引用聖句:詩篇121篇1節-8節
ケーキを作る時代が終わり、今度は食べる時代になるかなぁ。前に、どうしてそのようなことをやってしまったかと言いますと、もちろん時間を潰すためではない。餌として。 初めからやっぱりいのちのパンを提供したかったからです。私もよくドイツ語を教えたり、英語を教えたりしたのです。餌としてだけなのです。けれどもそれを通して人々はやっぱり心を開くようになり、導かれれば非常にありがたいのではないでしょうか。 もちろん今はドイツ語を教えなくてもいい。今教えなくても、ケーキを作らなくても、悩んでいる人はいっぱいいますから、結局イエス様が紹介されればやっぱり人々は導かれます。必ず。 結局人間は偽物ではなくて本物をほしい。偽物は結構。だから多くの人々は、「私は無宗教です。」と言います。そういう人々と会うといつも嬉しくなります。なぜならばイエス様も無宗教であるからです。 けれども人間がどうしても必要なのは、平和に対する憧れ、また自由への意思、それから一致への願望です。 結局人間は平和を憧れていますけれど、いかなる世界政府も、いかなる宗教も本当の平和を与えることができない。宗教が存在している限り平和になり得ないと言ってもいいのではないでしょうか。 けれどもイエス・キリストはもちろん無宗教で、キリスト教と関係のないお方です。 このイエス様に出会った人々は喜んで言えたのです。エペソ人への手紙2章14節に書かれていることばです。 エペソ人への手紙2:14
イエス様は平和を与えるお方よりも、平和そのものです。 そしてすべての人間は自由への意思をもっています。束縛されたい人は一人もいないでしょう。けれど事実はどうかと言いますと、自分のしたいことをする者は自分の情欲に縛られ、自我の奴隷、罪のしもべとなる。罪は盲目にします。まことの自由はただイエス様に従うときにのみ存在します。 またすべての人間は一致への願望をもっています。というのは、不一致は色々な問題、煩わしさ、苦悩をもたらすからです。 人間的になされたすべての一致は時間的に制限されており、すぐに壊れてしまいます。 初代教会の兄弟姉妹について聖書は次のように言っています。使徒の働きの2章46節です。彼らは 使徒の働き2:46
初代教会の時代から、やっぱりいわゆる家庭集会が存在していたと聖書を通してはっきり言うことができます。 まことの一致は、ただ主イエス様を通してだけ存在します。私たちはあらゆる錯覚から抜け出なければならない。大切なことは、巌のように動かず、昨日も今日も永遠に変わらない主に頼ることです。 今、兄弟のお読みになりました個所を見ると、3,000年前のこの詩篇の作者は、結局平安に満たされたのです。どうしてであるかと言いますと、もう安全だよ。 詩篇121:8
そうすれば心配する必要はない。 この1節から8節まで、9回、「あなた」ということばが出てきます。あなたがた、複数形ではなくて、単数形。どうしてであるかと言いますと、大切なのは個人個人と主との関係です。 すなわち大切なのは主に頼ること。主の助けを求めること。全部何でもできるお方にすべてを任せることです。 人間ひとりひとりは天と地を創造されたお方の関心の的であり、永遠の愛の対象であり、本当に考えられないほど心配され、愛されている。これがわかるとやっぱり安心して将来に向かうことができるのです。 まことの平安、変わらない喜び、生きる希望を与えられることのできるのは、結局イエス様です。詳しく言いますと、イエス様の流された血によって得られるものです。 聖書の中心とは、ちっぽけな人間は何を信ずるべきか、何をやるべきかではない。イエス・キリストの代わりの死です。イエス・キリストの流された血です。イエス・キリストの血は、すべての罪、過去の罪だけではなくて、現在の罪も、将来の罪も洗い聖められるとあります。 この詩篇の作者は、「私は目を上げる。」と言ったのです。この世には目を伏せ、打ちのめされ、心を堅く閉ざした孤独な人々がいっぱいいます。そしてこれらの人々は色々な問題と患難だけしか見ることができない。 けれどこの詩篇の作者はそのような者からいかにして助けられるかの秘訣を知っていたようです。自分自身や他人を見るのではなく、上を見上げることこそ、その秘訣です。 私は山に向かって目を上げるという態度こそが勝利を得る秘訣ではないでしょうか。 私たちは日本のアルプスやスイスの山々を見上げると、その雄大さですか、そのすばらしさに圧倒されます。けれどこのような自然の山からではなくて、天と地を創造されたお方から、まことの助けが来ます。 したがって私たちは自分自身や他人や自然界からではなくて、確かな約束を与えられ、それを必ず成就なさる主からのみ、本当の救い、解放、幸せが来るのです。 美しい山や周囲のものからではなく、天と地を創造されたお方からのみ、本物がやって来る。 すべての創造は全知全能の主なる神の力と英知のわざです。けれど創造のみならず、救いこそ、はるかに大いなる主なる神の英知と力によるものではないでしょうか。 主なる神はエデンの園において、現在私たちが知りうるよりもはるかにすばらしい、偉大なる栄光を現わしてくださいましたけれど、悪魔の誘惑と策略によって、最初の人アダムとエバは惑わされ、罪を犯し、悪魔と罪と自我の奴隷になり、そのことによって結局全人類に罪がはいり込んでしまったと聖書は言っているのです。 それにも関わらず、主は堕落した人間を愛し、備えの証拠としてひとり子であるイエス様を与えてくださったのです。しかもイエス様は救い主としてこの世に遣わされたのです。それですから、「主を見上げよ。」というみことばになるわけです。 よく知られているヨハネの福音書の6章40節を見ると次のように書かれています。 ヨハネの福音書6:40
今のいのちとはもちろん与えられた、造られたいのちです。けれども主は永遠のいのちを与えたくて、与えたくてしょうがない。永遠のいのちを得る道とはここで書かれているように、子を見ること、主イエス様を仰ぎ見ることです。 もうすでに旧約時代で同じ福音が宣べ伝えられたのです。 イザヤ書45:22
ここで、聖書を勉強して救われよと書いていない。教会員になれ。バプテスマを受けると救われると書いていないのです。仰ぎ見ると救われる。主なる神はその答えとして私たちから信仰を、信頼を望んでおられます。 イエス様はわれわれの罪を贖うために、十字架でご自分のいのちを犠牲にしてくださいました。 信じても理解できませんし、本当の意味で理解できるのは永遠の世界にはいって来てからでしょう。 やっぱり永遠に亘って私たちはそのために感謝せざるを得なくなるに違いない。主なる神はイエス様のよみがえりによってその犠牲を受け取ってくださったのです。 すなわち次のように言われたでしょう。「わがひとり子。主イエスのよみがえりにより、全人類の罪の贖いがなされ、この犠牲は私にとって十分である。わたしの義は全うされた。」と。 主はその答えとして私たちの主に対する信頼を待っておられます。イエス様の流された血潮によって私たちは罪を赦されている。そしてこれこそがまことの喜びの源そのものです。ローマ人への手紙の4章の25節を見ると次のようにあります。 ローマ人への手紙4:25
義と認められることとは、もうやっぱりちょっとつかめないし、想像できません。意味は、一度も罪を犯さなかったかのようにされる。考えられない。 人間は忘れられない。やっぱり良くなかった。まずかったとわかる。主なる神は人間の罪を赦すと忘れます。罪を犯さなかったかのようにしてくださる。義と認められることとはそれなのです。 結果は当然でしょう。 ローマ人への手紙5:1
もう安心です。だれでもがこのまことの救いを必要とします。けれど、ただイエス様の血による贖いを通してのみ与えられます。 私たちが主を仰ぎ見、主に信頼すると、主は救ってくださり、重荷から解放してくださり、生きる希望を与えていてくださるのです。 初めに読んでもらいました詩篇121篇にもう一回戻りまして、 詩篇121:5-8
主に信頼し、みことばに信頼すると主は導いてくださいます。守ってくださいます。 詩篇121:3
とあります。主に信頼すると、主の御手はわれわれを守り、導き、悪魔の誘惑に陥るのを守ってくださるのです。主は一瞬たりとも私たちから目を離すことはなく、注意を怠ることはありません。 詩篇121:4
とあります。このみことばは、われわれの生活からわかりやすく表現されています。 すなわち、不完全な私たち人間は眠らなければ生きていけませんが、全知全能な完全な主は、まどろむこともなく、私たちを守ってくださるゆえ、私たちは全き平安、まことの安全を与えられています。 主はご自分を信頼し、イエス様の血によって救われている者を守ってくださいます。主はそのように約束してくださいましたが、その御約束が人間の誓いよりもはるかに確実なものです。このみことばを自分のものとして受け入れ、みことばに拠り頼み、みことばの上にしっかりと立つ者は本当に幸いです。 詩篇121:5
とあります。結局主はあなたのすぐ近くにおられ、あなたの右の手をおおう陰。あなたとともにおられる。離れられない。主は昼も夜もあなたを守り、あらゆる危険から救い出してくださる。 ここに、昼は太陽、夜は月があなたを打つことはないと書かれていますが、結局意味は、昼の危険、夜の誘惑から主が守っていてくださるお方であるということです。 夜の危険は目に見えないものであり、隠されているか、それも主は守られると約束していてくださるお方です。 この詩篇の中には、主がご自分を信頼し、拠り頼む者を常に導き守られるということを表わす意味のことばは、6回も出てきます。そしていかなる状況でも、いかなる状態に置かれても主は守ってくださるのです。 最後に、 詩篇121:8
とありますが、今からとは、結局、イエス様を信じ、救い主として受け入れたときから、とこしえに至るまでという意味です。 それですから私たちは本当に主を受け入れたかどうかということが問題になるのではないでしょうか。 もしもすでに受け入れているならば、とこしえに至るまで平和とまことの安全を約束されています。主こそわれわれの平和そのものです。 このまことの平安、変わらない喜びの土台、基礎を成しているものは罪の赦しです。罪の赦しこそ、とこしえに至るまでまことの平和、変わらない喜び、そして永遠の希望の基礎そのものです。 エペソ人への手紙を見ると、次のように書かれています。 初代教会の人々とは、確かに当時の社会で大切にされていなかったのです。無視され、憎まれ、迫害された人々だったのですけれど、これと関係なく彼は喜ぶことができたのです。どうしてですか。「赦された。」と確信できたからです。 エペソ人への手紙1:7
いつか受けるかもしれないではない。もう現在受けている、赦された、この確信こそが何という宝物なのでしょうか。 もちろんこれは自分の勉強した結果、努力した報いではない。これは神の豊かな恵みによることです。主が恵んでくださらなければ、もうおしまい。 福音の本質は、この1節に集約されています。イエス様の人格の中に、罪の赦しと、贖いがあります。イエス様こそ、福音の中心を成すお方です。福音とは何かある力とか、教えとか、物事ではなく、生きておられる主イエス様ご自身です。福音を宣べ伝えることとは結局イエス様を紹介することだけ。イエス様の中にすべてがあります。イエス様がともにいまさずば無理です。 色々な宗教はイエス様のことを引用したり、適当に使ったりしていますけれど、イエス様は聖書の中でのみ、正しく伝えられており、聖書によるイエス・キリストだけが本当の完全な救いをもたらしてくださることをはっきりさせておかなければならない。 聖書によると、イエス様のみが生きるまことの神の御子であり、唯一の救い主であり、まことの贖い主そのものです。 パウロはそれをまとめて次のように書いたことがあります。コリント人への手紙第I、いわゆるよみがえりの書の中で次のように書いたのです。 コリント人への手紙第I、15:3-4
聖書は初めから終わりまで体系的な統一をもって、十字架につけられた救い主と復活なさったイエス様を宣べ伝えています。 そしてよみがえられたイエス様は、もちろん今も生きておられ、将来もとこしえにご臨在なさることです。 本当の福音はただ一つ。すなわち十字架による贖いの福音にほかならない。人間が罪を犯したあと、直ちに主は十字架による福音を宣べ伝えたのです。 初めての預言のことばは、おそらく創世記の3章の15節ではないでしょうか。創世記1章2節を見ると、やっぱりもうすごい。完全な世界を見ることができます。罪がはいり込む前に。けれど3章からやっぱり大変です。 けれども、人間が騙されて変な方向に行ってしまっても、エデンの園から追放されてしまっても、主は心配する必要はない。救い主が来ると明らかにしてくださったのです。 創世記3:15
とあります。 主なる神は人間を罪から解放するために、救い主をこの世に送り、悪魔のかしらを砕く。すなわち悪魔に対して完全な勝利を収めると預言しておられるのです。 しかしながらここでは、勝利者のみならず、悲しみの方、苦しみの人としても預言されています。 すなわち蛇は、悪魔は救い主のかかとを砕くであろうと言われています。主は救いを与えるために苦しみ、いのちを捨ててくださるのです。 旧約聖書において1,500年の間、特に預言者たちによって、来たるべき救い主が時とともに次第に明らかにされてきました。 旧約時代の中のもっともすばらしい約束の預言のことばとは、イザヤ書の53章ではないでしょうか。このイザヤ書とは旧約聖書の福音書と呼ばれているものです。 イザヤ書53:2-6
結局父なる神はわれわれのすべての咎を十字架につけられたイエス様に負わせたとあります。この個所を見ると、来たるべき救い主は悩みの人として罪を担う人であると記されています。 そして2,000年前に救い主はイエス様の名前で実際にこの世に来られました。イエス様はご自分で言われたのです。「わたしこそ約束された救い主。預言されたメサイアである。」と言われたのです。 「わたしは失われた人を捜して救うために来た。わたしが来たのも仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また多くの人のための贖いの代価として自分のいのちを与えるためです。」と。 そして十字架につけられる前の夜、イエス様は言われたのです。「これはわたしの契約の血です。罪を赦すために、多くの人のために流されるものです。」と。 事実イエス様が十字架で血を流され、息を引き取られた時、「すべてが終わった。万歳。」と叫ばれたのです。すなわち全人類の救いがもたらされました。 イエス様は祈りの中で言えたのです。「わたしは、わたしにさせるためにお授けになったわざを成し遂げました。」、救いのみわざは救い主の死によって完成されたのです。 父なる神は主イエス様がよみがえられ、昇天なさり、高く引き上げられることによって、まことの救い主、罪を担った者、勝利者であることを明らかに宣言されたのです。 このイエス様の与えられた場所とはちょっと想像できません。エペソ人への手紙の中で、パウロは当時の信ずる者にこの事実について次のように書いたのです。 エペソ人への手紙1:20-22
父なる神はイエス様による罪の贖いが十分である、完全であると宣言されたのです。そしてその瞬間からイエス様の十字架とよみがえりの福音が世界中に宣べ伝えられるようになりました。 この十字架の福音こそ、人類の罪を贖うためのただ一つの道です。この主イエス様の血による罪の贖いという福音は、全国、全世界いかなる時代にも多くの人々をみことばによって救いに導いたのです。 ダビデは3,000年前に生きていた王でした。彼は罪の苦しみの中で祈ったのです。主を呼び求めたのです。結果として赦しの確信を得たのです。 そのあとで彼はもう新しい喜びと望みを持つようになりました。彼の告白とは詩篇の40篇に書き記されています。よく知られている個所です。 詩篇40:1
結局、祈った。叫び続けた。 詩篇40:1-5
その新しい賛美の歌は、救われた人すべての心の中にとこしえに宿り続けます。 まだ実現されていないけれども、将来について聖書は次のように言っています。ヨハネの黙示録の5章の12節です。聖書の一番最後、 ヨハネの黙示録5:12
なぜこのようにして救われた喜びの新しい賛美が歌い続けられるのでしょうか。なぜならば、主が私たちを愛し、その血によって私たちを罪から解放してくださったからです。 同じくヨハネの黙示録の1章5節です。次のように書かれています。 ヨハネの黙示録1:5
イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ったとあります。すべてイエス様を信じ、受け入れた者は、このようなほふられた小羊に賛美をささげるのです。 私たちは今もなお罪のもとに苦しみ、悩み、嘆き、うめいている人々に対して、イエス様の血による罪の赦しと贖いがすでに成就されていることを宣べ伝える義務を持っています。 だれでもイエス様の血による贖いによって本当の救いが与えられているという、この事実を知らなければなりません。 知りたいと思うならば、必ず知ることができるのです。福音は決して隠された教えではない。決して頭の良い、少数の人だけがわかる難しい教えでもない。福音はすべての人のための神のことばです。 イエス様は罪滅ぼしのために犠牲になった。この代わりに、いわゆる天罰をお受けになったイエス様は復活なさいました。生きておられます。 われわれの主は生きておられ、祈りを聞いてくださる。この主にとって不可能なことはない。 期待を持って待ち望むと、この主の偉大さをよりよく知ることができるに違いない。 |