪人にならないようにと、神が思ったならばできたはずです。当然です。人間を造る前に、悪魔を滅ぼしたほうがよかったんです。そうすれば人間は誘惑されなかったし、惑わされなかったんです。神はどうしてそうしなかったかわからない。死んでからイエス様に聞きましょう。今いくら考えてもわかるもんじゃないんです。 けども結局、罪の問題起こる前に神ははっきり救いの道を備えてくださった。キリストは世界が造られる前に、ほふられた小羊と呼ばれるようになったのです。すなわち人間の罪の問題を解決するお方と呼ばれたんです。 結局考えられないことが起こったのです。主なる神ご自身はひとり子なる神、すなわちイエス様に刑罰を背負わせたのです。それは罪人が自由の身となり生きるためです。これこそが救いの驚くべき秘密であり、ゆるぎない逃れ道です。 パウロはこの事実について次のように書いたことがあります。 ローマ人への手紙8:32
例外なく ローマ人への手紙8:32
とあります。結局「神が御子をに死に渡された。」とあります。 もっとひどいことはあり得なかったと思います。人間はひどいことするかも知れないけど、神のなさったことはずっとひどい。考えられないほどひどかったんです。罪のない、全く聖い、罪を犯す可能性を持っていなかったイエス様は死に渡されてしまったんです。 罪のないイエス様は全人類のための代表者として、人間が受けるべき天罰をお受けに行ったのです。罪のないイエス様の上に、この全人類の罪をおきました。 どんな重荷だったのでありましょうか?もしどなたか間違って訴えられ刑務所に入るようになれば、確かにそれは大変な問題だと思うんです。一人の人間が一つの罪の代わりに罰せられることは考えられない重荷でしょう。 けどもイエス様は全ての人間の代わりに罰せられたんです。全ての人間の過ち、わがままを犯した者として取り扱われたのです。結果として死に渡されたのであります。あんまりひどいから、ちょっと考えられません。 罪を知らない聖なるイエス様は、全ての罪、過ち、わがままをご自身の上に背負われたのであり、生まれた全ての人間は結局イエス様の死の原因です。罪を知らないイエス様はわれわれの代わりに死を背負われたのです。イエス様の上にわれわれの罪をおかれたのです。 このイザヤ書53章4節から6節まで、10の事実について書かれてます。すなわち十字架につけられたイエス様は、 私たちの病いを、もうすでに負ったのであり、 私たちの痛みを、もうすでにになったのであり、 私たちの代わりに、もうすでに罰せられたのであり、 私たちの代わりに、もうすでに打たれたのであり、 私たちの代わりに、もうすでに苦しめられたのであり、 私たちの代わりに、もうすでに十字架の上で刺し通されのであり、 私たちのために、もうすでに砕かれたのであり、 私たちのために、もうすでに懲らしめられたのであり、 私たちのために、もうすでに打ち傷を持つようなったのであり、 また、私たちのために、われわれのすべての咎が彼の上に、負わせられたのである。 と、ここで書かれています。 人間は例外なく苦しめられること、刺し通されること、砕かれることを避けたいのではないでしょうか。「いいよ。苦しんでもかまわないよ。」、と思う人間はいないと思います。 マタイの福音書の中で、27章27節の2〜3ヶ所お読みします。有名なマタイの受難曲の中に出てくる言葉なんです。 ヨハン・セバスチャン・パッハはこの曲を作った時、あんまり食べようとしなかったらしいんです。奥さんは、ご馳走作って呼んでも来ない。彼の部屋に運んで行っても食べたくなかったようです。彼は聖書の前に平伏して、泣きながらこのマタイの受難曲を作ったらしいんです。 マタイの福音書27:27-31
マタイの福音書27:39-44
ご存知のように、一人の強盗は後で心の態度を変えて救われちゃったんです。一つの考えられない奇跡です。どうして態度を変えたかわからないけど、やっぱりイエス様の※だと思うんです。 イエス様は自分を殺した人々のために祈ったんです。「父よ。彼らの罪を赦して」、普通の人間にはできないことです。結局彼はわれわれと違う、このイエス様は。われわれは自分の犯した罪のために、こういうふうに死刑になっちゃったけど、彼は違う。 ですから、彼は一文章だけ祈って救われちゃったんです。「主よ。イエス様、黄泉の国に入れば私のことを思って・・・ (テープ A面 →B面) ・・・おお、天国だ、考えられない事実です。けども彼は必ず安心して、希望を持って死に向かうことができるのです。 彼はいわゆる聖書の知識を持っていなかったんです。イエス様は彼に知識を与えようとしなかったんです。いいチャンスだったんです。相手は逃げられなかったからです。十字架につけられていたからですけど、イエス様は何かを教えようとしなかったんです。 人間は一つの教えによって救われないからとわかったからです。大切なのは心の気持ちです。あの犯罪人の心の気持ちは正しい気持ちでした。「私は駄目な者だ、もうおしまいです。イエス様が恵んでくださらなけらば見込みがない。だから私を子どもにして。」、と言ったんです。 イエス様は、あなたも都合がいいでしょ、今日私と一緒に天国に行く約束をしてくださいました。 十字架につけられたイエス様とは、確かに考えられないほど悩んだのです。聖書は何て言ってるかといいますと、ガラテヤ人への手紙3章13節ですけれども、次のように書かれてます。 ガラテヤ人への手紙3:13
木にかけられる者とは十字架につけられることを意味してるのです。十字架につけられる者は、すべて例外なくのろわれた者ですと聖書は言ってます。イエス様も十字架につけられたのです。従がってイエス様ものろわれた者、神によって捨てられた者になってしまったのです。 どうしてでしょうか?ここではっきり書かれてます。自分が過ちを犯したからじゃない。自分のわがままのためではなかった。私たちのためですと書いてあります。 キリストは私たちのためにのろわれたものとなった。われわれのような者のために、イエス様はのろわれても結構、捨てられてもよろしい、殺されてもかまわないという態度をお取になったのです。 パウロは、神は、罪を知らない聖なるイエス様をわれわれの代わりに罪の固まりにされてしまったと書いてあります。悲劇そのものです。あんまりひどいから人間の言葉でもって言い表せない、考えられない。 私たちは、聖い、罪を知らない、全く聖なるイエス様が、人類の罪を背負い神を退けた刑罰をお受けになったということを、いくら考えてもちょっと考えられません。ピンときません。 いのちの君と呼ばれていたイエス様は殺されてしまった。死の確かなしるしは、すなわちもし血が流される時、いのちはなくなるというところにあります。人は生きてるかどうか確かな証拠は、もし血がなければもうだめだとはっきり言えます。 昔のお医者さんたちはちょっとおかしかったのです。昔の本読むとわかります。どなたか重病人になったとき、医者は血を抜いたんです。血を抜くと人は元気になると100%信じてしまったのです。アメリカの有名な大統領はこういうふうに殺されてしまったのです。 ちょっとだけ風邪引いたんです。ノドが痛くなって。そしてやっぱり心配している医者は助けようと思って、全部で4リットルの血を抜いたんです。それで死んじゃったのです。当然のことです。 健康人4リットルの血抜くと死んじゃう。終わり。当然です。結局当時のお医者さんたちは聖書だけ読んだならば、そんな馬鹿らしいことしません。 聖書の中で、血の中にいのちがあるとはっきり書いてあるんです。血がなければいのちがない当然です。イエス様の流された血潮は何を意味しているかといいますと、イエス様は実際に亡くなったのであるということです。 死の確かなしるしは、結局血がないということです。与えられたいのちのしるしは流された血潮です。だから私たちはイエス様の流された血によって、罪の赦しを得るのです。血潮は執行された死刑のしるしです。執行された裁判のしるしです。 ですから聖書の中で、この事実を非常に強調してるのです。 宗教は何を強調するのかやっぱり勉強しなさい。ただ「主よ。主よ。」、信じ込めばそれでけっこうです。とんでもない。 聖書の言ってることは、血を注ぎ出すことがなければ罪の赦しはない。ヨハネは喜びをもって何を書いたかと言いますと、 ヨハネの手紙第I、1:7
これこそが聖書の喜びのおとずれです。 イザヤ書に戻りまして、53章4節、5節に面白い表現が書かれています。すなわち「私たちは思った。しかし、われわれは信じ込んでしまったけど」という言葉です。4節からもう一回読みましょう。 イザヤ書53:4
すなわち十字架につけられた主イエス様は、 イザヤ書53:4
自分の過ち、自分のわがままのために罰せられ、神に打たれた。 しかし彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、結局われわれの代わりに刺し通され、天罰をお受けになり、私たちは思った。しかしそれはとんでもない思い違いだった。 私たちは確かにそう思ったんだけど、今私たちは本当のことを知るようになったんです。すなわちイエス様への懲らしめが私たちに平安をもたらし、イエス様の打ち傷によって、私たちはいやされた。 イエス様の代わりの死を通して、私たちの罪は赦されている。われわれは、神との平和を持っている。われわれは永久的に救われてるということです。 ペテロは、このイザヤ書の個所を引用して次のようの書いたのです。 ペテロの手紙第I、2:24-25
救いとは一体何なのでしょうか?二年前だったと思うんですけど、沖縄の帰り道でちょっと鹿児島行きまして、飛行機の近くにある、姶良というところで家庭集会持つようになったんです。 第一回目だったと思うんですけど、集会終わってから一人の悲しそうな奥さんは、「救いとは何ですか?救われたい。」と言ったんです。 若いのにそんなに悩んでるのか、とちょっと思ったんですけど、彼女の質問とはやっぱりもっとも大切なのではないかと思ったんです。救いとは何でしょうか?どういうふうに救われたいなのでありましょうか? いろんな話を聞いたところ、結局ご主人は二年前に亡くなったのです。会社も倒産してしまったし、そして彼女は子供三人と結局頑張らなければならなくなったんです。普通のスーパーで働くようになり、もう精神的に疲れ果ててしまったんです。 ご主人は死ぬ前にどこかの教会の牧師さん飛んで来て、ご主人意識不明だったんですけど、洗礼を授けたんです。異例なことです。それであの牧師は何と言ったかと言いますと、 「ご主人は今洗礼を受けたから天国です。あなたは今洗礼を受けなければ地獄だ。」彼女はもちろん考える余裕がなかったし、やあ、先生お願いしますと言ったんです。洗礼受けたんです。 その後あの牧師は一回も尋ねようとしなかったし、どうですか心配しようとしなかった。ひどいんです。キリスト教はそういうもんなんです。ひどい。 結局彼女は救いとはなに?どういうふうに救われていないのでしょうか?と尋ねたんです。 彼女も結局イエス様に頼るようになったのです。そのとき、この今読みました24節、25節も読んでたんです。彼女とは、救いとは何かと言っていた時、ちょうどこの個所を思い出したんです。 救いとは、キリストの打ち傷によっていやされることです。洗礼を受けることじゃないんです。キリスト教に入ることでもありません。キリストの打ち傷によっていやされることです。すなわち罪の赦し、神との平和を自分のものにすることです。 もしさまよっていた羊は、たましいの牧者であられる主のもとに帰ると救われます。 十字架の上で死なれた、主イエス様の流された血潮の中には、どんな力があるのでありましょうか? 地上と天においても、今まで罪が全然なかったかのように、その罪をぬぐい去ることのできる方、一つの力です。この血潮は、主なる神さえ見ることができないほど、きれいに罪をぬぐい去る驚くべき力を持ってます。 イエス様は罪の大きな債務のために、その支払いとして、ご自身の血を与えられました。だからこそイエス様は権威をもって、よく次のように言うことができたのです。 マタイの福音書9:2
イエス様の口からこの言葉を聞いた人々の人生は、一遍に変えられたんです。キリストはうそつきじゃない。イエス様は自分の約束守るお方です。赦されたと確信することができたからです。 いかに深く罪の中に落ち込んだとしても、またその傷がただれても、いかにその傷が見にくくても、イエス様の血潮によっていやされる可能性があります。 イザヤ書の中で、非常に素晴らしい言葉が書かれてます。1章18節です。よく読まれる個所なんです。新約聖書の神の呼びかけは、「来なさい。」ただ、そういう呼びか掛けですけど、旧約聖書の呼びかけとはもちろん同じ呼びかけです。 神は今日も、昨日も、いつまでも変らないお方であるからです。 イザヤ書1:18
これは神の呼びかけであり、素晴らしい約束ではないでしょうか。43章25節に同じような言葉が書かれてます。 イザヤ書43:25
永久的に忘れる。44章22節、同じ言葉が書かれてます。 イザヤ書44:22
主の呼びかけとはこういう呼びかけです。 結局神は人間から何にも要求なさいません。努力しろ、立派になれじゃないんです。主は、あなたのそむきの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った。これは過去に行なわれた事実です。信じても信じなくても、認めても認めなくても、結局主は救いの代価を払ったから、だから「私に帰れ」と呼びかけておられるのです。 「私に帰れ、私はあなたを贖ったからだ。」ここで複数形じゃなくて、幸いに単数形になってるんです。結局一人一人は、主によって大いに愛されてるのであり、一人一人のために代価を支払っていてくださったのです。 主なる神は、私たちのすべての咎を十字架につけられたイエス様に負わせたからこそ、われわれはあきらめる必要はない。だからこそ私たちは、安心して主に近づくことができるのです。 主は、「私のもとに来なさい。私は休ませてあげます。」「罪を赦します。」「絶えざる喜び、生き生きとした望みを与える。」と約束してくださるのです。 |