司会から、 みなさん、おはようございます。 当家の家庭集会を「深大寺家庭集会」というふうに呼ばさせていただいております。 そして、それの第1回目をただ今より始めさせていただきたいと思います。 今日の日にちについてはですね、3月15日八王子の家庭集会の最後の時にお話させていただいたかと思いますけれども、実は、今日の「6月28日」は、私たち夫婦の、洗礼を受けて21年目なんですね。 そして、私の私の左手左足の代わりに、主はこの家を、私たち夫婦に与えてくれました。 それで今、またここにおいて主を賛美する集いを持てるっていうことが、とっても私たち夫婦にとっては、幸いなことだと喜んでおります…。 昨年の12月25日に、脳梗塞という思いもしない病に倒れまして、日赤病院でその後1ヶ月治療を受けまして、2月の中ごろから長野県の鹿教湯というところでリハビリを行なっておりまして、4月20日、その鹿教湯を退院して、そろそろ5月頃から社会復帰という段取りを考えていたんですが、実は、5月のキャンプに参加すべく御代田に行きました時に「ツルヤ」というスーパーがありますけど、あそこで5月3日に下血を起こしまして、再度、佐久総合病院というところに緊急入院いたしまして、約20日間入っておりました。 5月20日に無事に退院しまして、こちらの深大寺の方に戻ってきたわけですけども、私が、鹿教湯に入院している間、家内が5月の11日に八王子からこちらの方に越してまいりまして、私は越した後の八王子は一度しか見てないんですけども、この「調布」「深大寺」といいますのが、実は私たち夫婦がはじめて世帯を持ったところで、そして、二人の子どもが与えられて、そして家庭が崩壊の危機に瀕した時にですね、私たちは八王子の方に新しく家庭を再建しようということで越したんですけども、そこで主と出逢うことになったわけです。 それで私たち家族が八王子で、主とともに25年間生活して、主が「もういいだろう」ということで、八王子からここの調布の方に、私たち夫婦だけではなくって、息子夫婦も含めて、この一帯に3家族を住まわせるようにしておられます。 主のご計画が、どこにあるのかわかりませんけども、主が、私たち夫婦、それから息子家族を通して、「主が生きておられる」っていうことを私たちに示してくださっているのではないかなというふうに思っております。 何もできるわけではないんですけども、主がほんとに私たちに恵んでくださっている、そのお礼…といってはおこがましいのですけども、主のためにできることは、これから何でもさせていただければというふうに思っております。 先週は、半年振りに、九州の宮崎の当番に行ってきまして、ほんとに半年ぶりなんですね... 私が倒れる前の12月22・23日が、ちょうど宮崎の当番で行っておりまして、帰って来た翌々日ですか、入院したんですけれど、同じ22・23日ですね、今回も宮崎行って、ほんとに祝福された交わりを、かの地の兄弟姉妹共々、できたんですけれども…。そういうことで、今日は1回目の深大寺家庭集会をこうやって持たさせていただいて感謝です。 そして、発病以来、集会の兄弟姉妹ほんとに親身になって、お祈りしてくださって、そしてお見舞いくださって、みことばくださって、ほんとに痛いほど兄弟姉妹の思いが伝わってくる経験をさせていただきました。 ほんとにありがとうございました。 こんな私たちですけども、これからも主のため、集会のために生きられれば幸いというふうに思っております。 時期尚早かもわかりませんけども、今度「羊の家」という集会の兄弟姉妹が建てる新しい会社を創りまして、その中の一つが、ここが「ギャラリー羊の家、深大寺」というその3つのギャラリーのうちの1つに、7月からなる予定でございます。 そして、ここに今、掲げられているのが松本の兄弟の水彩画が主体ですけれども、あと御代田にあります、別荘の方で、あれも「ギャラリー羊の家、西軽井沢」ということ。そしてもう1つ、松本の方にですね、「アトリエ羊の家、安曇野」という同じようにギャラリー形式のものを建てあげることで進めております。 そこを通して、「羊の家」という会社が何をするかといいますと、世間一般に対して、これからの高齢化社会に向かって、要するに「人間が幸せになるのに必要なものを提供していこう」ということがこの会社の基本的なコンセプトなんですね。 そして、それには住環境ですとか、心の信仰の問題ですとか、そういうものに関わるものを、この会社が世間に提供していこう、ということで集会の兄弟たち何人かと一緒に、今ずっとその話をさせていただいております。 ですので、ここの場所は常時オープンになってますので、絵をご覧になりがてらいつでもお越しいただければというふうに思っております。 今日は、ヴァイオリンを弾く姉妹が来てくださって、一曲賛美をしていただくことになっております。 それではユーモレスクを賛美してもらいます。 ここからベック兄のメッセージ 引用聖句:ヨハネの黙示録5章12節-14節
今、愛する兄弟は、「今日は賛美の集い」と言われました。主イエス様を礼拝するための集いなのではないかと思います。 もちろん今の世で人間だって、いくら礼拝しても、今より増した将来の礼拝について考えると比べられない。 バイオリンの姉妹はうまくひいたんですけど・・・、(^^)。けどもおそらく完全ではなかったと思う。素人であるわれわれはちょっと判断できない。 けども、どうして彼女はうまく弾いてるかといいますと、練習しないとできません。けども、天国で数えられない多くの人々は、練習せず(^^)みなうまく歌ったり、弾いたりすることができます。全部完全だからです。指揮者もちろん必要ないよ。 結局、今音楽あんまり好きでない人もね、天国行くともう歌いたい気持ちでいっぱいです。その礼拝の中心なるお方とは、もちろん十字架の上で犠牲になられたイエス様です。イエス様は、生きておらるる。 ま一昨日でしたか、まだドイツだったんですけども、(アウトトドーリスペア?)から、ちょっと最後の挨拶としてのFAXをもらったんです。 彼は、ちょっと山の上に住んでいて、谷にいる人の大きな声がやっぱり聞こえます。そして、ご存じのようにサッカーのことで、もうめちゃくちゃです。 みんな夢中になって、ゴールインになると何万人の人々は叫ぶんです。ちょっと考えられない。 けども、主を知らない人々が、この世のために叫ぶと、われわれは、もっともっと叫ぶべきじゃないですか。 「主は生きておらるる!主は勝利者です!主は支配者です!」 と考えると、ほんとに喜ぶべきなのではないかと思います。主は、生きておられます。 今、兄弟も言われましたように、ちょうど今日の21年前に、お二人は、その時の吉祥寺で、自分の上から与えられた信仰を、公に証しするために、水のバプテスマを受けたのです。結局、 「イエス様を知るようになったのはありがたい。助けになった。けど、今からこそ、イエス様に従いたい。イエス様をよりよく知りたい。」 とお二人は思うようになりました。 確かに去年の12月25日、ちょっと理解しにくい、面白くないクリスマスプレゼントをもらったんです。脳梗塞で倒れた。もしイエス様を知らなかったならば、もしかすると、今もう生きてないかもしれない。 少なくともぺっちゃんこになって、もう生きる勇気がないし、喜びもないし、平安もない。もちろん目的もないでしょう。 けども、イエス様を知るおかげでやっぱりいろいろなこと理解できなくても、「主は生きておられる。主は最善をなすお方である。」とお二人は告白することができるのは、ほんとに素晴らしい。だからこそ、今日の集いも喜びの集い、賛美の集い、主イエス様を礼拝するための集いであります。 今朝も、遠くから姉妹がみえてますけど、結局自分の息子のことで、「祈ってください。今回青梅の集会で出るようになると思うんですけども。」、姉妹も、身体が不自由になり、杖なしに歩けなくなっちゃたし、やっぱり大変ですけども、姉妹は、今日もらった手紙の最後で、何を書いたかといいますと、 「すべてを感謝しています。」 すべては、すべてです。理解できてもできなくても関係ない。「すべてを感謝する。」と言える人は、幸せなのではないでしょうか。 人間にとって、最も大切なのは、主イエス様を知ること。そして、「よりよく知りたい。もっともっと用いてもらいたい。父なる神に栄光を受けてもらいたい。」、そういう切なる願いなのではないでしょうか。 私たちの持ってる聖書とは、もちろん招きの言葉です。主はいつも「おいで〜、いらっしゃい。」と呼びかけておられます。 「すべて疲れた人、重荷を負ってる人はわたしのところに来なさい。休ませてあげます。」 「ああ、渇いてる者はみな水を求めて出て来い。金のない者も、さあ、穀物を買って食べよ。 さあ、金を払わないで穀物を買い、代価を払わないでぶどう酒と乳を買え。」 またイエス様も、エルサレムで行なわれた祭りの最後の日、次のように叫ばれたのです。 ヨハネの福音書7:37
渇いていなければ、もちろん来なくてもいい。来る必要はない。 ある中学の先生は、卒業生を自分の家庭集会に招いたのです。そして彼は、あの学生たちの永遠の幸せのことを考えてみんなを誘ったんです。彼らは自己紹介の時、やっぱりいかにしてあの先生を尊敬してるのか、愛してるのかと、やっぱりわかったんです。 そして彼は最後に何と言ったかといいますと、「今から何の問題もなければ、来なくてもいいよ。」、そうしたら決まりだよ。来ますよ。ね、問題を知らない人はいないからです。 結局、聖書の呼びかけもそういう呼びかけです。「渇いてればおいで。疲れてればいらっしゃい。」そういう呼びかけです。聖書の一番最後のヨハネの黙示録の22章に ヨハネの黙示録22:17
欲しくなければ結構です。けども人間はやっぱりみんな、永遠に残るもの・永遠に存在するものが必要です。 ヨハネの福音書の中で、ある婦人についていろいろなこと書いてます。彼女はイエス様に次のように言ったのです。 ヨハネの福音書4:11
イエス様は「わたしの与える水とは、あなたの考えてる水と全く違う。わたしの提供する水とは、だれでも渇かない。」そして彼女は ヨハネの福音書4:15
彼女は頼んだからもらったんです。 彼女は確かに人間的に考えれば可哀想な女性でした。5回も結婚して、5回も離婚して、それで一緒に住んでいた人とは別の人の夫だったんです。結局彼女はもう精神的に疲れ果ててしまったんです。 けども、イエス様を知るようになってから、彼女は「赦された」とわかるようになっただけじゃなくて、イエス様を紹介する者になり、彼女を通して多くの人々は導かれ救われるようになったのです。 それで、彼女はある意味で礼拝の大切さを知るようになりました。 ヨハネの福音書の4章の20節ちょっと見てみましょうか。ヨハネの福音書4章の10節。 ヨハネの福音書4:20
すなわちサマリヤ人たちのことなんです。 ヨハネの福音書4:20
結局、彼女はそれを聞いたし信じていたのです。 ヨハネの福音書4:21-22
知らないで礼拝するなのは、単なる形式的なことで、一つの芝居だといってもいいかもしれない。 ヨハネの福音書4:23-24
「霊」とはもちろん御霊であり、聖霊です。「まこと」とはイエス様ご自身です。「わたしは真理そのものである」と、イエス様ははっきり言われたのです。御霊とイエス様無しの礼拝は、全く意味のないものです。 けども、聖霊に導かれて、イエス様に導かれて、父なる神を礼拝する者はほんとに幸せです。イエス様を知り、イエス様の前にひれ伏し、また「自分の理解しがたい悩みは、主のせいであり、主の道である」と認めた人は、礼拝に導かれます。 イエス様は、霊とまこととを持って礼拝するまことの礼拝者を、たずね求めておらるると、このヨハネの福音書4章を通してはっきり知ることができます。 もちろんそれだけでなく、私たちの生涯、私たちの全生涯は、主に対するまことの礼拝そのものであるべきです。 「すべてを感謝しています。」と先程の姉妹は言われたのです。ま、「礼拝」とは結局それなんです。 イエス様の弟子たちは、イエス様を礼拝するようになったと聖書は言ってます。 たとえばマタイの福音書の14章、26ページ。24節から27節までお読みいたします。 マタイの福音書14:24-27
この箇所を見るとわかります。イエス様の弟子たちは、嵐の真っ最中、海の真ん中に出ていて荒れ狂う波を如何ともすることができないでいました。 そこへもっていって、ヘンな姿が現れました。だから弟子たちはなおさら恐れおののきました。彼らは「幽霊だ」と叫んだと聖書は言っています。 けどもこれは幽霊ではなかったんです。主でした。すべての背後に支配したもう主ご自身でした。 マタイの福音書14:27
この言葉でもって、イエス様は自分自身を明らかにして、啓示してくださったから、弟子たちは主を知ることができたのです。 イエス様を知ることこそ、主に対する礼拝のもとであります。主を知らない人は本気になって礼拝することができません。 マタイの福音書14:33
「礼拝した」とあります。すべてを感謝する、そういう気持ちでいっぱいになりました。 歴代誌第IIの33章を見ると次のように書かれてます。10節から13節までです。 歴代誌第II、33:10
もうこれは、悲劇そのものです。彼らは聞こうともしなかった。主は語ったけど、「結構です。」という態度とったのは、イスラエルの民でした。 歴代誌第II、33:11
主は、導いた。 歴代誌第II、33:11
全部、主のせいだった。もちろん主のせいよりも、彼らは聞く耳がなかったから、祝福することができなかった。 歴代誌第II、33:12
ごめんなさい、悪かった、だけじゃなくて、「大いにへりくだった」。 歴代誌第II、33:13
前から知っていた、適当に。けど今回、やっぱり「主は生きておらるる!主にとって不可能なことはない。主は最善をなすお方である。」と彼は、今までよりもずーっとよく知るようになりました。 このマナセという王様は、如何にして主を知ることができたなのでしょうか。いろいろな苦しみを通してです。 彼は敵によって鉤で捕らえられ、青銅の足かせでつながれて、バビロンへ敵の国へ引かれたのです。悩みを通して理解しがたい導きを通して彼の心の目が開かれました。そして、マナセは主こそ神であると体験的に知るようになりました。 私たちは、いったいどういうふうにまことの礼拝者となることができるなのでしょうか。 「主なる神が私たちの天のお父様であり、また私たちはこの偉大なる主の子供である」という知識を持つことで十分です。私たちは、主をすべてを支配しておられるお方として、知る必要があります。偶然はない。主を知ることは、「自分は徹頭徹尾、主のものである。自分の持ってるものすべては、主のものである」ということを意味してるのです。 主を主として、知るようになったものだけが、霊とまことを持って、礼拝することができるのです。 イエス様の弟子たちが波の上で、主の御声を聞いたとき、すなわち主がご自身を啓示してくださったとき、彼らは「それは主である」と知るようになり、主を拝むようになったのです。 マナセ王は、それが主の道であると知ったとき、「それが主である」ことを知りました。 主を知り、主の前にひれ伏し、また、自分の理解しがたい悩みは主の道である、と認めた人は礼拝に導かれます。 今日も主は私たちの真ん中に臨在しておられ、霊とまことを持って礼拝する、まことの礼拝者をたずね求めておられます。 けど、「礼拝」とは何でしょうか。 今、話したように、主の道や主の導きにまごころからなる賛意を表することです。すべてのことを主の御心のままにお委ねすることです。主の道におのれをゆだねることです。 主のなさること、主の導きは、主の道です。 主は、ご自分のなさること、またご自身の導き敬虔にによって私たちが主に目を開く。その結果、私たちが自発的に、心から主を礼拝せざるを得なくなるように、主は働いておられます。 主に心から礼拝をささげ得る人のみ、主の道を歩み行くことができるのです。 主の道を知り、主の道を喜ぶ。 それこそが、一番大切な私たちの課題なのではないでしょうか。 そうなったなら私たちは、どうしましょうか。「どうしてか」と主に言うことができなくなります。 「なぜでしょう」という人は、主を見上げない人であり、したがって、まことの礼拝をなすことに至らざる人、また主の道を歩み得ない人と言わなければいけないと思うのです。 ちょっとモーセのとられた態度について考えたいと思いますけども、エジプトの国よりイスラエルの民を導き出した指導者モーセも、礼拝をささげた人だったとあります。 出エジプト記の34章をみると次のように書かれてます。5節から。 出エジプト記34:5-7
モーセは急いで地にひざまずき、伏し拝んでお願いした。 「ああ、主よ。もし私があなたのお心にかなっているのでしたら、どうか主が私たちの中にいて、進んでくださいますように。 確かに、この民は、うなじのこわい民ですが、どうか私たちの咎と罪を赦し、私たちをご自身のものとしてくださいますように。」 「主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者」とモーセは告白したのであります。モーセはこの恵みの言葉を聞いたとき、主を礼拝せずにはおられませんでした。 けど、この恵みの言葉とともにモーセは7節の後半のごとく、「主は罰すべき者は必ず罰して報いる者。父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に。」という厳しい言葉を聞いたとき、モーセは主の前にまず「おのれの罪を赦してください」と謝る前に、主を礼拝いたしました。 「モーセは急いで地にひざまずき、伏し拝んだ」とあります。 主の恵みのみことばを聞いたとき、主を礼拝することは簡単でしょう。けど、厳しいみことばの前にあっても、主を礼拝するということはきわめて難しいことです。 「礼拝」とはいったい何なのでしょうか。 すべてを御心のままにお委ねすることです。主の道におのれを委ねることです。 私たちは、よく「主よ。御心をこのように変えてください。この環境を変えてください。」と祈り叫び求めます。 今朝もフランスから長い電話もらいましたし、昨日はイギリスから(^^;長い電話もらいましたし。 結局、「祈り」と「礼拝」とは違うんです。 「祈り」とは、われわれの願いの言い表わしにすぎません。「主よ。ああしてください。こうしてください。もう耐えられません。もう我慢できない。」云々と。 「礼拝」は、おのれのすべてを何もかも主にお委ねすることです。 十字架につけられる前に、イエス様はゲッセマネの園で祈られました。マタイの福音書の26章。マタイの受難曲の中にも出てくる言葉です。39節です。 マタイの福音書26:39
イエス様の祈りは自分の願いの言い表わしよりも、まことの礼拝でした。「まことの礼拝」とは何でしょうか。 マタイの福音書26:39
この礼拝をささげることとは、もちろん御霊の働きの結果です。人間のできることじゃないよ。現実見ると、すぐ不平不満言いますし、やっぱりいやです。面白くない。 御霊が働くと、人間はどういう状況におかれていても礼拝せざるを得なくなります。 イスラエルの歴史の最もすぐれた王様と・・・ (テープ A面 → B面) サムエル記第IIの12章を見ると次のように書かれてます。13節から。・・・ちょっと長いけど。 サムエル記第II、12:13
「罪を犯した人は死ぬべし。」と聖書は言っているんですけど、「あなたは悔い改めたから死ななくてもいい。」 サムエル記第II、12:14-20
家来たちは、「死んだとわかれば、大変なことになるんじゃないか」と思ってたんですけど、逆でした。聖書は、このダビデについて「彼は神の心にかなう者である」といってます。いったいどうしてでしょうか。 ダビデは、主を拝むまことの礼拝者だったからです。 ダビデの歌った歌である詩篇を読むと、ダビデは最も深いどん底の苦しみにあっても、また、非常な絶望に陥ってるときも、逃れ道が見えず前途が真っ暗なときも、ひたすらに主を礼拝する礼拝者だったのです。 主の道や主の導きは、いつもわれわれの願いと同じとは限りません。ダビデの場合がそうだったんです。この主の御心にかなう人ダビデに「あなたに生まれる子どもは必ず死ぬ」という恐るべき言葉が臨みました。 ダビデは自分の子を愛し、主に請い求め断食し、地に伏してひたすら祈り求めましたけど、その子は死んだと聖書は言ってます。多くの人は、かかる立場におかされるとき「なぜでしょう。どうしてでしょうか。」と言うでしょう。ダビデは「主の宮に入り、礼拝をした」と書いてあります。 彼は「すべてを感謝します」という態度とることができたのです。 「礼拝」とは、結局前に話したように主の導きに全く心からなる賛意を表することであり、すべてのことを主の御心のままにお委ねすることです。 主の道におのれを委ねることです。 最後にヨブ記から2〜3節読みましょうか。なぜならば、ヨブも霊とまことを持って主を礼拝する者に変えられたからです。 1章の13節から22節までです。 ヨブ記1:13-22
この箇所見るとわかります。ヨブのそれまでもっていた財産の全部が取り去られ、愛する10人の子どもも全部死んでいきました。多くの人が、「あの神に仕える人がどうしてこんな苦しみに遭うのだろう」と、いぶかしく思ったに違いない。 けどヨブはどうでしょう。「ヨブは、礼拝した」と書いてあります。「主の御名はほむべきかな」と彼は心から思ったのであり、告白したのであります。 私たちは、主の道に従うことを学ばなければならない。けど、これはただ礼拝によってのみでき得る事柄です。何千年前にヨブは次のように証ししました。 私は知っている。 私を贖う方は生きておられます。 主は生きておらるる。 このヨブは今、読みますようにわかります。短期間のうちに彼の全財産、富も宝も、子どもたちも、また自分の健康も、失ってしまったのです。けどヨブは不平や不満を言わず、主の完全な愛を疑い得なかったのです。たとえ彼が主の導きを理解することができなかったとしてもヨブは主を次の言葉でもって礼拝しました。 私の造り主である主は夜には誉め歌を与える。 主が与え、主が取られたのだ。主の御名はほむべきかな。 私は知っている。私を贖う方は生きておられます。 と。ダビデは、確かに罪を犯してしまったんですけど、ヨブは主の前に全き人だったと聖書は言っているのです。それにも関わらず、二人とも、おのれをすべて主の御心に委ねたではないでしょうか。 「なぜでしょう、どうしてでしょう」と尋ねられても答えることができません。なぜかぜんぜん理解できなくてもただただ心から主をほめたたえ、礼拝することこそが、大切です。 主よ。あなたは常に完全なお方です。 全きことをなされます。あなたの導きも完全です。 理解することができませんけど、あなたを心からあがめます。 という態度をとることができれば、ほんとに幸いです。 「礼拝」とは、すべてのことを主の御心のままにお委ねすることです。主の道におのれを委ねることです。 主は今日もこういう態度をとる人々をさがし求めておられます。 |