あなたがたは一致を保ち


ベック兄

(深大寺家庭集会、2005/07/08)

引用聖句:ピリピ人への手紙2章1節-11節
1こういうわけですから、もしキリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、
2私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。
3何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。
4自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。
5あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。
6キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、
7ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。
8キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。
9それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。
10それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、
11すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。

ヘブル人への手紙の中で、「主イエスから目を離さないでいなさい。」ということばがあるのです。
イエスから目を離すと落ち込む。悩むようになると書いてあります。ですから、救われるためにもちろん必要なのは色々なことを勉強することではないし、立派になることでもない。もちろん金も要求されていない。十字架の上で犠牲になったイエス様を心の目で見るようになれば、必ず救われ、元気になるのです。
そして救われた人々たちももちろん同じではないでしょうか。イエス様を仰ぎ見ないとすぐぺちゃんこになる。心配する。

人間とは本当にかわいそうな者です。すぐ心配します。どうしましょう。という気持ちになるのではないでしょうか。
聖書の中で「乏しい」ということばがよく出てきます。ダビデという王様は、「乏しいことはない。」と言ったのです。もう満足し切っている。喜びと平安に満たされている。いったいどうしてでしょうか。
王になったからではない。主は私の羊飼い。私だって相変わらずどうしようもない、迷いやすい羊にすぎないけれど、大切なのは私ではない。心配してくださる、羊飼いなる主です。

ある人々は、「乏しいことはない。」と言います。目くらにされているからです。ヨハネの黙示録の中で、ある教会にイエス様は言わざるを得なかったのです。

ヨハネの黙示録3:17
17あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。

知っていれば問題ない。知らなければもう悲劇そのものではないでしょうか。イエス様を仰ぎ見ることこそがもっとも大切です。

詩篇の作者は、もちろんイエス様に対する預言です。「私は虫である。」、結局、イエス様とは結局そういうふうに取り扱われたのです。単なる虫にすぎない。まったく役に立たない。捨ててもいい。結局十字架につけろと当時の群衆は叫んだのです。
イエス様の心構えを持つことこそが大切です。今読んでもらいました5節でしたね。

ピリピ人への手紙2:5
5あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。

それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。
主によって用いられる人々とはもちろん確信している。「自分はダメなのです。」、けれど多くの人々は、もう少し頑張れば何とかなるのではないかと思っています。それは全部宗教の影響です。宗教だって夢の世界です。嘘の世界です。

アブラハムはすごい男でした。彼は命令されたから主に従ったのです。「あなたの国から出なさい。別のところに行きなさい。」、「いや。主よ。どこまでですか。」、「あなたは今知る必要はい。従いなさい。」、彼は従ったのです。ちょっと想像できない。
ステパノという男は、使徒の働きの中でイスラエルの歴史について細かく色々なことを証ししたのです。そのとき彼は栄光の神がアブラハムに現われた。それで彼の考え方、人生観、いっぺんに変わった。
栄光の神が彼に現われたから、もう彼は今まで拝んでいた偶像を捨てて離れたのです。そして彼はどうしてそんなに祝福されたかと言いますと、「私は頑張れば何とかなる。」という気持ちが全然無かった。「私はちり灰にすぎません。ゴミです。使い物にならない。どうしようもない者です。」、だから彼は大いに祝福されたのです。

結局人間はみな悩む者です。信仰があってもなくても。みな迷える羊のような者であると聖書ははっきり言っているのです。
このような人間にとって一番大切なのはいったい何なのでしょうか。すなわちいかなる内面的な心構えを持って道を歩むかということではないでしょうか。
頑張るから何とかなるという思いだけでは、色々な患難や問題を克服するのに決して決して十分ではない。問題を解決する方法は、結局イエス様について考えることであり、イエス様を仰ぎ見ることではないか。それによって人間は初めて元気になります。
イエス様は結局、「わたしは虫です。」、イエス様は心から言えたのです。「わたしは何もできません。あなたがたは何でもできると思っているでしょう。けれど私はダメなのです。私は毎日生きる希望について、神の国について話しますけれどもそれは私はよく考えたことではなく、祈りを通して父から教えられたことです。父に教えられたから私は話す。そうでなければダメ。」

確かにイエス様はおそらく毎日奇蹟をなさったのではないでしょうか。けれどもイエス様は、「それはわたしのできたことではない。誤解しないで。わたしを通しての父の働きの結果にすぎません。結局わたしは父から離れれば何にもできません。」
そしてイエス様は弟子たちに結局そういう心構えを持たないとダメと言われたのです。わたしはぶどうの木で、あなたがたはその枝です。だれでもわかる。枝は立派であっても、実になりそうと思っても、実にならない。食べてしまう。結局人間はそういう者です。

ですからイエス様を信じる者は、みんな暗記している個所です。わたしから離れたらあなたがたは何にもできない。
暗記しているけれどわかっていない。信じようとしない。だからみな相変わらず頑張って壁にぶつかるまで。それから初めて、いや、イエス様に頼らなかったから悪かったとわかります。
毎日やっぱり戦いの連続です。だからパウロはここで、イエスの心構えでいなさい。けれどもイエス様の心構えを得る道とはいったいどういうものなのでしょうか。

この手紙とはご存知でしょう。ピリピ人への手紙とは喜びの書簡、喜びの文、喜びの訪れと呼ばれているものです。本当にすばらしい手紙です。4章だけでも、読めば10分かからないかもしれない。
喜びということばが何回も何回も出てきます。それと同時にこの喜びの根拠なるものについても、すなわちイエス様のことばに尽くすことのできない大いなる愛についても、おもにこの今読んでもらいました2章に書き記されています。

今の世界とは、喜びに満たされている世界ではないでしょう。何時間前にロンドンでまた38人でしたか、死んでしまったし、怪我をされた人700人以上だったのです。今の世界は狂っている。
今からもっとひどくなると聖書は言っています。結局イエス様のことについて考えようとしないから。

今の時代でもっとも大切なのは、悩みながら、苦しみながら喜ぶことができることではないでしょうか。
聖書の中で、喜ぶべき大切さについて523回強調されています。ですから人間が喜ぶか喜ばないかはどうでもいいことではない。旧約聖書の中で358回、新約聖書の中で133回、「喜ぶ大切さ」について書いてあります。
パウロはこの手紙をどこで書いたかと言いますと、ローマの刑務所の中。いつ出られるかもちろんわからなかった。刑務所の中でもしかすると殺されるかもしれない。その状況の中で彼は喜びの手紙を書いたのです。

5節に宣べられているのはパウロの願い、パウロの心からの祈りだけではなく、主なる神ご自身のみこころそのものが書かれています。

ピリピ人への手紙2:5
5あなたがたの間では、

結局自由の身としている兄弟姉妹の間では、

ピリピ人への手紙2:5
5そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。

主なる神のご計画とは、もちろん人間のいわゆる救いだけではない。
ローマ人への手紙の中で、よく知られている個所なのですけれども、8章の29節を見ると次のように書かれています。

ローマ人への手紙8:29
29神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。

とあります。人間は確かに変わりやすいものですけれど、主は変わらない。主のご計画も決して変わりません。すなわち主の恵みによって救われた人々は、イエス様に御姿に変えられるようになるとここで約束されています。
主なる神ご自身の切なる願いは、私たちひとりひとりも主のがわに立つ者となり、妥協せず、イエス様を第一にする者となることです。だから使徒たちは手紙の中でときどき厳しいことばを使ったのです。
例えばパウロは、今度はコリントにいる兄弟姉妹に次のように書いたことがあります。

コリント人への手紙第II、6:16-18
16神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神はこう言われました。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
17それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、
18わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主が言われる。」

とあります。結局もうすでにイエス様の救いにあずかった人々にパウロは、彼らの中から出て行きなさい。彼らと分離せよ。汚れたものに触れないようにと書いたのです。
もちろん救われるためではない。もうすでに救われていたのです。用いられるために。祝福されるように。
パウロだけではなくほかの使徒たちも似ていることを書いたのです。ペテロが書いたことをちょっと見てみましょうか。

ペテロの手紙第I、2:9
9あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。

結局、どうして救われたかと言いますと、用いられるためです。主の道具となるためです。ひとりひとりを通して周りの人々がイエス様のみもとに導かれ、イエス様のすばらしさを知ることができるように主は望んでおられます。
イエス様の心構えを得る道とはいったいどういうものなのでしょうか。パウロはこのピリピ人への手紙の2章に、まことの一致を持つ必要性についてまず書いたのです。

ピリピ人への手紙2:2
2私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。

パウロはまことの一致についてここで3つのことを言っているのです。

第一番目。同じ愛の心を持つことです。
第二番目。心を合わせることです。
第三番目。志を一つにすることです。

パウロは今話したように、この手紙を刑務所の中で書いたのです。パウロももちろん普通の人間でしたから、刑務所の中で悩んだでしょう。苦しんだでしょう。心配したに違いない。
けれどこの手紙を読むとはっきり言えることとは、彼は自分のことをきれいに忘れ、自由の身となった兄弟姉妹の成長のために祈り続けたということです。刑務所から出られるように祈ってと、彼はひと言葉も書かなかった。

ピリピ人への手紙2:2
2私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。

同じ愛の心を持ちなさい。すなわちイエス様を通して明らかになった主なる神の愛を体験的に知ってもらいたい。それからこの愛を伝える器となってもらいたい。
もちろんピリピにいる人々にだけではなく、エペソという町にいる人々にもパウロは同じことを書いたのであります。

エペソ人への手紙4:2-3
2愛をもって互いに忍び合い、
3平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。

結局どうして救われたかと言いますと、ほかの信ずる者に祝福をもたらすために召されていると、使徒たちはみな口を揃えて言ったのです。
すなわち私たちを通してほかの主を信ずる者がイエス様とさらに深い交わりを持つようになり、兄弟姉妹と主とがさらに近づき、妥協せずに、喜びに満たされて信仰生活を送ることができるように。これはパウロの心からの願いでした。

主が人間ひとりひとりをどのように大切なものであるかと思っておられると、やっぱり主はひとりひとりを贖うために考えられない犠牲を払ってくださったのです。それを考えると私たちも、知るようになった人々を愛せざるを得ないのではないでしょうか。
いうまでもなく自分の愛でもって何にもできません。人間の持っている愛とは自己中心的です。愛されればもちろん愛します。捨てられれば、結構です。だいたいそういうものです。
ローマ人への手紙の5章5節に非常に、愛について考えるとこの個所をどうしても一番大切にしなくてはいけないのではないかと思います。

ローマ人への手紙5:5
5私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

自分のいわゆる愛とはちっぽけなものです。神の愛の大きさ、深さ、広さをもちろん想像できません。
主なる神は兄弟姉妹に対して最大の関心を払っておられます。だからわれわれの最大の関心事も区別なしに兄弟姉妹を心から受け入れるということでなければならない。パウロは刑務所の中で、同じ愛の心を持ちなさい。と書いただけではなく、第二番目、心を合わせてもらいたい。同じ目的を目指して走ろうではないか。

例えばもし一緒に音楽をしようと思えば、何とかなるとおそらく思わないでしょう。まず音程を一つに合わせるのではないか。そうしないとちょっと大変な問題になるのではないでしょうか。
そうするともう、いくら上手い指揮者であっても何にもならない。結局、人間はみんな違うし、考え方も違うし、感じ方も違うし、みんな同じようにならなくてもいい。
けども同じ目的を持たないとダメ。目的とは何であるべきかと言いますと、結局イエス様を喜ばせたい。

イエス様を知らない人々はやっぱり導いてもらいたい。家族みんな救われてもらいたい。こういう目的を持つとやっぱり簡単に一つになる。やっぱり自分の祈りだけでは十分ではないと認めざるを得ない。
詩篇の作者であるダビデは書いたことがあるのです。みんな知っている個所です。

詩篇133:1
1見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。

今の世界はバラバラです。多くの家族もバラバラです。結局大変なのです。一つになると、これこそもっともすばらしいあかしのひとつではないでしょうか。
詩篇34篇の3節。ダビデは、もちろん前に話したように、主は私の羊飼いですから、乏しいことはないと喜んで言うことができたし、一人で彼は何回も何回も主を賛美したのですけれど、ここで彼は急にやっぱり一人だけではちょっと良くないと思ってしまったから、

詩篇34:3
3私とともに主をほめよ。共に、御名をあがめよう。

結局、一緒になろうよ。一緒に賛美しましょうよと彼は願ったのです。結局心と声を合わせてください。これはパウロの願いであり、またこれこそが主ご自身の命令そのものです。どうして命令されるの?祝福の秘訣だから。
一緒になって奉仕したり、共に働いたりすることはできるけれど、心の一致がなければ全く役に立たない。一致のあるところのみ、・・・

(テープ A面 → B面)

・・・の特徴とは何だったかと言いますと、彼らは一つでした。
使徒の働きの1章を見ると次のように書かれています。

使徒の働き1:14
14この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念していた。

とあります。結果はご存知でしょう。五旬節でした。まことの教会が生まれたのです。けれどもそのために彼らはみんな一つになったのです。ちょっと考えられないことでした。
ここでイエスの兄弟たち、イエス様は兄弟が何人いたかちょっとわからない。けれども聖書は、弟さんたちは少なくとも4人でした。名前が全部書いています。それから姉妹たちとなっているのです。ですから少なくても2人でしょ?複数形ですから。6人だったかもしれない。

イエス様は本当に色々なことで悩みました。イエス様とマリヤとの関係は、初めから問題なかった。マリヤはもちろん貞潔したのです。男との関係がないのに妊娠したのはやっぱりあり得ない。奇蹟そのものです。身を持って彼女はそれを経験したから、初めからイエス様こそが旧約聖書で預言された救い主であると疑わずに信じたのです。
けれどもイエス様の弟、妹さんたちはダメでした。あるとき、無理しても家に帰れと言ったのです。そのときイエス様は変わったことを言ったのです。「わたしの家族だって、だれでしょうか。父のみこころを行なう人々です。」、血のつながりだって関係ない。
けれどもここでイエス様の兄弟たちは一緒になってしまったのです。イエス様は生きている間にそれを経験しなかった。イエス様にとってもつらかったと思います。

イエス様は変わった方でしょ。喧嘩相手になりませんでした。弟さん、妹さんと喧嘩しようと思ってもダメでした。結局喧嘩相手でさえもならなければ、もうどうしようもない。
けれども彼らはみんな導かれたのです。どういうふうに導かれたか聖書は言っていない。けれどもいわゆるよみがえりの書、コリント人への手紙第Iの15章の中で主イエスは、復活なさったイエス様はヤコブに現われたと書いてあるのです。それはイエス様の下の弟でした。
イエス様はこのヤコブに現われた。それで彼は瞬間的に変わった。もちろん、ひざまずいたでしょう。「ごめんなさい。あなたを誤解し続けたし、本当はねたむ気持ちもあった。けれど悪かった。」、イエス様は必ず、「OK。喜んで赦す。今から初代教会の指導者のひとりになってもらいたい。」、彼は大いに祝福されたのです。

しばらくだけだったのです。あとで殉教の死を遂げたのです。イエス様のためだったら私は喜んで犠牲になる。死ぬと彼は思うようになったのです。ここで、

使徒の働き1:14
14この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念していた。

一つになることこそが考えられないほど大切です。まことの一致とは、同じ愛の心を持つことであり、心を合わせることであり、もう一つ、志を一つにすることです。
志を一つにすることは何を意味しているのでしょうか。すなわち、イエス様のうちに見られる心構えを持つことです。つまりイエス様のように人を見なさい。イエス様のようにこの見える世界を見なさい。イエス様の持っておられる要求を持ちなさいということです。
確かに今日だけではなく、当時も信ずる者の中でふた種類がいました。いつもそうでしょう。ピリピ人への手紙の2章20節と21節を見ると次のように書かれています。ふた種類の信者について、

ピリピ人への手紙2:20
20テモテのように私と同じ心になって、真実にあなたがたのことを心配している者は、ほかにだれもいないからです。

ちょっとさびしいことですけれど。パウロとテモテは全く一つでした。

ピリピ人への手紙2:21
21だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません。

けれども彼らもイエス様を一度救い主として受け入れた人々でしたし、心からイエス様を信じた人々だったのですけれど、結局イエス様のことよりも自分自身のことを求めたのです。
覚えるべきことは、自分自身を無にして、主の栄光を追い求めるということによってのみ、志を一つにすることができるということです。

あるときペテロはイエス様に聞いたことがあるのです。別の弟子ヨハネのことを指して、「あのヨハネとはどうですか。」、イエス様は、「それはあなたの問題ではない。あなたはわたしに従いなさい。」
いうまでもなくヨハネのようになりなさいとイエス様は言いませんでした。ヨハネはヨハネ。ペテロはペテロ。

コーラスの中には色々なパートがあります。主なる神は賛美が一本調子ではなく、互いに調和を保ちながら、美しいハーモニーを奏でることを望んでおられます。
天国の賛美、どういうことになるかちょっとわからないけれど、すごい。メサイアのためにまた明日みんな御代田まで行くのです。練習、練習、練習、もう大変です。ほかのためにあんまり暇が無くなってしまうし、上手くいくかどうかわからないし。そうでしょう?

百何十人だけです。天国で何百万人も。数えられない。練習必要ない。みんな上手く何でも弾けます。想像できない。もちろん指揮者も必要ない。みんな完全でしょう?
いやー、もう・・・期待を持ちましょう。心を一つにすることとは本当に大切なのです。
もう一節読みましょうか。

ピリピ人への手紙2:3
3何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。

どうしてパウロは急にそういうことについて書いたかと言いますと、心の一致の土台とは、心の謙遜であるからです。謙遜のない一致は本物ではない。偽りものです。にせものです。自己中心や虚栄からすることによって、結局良いものは出てこない。分裂が生じて来ます。
自分自身のことを求めることの反対は何でしょうか。もちろん謙遜です。
イエス様は証ししました。人間は決して決して言えないことです。すなわちイエス様は、「わたしは心からへりくだっている。」

もしそれを人間が言うともうみんな笑います。何という傲慢な奴だ。完全に目くらにされているではないか。一緒に住んでいる人々に聞こう。
イエス様だけが、「わたしは心からへりくだっている。」と言えたのです。ですから私たちはイエス様のことをいくら考えてもつかめない。想像できない。理解できない。われわれと全く違う。
「わたしは心からへりくだった者。わたしは自分の意思を追求しない。父のみこころだけを求める。」とイエス様は証しすることができたのです。

何回も何回も聖書は言っているのです。すなわち、われわれの最大の敵は自分です。自分の自我です。自分の自我とはイエス様のために全く役に立たない。聖書は、「死に価するものです。」
したがって勝利の秘訣とはパウロはよく言ったのです。例えば、

ガラテヤ人への手紙2:20
20私はキリストとともに十字架につけられました。

もうアウトです。

ガラテヤ人への手紙2:20
20もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。

バプテスマのヨハネも同じようなことを言ったことがあります。

ヨハネの福音書3:30
30あの方は

このキリストだけが

ヨハネの福音書3:30
30盛んになり私は衰えなければなりません。

イエス様は、わたしは心からへりくだった者ですと言えたのです。悪魔はもちろん正反対です。悪魔は高ぶりそのものです。決して「ごめんなさい。」と言いません。何があっても頭を下げたくない。「ごめん。」と絶対に言わない。
確かに多くの人々の特徴は、自分、自分だけのことを考えることです。だから問題が出てきます。上手くいかない。
悪魔はどうしてイエス様に対して何もできなかったかと言いますと、イエス様は、わたしは心優しく、へりくだっているという態度を取ったからです。

イエス様の心構えを得る道は、今話したように、兄弟姉妹との一致を持つことであり、心の謙遜を持つことであり、もう一つでしょうか、成熟することです。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。
大人になった人はほかの人の面倒を見ることができる。生まれたばかりの赤ちゃんは決してほかの人のために心配しません。自分のことしか考えられない。
けれど多くの信ずる者もなかなか大人になれないで、成熟しないのではないでしょうか。ヘブル人への手紙5章を見ると、当時そういう人々がいっぱいいたようです。

ヘブル人への手紙5:11-13
11この方について、私たちは話すべきことをたくさん持っていますが、あなたがたの耳が鈍くなっているため、説き明かすことが困難です。
12あなたがたは年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるのです。あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要とするようになっています。
13まだ乳ばかり飲んでいるような者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。

母親は自分の家族のことを考えて心配します。大人になったからです。例えば、家族みんな食べたあとで食べ物が残らなくても、母親は、「もういいよ。」、満足する。
子どもが病気になるとお母さんは知らん顔をすることができない。自分も寝られなくなってしまう。結局子どものために心配し、自分のことは別にどうでもいい気持ちになる。このピリピ人への手紙の2章4節に、

ピリピ人への手紙2:4
4自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。

とあります。そうすれば、ほかの人々だけではなく、自身も大いに祝福される。

主イエスのうちに見られる心構えでいなさい。「よし。頑張ろう。」ではない。「自分はできないから、だからイエス様。よろしく。良い牧者として迷える羊である私をお導きになってください。お守りになってください。用いてください。」という態度を取ると主は大いに喜んでくださいます。




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