深大寺家庭集会3


ベック兄

(深大寺家庭集会、2003/01/13)

引用聖句:イザヤ書41章10節
10恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。

ヨハネの福音書16:33
33わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」

ヨハネの黙示22:20
20これらのことをあかしする方がこう言われる。「しかり。わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。

今日初めて来られた方々もいらっしゃいますし、みんな賛美しますし、聖書読むし、イエス様について話されると、誤解してキリスト教の宣伝じゃないかと思われるかもしれない。けども決してそうではありません。
どうして今日このようにたくさん来たか、ま、祭日であるかも知れないけど、それだけではなくやっぱりみな悩む者なのではないでしょうか。
人によって悩みは違う。今朝ある兄弟から電話があって、「昨日と一昨日、二つの集会へ行ったんですけど、一つの集会は生きてる集会で、もう一つの集会は死んだ集会でした。」やっぱり悩みの種でしょう。
もうそれを経験すると、やっぱり苦しくなる。

私たちは、金曜日から出掛けて石垣島行きまして、東京から6人行きましたし、高知から6人来ましたし、沖縄から8人くらいだったかなぁ。非常に向こうの方々の励ましになりましたし、その後で宮古島まで行きましたし、本当に非常に良かったと思いますけども、9年前に宮古島行った時ね、ちょうど100歳になったおばあちゃんに会いまして、非常に良かったし、彼女は素直に祈って「イエス様信じます」と。
今回9年後に行きまして、ほんとに楽しかった。109歳ですよ〜!ほんとにもう歌ったとき嬉しくなって、他のおばあちゃんたちもいたんですけど、おそらくまだ100歳になっていないおばあちゃんだったと思うけども、みんな嬉しくなっちゃった。
もちろん10何人の兄弟姉妹行って、みんな賛美して、やっぱりそれを聞くとみんな孤独病にもなっているし、寂しいし。
ねぇ、「人生とはいったい何ですか」と。さっぱり分からないよ。イエス様を知らなければ、人生はもう生き地獄じゃないかなぁ...

もちろん、信仰があっても僕は109歳にはなりたくないなあ!もう一年で十分じゃないかな!
けどもイエス様を信ずる人に出会いますと、やっぱりみんなすぐ一つです。一人の兄弟もそう言ったんですね。「初めて出会ってもやっぱり嬉しい。お互い別に分からなくても、イエス様を信じる者は一つです。一つの家族なのではないでしょうか。

去年の暮れから、「新しい年とはどういうものになるか」と思った時、別に誰も教えてもらえなかったけど、今年は「戦いの年」になると思うようになっちゃったんです。
色々な問題が出てくるし、戦争にもなる可能性十分ありますし、決してよくなるなのではない、とはっきり言えます。ですからイエス様は、今読んでもらいました箇所を見ると言いましたね。ヨハネの福音書16章の33節。

ヨハネの福音書16:33
33あなたがたは、世にあっては患難があります。

他の道がない。世にあっては生きてる間に患難がある。だから諦めた方がいいじゃないか、運命だと思って諦めましょうよ。とイエス様は言わなかったのです。患難があるけど、

ヨハネの福音書16:33
33勇敢でありなさい。

結局、「喜べ」。どうして?

ヨハネの福音書16:33
33わたしはすでに世に勝ったのです。

イエス様は勝利者です。背後に導いてくださるお方です。そして人間にとって大切なのは、宗教によって騙されることじゃなくて、この勝利を成し遂げられた、救いの道を開かれたイエス様を知ること。このイエス様と一つになることではないでしょうか。

前に話したことがあるんですけども、たまに映画を観るんですけども、映画館に行く暇がない。日本で今まで二つの映画しか観てないんです。
昔誘われて、ま、ドイツの映画だったから。一つは、「ハイジ」だったんですね。もう一つは、「サウンド・オブ・ミュージック」。ほんとに可愛い映画だったけども、僕、映画をどこで観るかといいますとドイツ行く途中です。
飛行機の中で、ドイツ行くとすぐ集会始まらないし、ちょっと見てもいいだろうと。そして、ちょっと不思議なんですけど、別に悪いおかしい映画じゃないよ。やっぱり何か学ぶことができる映画ばっかりだたんです。

一つの映画はね、14〜15歳の青年たちについての映画だったんですね。ま、どこの国の映画かちょっとわからないけども、まぁその題名は『力持ちたち』。
みんな力持ちになりたいでしょ?弱くなってもいいと思う人はいないでしょう?そして、ドイツの題は『一緒になったから強くなった』。これの方が、ぴったりだったじゃないかなぁと思うけど、ま、両方ちょっとあんまり良くないかもしれない。

なぜならば、まぁ二人ともは同級生で、二人ともいじめられたんです。
どうしてであったかと言いますと、一人は非常に頭が良くて、クラスで一番だったんです。そうすると別に、いじめられるとはちょっと考えられないなのではないでしょうか。けども、やっぱりいじめられたんです。
どうしてかと言いますと、頭が良かったけど足は駄目だった。小児麻痺になったから足が悪くて、結局いつも松葉杖で歩かなければならなかった。だからいじめられた。ちょっとかわいそうじゃないですか。
もう一人は、非常に運動神経があって、クラスの中で一番体が丈夫で、ほんとの意味での力持ちでした。けど頭あんまり良くなかったんです。勉強は全然大嫌いで、もう嫌だったんです。ですから、彼もいじめられたんです。けどもこの二人はね、一つになっちゃったんです。

いつも、力持ちは彼をおんぶして、おんぶされたら、彼は「ああ行きなさい、こう行きなさい、ああしなさい、こうしなさい」と命令して、そして命令通りに動いたからクラス全体はどうすることもできなかったんです。
何があっても、彼らはいわゆる「勝利者」でした。結局、一緒になったからです。言いたいことはわかるでしょう?
「弱い迷える羊」であるわれわれは、「羊飼いなるイエス様」と一緒になれば、うまくいく。そうでないと駄目。二人は一緒になったから、うまくいったのです。

一緒になった二人の青年たちはほんとに優れていました。考えられないことが可能になったのです。私たちは、イエス様を知るようになれば、イエス様に頼るようになれば、やっぱり違う。見方もちろん変わりますし、違う力が働くようになりますし、ほんとに前向き生活することができるようになります。
イエス様について、聖書はなんて言ってるかといいますと、「イエス様は、昨日も今日もいつまでも変わらないお方です」。
言うまでもなく、イエス様の愛も変わりません。条件付きのものではないから。もし私たちは自分の力、自分の知恵に頼ると、必ず失敗になる。壁にぶつかるようになります。

人間は結局わがままなんです。今までわがままだっただけじゃなくて、現在もそうですし、将来もそうでしょう。けども人間はいくら駄目であっても、何でも知っておられ、何でもできるお方と一つになれば変わります。
駄目な人間は駄目にならない。イエス様に頼ると、不可能が可能になります。

ご存じのように今年は羊の年です。ダビデという王様は、若い時から父親に頼まれたでしょう、「羊飼い」になっちゃったんです。
羊の面倒をみるようになったのです。そして彼は、「主は私の牧者であるから、乏しいことがない」と言ったのです。

主は私を伴われ、
主は私を導かれ、
主は私を力づけてくださり、
主は私とともにいるから、
もう心配する必要がない。

信じる者の幸せのもととは、いったい何なのでしょうか。愛されてる、心配してもらってる、と経験してるからです。
愛されてることわかると、もちろん誰でもが元気になる。不安も消えて、喜びに満ち溢るるようになります。

聖書の中心テーマ、主なる神の呼びかけとは、「わたしはあなたを愛する。」
言うまでもなく、すべての人に対する呼びかけですけど、聖書は複数形ではなくて単数形で言ってるんです。
すなわち、主は「わたしはあなたたちを愛する」んじゃなくて、みな全く「個人的」に愛されてるのです。

人間は無視されれば、除け者にされれば大変です。主は人間を無視するお方ではない。
「わたしはあなたを愛する。」

前に、ベアテンベルク、スイスの神学校だったんですけども、みんな行かれた時、行った人々おそらく忘れられないと思うんですけど、あるスイス人だったんです。老夫婦で、私たちを喜ばせるために歌ったんです。
奥さんはギターを弾きながら歌って、ご主人は歌っただけなんですけども、あるドイツの姉妹が私に言ったのは「もう私は??を入れなければ、大きな声で笑います。」
決して音楽的には、ほんとに大したものではなかったからです。あの奥さんは、??になってソロも言えたんですね。ギターを弾いたのはうまかったし、声も良かったし。けども、ご主人は全然。もうよく間違った音を出したりして、やっぱり奥さんの顔を見て、心配しながら一生懸命歌ったんです。
けども、後であのドイツの姉妹は、恥ずかしくなっちゃったんです。確かに音楽そのものは大したものではなかったけれど、歌った歌の内容はすごい内容でした。どういう内容であったかと言いますと、「主イエス様と私たちは友達です」。そういう歌だったんです。結局、

イエス様と私は友達です。
何でも話すことができる。
理解されてる。
イエス様に頼ると、もう心配する必要はない。

と言うことができる人は幸せなのではないでしょうか。ヨハネの福音書15章の中で、イエス様は同じことを、もちろん別の言葉で次のように言われました。

ヨハネの福音書15:5
5わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。

あなたがたは枝になるべきなのではないよ。なってる。

ヨハネの福音書15:5
5わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。

いろいろなことできたとしても、残る実がない。そうすれば結局むなしい。実になると誰でもわかる。これは枝ががんばったからじゃないでしょう。木とつながっているからだけなんです。
実とは木のいのちの現われです。切れば、どういう枝であれ枯れちゃいます。絶対に実になりません。けども、つながってればうまくいくのです。

前に話したように人間は確かにいろいろなことで悩むし、この間ある姉妹から手紙をもらいまして、一つの告白でしょうかね、次のようなこと書いてありました。

「主人の態度に、不満をずっと抱いて来た者ですが聖書が『主人に従えばいいよ』とおっしゃるのとは、現実にはほど遠い者でした。
心で、または口や態度で逆らい、説教しようとし、私の自我で周りをめちゃくちゃにし、主人も子どもも主から遠ざけてきた者です。
現状は辛いものですが、この苦しみの中で『私の過去は赦された』とはっきりとしみこんできました。
主が主人に、みこころをもらえなく、遅れないで、お示しくださるように。またお従いできますように。
そして、私は主に従い、どうなっても主から受けとらせていただけますように、切に切に祈っております。云々」

と書いてました。ま、結局戦いです。自分自身を変えようと思ってもできません。それくらいできればイエス様は別に来られなくてもいいし、犠牲にならなくてもいいなのではないでしょうか。だからイエス様は、

「あなたがたは世にあっては患難がある。」

いろいろな面白くないことが次々と出てくる。確かに、今の世界は多くの家族もバラバラです。人間はやっぱり悩む者です。将来は今からどういうものになるなのでしょうか。多くの人たちは、自分たちの頭でこの謎を解こうとします。
その結果は別のものとなる。他の人は易者や占い師によって、結局悪魔に尋ねています。その結果は、魔術や悪魔の力の中に落ち込むようになります。私たちは誰に尋ねたらいいなのでしょうか。
将来に対しては、ただ一つの権威あるものがあります。われわれの持っている「聖書」です。みことばに頼るとやっぱり希望がわいてきます。

「患難あるけど関係なし。喜びなさい。勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ってる。」

とイエス様言われただけじゃなくて、

「しかり。わたしはすぐに来る。」

初代教会の人々は、「アーメン。主イエスよ、来てください。」と心から言えたのです。だから、彼らはいくら憎まれても、迫害されても、殺されても、別に心配しなかったのです。
初代教会の兄弟姉妹の特徴とは、みことばに頼ったということです。みことばこそが真理そのものです。イエス様は聖書について、何て言ったかといいますと、

「この天地は滅び去ります。しかしわたしのことばは決して滅びることがない。」

イエス様は、たとえば次のように言われました。

「わたしは、約束された救い主です。預言された救いの神です。
旧約聖書で預言されたお方として、わたしは今来ました。
宗教家としてではない。偉い先生としてではない。光として。わたしは光として来たのであり、そしてわたしを信じる者はやみの中にとどまることがない。」

今日のなんと多くの人々は、暗闇の中に生きてるなのではないでしょうか。
どうして生まれたのかわからない。どうしていろいろなことで苦しまなくちゃいけない、悩まなくちゃいけないのか、全くわからないなのではないでしょうか。
聖書こそが人間に与えられている、すっばらしい宝物なのではないでしょうか。はじめに読んでくださったイザヤ書の箇所だけを見ても、すごい箇所です。
この箇所だけね、毎日何回も読めば元気になります。

イザヤ書41:10
10恐れるな。

この「恐れるな」ということばは、聖書の中で何回出てくるかちょっとわからないんですけども、数えられない。どうしてそのようにたくさん書いてるかといいますと、もちろん必要だからです。
現実見るとみんな心配しますよ。なぜならば明日のことでさえもわからないからです。どうして恐れなくてもいいかといいますと、

イザヤ書41:10
10わたしはあなたとともにいる。

本気になってこの一つの言葉を自分のものにすれば、何があってももう関係ない。「主が私とともにおられるからです」と。

イザヤ書41:10
10恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。

「わたしはあなたのものです。わたしの持ってるものはあなたのものです。」ね、放蕩息子の父親は、心閉ざしたおにいさんにそう言ったのです。「わたしのものはあなたのものです」。この宝物を見ないと、ほんとに人間はみじめになります。

イザヤ書41:10
10わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。

「恐れるな」「たじろぐな」と2回も書かれています。
結局主によって祝福された人々、主によって用いられた器となった人々とはみんなみことばに頼ったのです。「主よ、語ってください。しもべは聞いております」という態度をとった結果として用いられたのです。

おもにみこころにかなう者になったダビデは、聖書のことを考えられないほど大切にしました。彼にとって聖書とは何であったかわかろうと思えば、一番長い詩篇を読めば、119篇を読めばわかります。全部で176節ですから、ちょっと一遍に読んでも、おそらくあんまり何を考えるべきかわからない。
まぁ2〜3節ずつ読む方がいいかもしれないけども、やっぱり「みことば」こそが彼にとってすべてでした。119篇の9節。若者にとって、いかに大切であるかと彼は言ってるんですね、

詩篇119:9
9どのようにして若い人は自分の道をきよく保てるでしょうか。あなたのことばに従ってそれを守ることです。

ま、みことばは考えられないほど大切。守る力を持つものです。

詩篇119:16
16私は、あなたのおきてを喜びとし、あなたのことばを忘れません。

結局喜びのもととはみことばです。

詩篇119:92
92もしあなたのみおしえが私の喜びでなかったら、私は自分の悩みの中で滅んでいたでしょう。

今日来られた大部分の兄弟姉妹は、これを自分の証しとして言えるなのではないでしょうか。

詩篇119:105
105あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。

「ともしび」「光」がなければ、結局暗闇になります。

詩篇119:162
162私は、大きな獲物を見つけた者のように、あなたのみことばを喜びます。

どういう状況におかれていても、みことばに頼ると喜ぶことができるということです。「みことばが与えられている」と考えると、本当に喜ぶことができます。主の呼びかけとは、ほんとにすごい。

「恐れるな。」
「たじろぐな。」

理由として、主は約束しておられます。

「わたしはあなたとともにいる。」
「わたしはあなたの神です。わたしはあなたを強め、あなたを助けわたしの右の手であなたを守る。」

結局主は配慮してくださり、面倒みてくださり、道を備えてくださり、恵んでくださるのです。イエス様に頼るとうまくいく。

けど、イエス様とは光なんですって。隠すものがあれば、もちろんうまくいかない。エノクという男は、空中再臨のようなことを経験しました。死を見ないでそのままで天に移されたのです。そして、彼について聖書は何て言ってるかといいますと、

「彼は 神とともに歩んだ。」

結局完全に一つになった。他の言葉でいいますと、「彼は光の中に歩んだ」。
彼は、主の嫌うものを嫌うようになって、主の大切にしたものを大切にするようになったのです。「主とともに歩むこと」ことが、最も大切なのではないでしょうか。
ま、「信ずること」とは結局それなんです。信仰とはある教えを理解する・・・

(テープ A面 → B面)

・・・罪です。
意味は、イエス様に頼らなければ、自分の知恵・力に頼れば、これは「罪」です。主は見向きもしない。祝福することができない。もちろんイエス様の言われた言葉は同じです。

「わたしから離れたら、あなたがたは何もすることができない。」

ほんとは何でもできるじゃないの。ね、一人で聖書読むことができるでしょう?一人で祈ることができるでしょう?一人の力に頼って、みことばを宣べ伝えることができるじゃないか。できるよ。
けど祝福がない。祝福がなければ全部虚しい。パウロでさえも、それをわかったから、ほんとの意味で心配したんです。彼は、

「私は失格者になる可能性がある。」

救われていることは救われていますよ。一度イエス様によって受け入れられた人は、決して捨てられませんけれども、実がないこととはあり得ることです。
色々なことをやったけど虚しかった。主に頼らなかったからです。
パウロたちは、ほんとに「イエス様のために生きたい」と切に望んだんです。彼らの目的は間違っていなかったし、動機も正しかったし、けども、ある時彼らは非常に悩むようになったんです。思う通りにいかなかったから。
耐えられない圧迫を受けるようになり、「もうおしまいだ。死ななくちゃ。」と彼らは思ったんです。けども、彼らは静かになり、

「イエス様。あなたはどうするつもりですか。」

ま、答えが与えられた。パウロは説明として、次のように言ったのです。

「私たちは、復活なさった主に頼る者となるためでした。」

ああ、まだなっていなかった。ショックだったと思うよ。なったと思ったけど、なっていなかった。

ヨハネの黙示録の中で、ラオデキヤの教会に対して主は大変なことを言ったんです。彼らは、

「私たちはOK。もう全部知ってる。まじめに生活するし、主を第一にするし、みことばに頼ってるし。」

けども、主の判断は違う。

「あなたがたは何にもわかってない。何にも知らない。OKだと思ってるけど違う!」

まぁ「主から出ていないことは、みな罪である」と聖書は言っています。
信仰とは、イエス様とのつながりを意味しています。つながってればOK。そうでなければ駄目。
前に話した二人の青年は、別々になったならばもうおしまい。一緒になれば違う。イエス様は,

「わたしは世の光です。わたしこそが光そのものである。」

と言われたのです。このイエス様は、いわゆる救われていない人々に向かってだけではなく、もうすでに救いにあずかった人々に向かっても、同じことを言ってるのです。すなわち、

「わたしのもとに来なさい。わたしは光です。」

光のもとに行きたくない人は、結局自分の過ちを隠す者であり、正直になりたくない思いの現われです。不幸への道です。
人間にとってどうしても必要なのは、「光」に照らされることです。「光」であるイエス様との出会いです。結果として罪の赦しを得ること、光であるイエス様との交わりを持つことであります。
ヨハネの手紙第Iの1章の7節に、次のように書き記されています。「イエス様を信ずること」とは、取りも直さず「光に来ること」です。「イエス様のみもとに来ること」です。イエス様のみもとに来る者は、間違いなく受け入れられ、救われる。

ヨハネの手紙第I、1:7
7しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。

ほんとの満足の秘訣は、暗闇から脱出して「光」であるイエス様のみもとに行くことです。イエス様はすべてを新しくしてくださいます。
結局聖書の呼びかけとは、素晴らしい呼びかけです。

「闇の中にいなくてもいいよ。何も隠さなくても結構だよ。わたしに従いなさい。光であるわたしに従う者は決して闇の中を歩むことがない。いのちの光を持つ。」

もし光の中におられるように、私たちも光の中に歩むなら、その時はじめて互いにほんとの意味での交わりを保ち、そして御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめる。イエス様は「光」として来られた。イエス様は今日も「光」として近くにおられるからです。

ヨハネの手紙第I、3章3節を見ると、次のように書かれています。

ヨハネの手紙第I、3:3
3キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。

ま、別の言葉で表現すれば、「私たちはイエス様の再臨を意識しつつ、イエス様の再臨を待ち望んで生活すべきである」

ヨハネの黙示録22:7
7「見よ。わたしはすぐに来る。

とヨハネの黙示録に書かれています。
「イエス様を待ち望むこと」とは、いったい何なのでしょうか。まず「今まで以上に首を長くして待つこと」なのではないでしょうか。
再臨を待ち望んでいない兄弟姉妹は、「不従順」です。「不従順」は言うまでもなく「罪」です。主と信ずる者の間の「隔ての壁」です。そうすれば、死んだ集会になっちゃう。

それから、「イエス様の再臨を待ち望むこと」とは、「今まで以上に『イエス様に喜ばれたい』と切に望むこと」です。それは、自分自身の気に入るようなことだけをするのじゃなくて、また人に気に入られるようなことだけをするのじゃなくて、ただ「みこころをかなうことだけをしなさい」という意味です。
人間を喜ばせようと思っても、もちろん無理。だれもできません。

「主よ、私はどうしたらいいなのでしょうか。あなたを喜ばせたいけど、どうしたらいいかわからないから、お示しになってください。」

と祈ると主は必ず恵んでくださる。

もう1つ、「今までよりも、救われていない家族・知り合いの人々のために祈ること」です。まぁ、この祈りとは、もちろん一つの戦いです。
多くの人は、「私は何もできない」と言うかもしれないけど、それは嘘なんです。だれでも祈ることができる。助けを求めることができる。悩んでる人々の救いのために、祈ることができるのです。
聖書の中で、よく「救い出せ」という表現が出てきます。失われているたましいの救いのために、祈り続けなさい。
主の愛の対象である、まだ光に照らされていない人々の救いのために祈り続けなさい。

マタイの福音書の中で次のように書かれています。

マタイの福音書9:36
36また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。

結局主の目から見ると、人間はみんな羊飼いのない羊です。羊飼いのない羊は、もうおしまい。何にもすることができないからです。
ですから、私たちも自ら尋ねるべきなのではないでしょうか。私たちが、心の支えもなく、生きがいのある人生を持たず、平和と真の喜びのない人々を見ると、どういう気持ちになるなのでしょうか。無関心なのでしょうか。
あるいは、彼らの「永遠のしあわせ」のために、本気になって祈り続けるなのでしょうか。

パウロは、

「私が福音を宣べ伝えてもそれは私の誇りにはなりません。そのことは、私がどうしてもしなければならないことであるからです。
もし福音を宣べ伝えていなければ、私は災いです。」

とパウロは言ったのであります。

最後にもう一箇所、読んで終わりましょうか。

コリント人への手紙第II、7:1
1愛する者たち。私たちはこのような約束を

・・・すなわちイエス様の再臨という約束を・・・

コリント人への手紙第II、7:1
1与えられているのですから、いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れかしこんで聖きを全うしようではありませんか。

ま、自発的に断固としてこの態度とる時にのみ、光の内を歩み、主に用いられるようになります。

だから、主にだけより頼みましょう。イエス様の再臨を喜びながら、期待しましょう。
また、失われたたましいの救いのために、祈りつづけましょう。




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