引用聖句:ローマ人への手紙7章18節から24節
コリント人への手紙第II、4:4
何年前だったかちょっと忘れましたが、有名な「Time」という雑誌の中で読んだんです。あるユダヤ人の夫婦についての記事だったんですけども、題名は「Free At Last」、日本語に直すと、最後的自由になった。 どういう話であったかと言いますと、あの夫婦はソ連に住んでいて、そしてソ連で結婚しました。 奥さんはその次の日、故郷であるイスラエルへ行くようになったのです。結局ソ連から出るようになり、亡命することは許可されたから喜んでイスラエルに帰ったんです。 ご主人の場合はちょっと待っててという話だったんですけど、二、三週間以内、必ずOKと初めは言われたんです。 けどダメでした。いくら申し込んでも拒否されてしまいました。彼はスパイだと言われ、刑務所に入るようになり、9年間刑務所の中で過ごすようになってしまったのです。 奥さんは彼に詩篇という聖書の部分を送り、そしてこのみことばこそ彼の力となり、希望となったのです。 刑務所の中で聖書を読んではいかんという規則があったんですけど、彼は断固として聞こうとしなかったのです。みことばが取られればもう生きられない。 結果として彼は130日間、2日間ずつだけわずかな食べ物しかもらえなかったのです。 けど奥さんは主人のために、もう必死のように戦いました。彼女にとって遠すぎるという場所もなかったし、見知らぬ人もいなかったし、ご主人の自由のために彼女は戦いました。 だれが彼女に何と言っても彼女は動かされず、希望をもち続けたのです。そして最後的自由にされました。 人間にとって自由になることこそ考えられないほど大切なのではないでしょうか。 おもに若者はね、自由になりたい。だからよく家出してしまいますし、云々と。 いつ人間は自由になるのでしょうか。主イエス様のしもべになるとき初めてなのではないかと思うんです。ですから今日の主題は「自由にされた主のしもべ」にしたいと思います。 今、兄弟のお読みになりました個所の中でパウロは、主イエスのしもべであるパウロと書いたのです。原語では、しもべじゃない。奴隷となってます。 これこそがパウロの喜びそのものでした。主イエスに仕えることこそが、結局彼にとってすべてのすべてでした。 われわれのひとりひとりにとって主なる神の目的は、私たちがいつまでも主イエス様に仕えるということです。けど主に仕えるとはいったいどういうことなのでしょうか。 しばしば私たちは主のためにこのことをやったり、あのことをやったりすることを意味すると考えたり、あるいは主のためにせわしく働くことを意味すると考えたりしがちなのではないでしょうか。 けども本当は主のしもべであること。つまり徹頭徹尾主イエスにお従いし、いつもみこころにお従いする備えができていることを意味しているのです。 むかし3,000年前にダビデの使いたち、家来たちは王さまに言ったんです。 「私たちあなたの家来どもは、王さまの選ばれるままにいたします。」 強制されたからじゃなくて、もう喜んでダビデのために仕えたいと彼らは願ったのです。 ダビデのしもべたちは結局自分を無にしてすべてのことを王に委ね、王の命令に絶対服従したいという気持ちでいっぱいだったのです。 けど主の前にこのような態度を取らず、またこのような強い願いをもたない者は実は自由じゃない。奴隷です。 罪の奴隷であり、自我の奴隷であり、悪魔の奴隷なのです。 けどはっきり言えることは、イエス様を信ずる者はもはや罪の奴隷となる必要は毛頭ありません。 今読んでもらいました個所でしたか。 ローマ人への手紙6:17-18
義とはもちろん主イエス様ご自身です。イエス様は私たちのために義とされたと書いてあります。 罪の奴隷はイエスの奴隷となった。ここで服従したということばの意味は、自分自身をまったく明け渡し、降参したことを意味しております。 自分自身の罪を告白し、イエス様の救いのみわざに心から感謝し、すべてをイエス様に明け渡した人はもはや罪の債務から解放され、罪の力の下にもいない状態にあることを知る必要があります。 またイエス様を信ずる者は、もはや自我の奴隷となる必要も毛頭ありません。 今のローマ人への手紙7章でしたか、読みました個所。証しとは、パウロの正直な告白とは、誰でも経験したのではないでしょうか。 ローマ人への手紙7:18-24
パウロは、だれが私を救い出してくれるのでしょうかと叫んだあと、それはただ主イエスおひとりだけであると答えています。 パウロは信ずる者として、自分自身の力では自分自身を罪から解放されることができないことをよく知っていました。 ですから彼は自分自身のむなしい努力を放棄しました。彼は歓喜の声を上げて、主イエスがこの罪の問題を解決してくださったと言わざるを得ませんでした。つまり主イエス様は私の古き人とともに十字架につけられたからです。 もうひとつ信ずる者は、もはや悪魔の奴隷とされる必要もありません。 最後に前に読みました箇所の中で、コリント人への手紙第IIの4章4節なんですけども、この世の神という表現が使われています。 この世の神とは結局悪魔です。今の目に見える世界を支配しているのははっきり悪魔である。もちろん主の支配のもとです。 主が許さなければ悪魔は何にもできない。けどここでパウロはコリントにいる人々に書いたのです。 コリント人への手紙第II、4:4
主イエス様を信じない人々は、事実を認めようが認めまいが実際はこの世の神、すなわち悪魔によって束縛され、がんじがらめになっています。 けど私たちは今や悪魔の奴隷から解放され、偉大なる解放者である主イエス様に属し、主のものであることを確信することとは、大いなる恵みなのではないでしょうか。 罪に縛られ、自我に縛られ、また悪魔に縛られている。これは本当に恐るべき奴隷の状態であります。 けどそれに対して、罪の債務を赦してくださり、罪の力から解放してくださり、とこしえに悪魔を打ち滅ぼされた方、すなわちイエス様に結び付いていることとは、何という恵みであり、自由でありましょうか。 パウロはコリント人への手紙第Iに奴隷、自由、自由人ということばを次のように使いました。 コリント人への手紙第I、7:22
ここでも奴隷ということばが出てまいりますが、ここではそれはもはや罪と悪魔と奴隷を意味しているのではない。 キリストに属する奴隷、すなわち罪と自我と悪魔から私たちを解放してくださったイエス様にあるまったく自由人。すなわち主に属する自由人であることを意味しています。 ある主人は喜びをもって次のように謳ったのです。 主は何というすばらしいお方であろうか。おお主よ。あなたは何というすばらしいお方でしょうか。その主に仕えることが許されているとは、何という特権であろうか。 そして主に仕えることが許されているという特権は、ただ一時的な今の時だけではなく、全き永遠に対しても有効であります。 ヨハネの黙示録22:3-4
いつまでも主に仕えるということとは最高の恵みなのではないでしょうか。神のみことばである聖書は、福音としてはっきりと言ってます。 罪の奴隷となる必要はない。自我の奴隷となる必要はない。また悪魔の奴隷となる必要はないということです。 今度、出エジプト記の21章に記されているひとりの奴隷についてちょっとだけ考えたいと思います。 出エジプト記21:1-6
この特権が与えられるということです。 この若者についてちょっとだけ三つのことがらに分類されましょう。 第一に彼は、代価によって買い取られました。 第二番目。彼はひとつの選択の前に立たされた。 第三に彼は、愛によって克服されたのです。 まず第一番目。奴隷は代価をもって買い取られました。 出エジプト記21:2
もしあなたが奴隷を買う場合、と書いてありますが、ここで明らかなことは主人が奴隷を買い、奴隷は主人によって買い取られるということです。 この若者は奴隷市に立っておりました。そしてだれかによって買い取られることを待っておりました。 しかし彼はいったいどうしてこのような厳しい状況に置かれ、この厳しい運命に直面しなければならなかったのでしょうか。 ひとつの可能性として考えられることは、彼の両親がたいそう貧しく、生活のためにこの若者を売らなければならなかったことが考えられますが、もうひとつの可能性は、彼が債務を支払わなければならないような何らかの事態に陥り、裁判の結果奴隷となるべき判決を受けたことも考えられます。 ここでこの若い青年の状態を思い浮かべて見ましょう。 彼は鎖に繋がれ、自由に動くことができず、自分自身が希望する人に売られていくのではなく、一番高い代価を支払った人のところに売られていく身として、その人が買い取ってくれるのを待っておりました。 そしてある日、そのように一番高い代価を支払った人のものとなってしまったのです。 私たちもまた罪と自我と悪魔との奴隷であったことについては、先ほどすでに申し上げました。イエス様は次のように言われました。 ヨハネの福音書8:34
罪を犯す者は、罪の奴隷である。もう一ヶ所、パウロはエペソにいる兄弟姉妹に次のように書いたのです。 エペソ人への手紙2:2-3
しかしある日、彼らはイエス様に出会いすべてが変わったのです。 もちろん私たちも主イエス様に出会い、個人的にイエス様を信ずることが許されるようになりました。イエス様がわれわれの贖いの代価を支払ってくださったことを信ずることができたのです。 イエス様はそのためにもっとも高い代価を支払ってくださいました。すなわち、イエス様はご自分のいのちをもって支払ってくださったのです。 すなわちイエス様はご自分のいのちをもって支払ってくださったのであり、そのためにイエス様の尊い血が流されたのです。 救いの代価とはイエス様の流された血でした。パウロはテモテへの手紙第Iの2章6節に次のように書いたのです。 テモテへの手紙第I、2:6
これこそが聖書の中心なのではないでしょうか。キリストはすべての人の贖いの代価、救いの代価として、ご自身をお与えになりました。 パウロだけではなく、ペテロも同じ事実について次のように書いたのです。これもよく知られてる個所です。 ペテロの手紙第I、1:18-19
流されたキリストの血こそが聖書の中心そのものです。 もう一ヶ所、コリント人への手紙第Iの6章。買い取られた事実について次のように書いてあります。 コリント人への手紙第I、6:19-20
買い取られた。けども、出エジプト記21章に出てくる奴隷は、代価をもって買い取られただけではなく、第二番目ですけど、ひとつの選択の前に立たされたのです。 もう一回、出エジプト記21章に戻りますと次のように書かれています。 出エジプト記21:2、5-6
確かに彼は高い代価をもって買い取られましたが、6年後には彼は自分が望むならば、自由になることができました。それは彼の決断に委ねられていたのです。 6年間、すなわち2,190日。つまり52,560時間、この人は自分の主人に仕えたのです。 そして今や彼は自由の身となり、そこを去ってゆくこともできるようになりました。彼は自分が望めば、自分の計画によって自分自身の好きな道を自由に選ぶことができるようになったのです。 私たち主イエス様を信ずる者もまた、同じようにそのような選択の前に毎日立たされてるのではないでしょうか。 イエス様はわれわれをご自身の血潮の尊い代価をもって買い取ってくださいました。 そこで私たちは今や買い取られた者としてひとつの選択の前に立たされてるのです。すなわち主に仕え続けるか、あるいは再び新たに罪と自我と悪魔との奴隷になることを選ぶかのいずれかに二者択一の前に立たされているわけです。 主はご自身に仕えることをだれにも強制なさいません。 「わたしに従いたいと思えば結構です。したくなければよろしい。」 ヨシュア記の24章の中で、当時のヨシュアの取った態度について次のように書かれています。 ヨシュア記24:14-15
ヨシュア記24:21-24
15節は本当にすばらしいところですね。 「もしも主に仕えることがあなたがたの気に入らないなら、川の向こうにいたあなたがたの先祖たちが仕えた神々でも、今あなたがたが住んでいる地のエモリ人の神々でも、あなたがたが仕えようと思うものを、どれでも、きょう選ぶがよい。」、自由にしなさい。 けど、「私と私の家とは、主に仕える。」 ヨシュアは、信ずるイスラエルの国民に対して次のように言いました。「あなたがたが仕えようと思うものを、どれでも、きょう選ぶがよい。」 つまりヨシュアは、あなたがたは自分で自分の道を好きなように自由に選びなさい。主は決して強制的に選ばせることをなさらないと言ったのです。 つまり自分の自由な意思でもって、決定するように迫られてるのです。 主によって救われた者、主によって贖い出された者はこれからいったいどのような道を選び、いかなるものとともに、いかなるものに属する者として人生を歩むか、自分で決断することを要求されているのです。 私たちもヨシュアと同じように、私はどこまでも主に仕えますと告白できれば幸いです。 私たちは自由意思をもっていますから、主に仕えないで、自分自身の道を行くと決断することもできます。 イザヤ書の53章。よく知られてる個所なんですけども、次のように言ってるのです。 イザヤ書53:6
これは本来未信者の姿でありますが、残念ながら信ずる者もしばしばこれと同じような状態に陥りやすいのではないでしょうか。 自分自身の道を行きたいと願う者は迷うようになる。そういう状態に引き出されてしまっているのです。 これでもう一度出エジプト記の21章の奴隷のことに戻りますと、彼は今や非常にむつかしい選択の前に立たされたのです。 私は行くべきか、とどまるべきか。この場合、行くことが主人の去ることを意味していることが明らかです。 しかしこればかりではなく、彼がどうしてもやりたくなかったことです。 「私は、私の主人と、私の妻と、私の子どもたちを愛しています。自由の身となって去りたくありません。」 私の主人に対する愛から私はとどまります。これが彼の決断の選択でした。 私たちはみな、きょう、私は主イエス様を愛していると言うことができるのでしょうか。 私たちの主イエス様に対する愛は、いつも主イエス様のわれわれに対する愛の答えです。 ガラテヤ人への手紙2章の20節とはパウロの告白。喜びの証しでした。信ずる者にとってもしかすると一番大切なことばかもしれない。 ガラテヤ人への手紙2:20
私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子、これこそがパウロの喜びの証しでした。 先ほどの奴隷は6年間もの間、自分の主人に仕えました。もちろん問題は、その主人がどういう人物であるか。 もしも良い主人であれば、6年間も夢のように心地よく過ぎるでしょうけど、もしも残酷な主人に仕えれば、もう毎日毎日が地獄のような苦しみの連続となるでしょう。 6年間と言えば前に話したように換算すれば、2,190日。奴隷が主人に仕え、そして今や新しい年が始まったわけですが、その7年目の第一日の朝、主人は奴隷の前に立ち、「きょう、お前はだれに仕えたいかを選択し、決定しなさい。」と言ったのです。 すると奴隷は即座に、「私は私の主人を愛しています。自由の身となって去りたくありません。」 私たちもまたきょう、われわれの主イエス様に、あなたに次のように証しをしたいと願う者なのでしょうか。 「主イエス様。私はあなたを愛しています。私は自分勝手な道へ行くのが心配です。私はあなたの御側にいたいのです。ただひとり、あなたにのみ私は仕えたいのです。私は去りません。 あなたの御側にいること。そしてあなたに仕えることこそ、もっとも幸せな人生です。ほかに良きものを私は何も知りません。あなたの御前には喜びが満ちている。」と。 これはパウロがとった態度でもありました。 「私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子から、私は決して離れたくない。」と。 「私はいつまでも主にのみ仕えたいのです。私はただ主イエス様のためにのみ生きたいのです。そして主のためにのみ生活したいのです。私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」 そのとおりパウロは最後まで主に仕え、そして殉教の死を遂げたのです。 ヨハネの福音書の6章67節、68節を見ると次のように書かれています。 ヨハネによる福音書6:67-68
今までは私たちは尊い代価を支払って買い取られた者がひとつの選択の前に立たされ、そして彼が自由の身となって主のもとを離れて行きたくないと決断したことを見て着ました。 しかしそれはいったいどうしてでしょうか。それは第三番目ですね。 彼は愛によって克服されたからです。この克服されたことの意味、克服されたことの内容についてちょっとだけ考えたいと思います。 第一は、はっきりとした決断。第二、公の証し。そして第三、絶えざる献身について考えたいと思います。 まず第一にこの奴隷の特徴ははっきりとした決断であったと言えます。 私は私の主人を愛しています。自由の身となって去りたくありません。主人のもとに私はとどまりたいのです。この決断はただ主を信ずるといったようなものだけではなく、100%徹頭徹尾まったく主に仕えること、そしてただ主のためにだけ生きることを意味しているのです。 私たちはいつかこのような決断を行なったことがあるのでしょうか。イエス様は本当にわれわれの全生活を支配しておられる主なのでしょうか。 私たちは主イエス様に従順に従おうとしてるのでしょうか。主のみこころだけがなされることを本当に望んでるのでしょうか。 第二のあの奴隷の特徴は、公の証しでした。出エジプト記の21章に戻りまして6節ですね。 出エジプト記21:6
主人は彼を神のみもとに連れて行ったと記されていますが、この場合、聖書の下にも書いてありますように、「さばきびと」という意味のほうが「神」という表現よりも適切であると思われます。 すなわちさばきびととは、当時にも存在しましたように、色々な問題や紛争を解決するために必要とされた重要な役目を担った人でした。 そして大切なことは、主人と奴隷との関係に関する約束事は、ただ二人の間だけでなされるのではなく、さばきびとのところで公にされる必要があったということです。 このことは救いの場合にも当てはまり、ただ個人的な関係や、主との間になさることとしてだけではなく、そのみわざが公の前で証明される必要があります。 そして例えば水のバプテスマにあずかることもその意味で、公の証しであると言えます。 いうまでもなく救われるためではなく、救われた証しであります。マタイの福音書の10章を見ると次のように書かれています。 マタイの福音書10:32-33
ローマ人への手紙の10章を見ても同じことが書いてあります。 ローマ人への手紙10:9-10
愛によって克服されたとは何を意味しているのでしょう。第一ははっきりとした決断。第二は公の証し。そして第三は絶えざる献身です。 出エジプト記21:6
いつまで主に仕える特権が与えられる。 戸口で耳をきりで刺し通すという風習は、絶えざる献身が約束されたことを証明する、当時のひとつの儀式でした。 もちろんこれは決して強制されてすることではなく、この決心は自由な選択と公の証しの結果であったわけです。彼は刻印された人となったのです。なぜなら彼の耳は刺し通されたからです。 最後にちょっとだけダビデの経験について考えたい。なぜならダビデも同じようなことを詩篇の40篇で証ししているからです。 確かにダビデも罪と自我と悪魔の奴隷でした。 詩篇の40篇の2節からお読みいたします。 詩篇40:2-8
「私を滅びの穴から、泥沼から、引き上げてくださった。そして私の足を巌の上に置き、私の歩みを確かにされた。」と、ダビデは経験しただけではなく、彼はひとつの選択の前に立たされたのです。 信ずる者として彼は大きな過ちと罪を犯しました。そこで彼は引き続き、暗やみの生活にとどまるか、あるいは光の中に来るかの二者択一に迫られたのです。 私は罪を認め、身をかがめて告白をすべきか、あるいは今までのように人前で王としての振る舞いを続けるか、どちらの道を選ばなければならない。そのような選択の前に彼は立たされたのです。 詩篇の32篇の中で、ダビデは、「私は私のそむきの罪を主なるあなたの御前に告白した。」と言ってます。 ダビデは改めて自分自身を主に明け渡し、主をまったく信頼することによって次のように言うことができた。 前に、詩篇の40篇でしたか。 詩篇40:4-5
そしてダビデは彼の主の罪を赦す恵みと愛によって克服された人でもありました。彼の証しは、6節にはっきりと記されています。 詩篇40:6
ここで、主が彼の耳を開いたとなっておりますが、原語を見ると、耳を刺し通したとなっています。 そして耳を刺し通すということは、まったく献身を意味しております。そこから初めて8節のみことばが理解できるようになるのです。 詩篇40:8
私たちはこのみことばが何よりもまずわれわれの主なるイエス様を預言し、イエス様に当てはまる者であることを知っています。 イエス様の全き献身の結果は耳だけじゃなくて手足が釘付けられる、刺し通されることでした。 全き献身とは、すなわち我が思いがなるのではなくて、ただ主のみこころがなるようにということにほかならない。 私たちも日々新たに、「主よ。あなたは私が何をすることを望んでおられるのでしょうか。」と問うべきです。 イエス様のことについて、ヘブル人への手紙の12章2節に書かれています。 ヘブル人への手紙12:2
イエスから目を離さないでいなさい。 ヘブル人への手紙12:2
イエス様は、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍ばれました。 それでは今日、主イエス様にとって喜びとなるものは何でしょうか。すべての人が、自分が主イエス様のしもべ、主イエス様の奴隷であることを告白し、「私はあなたを愛し、自由の身となって去りたくない。」と出エジプト記のあの奴隷のように言うことができれば、これこそイエス様が一番大喜びになることです。 主イエス様ご自身が自分をいやしくし、奴隷の姿をとられたのです。 代わりにのろわれた主イエス様に仕えることこそが最高の特権であり、また幸せです。 |