拒まれた愛、追い求める愛、勝利の愛


ベック兄

(深大寺家庭集会、2005/08/29)

引用聖句:・ホセア書2章16節-20節
16その日、――主の御告げ。――あなたはわたしを『私の夫』と呼び、もう、わたしを『私のバアル』とは呼ぶまい。
17わたしはバアルたちの名を彼女の口から取り除く。その名はもう覚えられることはない。
18その日、わたしは彼らのために、野の獣、空の鳥、地をはうものと契約を結び、弓と剣と戦いを地から絶やし、彼らを安らかに休ませる。
19わたしはあなたと永遠に契りを結ぶ。正義と公義と、恵みとあわれみをもって、契りを結ぶ。
20わたしは真実をもってあなたと契りを結ぶ。このとき、あなたは主を知ろう。

詩篇18:36、46
36あなたは私を大またで歩かせます。私のくるぶしはよろけませんでした。
46主は生きておられる。ほむべきかな。わが岩。あがむべきかな。わが救いの神。

引用聖句の詩篇の個所はダビデの証しであり、また告白です。3,000年前の証しです。

詩篇18:36
36あなたは私を大またで歩かせます。私のくるぶしはよろけませんでした。

そして46節。

詩篇18:46
46主は生きておられる。

イエス様は天にお帰りになってから弟子であるヨハネに言ったことがあります。「わたしは死にましたが、見よ。いつまでも生きている。」、主は生きておられる。聖書とは結局この主の愛の申し出です。驚くべき愛の申し出そのものです。
人間はよく「救い」という言葉を使います。何か上手くいけば、「救われた。」と言いますけれど、だいたいそういう救いとは一時的な問題の解決に過ぎない。聖書の言っている救いとは全く違うものです。永遠なるものです。
まことの救いとは死んだ冷たい形だけのものではない。また、決まった形式でも儀式でもない。また聖書は法律の本でもないし、たくさんの戒めでもない。決してそうではありません。

まことの救いとは人の心の中に住む主なる神のいのちそのものです。そしてこのいのちとはいうまでもなくイエス様です。イエス様は「わたしはいのちそのものである。わたしを信ずる者は死んでも生きる。」すなわち救いとは、救い主であります。
ですからダビデはもうすでに3,000年前に、「主は私の力であり、ほめ歌である。主は私の救いとなられた。私は救いを得たよりも主は私の救いそのものとなったのです。」
ですから初代教会の人々は喜んで告白しました。「主イエス以外に救いはない。」、にせものはいっぱいいます。ご存知のように、にせものを得るために確かに勉強しなければならない。努力して立派にならなくてはいけない。プラスアルファ、お金までも要求されています。にせものを得るために。

本物を得るために、別に聖書の知識がなくても、立派にならなくても、金も必要ない。本物はただなのです。これこそが聖書の喜びの訪れではないでしょうか。
どうしてそんなに簡単なの?と確かに多くの人々は聞くのです。どうして簡単かと言いますと、イエス様は殺されたからです。いかに殺されたのか。生きている間につかめません。考えられません。天国に行ってからも永遠に亘ってそのために感謝せざるを得なくなるに違いない。
結局イエス様はわれわれのわがままにために十字架につけられた。イエス様は葬られ、結局全ての人間のために死の刑罰をお受けになったのです。けれどもイエス様は今話したように、死んだままではなかったのです。よみがえられました。主は生きておられます。そして今日も支配しておられます。

今日来られた人々は、やっぱりイエス様をよりよく知りたい気持ちを持ち、あるいは仕方がなくて、誘われたから来た人もいるでしょうし、けれども関係ない。
言えることとは、背後にイエス様は目的をもって導いてくださったということです。イエス様にとって人間は考えられないほど大切です。それを少しだけでも知るようになれば、やっぱり嬉しくなってしまう。希望が湧いて来ます。
初めに読んでもらいました個所、ホセア書でしたか。もう一回読みましょうか。

ホセア書2:19
19わたしはあなたと

あなたとは単数形です。複数形ではない。すなわち主にとって人間ひとりひとりが大切なのです。ひとりひとりは全く個人的に愛されている。想像できない。考えられない。けれどもそうなのです。だからここで単数形で書かれています。

ホセア書2:19
19永遠に契りを結ぶ。

あなたの今の一時的な問題を解決するのではない。結局、一時的な問題が無ければ永遠なる救いに対して心は開かれない。悩むこととは本当に恵みであり、祝福です。結果として祈るようになれば、求めるようになれば必ず大いなるものを得ます。わたしはあなたと一時的な問題を解決するのではなくて、

ホセア書2:19-20
19正義と公義と、恵みとあわれみをもって、契りを結ぶ。
20わたしは真実をもってあなたと契りを結ぶ。このとき、あなたは主を知ろう。

主についての知識を得るのではなくて、ご自身を知るようになる。そのずっと前にヨブは同じことを経験した男でした。
ヨブという男は非常に幸せな人間でした。どうしてなったか聖書は言っていません。けれども当然です。
彼はやっぱり色々なことで悩むようになり、苦しむようになり、祈るようになり、主の恵みを経験した。そのあとで彼は、やっぱり主を恐れるようになったから主はある意味で誇りをもって悪魔に言ったのです。

「わたしのしもべであるヨブを見ただろう。このような謙遜な男、正直な男、わたしを恐れる男はいないだろう。」、と言われたとき悪魔は、ご存知でしょう。何と言ったかと言いますと、
「当然だよ。無理もないよ。あいつは問題を持っていないだろう。今。元気な子どもを十人も持っているし、大金持ちだし、病気も知らないし、そういう気持ちだったら信ずるのは当たり前。けれども彼の持っているもの、ちょっとだけ。全部取られれば彼は自分の信仰を捨てます。あなたのことをのろうようになるに違いない。」

主は何と答えたかと言いますと、「結構です。彼の持っているもの、全部取ってもよろしい。わたしはヨブのことわかる。」、そして悪魔の攻撃の結果として彼は全部失ったのです。短い間に。
結局その報告を聞いたのは彼は2、3時間以内です。ひとりの人を報告して、あなたの財産、この財産とあの財産全部無くなってしまった。彼は話している間に、説明している間に次の人が飛んで来た。実はあなたの10人の子どもは死んでしまった。云々と。全部2、3時間以内に。
それから彼は急に病気になってしまった。どうしてなのかわからないけれど。結局、もうダメ。奥さんは、本当は奥さんというのは助け手であるべきなのですけれど、まともな女性だったと思うけれど、現実を見て、「もうダメ。あなたの信仰だってわかるでしょう。全く意味のないことです。神をのろいなさい。そして自殺したほうがいい。」、どうせダメだからです。

結局、現実を見ると彼女の考え方はまともでした。けれども彼は、現実はどうであれ、「私の信じている主は変なことをなさいません。私は今わからないだけで、けれどもいつかわかる。それでいいだろう。」という態度を取った。
結局主は与えた。主は取られた。彼は全部主のせいにしたのです。ある意味でそうだったでしょう。悪魔の願いどおりになってしまったのです。主は許したからです。
けれどもこのヨブはあとで何と言ったかと言いますと、「今まで私は主のことをもちろん聞いたし、信じましたし、けれども今振り返ってみると、単なる噂のようなものに過ぎなかった。今私は本当の意味で主を知るようになった。」

ここで、「あなたは主を知ろう。」と書いているのです。ヨブは主を知るようになった。そして、「やっぱり良かった。」と彼は言わざるを得なかったのです。
それから何ヶ月、何年間経ったかわからないけれど、色々なことがあったでしょう。ヨブはとんでもない罪を犯したのです。彼は罪としてもちろん長い間認められなかったのです。彼は自分の友だちのために祈らなくなってしまった。

そして主は、「これは罪だよ。」と言ったのです。その友だちとは彼を攻撃するようになったのです。「こんな不幸を経験するのは、やっぱりとんでもない罪を犯したはずです。悔い改めなさい。結局あなたのせいだよ。」
ヨブは、「違う。」と言っても結局通じなかったから彼はもう、あの友だちだってもういい。関係を持ちたくないだけではなくて、祈らなくなってしまった。そして主は、「ヨブ。あなたは祝福される妨げになっている。またあの変な友だちのために祈ったら。」
「あ、そうか。」、それから祈ったとき初めてまたあふれるばかりの祝福が流れた。財産は倍になった。倍。また10人の子どもが生まれてしまったし、もう彼は幸せそのものになった。

彼は主を知るようになった。主を知ることこそがもっとも大切ではないでしょうか。もちろん主を知ることとは、主のことをわかることではない。
だれも主を知りません。私たちと全然違うお方です。人間の考えと神とは存在していない。もっともっと偉大であるからです。主を知ることとは結局、主は忠実です。主は自分の約束を守るお方であるという確信をもつことではないでしょうか。
この主は結局人間ひとりひとりに契りを結びたいとホセアは言ったのです。すなわち主は心から願っておられます。私たちはそれに対してどのような答えをするのでしょうか。

このホセア書は家へ帰ったらちょっと全部お読みになってください。そんなに30分もかからないと思います。私はときどき、もちろん大変忙しくて、とんでもない話ですけれど、この日々の光、それぐらいだったら、みんな時間を作ろうと思えばできます。
本当に大切ですけれども、ときどき1時間暇があれば、今日聖書の中のひとつの書。初めから終わりまで読もうと決心すると本当にいい。
このホセア書とは、私がむかし大好きになった本なのですけれども、どうしてであるかと言いますと、ほかの預言者の書いた本とちょっと違う感じなのです。ひとつの愛の物語ではないでしょうか。このホセア書の中で3つの愛について書き記されています。

第一番目。拒まれた愛について。
第二番目。どこまでも追い求める愛について。
第三番目。勝利の愛について書かれています。

初めに、ちょっと拒まれた愛について考えてみたいと思います。
唯一のまことの神はもちろん宗教と関係のないお方です。無宗教です。この方は、結局全人類を救うために全世界の国民の中からひとつの国民を選んだのです。
そしてこの国民に救いの道を示した聖書を与えました。聖書はユダヤ人に与えられているものです。主によって遣わされた預言者たちとは、みなユダヤ人だったのです。主は特に選ばれたイスラエルの民と深い心の交わりを持ちたく願っておられたのです。

彼らはほかの国民よりも偉いのではない。ほかの人々よりもすばらしいのではない。どうして選ばれたかと言いますと、聖書の中でよく出てくる文章なのです。すなわち、あなたがたはわたしに対して最初の国となり、また聖なる民となる。徹頭徹尾わたしのものになってもらいたい。用いられるためです。
このように主はイスラエルの民と深い交わりを持ち、このイスラエルという民を通してご自分の力、ご自分のご栄光を現わそうと思ったのです。もちろん現わそうと思っただけではなくて出来たのです。けれども途中でダメになったのです。
この民は主から離れ、いわゆる人間の作った偶像を礼拝するようになったのです。まことの神と親しい交わりを持っていたこのイスラエルは偶像礼拝者になってしまったのです。

この主なる神からの堕落、主の愛を退ける心、これをホセアは姦淫の罪と名づけたのです。限りない深い愛を拒み、退けるのは罪の名のつくものの中で一番大きな罪であると聖書は言っていますけれど、自分から離れ、堕落し、そむいていたイスラエルの民に対する神の態度とはどうだったのでしょうか。
主はそむきの民を見捨てないで、なお関心を持っておられ、この預言者であるホセアをこの民に遣わしたのです。
このホセアは口先で語るばかりでなく、身を持って国民の罪を示すべく、主の遣わされた人でした。ちょっと3章を見てみましょうか。

ホセア書3:1
1主は私に仰せられた。「再び行って、夫に愛されていながら姦通している女を愛せよ。ちょうど、ほかの神々に向かい、干しぶどうの菓子を愛しているイスラエルの人々を主が愛しておられるように。」

ホセアは自分の子どもに喜びの名を付けて、その誕生を祝うことを許されなかったのです。彼は自分の子どもに恐ろしい名前を付けなければならなかったのです。
どういう名前であったかと言いますと、「滅び」、「あわれみなく者」、「神の民でない者」などという名前を付け告げ示したのです。
そのときイスラエルの民のある者はホセアのことをあざ笑ったでしょう。馬鹿ではないか。何をしているのか、あいつは。ある者は無関心に聞き過ごしたし、まことに自分の悪かったことを主に悔い改め、主に立ち返った人は本当にわずかでした。

主はホセアの子どもの名前を通して、イスラエルの民はまことの神を離れ、偶像礼拝を発したがゆえに、わたしはイスラエルの国を滅ぼし、イスラエルの家をあわれまず、イスラエルの民をもはやわが民と呼ばない。このように、そむきの民、イスラエルの民に語りかけたのです。

ちょっとだけ私たちのことについて考えましょうか。私たちひとりひとりは主の御前にどのような状態、どのようなところに立っているのでしょうか。
聖書は、生ける救い主なるまことの神に立ち返っていない人々はいのちの泉である主から遠く離れている。聖なる主の前に罪がある。だから怒りのもとにいる。主なる神のいのちから遠く離れているから、神とともにない者、未来においても神のない、望みのない者であると言っています。
私たちがどんなに高い道徳生活を送っても、もし生きるまことの神の心を受け入れていなければ主の怒りのもとにあります。これは私たちが認めても、また認めなくても事実です。神のことばである聖書はそう言っているから動かすことのできない事実です。

唯一のまことの神は、イエス様を自分の救い主として受け入れたくない者、イエス様は自分の罪やわがままを赦し、永遠のいのちを与えてくださったと確信を持たない者は、イエス様の血潮は全ての罪から自分を聖めてくださると信じたく人は、確かに永遠の滅びに向かって歩んでいる人であると聖書は言っています。
この主のみことばに対し、私たちはどのような態度を取るのでしょうか。このみことばを私たちはあのイスラエルの民のようにあざ笑い、無関心に聞き過ごし、またはこのことばに逆らうのでしょうか。
それとも、「イエス様。聖書はあなただけが私を救うことができ、私のわがまま、過ちを赦し、永遠のいのちに導いてくださることができることを告げています。どうか私の罪を赦し、神の国に導いてください。」と主に祈るのでしょうか。もしこの信仰に立つならば、心は喜びに満たされ、詩篇の作者が歌ったように、

詩篇32:1-2
1幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。
2幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。

ホセアは一番目に今話したように、拒まれた愛を語っているだけではなく、第二番目、どこまでも尋ね求める愛を語っています。
イスラエルの民は前にエジプトの国にとらわれ、奴隷としてひどい生活を送っていたことがありました。けれど主はこの民をあわれみをもってエジプトの国から、奴隷から救い出してくださったのです。
けれどどうでしょう。主の恵みをすぐに忘れてしまった民は荒野で偶像を作り、これに拝むという恐ろしいことをいたしました。

主はこのイスラエルの民に対して、わたしはあわれみの綱。すなわち愛のひもで彼らを導いた。わたしは限りなく愛をもってあなたを愛している。それゆえわたしは絶えずあなたに真実を尽くしてきたと深い愛を現わしておられます。このはかり知れない主の愛に対するイスラエルの民の態度は不真実と堕落でした。
一番深い罪は愛にそむく罪です。母親がその子を力の限り愛しているのに、その子が母をあざ笑うなら、それはどんなにお母さんの胸を痛めるでしょう。妻が夫を心から愛しているのに、夫は妻を顧みず、ほかの女に走るなら、それは妻に対するはかり知れない打撃であり、罪であると言わなければならない。
イスラエルの民はこれに似たことをしてしまったのです。自分を愛してくださる救い主なる神を足蹴にしてしまったのです。主は愛したけれどそむかれました。けれどこの主の愛はそれでとどまることをせず、そむいた民を追い求めて止まない愛に変わっていったのです。

人間の愛は愛する価値のある者しか愛することができないでしょうけれど、主の愛が、堕落し主の愛を受ける価値のなくなった者を愛し抜いています。
人間の愛は愛の答えをくれる者に向かっていきますが、主の愛は、愛してもそれもなお拒む者に向かって働きます。堕落し、そむき去ったイスラエルの民に向かって、主はこの預言者であるホセアの驚くべき愛のみことばをのべておられたのです。

ホセア書2:19-20
19わたしはあなたと永遠に契りを結ぶ。正義と公義と、恵みとあわれみをもって、契りを結ぶ。
20わたしは真実をもってあなたと契りを結ぶ。このとき、あなたは主を知ろう。

裏切り、そむき去る民に対して主は何という愛を示したのでしょうか。このはかり知れない愛をもって主はもちろんわれわれをも愛しておられます。
主は昨日も今日もいつまでも変わらないお方であるから主の愛ももちろん変わりません。主は私たちをみこころを留めておられます。
創造主なる神、また支配しておられる唯一のまことの神は私たちにご自分の愛を示されるためにひとり子であられるイエス様をこの世にお遣わしになりました。主はイエス様をわれわれに遣わし、ご自分と私たちを和解させ、・・・

(テープ A面 → B面)

・・・人間は確かにみんな色々なことで悩んでいますし、苦しんでいます。どうしてであるかと言いますと、必要からです。祈りのための材料として与えられているからです。

イエス様は、「わたしのところに来なさい。わたしに拠り求めよ。たとい、あなたの罪は緋のようであっても、雪のように白くなる。紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」と約束しておられます。
人が滅びに至る近道は殺人を犯したり、姦淫を犯すことではない。この主の愛の申し出を断ることこそ、永遠の滅びに至る一番の近道ではないでしょうか。

ホセアはこのように、拒まれた愛、それから追い求める愛について語っただけではなく、最後に第三番目ですけれど、勝利の愛についても語っています。
イスラエルの民が不真実であり、堕落していたにも関わらず、この民を愛する主の愛はとどまるところを知りませんでした。ご自分の愛を拒み通すイスラエルの民に対して主は何と言っているのでしょうか、ホセア書の14章の4節を見ると次のように書かれています。

ホセア書14:4
4わたしは彼らの背信をいやし、喜んでこれを愛する。

そむきつまずいたイスラエルの民はこのはかり知れない愛のことばを耳にしたとき、主の愛に砕かれ、打ち負かされ、「私の不義をことごとく赦してください。」と答えずにはおられなかったのです。
人間の想像を絶するはかり知れない主の愛は、人の全ての罪を押し流し、そむきをいやし、つまずきを取り除かれました。

ホセア書2:19-20
19わたしはあなたと永遠に契りを結ぶ。正義と公義と、恵みとあわれみをもって、契りを結ぶ。
20わたしは真実をもってあなたと契りを結ぶ。このとき、あなたは主を知ろう。

主を知るとは何を意味しているのでしょうか。それはイエス様と私たちとの深い交わりを意味しています。
よみがえられた主イエス様との交わりのあるところには、本当の喜び、平和と平安があります。またイエス様との交わりのあるところ、私たちの貧しさは主の富によっておおわれ、どこへか行ってしまいます。
イエス様が地上で生きておられたとき、そこにひとりの重病人が、らい病人がやって来ました。「主よ。みこころならばいやしていただけるのですが。」と願ったときイエス様は、「わが心なり。きよくなれ。」と御声をおかけになり、その男のかしらに手を置いて言われたとき、らい病は直ちにいやされたと聖書は言っています。

今日でもイエス様のみもとに行って、「イエス様よ。みこころならば契りを結ばせ給え。」と申し上げるならば、イエス様は間違いなく、「わが心なり。汝はわがものなり。」と言われるに違いない。
イエス様がわれわれを限りなく愛しておられるという、動かすことのできない証拠があります。それはイエス様が私たちひとりひとりの身代わりとなり、われわれの過ち、わがまま、罪を全部背負って、ゴルゴタの丘の上でご自分のいのちを捨ててくださったという事実です。
イエス様はご自分のいのちをかけて、われわれのような者を買い取り、契りを結ぼうと言われます。何という驚くべき恵みの申し入れでしょうか。これはあたかも王様が見捨てられた乞食の娘に求婚するようなものです。

イエス様は私たちが申し入れを受け入れることを心から願っておられます。もし自分の悩みを、また自分の罪をもってイエス様の御前にそのまま出て行くなら、イエス様はご自分をあなたにお与えになります。あなたは罪の赦しと永遠のいのちを受けます。
そしてイエス様は呼びかけておられます。すなわち、「わたしはあなたの罪を二度と思い出さない。あなたの過ちを決して心に留めない。」と言われます。
イエス様を知りたい。イエス様を深く自分のものにしたい。イエス様の愛を知りたいと願わない人がいるのでしょうか。私たちはイエス様無しに永遠に滅んで行かなければならない。これは私たちの深く知るところです。

私たち全部が驚くべき救いの喜びにあずかるためにホセアは叫んだのです。主の声として。「わたしはあなたと永遠に契りを結ぶ。」
イエス様に心を許し、全てをおゆだねした人で、あとで後悔した人はひとりもいません。何というご真実な主でありましょう。イエス様の愛は決して私たちを裏切りそむかない愛です。パウロはテモテに書いたのです。

テモテへの手紙第II、2:13
13私たちは真実でなくても、彼は

イエス様は

テモテへの手紙第II、2:13
13常に真実である。

と書いたのです。イザヤは当時のイスラエルの民に宣言したのです。

イザヤ書54:10
10たとい山々が移り、丘が動いても、わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かない。」とあなたをあわれむ主は仰せられる。




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