引用聖句:ヘブル人への手紙7章25節
今の読んでもらいました箇所を見ると、完全に救うことができるキリストこそが、紹介されてるなのではないかと思います。 今日の集いも、決して聖書の勉強会ではありません。イエス様を紹介するための会です。 勉強しなければならないことであれば、頭のいい人々は、すぐわかっちゃう。そうでなければ、ちょっと気の毒なのではないでしょうか。 けども、完全に救うことができるキリストが紹介されれば、悩んでる人々は希望を持つようになります。喜ぶことができるようになります。 この完全に救うことができる主イエスは、もちろん、昨日も、今日も、いつまでも変わらないお方です。生きておられるお方です。そして、ここで「近づく人々を、完全に救わるる」と書かれています。 近づくことが許されてる、についてだけ考えれば、すごいなのではないでしょうか。 たとえば、イスラム教徒の信者たちは、神に近づくことができない。決して近づき得ない、決して神を知ることができない。ただ毎日5回か7回か、ひれ伏して拝まなければならない。それだけなんです。 結果は、喜びではない。感謝の気持ちが出てこない。近づき得ない神だからです。 私たちは、生きておらるる神に近づくことができる。どこにいても、いつでも。 主は、聞く耳を持つお方です。それだけではなく、主ご自身が待っておられます。「どうして助けを求めないの?」そういう気持ちを持ってるなのではないでしょうか。 主は待っておられる。それだけではなく、主は近づいてくださるお方です。 放蕩息子が、まだ途中だったんですけども、父親が彼を遠くから見たとき、もう走ったんですって。迎えに行ったんです。 放蕩息子は、もちろん父親が近づいて来ると夢にも思ったことがない。もう、そういう可能性は全くない。息子として受け入れられる可能性は、もう全くないと思ったんです。うま〜くいけば、召使いとしてぐらい受け入れられるかもしれない。 結局、あの放蕩息子はね、「親と一緒にいるのは面白くない。制限されますし、束縛されますし、イヤです。やっぱり自由になりたい。けど、自由になっても金がなければもちろんうまくいかない。」 それぐらいわかったから、結局、ほんとは父親が死んでから受ける財産を、前もって欲しかったんです。そして父親はあげたんです。ね、金、いくらでもあったから、もう喜んで出掛けた。「今度こそやりたいこと、なぁんでもできる!」 隣の町行ったならば、まだわかる。隣の国へ行っても、まだわかる。遠い国まで行ったんです。もう縁を切る。もう関係ない。 幸せになりそうになったんです。何週間、何ヶ月間ちょっとわからないけど。 ふう・・・、今度はね、彼の行った国で飢饉が起こったんです。それも、主のせいだったよ。もちろんそうよ。あの放蕩息子は、困らなければ、帰ろうとしないから。 飢饉になって豚の食べる餌を食べようと思ったんです。それでさえも、もらえなかった。もう、みじめになったよ。 はじめて友達がいっぱいいたんです。金があったから。けど、金がなくなったとき、友達は、友達ではなかったから、みんな姿を消したんです。 ほんとの友達だったら、やっぱり一緒に悩むべきでしょう。助けるべきなのではないでしょうか。 けど、そういう本物の友達は、あんまりいないよ。結局、彼は独りぼっちになったんです。 そして、もちろんここで餓死してしまうか、家へ帰るかのどちらかです。「召使いとして、たぶん受け入れられるかもしれない」と彼は、思ったんです。 そして、何週間かかったかわからないね。車もなかったし、クク・・・(^^)新幹線もなかったし。ヘリコプターぐらいあったならば、早く帰られたんですけど、もう、ずーっと、いつも下を見て歩いたんです。 「人間」という言葉、ラテン語の「人間」という言葉の意味は、「上を向いて歩く者」です。 動物は、だいたい下を見て歩くんです。人間は違うはずなんです。希望を持って前進することができなければ、悲劇的だよ。 まぁ、下を見て、下を見て、父親に会えば、どうしよう。やっぱり、祈りを作りましょう。 「お父さん。私は、天の前にも、あなたの前にも、罪を犯しました。(;_;)・・・。もう、息子として受け入れられる資格がない。召使いとして、受け入れてくださいませんか。」 こういう祈りを考えて、暗記したんです。素晴らしい祈りじゃないの。すごいよ!ある意味で、これくらい祈れば何とかなると思ったんです。 家まで、近くまで、来たんです。彼は、もちろん動物のように下を見て歩いたから、近づく父親を見なかったよ。 父親はね、「何か動いてるじゃないか。あ!動物じゃない。人間らしい。」近づくと、「あ!下を見てる者、ぺちゃんこになった者、息子に違いない。(;▽;)」 もう嬉しくなって、走って走って・・・。息子は、何かを聞いたとき、「あ。父親か・・・!」 それから暗記した祈りを(^^;思い出して、「天の前にも、あなたの前にも罪を犯した。」終わり。 せっかく暗記した言葉、祈り、最後まで祈らなかったよ。抱かされて、接吻されてしまったから、もう言葉がなくなった。彼は、もちろん召使いじゃなくて、愛されてる息子として、受け入れられた。 ま、結局主なる神とはね、待ってるだけじゃなくて、近づいてくださる。放蕩息子の父親は、走って迎えに来たのです。 詩篇の作者は次のように言ったのです。 詩篇59:10
素晴らしい告白なのではないでしょうか。「私の恵みの神は、私を迎えに来てくださる。」 将来、私たちは何を経験するようになるのかは、もちろん今わかりません。喜びを与える者なのか、悲しむ者になるのか、全くわかりません。けど、一つのことだけを、私たちは知ってる。すなわち、主ご自身がまず私たちを迎えに来てくださる、ということです。 ですから、忘れないようにしましょう。 主は、今日または明日、もしくは明後日、私たちを迎えに来てくださいます。 急な山道に登るとき、主は力を持って、迎えに来てくださる。 暗闇の道に行くとき、主は光を持って、迎えに来てくださる。 辛い道を歩むとき、主は慰めを持って、迎えに来てくださる。 寂しい道を歩くとき、主は愛を持って、迎えに来てくださる。 危険な道を歩くとき、主は勝利を持って、迎えに来てくださる。 結局、主は完全に救うことができるお方です。 一昨日でしたかね、一人の姉妹と途中で会いまして、喜んだ顔で言ったんです。 「家の経済状態は、もう駄目。いつまで今のうちに住むことができるかわからない。主人は、仕事、今、ない。」 人間的に考えれば、真っ暗闇です。けど、彼女は喜んだ顔で、 「主人と一緒に、朝晩一緒に祈るようになった。うれしい〜!」 これも救いなんです。金が天から降って来ないよ。けども、一緒に祈ることができれば、幸せなのではないでしょうか。 日曜日の晩の場面も忘れられないけど、集会が終わってから、一人の兄弟が洗礼受けたんです。上海だったんですけども、奥さんは、日本人の姉妹ですけども、洗礼終わってから、彼女は、立ってもう泣いちゃったんです。もう泣いて泣いて・・・もう。もちろん、喜びの涙だったんです。 結局、主は迎えに来てくださった!主は、私の祈りを聞いてくださった・・・!イエス様は、完全に救うことのできるお方です。 イエス様を生んだマリヤという女性は、確かにこの救いに預かるようになりました。 ルカの福音書の1章を見ると次のように書かれています。1章の46節から48節まで、ちょっとお読みいたします。 ルカの福音書1:46-48
結局マリヤは、「私は卑しいはしためにすぎません。けども、主は迎えに来てくださった。私に目を留めてくださった。わが救い主なる神。」と、彼女は心から言うことができたのです。 他の言葉でいいますと、「私は幸せです。主は、私の救い主です。」このことを彼女は身をもって体験しました。すなわち、 「主は遠く離れたところにおられるでもなく、また、怒りに満ちたお方でもなく、御一人子なるイエス様を、私の救いのためにお遣わしになった。 だから、私は大いに喜び、主をたたえます。」 私たちもこのマリヤと同じように、「主なる神は、わが救い主」と言うことができれば、幸せなのではないでしょうか。 まイエス様は、完全な救いをもたらすために来られました。人間の救いと、聖書の言われてる救いとは、もちろん違います。 人間の欲しいと思われてる幸せと、主の考えておられる幸せとは、もちろん違います。 ね、人間は今話したように、経済的に埋まってれば、やっぱり金持ちになれば、幸せだと思ってるんですけど、あの姉妹は、「主人と一緒に一つとなり、一緒に祈るようになった。これこそ、幸せ。」と彼女は思ったのです。 もちろんそうよ。まことの救いとは、「主は迎えに来てくださった。私は、この主の御手の中で守られている。何があっても、主は愛し続けてくださる。」という確信であります。 救いとは、結局愛されてることを知ること。主の平安を持つこと。そして永久的に受け入れられてることを確信することです。 過去の克服でもあるといえます。 主は、人間のわがままを赦すお方です。 主は、債務と、罪の支払いと、赦しを提供しておられる方です。 主は、虚しさからの解放を提供しておられるのです。 主は、人間一人一人の救い主となるために、約束された「メサイア」としてこの世にこられたのです。 イエス様が生まれた夜、この福音が宣べ伝えられるようになったのです。宣べ伝えたのは、天の使いたちだったんです。 ルカの福音書2:11
偉大なる教師が現われたんじゃない。すごい宗教家出てきたなのではない。「救い主。罪の問題を解決する方が生まれたよ!」と天の使いたちが宣べ伝えたのです。 そして、イエス様ご自身が、「わたしは失われた人を捜して救うために来たのです。」 ま、放蕩息子のように、「もう愛される資格がない」と思う人々のために、主は生きておられるのです。 ヨハネは ヨハネの福音書3:17
と、書き記したのです。 ペテロは、次のように言ったのです。 使徒の働き5:31
そしてパウロは、 テモテへの手紙第I、1:15
と言ったのです。 イエス様とは、完全な救いを与えるお方です。 イエス様が、罪の問題を解決してくださったゆえに、それゆえにイエス様こそ、ただ一人の救い主です。 けど、このイエス様は、如何にして人間の救い主となることができるなのでしょうか。 当時の羊飼いたちは、この世に現われた救い主を「拝んだ」と聖書は言っています。見ただけじゃない。信じただけじゃない。拝みました。 やっぱり遠い国から来られた博士達は、同じく「主を礼拝した」とあります。 結局、すべての支配権をこの来られた救い主に帰することができたのです。 私たちは、イエス様を救い主とするために、いったい何をすべきなのでしょうか。 私たちは、まずイエス様のみもとに行き、すべてを素直に告白することです。 「わがままです。過ちを犯す者です。どうしようもない者です。」と告白することが必要です。「私は、心から自分の過ちを悔い改めて、新しい人間となることが許されますように。」 それと同時に、私たちは心からなる感謝をささげることです。 どうして感謝することができるかといいますと、イエス様は約束してくださったからです。すなわち、「わたしのところに来る者をわたしは決して捨てません。」 イエス様のところに来ることとは、結局正直になり頭を下げることです。イエス様は、そういう人々を間違いなく受け入れてくださる。 ま時々いろいろな人々と話すと気がつくんです。すなわち、私たち信ずる者は、時々人々をつまずかせるなのではないでしょうか。何にも知らないのに、ヘンなこと時々いうんですね。 例えば、「私はイエス様信じます。あなたもイエス様信じてください。」けども、相手の人は、「あぁそう。あなたがたは、イエス様のことわかったかい。」 そういう気持ちなんです。けど、それとんでもない話しでしょう?私たちは、イエス様のこと理解できないよ。 ね、そうするとイエス様を信ずることとは、現実問題として何でしょうか。イエス様の約束を信ずることです。それだけなんです。そして、イエス様の約束とは、「へり下ればOK」。それだけなんです。 「わがままです。ごめんなさい。あわれんでください」 そういう砕かれた気持ちがあれば、イエス様は受け入れてくださる。「わたしはそういう人々を決して捨てません」とイエス様は言われたのです。 イエス様は、約束したから、だから信ずることができる。ピンと来ないこととは、もう決まり。ね、どうして信ずることができるか、聖書を勉強して理解できたからじゃないんです。これは単なる思い込みにすぎません。 イエス様が約束したから、もう終わり。決まり! イエス様は、うそつきじゃないから。十字架の上で死なれたイエス様は、詐欺師じゃないから、私たちは安心して信ずることができるのです。 ですから、「ごめんなさい。あわれんでください。ごめんなさい」と祈った後で、信じて感謝することができる。 何を信ずるべきか、イエス様は赦しちゃった。忘れた。イエス様は、赦すと忘れます。ほんとにありがたい。 みなさん、ニュースを聞いて笑ったことがあると思うんです。 頭の良い、だいたい東大を出た政治家は、捕まえられれば、平気で言うんです。 「覚えがない」・・・ふう。 けども、私たちは天国へ行って、頭を下げれば、 「イエス様、知ってるだろう?この時、わがままだったでしょう?とんでもない過ち犯したでしょう?」 その時イエス様は本気になって「覚えがない」と言うに違いない。イエス様は、赦すと忘れます。 「わたしはあなたの罪を二度と思い出さない。決して心に留めない」 とイエス様は言われます。そうでなければ、天国だって天国じゃないでしょ?もう、考えられない事実です。 人間だって、赦そうと思えば、まぁまぁできるかもしれない。けど、赦すことができても忘れられません。それ別の話。 イエス様は、赦すと忘れます。まことの救いとは、赦されたという確信なのではないでしょうか。 また、まことの救いとは、孤独からの解放でもあります。 寂しいけど、決して独りぼっちではない。イエス様が私のために生きておられ、いつも共におられ、私のために全力をもってすべてを成してくださるという、この確信を持つことができるのは、幸せなのではないでしょうか。 イエス様の力は無制限の力です。イエス様はこの地上におられたとき、この力をもちろん明らかにしてくださいました。 例えば、ルカの福音書の中で次のような箇所があります。 ルカの福音書8:25
ね、イエス様は、大嵐しに向かって「黙れ静まれ!」と言ったとき、静かになっちゃった。ちょっと考えられない。 イエス様は、みんなから避けられたらい病人に向かって、「きよくなれ」と命令したとき瞬間的に癒されたのです。 ま、イエス様は命令すると、命令通りになる。 イエス様は、自然を従わせる力を持っておられるだけではなく、罪を赦す力を持っています。神しかできません。 マタイの福音書9:2
マタイの福音書9:6
・・・云々、とあります。 まイエス様は、人間のわがまま、過ち、罪を、赦すことができるだけじゃなくて、赦したくて赦したくてしょうがない。 イエス様にとって、不可能なことはありません。 最後の別れの言葉の一つは、イエス様は弟子たちに言いました。 マタイの福音書28:18
と。 イエス様は、いのちそのものです。イエス様は永遠のいのちを与えるお方であり、もちろんイエス様は、殺されて墓に葬られた後で、確かによみがえらされたのです。父なる神によって。 けどそれだけではなく、イエス様は自分の力を持ってよみがえられたと聖書もはっきり言っとるのです。 イエス様にとって、不可能なことはない。 そういうこと考えれば、われわれとイエス様との違いは、言葉に言い表わせないほどのものです。イエス様の権威は無限であり、それに対して、ほんとに真面目に考えれば、われわれの権威などはま〜ったく無力で意味のないものです。 私たちは、来る日も来る日も自分の力をはるかに超えたものを要求され、それが続くと、全く逃れ道のない状態に陥ってしまうのです。そのときに、私たちはわれわれの救い主、主イエス様に祈り願い求めることができます。 「イエス様よ。あなたの恵みと権威を、どうか豊かに示してください。現わしてください。あなたなしには、もう私は一歩も先へ進むことができないから、お願いします。お任せいたします。」 すると、イエス様はもちろんこのような祈りを間違いなく答えてくださいます。 自分の大いなる権威を現わしてくださるのです。 このように、すべてを主に委ねた者には、必ず主が大いなる力と権威を現わしてくださるのです。 また、イエス様は私たちが日々新たに、主を救い主として体験し、主イエスこそが完全に救うことのできるお方であることを、体験的に知ることを望んでおられます。 イエス様は、われわれに大いなる力を現わすことができるためには、日々、主との交わりを持つことがどうしても必要です。けど、残念なことに多くの信ずる者も、自分のことだけを考え、自分自身のことでいっぱいになってしまい、自己中心的な生活をすることによって、いつのまにか、主を忘れてしまってるのではないでしょうか。 この事実を、確かに多くの人々は認めたがらないけど、その実際生活を見ると、そのことがよくわかります。ま、イスラエルの民の経験とは、結局それだったんです。 例えば、詩篇の作者はこのイスラエルの経験について次のように・・・ (テープ A面 → B面) 詩篇106:21
ちょっと考えられないけどそうなんです。彼らは自分の救い主を忘れた。もちろん、彼らはすでに救われた者であったにもかかわらず、いつのまにか自己決定と自己支配の生活に戻ってしまったのです。 私たちが自分の力で主に仕えようとしたり、主に完全に拠り頼むことをしないならば、そのことが、取りも直さず自分の救い主を忘れていることを意味してるのです。 私たちが救い主を忘れ、己が道を行くときに、主はいったいどのような振る舞いをなさるのでしょうか。44節に書かれています。 詩篇106:44
相変わらず聞く耳を持っていた。忘れられても、主は忘れようとしない。如何なることがあっても、主は救い主であられ、ご自分に属する者を、決して決して、見捨てません。 パウロはそれを愛弟子であるテモテに書いたんです。テモテへの手紙第IIの2章の13節。ま、みんな暗記してる言葉なんですけど、 テモテへの手紙第II、2:13
毎日覚えるべき事実じゃないでしょうか。私たちは真実でなくても、主は変わらない。主の愛も変わらない愛です。条件付じゃない。 ダビデはこの真実なる主に頼ったんです。ちょっと見てみましょうか。サムエル記第IIの22章。素晴らしい、主を誉めたたえる賛美です。 サムエル記第II、22:2-3
ここでダビデは何回も「主は私のものだよ」。けど、このダビデの主は、私たちの主でもあります。 結局、大切なのは私たちではなく、主です。 「私を救う私の救い主」という言葉は理論ではなく、これを体験した者だけが発する歓喜の声なのではないでしょうか。 この言葉を発したダビデと同じように、私たちも毎日私たちを助け、救うことのおできになる救い主を体験し、歓喜の声をあげることができれば、素晴らしいなのではないでしょうか。この22章の4節ですか。 サムエル記第II、22:4
結局、主は生きておられる。主は祈りを聞いてくださる。完全に救うことができるお方です。 私たちが成すべきことは、ただ主を呼び求めることだけです。 私たちは、ほんとに絶望しない限り、心の底から主を呼び求めることをしないなのではないでしょうか。だから、悩むこととは、やっぱり大切です。 ですから、イエス様は 「医者を必要とする者は病人です。わたしを必要とする者は、悩んでる人々です。助けを求める人々だけです。」 私たちはどうすることもできない性質を持ってるということを、ほんとにわかると、自分の力で何かをしようとせずに、ただ主を呼び求めることしかできないでしょう。 すなわち、祈る者は、ほんとの意味で頼るようになります。 パウロはあるとき、非常に困ってたんです。 彼は「主は耐えられない重荷を与えられない」と書きながら、自分で「もう耐えられません」と言っちゃったんです。「もうおしまいだ。望みを失ってしまった」 けども、パウロとは自分のこときれいに忘れて、「主のためにだけ、生きたい。信ずる者のため、未信者のためにだけ、生きたい」と思ったなのに、耐えられない圧迫を受けた。「もう、死ぬ」と確信したんです。 もちろん彼は思ったでしょう。「いったいどういうことか。主は何を考えてるなのでしょうか。主よ。示してください。」 主は、示してくださったんです。何をわかったかと言いますと、 「今までパウロよ。あなたは徹頭徹尾、私に頼らなかったよ。知らないうちに自分の力で動いてしまったから、やっぱり降参しないと駄目だよ。 あなたの目的は間違っていなかったよ。けども、あなたは自分の力で動いたから、そうすると私は助けられない。」 結局、主に依り頼む者となるために、このような苦しみが必要であったと、彼はあとで書いたのです。本人にとって辛かったよ。けど、必要だった。 その後、彼は前よりもやっぱり用いられるようになりました。 詩篇の作者ですか。詩篇の85篇の4節に次のように書かれています。 詩篇85:4
それは、信ずる者にとって、全く恐ろしい状態でありましょう。 信ずる者として、自分は救われていると信じて疑わない者であっても、主とわれわれの直接な交わりではなく、その間に何ものか妨げるものが、存在してると感じる例が少なくないのです。 そして、主は常に私たちを待っていてくださり、私たちが心から悔い改めるならば、罪を全部赦す用意をしておられるのです。 主は、新しい喜びを与え、新しい力を授けてくださいます。6節ですね。 詩篇85:6
大いなる救い主は、新たなる始まりを差し上げたいと願っておられるのです。 主は完全に救うことがおできになります。私たちも新たなる出発をしようではないでしょうか。完全な救いをいただこうではないでしょうか。 私たちが罪人であるがゆえに、聖なる主の前に、畏れかしこんだことがあったなのでしょうか。 「私は、わざわいなる者、汚れた者、無関心な者、支配欲に満ちた者、臆病者、ねたみ深い者、愛のない者です!」 このように叫んだことがあるなのでしょうか。 主の前には、すべてが明らかにされ、主は、何から何まですべてお見通しになり、すべての思いが主には知られているのです。 けど、この聖なる主こそ、救い主です。裁き主ではない。主は、人間一人一人のために、救いの道を開いてくださったのです。贖ってくださったのです。 イザヤ書の43章ですか。「イザヤ」とは、「旧約聖書の福音書」と呼ばれています。 イザヤ書43:3
「わたしはあなたの救い主である」・・・それに気がつかない人々は、ちょっと気の毒なのではないでしょうか。 イザヤ書43:11
結局罪を赦す方が、存在していない。今日主はあなたに目を留められ、この言葉のように、呼びかけておられるのです。 イザヤ書43:1
主イエス様は裁かれたり、宣告をなさったり、罰したりするのではなく、助け、救うお方として、近くにおられるお方です。 私たちもこの救い主なるイエス様に、無条件に絶対的に残すところなく明け渡そうではないでしょうか。 イエス様は、ご自分のご栄光を、ご自分の権威を、われわれの生活の中に、また私たちの生活を通して、現わしたく思っておられるのです。 「あなたのみこころがなりますように。私はあなたの導きにすべてを委ねる決心ができております」 このような心構えが、いつもできてる者は幸いです。 「主よ。私はただあなただけに依り頼みます」 このように、日々新たに言うことができる者は、本当に幸せです。 大いなる救い主である主は、近くにおられます。完全に救うことがおできになるお方です。 私たちの前に、また私たちの周囲にあって私たちを取り巻いている者たちが、私たちを不安に陥れようとすることが少なくないでしょう。けども、イエス様は私たちの前に隣に後ろにおられるのです。 私たちは、決して決して独りぼっちではありません。主はいつも近くにおられます。それですから、私たちは安心して前向き生活することができるのです。 イエス様のご臨在は、結局、力、勇気、喜びを与えてくれます。 最後にもう1箇所読んで終わりましょうか。 ゼパニヤ書、旧約聖書の一番最後の辺なんですけども、すごい言葉です。 「信じられない。ほんとか?」(^^)と思う人もいるかと思うんです。 ゼパニヤ書3:17
私たちも、この作者と同じような状態にあるなのでしょうか。それとも、そうでないため、主が悲しげに見ておられるなのでしょうか。 主は生きておられます。主は完全に救うことができる。けども、主の提供されている救いと人間の考えてる救いとは、ちょっと違う。 主は完全であり、主は最善のものしか与えられないお方です。最善であれば、主は答えてくださる。奇跡をなしてくださる。 この救い主なる主は、人間一人一人のことを考えられないほど、愛しておられると考えれば、やっぱり嬉しくなるではないでしょうか。 はじめに言いましたように、私たちは、主に近づくことが許されています。 これもすご〜い特権です。できるだけたくさん近づかない人は、必ず損します。後悔します。近づきましょう。なぜならば、主が待っておられるからです。 主ご自身が、近づいてくださるお方であるからです。 |