引用聖句:詩篇81篇10節-14節
今読んで来てくださった箇所は、3,000年前に書かれた箇所なんです。主の、人間ひとりひとりに対する呼びかけです。 「あなたの口を大きくあけよ。」、口の代わりに心と言ってもいいでしょうし、耳でもいいし、結局主は、わたしは満たしたいと望んでおられます。 すなわち人間とは喜び、死の平安、生ける希望に満たされなければ、もう全部面白くないのではないでしょうか。主は満たしたい。 この詩篇を書いたダビデはやっぱり満たされるようになったのです。 別の詩篇で彼は何と言ったかと言いますと、「主は私の羊飼いであられるから、乏しいことはない。」、結局意味は、私は喜びに満たされている。 先週、ある兄弟の葬儀だったんです。前夜祈祷式を彼の家でもつようになったんですけども、11年前のその日、あの家の献家式だったんです。 彼はあのところでおそらくよく知られ、尊敬された男で、けども11年前に、「近所の人々、親戚は何と言っても関係ない。この家はイエス様のものにささげたい。」 そして病気になり、見舞いに行ったとき彼ははっきり言ったんです。「長男はまだイエス様のこと知らないけど、私は頼む。ちゃんと頼む。自分の葬儀は御代田でやってもらいたい。」、やっぱり知り合いの人々みんな、イエス様のこと知ってもらいたいと切に望んだんです。そしてこういうふうになりました。 「私の人生にとって一番大切であったのはやっぱりイエス様との出会いです。これこそが最高の収穫だ。」と言われたのです。 本当にもう安心して死に向かうことができた。医者にはっきり断った。 「モルヒネ結構です。いくら痛くても結構です。モルヒネを飲むとやっぱりちょっと私はおかしくなる可能性がありますし、何も考えられなくなるから、やっぱり最期まではっきりと意識をもっててもらいたい。」と。本当にもうすばらしい証しでした。 結局彼は本当の意味で喜びと平安と希望に満たされていたのです。これこそが主の切なる願いです。 結局主は、「わたしがあなたの神、主である。わたしはあなたをエジプトの地から連れ上った。あなたの口を大きくあけよ。わたしが、それを満たそう。」 イスラエルの民はありがたいと思わなかった。これこそが詩篇の作者である悩みの種だけではなく主も考えられないほど悩んだのではないでしょうか。次の節に書かれているでしょ。 詩篇81:11
わが民、いわゆる無神論者たちではない。 詩篇81:11
聞こうとしない。 詩篇81:11
イスラエルは、わたしに従わなかった。従おうとしなかった。耳があったけど、聞く耳がなかったのです。 詩篇81:12-14
結局聞く耳がなければ、一番悩んでいるのは主ご自身なのではないでしょうか。 主の声を聞くことこそがもっとも大切なのではないでしょうか。 いうまでもなく私たちは今の耳で主の声を聞くことができない。もしそういう形で聞くことができても、ちょっと危ないんじゃないかな。なぜならば、これは主の声か悪魔の声かわからないのではないでしょうか。 この耳で主の声を聞くことはできないけれど、代わりに聖書が与えられています。聖書とは古いものでもないし、新しいものでもないし、永遠なるものです。ですから主は語っただけではなく、今日もみことばを通して語ってくださるのです。 イエス様の親戚でもあったんですけど、バプテスマのヨハネはちょうどイエス様よりも半年前に生まれたんです。そして彼の使命とは、預言された救い主の道を備えるように。 彼は荒野で生活して、ずいぶんの弟子たちもいたでしょうけれども彼は、「悔い改めなさい、悔い改めなければもう将来は真っ暗やみです。」 彼のメッセージはもうすごい結果をもたらすものだった。エルサレムの住民みんな、ユダヤに住んでる人々はみんなと聖書は言ってるんです。みんなとはみんなでしょう。 みんな彼のところへ行って、ヨルダン川で水のバプテスマを受けたのです。結局悔い改めなければ希望がない。悔い改める気持ちがあれば洗礼を受けなさい。 そして彼らは洗礼を受けたのです。もちろん当時の水のバプテスマとわれわれの受ける水のバプテスマとは違う。彼らは悔い改めるしるしとして受けただけで、われわれは赦しを得たしるしとして受けるのです。 彼らの受けた洗礼とは結局、受ければ主は恵んでくださるのではないかと素直に信じ、われわれは、主は恵んでくださったから受けるのです。 このバプテスマのヨハネとは、本当に自分のことを大切にしようとしなかったのです。普通の人間はやっぱり自分、自分、自分のことしか考えていないからやっぱり悩む。彼は違う男でした。 結局イエス様が現われたとき、自分の弟子は次々とさようならと言ってイエス様に従うようになった。人間的ならばちょっと面白くない。 今までみんな、「ヨハネ先生、ヨハネ先生。」って言って急に、「さようなら。」、けどもヨハネは喜んだんです。 みんなイエス様に従えば私は無視されても別に。このイエス様がお栄えになれば私は衰えなくちゃいけない。結果として彼は今話したまことの喜び、真の心の平安、生きる希望に満たされたのです。 ヨハネの福音書3章の中で彼は次のように告白しています。ヨハネの福音書3章の29節と30節です。ここで、花婿と花嫁という表現が出てきます。 ヨハネの福音書3:29
結局私は、 ヨハネの福音書3:29-30
結局イエス様とはもちろん贖い主であり、救い主であり、弁護をするお方であり、解放者と呼ばれておられ、また花婿と呼ばれています。そしてイエス様に属している人々とは花嫁であると聖書は言っています。 おそらく近いうちに起こる人類の決して経験しなかったことが起こります。すなわち花婿であるイエス様は花嫁を迎えるために来られます。これは聖書が言われている空中再臨と呼ばれているものです。 このヨハネとは、結局どうして喜びに満たされたかと言いますと、「私はイエス様の声を聞いている。」、結果として大いに喜びます。 結局喜ぼうと思えば重荷から、心配から解放されたいと思えば聞く耳をもちなさい。イエス様は確かに多くのことを話されたのです。 ひとつの誤解なのは、イエス様は色々なことを知らせるために喋ったのではないかと考える人もいますけれど違う。 イエス様は集まった人々に、「みなさんどう、今日の話ピンと来たの?明日の朝九時からまた説明しましょうか。」と一回も聞いたことがない。 わかっても、わからなくても関係ない。結局人間はひとつの教えを信じ込むことによって救われない。これこそが聖書の特別なものなのではないかと思います。 すべての宗教は結局、あなたは勉強して正しい教えを知らなければ、悟らなければダメと言います。 聖書だけは違うこと言ってるんです。知識じゃない。へりくだること。心の持ち方です。 ですからイエス様はどうして毎日色々なこと話されたかと言いますと、人間が何を信ずるべきかを知らせるためではなかったのです。 このヨハネの福音書15章の11節を見ると次のように書かれています。 ヨハネの福音書15:11
結局人間はまことの喜びに満たされるべきです。聖書全体を見るとわかる。主の声を聞くことこそがもっとも大切なのではないでしょうか。 イスラエルの民の初めての預言者とはサムエルという男でした。彼の祈りは有名になったのです。「主よ。お話しください。しもべは聞いております。」 彼は聞く耳を持っていたから、大いに祝福され、彼だけでなくイスラエルの民全体は祝福されたものになったのです。どうしてであるかと言いますと、彼らは聞く耳を持っていたからです。 主の声とはいったいどういう声だったのでしょうか。いうまでもなく力強い声です。 例えばヨハネの黙示録の1章を見ると次のように書かれています。そのときイエス様はもちろん十字架につけられてから復活なさり、昇天なさり、天に引き上げられたときの箇所です。 ヨハネの黙示録1:15
イエス様の声は大水の音のようであった。 ヨハネの黙示録1:17-18
死と死者の国のかぎを持っている。結局絶対的な支配者です。 弟子であるヨハネは結局主の声、力強い声を聞いたとき、もう死者のようになった。 周りの人々は思ったでしょう。「死んじゃった〜。」、けどそうではなかったのです。このヨハネはまた元気になったのです。 どうしてであるかと言いますと、結局主の声を聞いたからです。「恐れるな。わたしは、結局わたしは生きているから、最初であり最後であるから、もう心配する必要はない。」 主は、「わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。」、ヨハネはこの大水の音のような声を聞いたとき、死人のようになっただけではなく、主の声によってまた元気になったのです。 人間の声でさえも力をもつものなのではないでしょうか。人間の声を聞いて私たちもしばしばがっかりします。打ちのめされたような気持ちになります。何と多くの人が賞賛の言葉や批判の言葉によって動かされることでしょうか。 ある学校の先生は生徒に「あんたの人生はもうダメだよ。」とひと文章だけ言って、あの子は自殺してしまったのです。確かに人間の声は大きな影響力を持っています。ですから人間の声よりも主の声を大切にしなければ危険なのではないでしょうか。 マタイの福音書の中でペテロのことについて色々なこと書いていますけども、16章の15節から17節までちょっとお読みいたします。 マタイの福音書16:15-16
結局約束された救い主です。 マタイの福音書16:17
彼は啓示を受け、上からの光に照らされてこの事実を確信するようになったのです。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」、すごい。 このペテロは、けども本当は上から示されたから、この確信をもっただけでした。21節から見るとちょっとがっかりします。 マタイの福音書16:21-22
フランス語の聖書の訳はちょっと面白い。「ペテロは、イエスを抱きしめて、言った。『主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはない。』」 マタイの福音書16:23
ペテロは自分の心の声に負けてしまったんです。だからイエス様はペテロに向かって、「悪魔よ。サタン。下がれ。おまえは神のことを思わずに、人のことを思っている。」と言われたのです。 父なる神のみこころとはもちろんイエス様を死に渡すこと、殺すことだったんです。ペテロは、「とんでもない。死であろうと牢であろうと私は反対です。あなたは殺されないように。」 結局自分の声、心の声や他人の声だけではなく、悪魔の声もすごい力をもつものです。悪魔の目的は、私たちはいつも自分のことばっかり考え、自己決定や自己支配に陥ることにほかならない。 悪魔がこの目的を達成すると、もはや主の御声を聞くことができなくなります。したがって自分の心の声を否定し、他人の声にも動かされることなく、また悪魔の声に際しても耳をふさぐ者だけが主の声の偉大さ、主の声のすばらしさを体験することができるのです。 主の声の代わりに人間の声を大切にすることの結果は決して良くない。イエス様の霊によってではなく、自分の心の声によって動かされる者は、本当にあわれな者です。 みことばの上に立たず、悪魔のささやきに耳を貸し、それに従う者は道を誤り、騙されてしまいます。 イエス様の声をほかの声よりも大切にする者は本当に祝福されます。そのときにのみ奇蹟を経験することができるのです。 主の声とは確かに力強い声です。大水の音のように力強いものです。 もちろんそれだけではない。イエス様はみことばを読むと納得させる力をもつものです。使徒の働きの9章ちょっと見てみるとわかります。よく知られている箇所です。 使徒の働き9:1-5
このサウロ、あとのパウロは、「主に仕えたい。まことの神のしもべになりたい。」という切なる願いを持っていました。 そのため、パリサイ人たちと同じように厳しい神の律法を大切にした。聖書の掟だけではなく、ユダヤ教の自分勝手に作った戒めも非常に大切にしたのです。 イエス様が結局十字架につけられたのは良かったと彼は思ったのです。 結局イエス様は彼らの目から見ると、とんでもない男でした。例えば、平気で日曜日、安息日、そのときの土曜日でした。安息日でイエス様は平気で病人たちをいやしたのです。 これはユダヤ教の掟によると、絶対に許されていなかったのです。「ひどいよ。あの男は。イエス様は平気でらい病人に触ったのです。」、それも絶対に許されていなかったのです。 イエス様は結局こういう態度を取ったから、「あいつは絶対に約束された救い主ではない。かえって神を冒涜する者です。」とパウロは思ったのです。 イエス様は殺されたとき、やっぱり、「よかった、よかった。」と思っただけではなく、「あのイエス様を信じた人々はあんまりに頑固で悔い改めようとしないし、このキリストは復活なさった。と言い伝えるのはけしからん。だからこのイエス様に対する思い出を消すことこそが、自分に与えられている使命だ。」と思って、相変わらずイエス様を信じる者を結局迫害するようになったのです。 けどもイエス様の声を聞くことによって一瞬にして納得させられたのです。「主よ。私は何をしたらばいいのでしょうか。」と彼はイエス様に頼むようになったのです。 彼はローマ帝国の皇帝であるネロにとらわれたんです。刑務所に入るようになって結局殺されてしまいました。 けども彼は一回も、「私はネロのとらわれた者であると。」言ったことがない。誇りをもって、「私は主イエスの捕まえられた奴隷。イエス様に仕えるしもべだ。」と感謝するようになったのです。 どうしてこういうふうに変えられたかと言いますと、イエス様の声を聞くことによって彼の人生は180度の転回をし、そのことが絶えず喜び感謝することの秘訣だったわけです。 結局このパウロと同じように、「主よ。私はどうしたらいいのぉ〜。教えてください。」という態度を取ると大いに祝福されます。 主の声は今話したように、力強いものです。納得させる力をもつものです。それから、いのちを与えるものです。 ヨハネの福音書の11章43節です。 ヨハネの福音書11:43
このヨハネの福音書11章を読むと、本当にイエス様はすごーいとだれでも認めざるを得ないのではないでしょうか。 イエス様は宗教家ではなかったのです。だからできるだけエルサレムから離れたい。ベタニヤという小さい町に行きたいという気持ちでいっぱいだったのです。 エルサレムは宗教家たち、聖書学者たちの住んでた町でした。ベタニヤでだれが住んでいたかと言いますと、ひとつの家族と兄弟3人住んでたところです。マルタ、マリヤとラザロなんです。 そしてイエス様はしばしば彼らのところに立ち寄られ、すばらしい交わりをもっていたのです。彼らにとってイエス様の声こそが最大の喜びでした。 けどもあの家族は急に悩むようになったのです。ラザロは病気になりました。それだけではなくラザロは死んだんです。けどイエス様は死人に叫び、「出て来なさい。」と呼ばわれました。 死人はイエス様の声を聞くのです。そしてイエス様の声を聞くことによって死人は生き返ると、この11章の中ではっきり書かれています。 たとえば義務的に聖書を読んだり、集会に行ったりするようなことは、まさにいのちのない者、死んだ者にほかならない。イエス様の声を聞くことは、どうしても必要です。なぜならばイエス様の声はいのちを与える力をもっておられるからです。 もちろんイエス様の声は招く声でもあります。みなさん暗記してることばでしょう。 マタイの福音書11:28
もちろん肉体的に疲れた人じゃないよ。肉体的に疲れたら早く寝たら。一晩寝たら元気になるよ。人間のからだはそういうふうになっているんです。一晩寝れば元気になる。 けど、精神的に疲れると何ヶ月間寝ても無理。元気にならない。イエス様は精神的に疲れた人々を呼んだのです。 マタイの福音書11:28
当然です。「キリスト教にはいれ。」、じゃない。「教会に行け。」、なのでもない。「洗礼を受けるように。」、なのでもない。ただ、 マタイの福音書11:28
人間はみんな嘘つきであっても、偽善者であってもイエス様は違う!自分の約束を守るお方です。「わたしが休ませてあげます。」 結局苦労している者は、解放されるべきであり、重荷を負っている者は、休むべきです。 確かに今日、想像することもできないほど重荷となっているものが満ち満ちています。多くの信者でさえももはや本当の喜びを見いだすことが難しくなっています。多くの信者は聖霊の導きに対して心をかたくなにしてしまうのです。 イエス様に従うこと以外に楽しみを求めようとしている人もいる。意識して悪魔との関係を断ち切らない限り、私たちは悪魔の手玉にされてしまう。 現在、主イエス様との関係がどうであれ、自分の悩みと苦しみがどのようなものであれ、イエス様は呼んでおられます。「おいで〜。わたしのところに来なさい。休ませてあげます。」 イエス様の声とは本当に招く声です。それだけではなく、なぐさめを与える声なのではないでしょうか。ヨハネの福音書に戻りまして、 ヨハネの福音書11:23
ヨハネの福音書11:25-26
ヨハネの福音書11:40
ヨハネの福音書11:43-45
と書いてあります。このときマルタとマリヤとは、兄弟ラザロの死を非常に悲しんでいました。その状態はまったく望みのない状態だったのです。もっとも絶望的な状態になってしまったのです。 なぜならばラザロの死体は死んでから四日も経っていたために、すでに腐っていたからです。 けどこのようなまったく絶望的な状態の中にイエス様の声がはいってきました。「わたしはよみがえりです。」 人間の目には絶望的に見え、どうすることもできないような状態においても主の声は逃れ道を与えてくださいます。私たちがいかなる者であるかが大切なのではなく、イエス様がいかなるお方であるかということ。 すなわちイエス様がよみがえりであられることが一番大切です。 自分自身がダメな者であることを知り、沈んでしまう人も決して少なくない。すなわちそのような人たちは自分の無力さ、みじめさを知って、絶望的になってしまうのです。 そのような失望、落胆した者、絶望した者にとってただひとつの逃れ道はイエス様の声を聞くことです。 「わたしはよみがえりです。あなたのいのちです。」と主はなぐさめてくださるのです。 イエス様の声を聞くことこそが考えられないほど大切です。主の声とは確かに導く声、伴ないゆく声です。ヨハネの福音書10章を見ると次のように書かれています。 ヨハネの福音書10:27-29
イエス様の声を聞き、それに従う者は永遠の安全をもっています。イエス様の願いは、わたしたちを導き、伴ないゆくことです。 イエス様は決して私たちを奴隷のような束縛をすることを望まず、本当の幸せを思っておられます。イエス様こそが唯一のよい牧者であり、イエス様の声こそが導く声であります。 イエス様の声とは願う声でもあります。 ヨハネの黙示録3:20
イエス様は戸をたたいて、ラオデキヤの教会の戸だったのです。 イエス様は結局教会の中心、教会のかしらではなかったのです。追い出されたか自分で出たのかちょっとわからないけども、結局教会の戸の外でした。戸をたたいて、呼んでおられたのはイエス様です。 こういうふうにイエス様は常にまだ救われていない人々の心の戸をたたいておられ、その人がイエス様の声を聞いて戸を開けること、そしてその中にはいることを望んでおられるのです。 けどそれだけではない。ただ単に未信者の心の戸をたたいて、その人がイエス様の声を聞いてもらいたいだけではなく、信ずる者に対して、救われた人々に対してもその心の戸をたたいておられるのはイエス様です。 結局イエス様を支配するお方として、主として、主にすべての支配権をゆだねる用意のできている信者は少ないのではないでしょうか。それこそ少なからず信者がイエス様との生き生きとした交わりをもてないことの原因です。 ここでイエス様と食を共にすることとは、もちろんいっしょに食べることよりもイエス様との交わりをもつことを意味します。そして私たちと交わりをもつことこそがイエス様の心からの願いですから、主は私たちの心の戸の外に立って扉をたたき、呼んでおられるのです。 結局イエス様は私たちのような者とひとつになることを望んでおられます。イエス様は友と語り合うように、われわれと語ることを望んでおられるのです。前に読みましたヨハネの福音書3章30節に、 ヨハネの福音書3:30
という態度を取る者こそが、主の喜びに満たされるようになります。 イエス様だけが栄えることを切に望み、そのためにはいかなる犠牲をも払う覚悟をもつ。そのために自分が衰えることも厭わないという者こそ、完全なる満足を得ることができるのです。 イエス様は私たちともっとも親密な交わりをもちたいと願っておられます。それは私たちが主の前を光の中に歩むとき、すなわち隠された罪がなくなったときに初めて得られるものです。 イエス様との交わりは私たちが100%イエス様に拠り頼み、すべてを主にゆだね、明け渡したときに成就されるのです。 イエス様の声も昔と異なるところがないのです。イエス様の声を聞こうと思えば、その御声がほかのものよりも強いものであることがわかる。 イエス様の声はもちろん私たちをも納得させようとしておられるのです。いのちを与える主の御声は、私たちの生活をも満ち足らせようと願っておられるのです。 また、招いておられる主イエス様の声が、重荷を負って苦しんでいる人々を解放し、完全な安らぎを、また憩いとを与えてくださるものです。 また、なぐさめを与えるイエス様の声は、私たちが過去に犯した諸々の事がらを洗い流してくださり、私たちが完全にすべてを主に明け渡すことができるようにしてくださるのです。 結局、すべてを支配し給う、何でもできるお方は、どうしようもないわれわれとの生き生きとした交わりを望んでおられることとは、何という幸いであり、また幸せなのでしょうか。 |