引用聖句:使徒の働き9章36節-42節
聖書の中で、なければならない、英語のmustはよく出て来ます。未信者にとってだけではなく、信じる者にとってもそうなのです。 未信者にとって必要なのは、なんでしょうか。イエス様は、「子供のようになることです。正直、素直になることです。」とおっしゃいました。 聖書学者であり立派な生活を送ったニコデモに向かって、イエス様ははっきりと言いました。 ヨハネの福音書3:3
いくら聖書を勉強しても立派な生活を送ったとしても、決して決して十分ではない。従って、救われることこそ簡単なものはないのではないでしょうか。 正直、素直になれば、主は、憐れんで下さり、恵んで下さり、人間の心のまん中を開いてくださいます。 なければならない。結局、そうしないとダメ。救われていない人々にとって、今話したように、どうしても必要なのは、正直、素直になることです。 そして、救われている人々にとっても、よく「なければならない」とあります。 救われている人々にとって、どうしても必要なのは、「聞く耳を持つこと」です。「御心を知ること」です。そして、主に従おうと望むことです。意味は、絶えず御霊の導きを求めることです。自分でわからないから、結局、主の助けを求めることです。 ダビデは、もちろん救われた者として、それがはっきりわかりましたから祈りました。 詩篇143:10
終えられなければだめ。御心を行うことを教えてください。あなたこそ、私の神であられますから、あなたのいつくしみ深い霊が、平らな地に私を導いてくださるように。 救われた人々にとって、この態度をとらないと、結局、用いられない。 また絶えずイエス様を仰ぎ見ることです。信ずる者にとって、最も大切な箇所は、ヘブル人への手紙12章1節の後半と2節です。 ヘブル人への手紙12:1-2
すなわち自分から、他の人から、目をそらしてイエス様だけを仰ぎ見ることです。 また、主にだけ頼ることです。それによって、イエス様のうちに留まることができ、結果として、実を結ぶことができるのです。 うちに住んでおられるイエス様こそが、自由に働くことができ、自由に用いることができるのです。 今の読んで頂いた箇所は、タビタと言う女性についてです。彼女について、これから少し考えたいと思います。 彼女のことについては、この箇所しか書き記されていません。だから、ほとんど知られていない。彼女は、ヨッパに住んでいました。ヨッパは、地中海の近くにある町です。 彼女の生い立ちについて、彼女の歳について、彼女の家族の状況についてなんにもわかりません。彼女の口から出た言葉は、一言も記されていません。 けれども、私達が知り得ることで一番大切なことは、とにかく彼女は神の子であり、救われた人であり、それだけではなく彼女は、イエス様の女弟子であったということです。 36節にタビタと言う女弟子と言う表現が出て来ます。彼女はただ、主を信じ受け入れただけではない。主に従うようになった用いられた弟子でした。 このことは、その当時非常に大切だっただけではなく、今日でも非常に大切です。すなわち私達ひとりひとり、イエス様を体験的に知り従って行こうとしているのでしょうか。イエス様を持っている者は、すべてを持っており、イエス様を持っていない者は、なんにも持っていません。 ドイツに数年前ですけど、大きな会社の息子が居ましたが、彼は自分の欲しいと思うものはなんでも手に入れることができたのです。本当に、恵まれた男でした。でも彼は、人生は無意味であると言う意味の遺書を残して、自殺してしまったのです。 このように、イエス様が共に居なければ、人生は本当に意味で的外れではないでしょうか。 いったい何が人間に欠けているのでしょうか。そして、何が人間を満たしてくれるのでしょうか。それは、決して、お金でも健康でも、立派な教養でも、力でもない。 それらのものは、せいぜい生きているわずかの期間だけ通用するかもしれない。けれども実際は永遠のものが、一番大切なのではないでしょうか。 ただ、イエス様だけが我々の人生を意味あらしめ、価値あらしめるのです。これこそ、タビタと言う女性の経験でした。 すべて目に見える外面的なこの世のものは、彼女の飢え乾きを満たさなかったのです。彼女は、本物を欲しかった。求めた。そして、求めると必ず与えられるのです。 どういうわけか、彼女は重荷を感じていました。心の平安が彼女には欠けていました。けれども、ある時、ヨッパで、今まで聞いたこともない素晴らしい福音に接することができたのです。 おそらくペテロが、彼女に福音を宣べ伝えたでしょう。その時、彼女は生まれて初めて主イエス様のことについて、すなわち処女生誕、数え切れない癒しの奇蹟、罪なきものの苦しみと死、復活と昇天について聞いたのです。 このイエス様にタビタは、完全な信頼を置いたのです。彼女は、イエス様こそこの世の救い主であり、彼女の救い主であることを信じるようになりました。 彼女は、このような霊的な体験をしたことの記として、必ず間違いなくペテロから洗礼を受けたでしょう。 彼女は洗礼を受けたとき、次のように告白したのではないでしょうか。今まで私の人生には、目的も、望みも、本当の喜びも、ありませんでした。けれども、イエス様は私の債務を支払って下さり、罪を赦してくださったために、全く新しい命が与えられました。 全く、新しい喜びと平安が彼女の心を満たし、彼女はイエス様を心の底から敬愛したのです。イエス様を大好きになったのです。 このアメリカの集いは、いつ始まったのか、いつ初めて来るようになったのか、ちょっと忘れました。けれども、このLAの飛行場に降りた時、一人の立派な男にはじめて会いました。 その時、もちろんゆっくり話すことはできなかったです。彼の妹は、教会へ行ってと何回も言ったそうなんですけど、彼は行っても何もならない。つまらないと思ったらしい。 けれども飛行場で会ったとき、今晩、サンディエゴで集会ありますからと話すと、もちろん行きますと答えました。 サンディエゴである教会で、公民館みたいだったのです。彼は、なかなか来なかった。どういうこと?結局、道に迷ったのです。話が、半分終った頃に、急に入って来たのです。 それで彼は、一文章によって救われちゃった。私は、ある吉祥寺の姉妹のことについて話したのです。火曜日の朝だったのです。 「○○姉、元気?」と聞いただけなんです。彼女は、はいとも、いいえとも言わないし、ちょっと変わった返事をしたのです。「イエス様、大好き。」 彼は、サンディエゴの教会に入って、「イエス様、大好き。」って、一言を聞いた時、「あ、これです。」、彼は、素直にイエス様を信じ受け入れました。 そしてすぐ次の日、パサデナで洗礼の証しがあって、彼も洗礼を受けたのです。 受ける前に彼は、両手を海に向かって上げて「イエス様、大好き。」と叫んだのです。そう言う歌も、同じ日作ったのです。 結局、イエス様を信じることとは結構です。けれども、たいしたもんじゃないかなあ。 ヤコブの手紙の中で、あなたは神を信じている。それは結構、けども、悪霊達も信じている。信じて恐れおののいている。これは、本物じゃない、役に立たない信仰です。 本当の信仰があれば、大いに喜んでいるとならなくちゃならない。 ここで出てくるタビタと言う女性も、イエス様を大好きになった方です。我々の人生にとっていったい何が必要かと言いますと、一番大切なことは、私達もタビタのように神の子供となることです。 最近、多くの人々は、人間はみんな神の子供ですと言われます。うそです。皆、神の被造物に過ぎない。けれども、子供のように正直に素直にならなければ、決して、神の子となることはできません。 必要なのは、自分の救われなければならないと言う必要性を感じることです。 もうひとつ、人間の努力はむなしいと知ることです。すなわち、自分も他人も決して自分自身を救うことはできないということです。すべて人間的な努力は、見込み無く望みなきものです。 聖書が言っている救いとは、罪の問題の解決です。罪の故に聖なる神の怒りのもとにある人間は、主との平和を持ち、債務が支払われ、罪が赦され永遠の命を持つと聖書は言っています。 けど、これは人間や、いわゆる宗教によってではなく、イエス様によってのみ与えられます。 なぜならば、イエス様は罪に対する父なる神の裁きの的になられ、ご自身の清い尊い血によって債務を支払われ罪を赦してくださったのです。 この真理の事実を心で受け入れ、信ずる者は神ご自身の平和、罪の赦し、永遠の命を持つことができるんです。 これこそが、ダビデの経験でした。 すべての人間は、自分の力で罪の問題を解決することはできないから、どうしても、イエス様が必要であると告白する状態に至らなければならない。 「イエス様、私はいま、罪人としてあなた様の御許に参ります。あなた様が、私を贖ってくださったことを感謝します。」、このようにイエス様に向かって祈ると、必ず救われたと言う確信が与えられます。 第一は、主の言われることを認めること、第二は、イエス様を受け入れることです。 主の言われることを認めるとは、なんでしょうか。主は、絶対に癒されない罪の病について、それは全く改善の望みがないと言っています。 けれども、イエス様は、我々の身代りになってくださったのです。そして、イエス様がなして下さったことは、本当に十分です。 二番目、主を受け入れることです。聖書の最後のヨハネの黙示録の22章17節。 ヨハネの黙示録22:17
「いのちの水をほしい者は、それをただで受けなさい。」命の水とはもちろん罪の赦し、神との平和を意味しています。命の水とは、イエス様による救いの贈り物にほかなりません。 ここに、「欲しい者は、受けるが良い」と知らされていますが、本当に、欲しがっているかどうかが問題なのではないでしょうか。 欲すれば、それを受けるようになります。イエス様は、決して強制するようなことはなさいません。受ける者は持つのです。その人は神との平和を得、罪の赦しを受け、神の子とされた喜びを持ち、永遠の命を持つことができます。 タビタは、それを経験しました。彼女は、神の子となったのです。けれどもそれだけではない。はじめに言いましたように、彼女はイエス様の弟子でした。 弟子とは、主人に従います。イエス様の弟子になったのは、このタビタです。彼女は、イエス様の弟子として、主イエス様に忠実に、従いました。 そこで、次のような質問が彼女にあったことを考えてみましょうか。 彼女は、必ず救われてから祈ったでしょう。「イエス様。あなた様は、私のために死んで下さり、尊い代価を払って私を買い取ってくださった。そのようにして救われた私は、あなた様のために生きたい。どうしたら、いいのでしょうか?」 祈りの答えとして、彼女の目は突然、苦しんでいるやもめ達の姿を発見し、彼女たちにイエス様を宣べ伝えることこそ自分の使命であることに気がついたのです。 そこで、彼女がやもめ達のために自分の財産を売って、いろいろな物を買い与え、布で服を縫ったりして、イエス様に仕えたのです。マタイの福音書25章40節を見ると、次のような箇所があります。 マタイの福音書25:40
つまり彼女の願いは、やもめ達から感謝することではなくて、イエス様に仕えることでした。イエス様のために生きたいと言う願うこととは、彼女の人生の目的になりました。 彼女は、数々の良い働きや、施しをしていたと書いてあります。彼女は、愛に満ち、他人のために、イエス様のために自分を無にした人でした。 けれどもある時、病気のために彼女は死にました。集まった人々は、彼女のために涙を流し、いつまでも泣いていました。それは、タビタは物質的にいろいろと助けてくれたからではなく、自分たちを一番理解して愛していてくれたからです。 誰でも、悩みや苦しみのある者はタビタの所に行って、すべてを打ち明けると、彼女はそれをよく理解してくれました。彼女は、心から人々を愛し、いつも彼らのために、配慮したのです。 疑いもなく彼女は、イエス様のことを話し、それによって多くの人々が新しく生まれ変わったのです。 イエス様こそ彼女の賛美に他なりませんでした。けれども今や彼女は死んで、静かに横たわっているのです。そのために、人々は、気が転倒してしまい、どうして良いかわからなくなってしまったのです。 けれども、その時、突然尊敬すべき人が現れました。それこそ他ならぬペテロでした。やもめ達は、みんなペテロのそばに寄って来て、タビタが、生前作ったものを泣きながら見せるのでした。なぜ、タビタが死んだのか、彼女たちには、そのわけがわかりませんでした。 ペテロは、みんな者に外に出て欲しいと頼みました。彼の心は非常に感動していたのです。彼は、主の御心はなんであるか、はっきりと知りたく思いました。 突然、彼はイエス様と一緒に経験したことを、思い出したのではないでしょうか。それは、カペナウムで起こったことでした。その時、12歳の少女が死にました。ヤイロの娘でした。すべての者が大声で泣き叫びました。 その時、イエス様は、泣くことはない彼女は眠っているだけだと仰せになりました。そして、イエス様は彼女の手を取って、抱き起こし、「娘よ起きなさい。」と言われました。すると、少女は起き上がったのです。 それから、まだ他のこともペテロは祈りながら思い出したでしょう。それは、イエス様と一緒にナインに居た時のことでした。葬式の行列が通ると、イエス様は、死んだやもめの子どもを甦らせなさいました。 それから最後に、ベタニヤでのことも思い出したでしょう。その時、ラザロは死んで葬られてから4日もたってたのです。イエス様は、死んだラザロの屍に向かって、「ラザロよ出て来なさい。」と言われました。するとその通りラザロは出て来たのです。 このような事実を思い出してペテロは、イエス様はここでも奇跡を行うことを望んでおられることを確信しました。 そこで、ペテロはひざまずいて祈り、それから死体の方に向いて、「タビタよ、起きなさい。」そう言いました。すると彼女は目を開けて、起き上がったのです。 それからペテロは、聖徒たちを呼び入れました。驚きと、崇拝と、賛美と感謝が、人々の心を捉えました。そして、このことはすぐヨッパ中に知れ渡りました。多くの人は、タビタの所にやってきたのです。 ペテロが宣べ伝えたイエス様、そしてタビタが信じたイエス様が本当に死人を甦らせたお方であるならば、聖書に預言されたメサイア(救い主)に違いない。預言された救い主に違いないと考え、多くの人々は、主イエス様を信じたとあります。 ここで、ひとつのことがはっきりしているのじゃないでしょうか。 タビタが、ただ単に神の子であることに満足して、イエス様の忠実な僕、または弟子でなかったのなら、彼女は愛された多くの人々が、彼女のために泣き悲しんだり、ペテロを呼びに行ったりすることは、決してなかったでしょう。 もし、彼女が生きている間、自分のことばかりを考え、お化粧することに夢中になったり、隣近所に出かけて人の悪口ばかり言ったりしていたならば、彼女が死んだ時に、多くに人々が、彼女のために泣き悲しむようなことはなく、簡単に葬り去られ、すぐに忘れてしまったことでしょう。 今日多くの問題は、イエス様を信じる者は決して少なくないけど、主の弟子は少ないということです。 多くの人はイエス様を信じますけど、その人々の信仰生活は、主を証しすることが少ないのです。 そこで、イエス様の弟子とは、何を意味しているのでしょうか。イエス様の望んでおられることを行うことです。 イエス様の弟子の特徴は、徹頭徹尾、主に従うことです。 ちょっと一箇所、山上の垂訓を見せてみましょうか。 マタイの福音書7:21-23
したがって、実際にイエス様に従う者こそイエス様の弟子です。イエス様に従うということは、イエス様の絶対的な支配を受けることです。イエス様の弟子は絶えず「主よ、あなたは何を望んでいるの?」とイエス様に問うべきです。 新約聖書の中で、イエス様が私に従って来なさいと招かれた時、それは、私の弟子となりなさいと言う呼びかけでした。 同じくマタイの福音書4章19節を見ると、次のように書かれています。 マタイの福音書4:19-20
一週間、考えさせて下さいなのではない。すぐに彼らは網を捨てました。 マルコの福音書2:14
ルカの福音書5:27-28
外面的には、イエス様に従っていくことは、今までの生活の領域のなかにあった物や人を捨てることを意味しています。 マタイの福音書19:21
マルコの福音書1:18
ヤコブとヨハネは、イエス様が彼らをお招きになると、父を雇い人たちと一緒に船の中において、イエス様の後についてきました。 レビ、あとで、マタイと呼ばれた男について、同じことがルカの福音書5章28節に書いています。 ルカの福音書5:28
今日の主の弟子も、当時と同じようにすべてを捨ててイエス様に従う決意を常に持っていなければなりません。 イエス様に従う決意を持つことこそが大切です。少なくとも、内面的にはそのような態度が、どうしても必要です。 未信者の家族や親戚は、私達とは別の世界に住んでいます。従って、そこには越えがたい断絶があります。従って、御心ならば、全国を歩いてあるいは外国まで出かけて、イエス様を宣べ伝えるように示される場合もあります。 そのようなことが一切、示されるかどうかが別としても、少なくてもそのような備えの心構えが必要です。 イエス様の当時は、多くの人々は、イエス様に従いました。 マタイの福音書4:25
マルコの福音書3:6
マルコの福音書5:24
イエス様は、これらの群衆に対して、多くの御業と奇蹟を行いましたけど、彼らは本当に、イエス様に従って行く心の備えが十分には、まだできていなかったのです。 ルカの福音書9:57-58
イエス様は、本当の意味でこの世でホームレスでした。 ルカの福音書9:59-62
ヨハネの福音書6:60、66
これらの人々は、聞くことだけで行うことをしなかったのです。従順ならざる弟子はいりません。 自分の思いを捨てて、主の御心だけを大切にすることがどうしても必要です。 マタイの福音書26:39、42
イエス様が、ご自身に従うことの大切さを繰り返し言われたことは、間違いない。 ルカの福音書14:25-33
弟子として、イエス様に従うことは、徹底的な献身を意味します。あらゆる人間的な絆からの分離を意味します。 イエス様は、4つの福音書の中で、本当に厳しい言葉を使いました。 マタイの福音書10:34-38
次のマルコの福音書8章にも似ていることが書いてあります。 マルコの福音書8:34-38
イエス様に従うことは、毎日、自分の意志と自分の思いを主に明け渡すことです。結局、教えて下さい、導いて下さい、用いて下さいと言う絶えざる祈りです。 もう一箇所。ヨハネの福音書10章4節と27節です。 ヨハネの福音書10:4、27
イエス様の声に聞き従わない者は、イエス様の弟子ではない。イエス様の声に聞き従う者は、決して道に迷うことはありません。けれども、イエス様の声に聞き従わない者は闇の中を彷徨うのです。そして、いつも波のように揺れ動いて定まることがない。 いま、イエス様に従う者は、生きている間だけではなく、死んでからも豊かなる報いを受けます。 マルコの福音書10:28-30
最後に、今まで話したことを要約してみます。弟子とされることの必要不可欠の状態は、徹頭徹尾イエス様を信頼し明け渡す賢人である。 自分の親しい家族や友人よりも、誰よりもイエス様を愛し、イエス様のためにすべてを捨てて、すべてを失う備えができている者だけが、イエス様の弟子となることができるのです。 主よ、主よと言う者がイエス様の弟子なのではなくて、ただ、主の御心を行う者だけが主の弟子であります。 主の弟子となると、その結果、必然的に憎しみや迫害を受けることを伴うのです。 弟子は、師に勝ることはないと聖書に書かれていますが、イエス様は受難を受けられたわけですけど、主の弟子も、迫害を受けたり、憎まれたりするくらいのことは、いわば当然であると言えましょう。 マタイの福音書5:11
ペテロは、当時ずっと迫害された兄弟姉妹のために手紙を書いたのです。ペテロの手紙第Iを書いたのです。 ペテロの手紙第I、4:14
イエス様の弟子は、あれこれと思い煩う必要はありません。主ご自身がすべてを良いように配慮してくださるのです。 有名な山上の垂訓から読みます。 マタイの福音書6:25-34
イエス様の弟子は、祈りにおいて、自由と権威を持っています。 ヨハネの福音書14:12、14
主の弟子は、へびのように賢く、ハトのように素直です。 マタイの福音書10:16
今日、この世が必要としているものは、イエス様に従っていく主の弟子なのではないでしょうか。主の弟子だけが、この世の光、地の塩です。イエス様の弟子とは、この堕落した時代にあって、御言葉をしっかりと受け止め、主の御声に聞き従う者です。 どうでしょうか。私達は皆、神の子となる特権に預かっているのでしょうか。 もし、そうでないなら、今、その機会が与えられるかどうか、受け入れ信じ、イエス様の救いの御業のために感謝してください。私達は、イエス様の弟子なのでしょうか。 自分の罪が赦され神の子とされた後、イエス様は、ご自分に従うことを、弟子になることを望んでおられます。「私に着いてきなさい。」、イエス様は我々に呼びかけておられます。 私達も今までと同じように、自己決定と自己支配とをこれからも続けていきたいなのでしょうか。それとも、献身と本当の自由の新しい人生を始めたいのでしょうか。 すべては、私達が新しい人生と証しとによって、ほかの人が自由になり、本当にイエス様が信じるようになるのを望むかどうかの決断によっています。 タビタのように、多くの人々がイエス様を信じるようになり救われたのです。 どうして?彼女は、救われただけではなくて、主イエス様の弟子であったからです。 |