引用聖句:申命記28章1節-2節、6節
人間にとって一番大切なのは富でもないし、健康でもないし、人間が考えている幸せでもない。主の祝福を得ることではないかと思います。 この世の提供されるもの全部持つようになったソロモンという王様は、3千年前に告白しました。すなわち主の祝福そのものが人を富ませ、人の苦労は何もそれに加えない。 結局ソロモンは、人生の特徴は、人間の苦労か、主の祝福かのどちらかです。 聖書の中で、非常にずるい男について書かれています。ヤコブについてです。ヤコブの名前そのものはちょっと大変です。あざむく者です。 どうして親はこのような名前をつけたのかいくら考えても分からない。非常にずるい男でした。平気で嘘ついたし、自分の父親をだましたし、親戚の財産をとってしまったし、途中では、欲しいもの得られるし、幸せと思ちゃった。 けど、ある日からやっぱりもうおそらく寝られなくなっちゃった。心が満たされていない、欲しいもの持ってるけど、必要なものを持っていない。主の祝福がなければもうおしまいです。だんだん彼は祈るようになったんです。 「主よ。私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ」、主の祝福こそが、すべてなのではないかと思います。 けども、主の祝福を受けることとはあたりまえのものではない、条件つきなのです。 そして今読んでくださった箇所を見るとはっきり分かりますね。1節見てもわかるでしょう。もし〜ならと書いてあります。 もし、あなたが、あなたの主の御声によく聞き従い、わたしが今日あなたに命じる主のすべての命令を守り行うなら、あなたの神主がすべての国々の上にあなたを引き上げる。 結局もし〜なら、もし〜しなければ・・・ダ〜メ!結局主の祝福を得る条件とは、主の御声に耳をかすことです。 適当に聞くのではなくてよく聞き従うのです。聞いても従おうとしなければ結局ダメなんです。 ですから主は色々な約束をして下さいましたけど、いつも条件つきです。もし〜なら。 有名な山上の垂訓の中で皆が知っていることばだと思うんですけど、「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。」、そうすれば、そうしなければダメだよ。 そうすればすぐに答えてくださり、我々はすべて与えられます。そこで与えられればこれこそが、幸せなのではないでしょうか。 それでは、さっき読みました6節もすばらしい節ではないでしょうか。「あなたは、はいるときも祝福され、出て行くときにも祝福される。」 祝福されるという約束は、将来に対する大いなる勇気付けなのではないでしょうか。この申命記28章をずっと読むと分かりますが、すなわち主が祝福したいと望んでおらます。 わたしたちは、自動的に主の祝福にあずかるというのではない。我々の従順に対する答えとして、祝福されるということです。 もし〜なら、主の与えられてる約束どこ見ても、やっぱり条件付です。聞く耳を持っていなければ、従おうとしなければ、結局ダメなんです。けどもこの言葉こそ将来に対する大いなる勇気付けそのものなのではないでしょうか。 私たちの前に横たわっている障害は、どういうものか分からない。暗黒かもしれない。将来とても困難な問題になるかも分からない。将来は失望させるものであったり、勇気を失われるものであるかもしれない。結局人間は、5分先のことでさえも分からない。 ちょっとみじめすぎじゃないの。イエス様は何億年先のことも全部知っている。人間は5分先のことでさえも分からない。ですから、私たちは、将来のこと分からない。 私たちは、家族の死であったり、心配や悩みであったり、色々な困難なことを経験するかもしれない。 けれども将来にたいして勇気付けるものが何であるかと言いますと、今の読みました箇所「あなたは、はいるときも祝福され、出て行くときにも祝福される。」 この言葉こそ勇気の源なのではないでしょうか。 すべての点において、祝福が約束されています。けど、主の祝福とは、人間の考えている幸せじゃないでしょうね。すなわち、健康とか、富とか、美しさといったようなかさまざまな事柄じゃない。イエス様です。 一言葉で表現するならば、イエス様の内にすべてが与えられているということです。 イエス様の内に汲みつくすことのできない富が我々に開かれています。 だからパウロは、当時のローマにいる兄弟姉妹を励ますために書いたのです。 よく知られているローマ人への手紙8章32節 ローマ人への手紙8:32
主は何をおできになるのでしょうか。主が我々に何をして下さると約束しておられるのでしょうか。 5つ簡単に5つの事実についてちょっとだけ考えたいと思います。 第1番目の事実は、決してダメにならないイエス様の愛です。すなわち私たちは、将来を見るとき決してダメにならないイエス様の愛を確認することが、大切であり、許されています。 イエス様が過去において人間ひとりひとりを愛してくださったということ、またイエス様は、今日もなお、人間ひとりひとりを愛していて下さるということ、そして、永遠にわたって愛してくださるということは、決して動かされない事実です。 人間はそれを信じても信じなくても、認めてもみとめなくても関係ない。主の愛は、永遠なるものです。 だから、エレミヤという預言者は書いたのです。 エレミヤ書31:3
とあるのです。永遠の愛をもつのは、もちろん主しかないのです。 主の愛について、私たちに疑いをもたらそうとしている悪魔に決して惑わされてはなりません。イエス様の愛は決して、何があっても、ダメにならない。 イエス様は、いわゆるお別れのことばを弟子たちに与えられました。今晩でもね、全部読んでもらいたい。ヨハネの福音書13章からヨハネの福音書17章までです。 イエス様のお別れのことば、そして始めての文章ですが、ヨハネの福音書13章1節ですが、次のように書かれています。 ヨハネの福音書13:1
とあります。イエス様は弟子たちをいかに愛されたなのでしょうか。死にいたるまで、残すところなく、あますところなく愛されたとあります。 弟子たちは、この主に愛されるにあたいしなかったということを私たちはよく知っています。イエス様の弟子たちとは、本当にみじめで、どうしようもないほどダメな人々でした。 イエス様が捕まえられた時、皆逃げてしまったのです。 そんな考えられない。「主よ私たちはあなたから離れられない。あなたは、いのちのみことばをもっている。」と言いながら、皆姿を消したのです。 ひとりペテロは、突然、もうイエス様とは何の関係も持ちたくないと思ったのです。けど、イエス様の愛は変わらない。永遠なる愛です。 イエス様の愛がたとえ拒まれたとしても、引き続き愛しつづけて下さるのです。イエス様の愛がたとえ足で踏みつけられても愛してくださるのです。人間はね、考えられない。そういう気持ちをまったく知らないからです。 ルカの福音書15章の中で、放蕩息子の話が書きしるされています。この放蕩息子は、親を捨てた時も、友人と遊んで財産を使い果たした時も、また父親から遠く離れていた時も、愛されました。 父の愛は、変わらなかったのです。全然。 必ず毎日、首を長くして、今日か、明日か、帰ってもらいたい。受け入れてもらいたい。そういう気持ちでいっぱいでした。 ある信者は、「主が主を愛する者だけを愛する。」と思っているのです。けど、それはもちろんとんでもない間違いです。 覚えるべきことは、信じる者ももちろんあらゆる罪を犯す可能性を持っているのです。そして悪魔が、罪に誘惑することに成功すると、それから信じる者を訴えます。またこの神の愛をないがしろにした。 あなたがやった事は本当にひどい罪。こうゆうことを通して主の愛に対する疑いが頭をもたげ始めるのです。 そういう時にある人は、来て次のように言うでしょう。「私はこんな罪を犯してしまった。しかも私はそれを意識的にやっちゃった。主は私をもう愛して下さることはありえない。まったく不可能です。」 悪魔はこれほどまでに、信じる者をダメになるまでダメにすることができるともちろんうれしくなる、勝ち誇ります。たしかに人間は、主に愛されるに値しない者です。私たちの誰ひとりとして、愛されるに値しないのです。 けど、罪を犯してしまったので、主が愛することをやめたり、捨てたりするということはまったく嘘です。ひどい偽りです。主の愛は永遠なるものです。イエス様は愛しつづけてくださる。そしてこの愛は、最終的に勝利をおさめてくださいます。 確かに、意識して嘘と偽りの生活を行う信者もいます。信じる者の生活の中でもありえないようなことが存在する。 すなわち信じる者であっても、罪を犯し、ありえないようなことを行う可能性は常にあります。 けど、最大の確実性をもって主のみことばは、イエス様の愛は決してダメにならない。決しては決して。 イエス様の愛は変わることはありません。イエス様は人間ひとりひとり、まったく個人的に愛してくださるお方です。 もう一度、イエス様は人間のわがまま、罪を憎まなければならないけど、罪人が立ち返るまで罪人を愛しつづけてくださいます。 私たちがしたことであれ、しなかったことであり、どんなことでも主の愛を変えることはできません。 ヨハネは次のように書いたことがあります。 ヨハネの手紙第I、4:10
イエス様は、いつご自分に属するものを愛することをやめるでしょうか。聖書の答えは決して愛することをやめないという答えです。 このことを決して忘れないようにしましょう。 イエス様はあなたを愛しておられます。あなたを愛しつづけてくださいます。イエス様の愛は決してダメにならない。決して絶えることがない。 我々の前にはきわめて不確かな将来がありますけど、私たちは絶対的な確信をもっています。 すなわち、イエス様の愛が決してダメになりません。 そう考えると、どういう状況に直面しても、どういう問題があっても、やっぱり悩みながら喜ぶことができるのではないでしょうか。 第二番目の事実は、主の十分なる恵みです。恵みということばは聖書の中で、もっとも大切なことばの一つではないでしょうか。 我々は将来を見る時、主の十分なる恵みを確信することが許されています。「わたしの恵みはあなたにとって、十分だよ。」、これが主の呼びかけです。 将来には苦しみも悩みもあるということは、私たちはみんな知っている。試練と誘惑も必ずたくさんあることでしょう。私たちは、嘆きや失望を経験するにちがいない。私たちがこういう事実を考えると、勇気付けとか励ましというものが、存在するのでしょうか。 その通りです。存在します。というのは、私たちは、決してダメにならないイエス様の愛を、絶対的確信だけではなく、十分なる恵みの主の絶対的保障をもっているから。 パウロはこの十分なるイエス様の恵みを経験したのです。 しかも、彼の経験は主がなさることができること、そしてまた私たちのために今日もなお成したいと望んでおられること、しかも、我々の人生の終わりに至るまで、主の願っておられることを私たちにも示しています。ちょっと見てみましょうか。 コリント人への手紙第II。パウロは多くの手紙を書いたんです。めずらしく自分のことについてあんまりふれなかったんです。 けれどコリント人への手紙第IIからは、自分のことについて色々なことを書いたんです。 コリント人への手紙第II、12章7節からを読むと、これは彼の1つの告白であり証しです。 コリント人への手紙第II、12:7-10
「また、その啓示があんまりにもすばらしいからです。」、彼は第3の天に引き上げられた。すごい経験だったでしょう。 「そのために私は、高ぶることのないように肉体に1つのトゲを与えられました。」、高ぶるようになれば、おしまいだからです。 彼は、高ぶる者を退けます。高ぶる信じる者も退けます。祝福できない。用いられない。ですから、すばらしい守りでしたね。 パウロに与えられた病気は、 コリント人への手紙第II、12:7
サタンの使いも、主の用いられた器になっちゃった。けども、はじめの頃はパウロにとってとんでもない攻撃でした。だから彼は祈ったんです。 コリント人への手紙第II、12:8-10
普通の人は、チョット言ってもぴんとこない。わたしが弱い時にこそわたしは強くなる。 なぜなら、弱い者だけが、強いお方の助けを必要になるんじゃないでしょうか。 今のみことばについて、ゆっくりと考えることはいいかもしれない。パウロは自分が充分なる主の恵みに対してパウロに恐れを与えてくださった時、何と答えたでしょうか。 たとえば、次のように言ったでしょうか。「主よ、この場合私はこの病気を頑張ってる覚悟で、満足します。あきらめます。私はそのことについて、不平や不満を言ったり嘆いたりしません。」これと似たようななんらかの反応をしたのでしょうか。 違う、まったく違う。パウロのとった反応は、別のものでした。 私はキリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから私は、キリストのためにですから私はキリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら私が弱い時にこそ、私は強いからです。 パウロの語ったことばを注意すべきじゃないでしょうか。「大いに喜んで、私の弱さを誇りましょう。私はキリストのために甘んじています。」 最初の2〜3節はパウロがいかに苦しみ、内面的に動揺したかを、わたしたちに描き出しています。肉体のトゲを取り除いてくださるようにと、主に頼みました。心から叫んだんです。 彼は癒してくださるようにと3度も主に懇願しました。けど、主の答えは次の通りでした。「わたしの恵みはあなたに充分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである。」と。 けど、最後の2〜3節は、パウロはいかに主の恵みを受けたか、パウロがいかにこの恵みの充分さを経験したか。 そしてまた、キリストの力がさらにいっそう明らかになるため、パウロがいかに弱くあることを望むかを描き出しています。なんというすばらしい証でありましょうか。主は、私たちもそのような証にとなることを望んでおられるのではないでしょうか。 これは可能なことです。いったいどうして?コリント人への手紙第II、9章8節をみるとその答えが書き記されています。 コリント人への手紙第II、9:8
私たちは不確実な将来を見ると今話したように、 1番目、主の決してダメにならない愛を確信することができ、2番目、主の充分なる恵みを絶対に確信することができます。けど、それ以上のことがらが我々に約束されています。 3番目の勇気を与える約束とは、あふれるばかりのイエス様の配慮です。すなわち、私たちは不確実な将来を見ると主のあふれるばかりの配慮を確信することができます。 イエス様は、我々にあふれるばかりの配慮をなさることを、はっきり約束してくださいます。 将来を見ると多くの人が不安を持ち、心配で苦しむでしょう。いったい将来はどうなるのでしょうか。けど、イエス様を知る者として、私たちはイエス様が我々の牧者であり、私たちを決して捨てないということを知ります。 それですから私たちは、心安らかに言うことができます。「主は私の牧者です。」、だから乏しいことはない。ダビデは次のように告白しました。 詩篇37:23-25、34:9-10
将来を見て心配になるような時には、主のしもべであるエリヤについて考えれば、非常に励ましになるんじゃないかと思います。 エリヤが飢饉の時、いかになさり配慮してくださったかを読めばうれしくなる。 列王記第I、17:6
結局、当時のアハブ王様は、何があってもこのエリヤを殺そうと思ったのです。いや、危なかった。主が守ってくださらなければ、おしまいです。それで彼は逃げちゃった。 けど、食べ物はどうでしょうか。結局、カラスが肉とパンを運んできたんです。朝、夕2回の食事で充分だったらしいけど、カラスだって人間に肉とパンを運ぶのは人間的にはあり得ない。逆です。泥棒するんです。とるんです。もってくるんです。おかしいよ。 けど、創造主が命令するともちろん命令どおりになる。彼はこういうふうに養われたのは、びっくりしたと思う。 主はすごい。主はなんでもできる。そして、川の水が枯れてしまったんです。食べ物がなくても、飲む水を得ないともう人間はすぐにダメになる。川が枯れてしまった。 主は、エリヤを実際自分自身は何も持たないやもめの所に導いたのです。金持ちの所だったら分かるよ。けど、やもめは何ももっていなかったんです。 いったいどういう話?けど、奇跡がおこったんですね。 列王記第I、17:16
主に属する者は、主が我々を助けてくださることを知ることが許されています。 主は我々のことを配慮してくださいます。あふれるばかり、主は我々のことを心配してくださるのです。 パウロはこれを体験的に知るようになりました。 ピリピ人への手紙4:19
パウロはやっぱり、刑務所に入れられた時、自分のこと別にどうでもいい、けど誰がつづいて福音をのべ伝えるのか、誰が今まで導かれた人の面倒をみるのか云々と、やっぱり複雑な気持ちだったのです。 けど、刑務所に入るようになったのは、自分のせいじゃない、主のせいです。だから安心です。だから彼は刑務所の中で経験したことを書いたのです。 私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。 もう一つの事実についてちょっと考えてみましょうか。すなわちイエス様の再臨です。 まもなく起こるイエス様の再臨です。すなわち私たちは、不確実な将来を見ると、まもなく起こるイエス様の再臨を確信することが許されています。 もちろん、イエス様はいつ来るかわかりませんし、計算してはダメと聖書ははっきり言っています。今まで、色々な宗教団体は、計算したんです。けど、全部嘘でした。 どうして約束したかといいますと、結局、イエス様が近いうちに来ると何月何日に来ると、そしたらあなたは、銀行にある金はダメになるでしょ。役に立たない。早くおろして献金しなさい。そうすると、多くの人々が騙されてしまったんです。 宗教は一番のうまくいく商売だから。人は騙されやすいし、結局計算してはいけない。 ですからイエス様は来年来るかどうかわからないし、来月来るかどうか分かりませんし、来週来るかどうか分からないし、明日来るかどうか分からないし、明日よりも今日のほうがいいけどね。けど、イエス様は来られます。ヤコブは書いたのです。 ヤコブの手紙5:8
主は来られるのが近い。いわゆる教会の歴史を見ると分かります。 どこで主は働くことができたか。どこで大勢の人が導かれ、救われたかといいますと、信仰を持ってイエス様の再臨を待ち望んだ時です。 近いうちに来ると考えれば、やっぱり救われていない人々に対して無関心な態度をとることはできないでしょう。やっぱり自分の無力さ、力なさを感じて、叫ばなくちゃいけない。 主の来られるのが近い。新聞やテレビを見ると、私たちは終末の時に生きているということを、我々に示してくれることがたくさん書かれています。 けど、その時のしるしは見出されています。今いる終末の時のしるしは、99%以上千年王国を建てるために、イエス様が目に見える形で、再臨なさると密接な関係をもっています。 けど、この目に見える形での主の再臨の前に、携挙、空中再臨が起こります。それですから、携挙はいつの瞬間でもおこりうるのです。 携挙とは何でしょうか。聖書はこの事実にすべての信者が取り去られることであると言ってます。 死を見ることなく、主と出会うために空中で主の所にまで引き上げられるということです。 主はその時子羊の婚姻のために、栄光のうちに主とともにたずさえてくださいます。1箇所読みましょう。 テサロニケ人への手紙第I、4:16-18
このことばによって、お互いにどれほど勇気づけられることでしょうか。 パウロはイエス様の携挙と再臨についてのこの箇所を、お互いにこのみことばによって励まし合いなさいという言葉で結んでいます。何という不確実な将来に対する我々の励ましでしょうか。 私たちの主はいつでも、来ることがおできになり、そこから私たちは、いつまでも主のそばにいることになるのです。 イエス様は今日でも来ることがおできになります。毎日私たちはこの期待を持って過ごすべきです。どうしてでしょうか。 はっきり言えることとは、主を待つ者は心の備えができています。 主を待つ者は自分の生活の中のいかなる罪をも関心しません。 主を待つ者は、さまよってる人たち、失われた人たちを主のもとに導きたいという切なる願いを持っています。 主について証しするいかなる機会を過ぎ去らしません。 ですから何があっても、主は近い、もうちょっとと考えることは、ただうれしくなるのではないでしょうか。 |