引用聖句:ローマ人への手紙5章12節-21節
救いに至る信仰の内容とはいったい何なのでしょうかと聞かれれば、おそらくだれでもが「ローマ人への手紙を読みなさい。」 先週私たちはイエス様の流された血の大切さについて、少しいっしょに考えました。使徒たちはみんな口を揃えて「イエス・キリストの血とは尊いものである。」と告白したのです。 いったいどうしてでしょうか。色々な答えがあります。 第一番目、血によっての贖い。すなわち罪の赦しを与えられるからです。 第二番目、血潮を信ずることによって義と認められ、よしとされるからです。 第三番目、流された血は守り、また安全を意味しているから。 第四番目、血潮によって父なる神への道が開かれたから、尊いものである。 第五番目、血潮によって本当の交わりが可能になったのです。 第六番目、私たちはイエス様の流された血によって聖なる者、すなわち主の所有物になったからです。そして最後に、 第七番目、血潮によってのみ悪魔に対する勝利が与えられるからです。 ヨハネの黙示録に、「兄弟たちは、小羊の血のゆえに、悪魔に打ち勝った。」と書かれています。十字架の犠牲こそが悪魔、神の敵である悪魔に対する勝利を意味しているのです。 イエス様の血潮によって罪という名の壁は取り除かれ、良心の呵責は消えてなくなっただけではなく、私たちがイエス様の血潮の価値を知るならば、悪魔の訴えは効き目がなくなります。 ですからイエス様の血とわれわれを訴える者に対する勝利について考えることとは、非常に大切ではないでしょうか。 イエス様に属する者を訴える者は、今日悪魔のする一番大切な仕事ではないでしょうか。私たちはいったいどうしたら悪魔に打ち勝つことができるのでしょうか。 イエス様の血潮によってのみ、悪魔に勝ちうることができます。イエス様の血はもうすでに流され、もうすでに聖なる父と人間との間を隔てていた罪の壁は取り除かれました。 そして今や主なる神は、結局人間のがわに味方となって立っておられます。ですからどんなに悪魔が訴えてきても、その訴えは全くむなしいものです。 もしイエス様の流された血をしっかりと信ずるならば、ヨハネの手紙第Iの1章7節を経験することができます。 ヨハネの手紙第I、1:7
このみことばは、われわれの信仰生活の毎日にとって何と尊いみことばでありましょうか。このみことばに全ての罪、おのおのの罪から私たちをきよめると約束されています。 イエス様が光であります如く、主の光のうちに歩むなら、私たちの罪は大小に関わらず、意識する意識しないに関わらずすべてきよめられているのです。 結局訴えても無駄です。悪魔はどんなに訴えても無駄です。イエス様の血潮のゆえに今や、主なる神がわれわれの味方となっているからです。 ローマ人への手紙の8章の31節から、パウロはローマにいる兄弟姉妹たちに次のように書いたのです。 ローマ人への手紙8:31-34
すごいことばです。血潮は全く満足させられたものであるという知識が必要です。 悪魔はやって来て訴えてくるでしょう。「お前だって罪を犯したでしょう。主はもはやお前を用いられない。」と言うとき、何を答えたらいいのでしょうか。 「その通り。前から知っている。私は自分のうちには何の良いところもないけれど、私たちのために主イエス様の血がある。父なる神はこの血を満足されておられる。だから私ははばからずして祈ることができ、主に近づくことができる。」と言うことができるのです。 もし私たちがこの主イエス様の血潮の価値を忘れますと、悪魔が必ず勝利を取り、でしゃばってきます。 イエス様だけが訴える者、すなわち悪魔に打ち勝つことができるのです。そしてイエス様はもうすでにご自分の犠牲の死によって悪魔に打ち勝ったのです。 もし私たちは主の血潮の価値を十分に知るなら、悪魔がつけ込む余地はなくなるはずです。イエス様の血を目の前から決して追いやってはなりません。 イエス様の血は父の満足されたものであり、イエス様の血潮はわれわれの平安の源であるから、この事実こそ悪魔の訴えを全く退けます。 私たちの力と平安と喜びの源が全部、イエス様の血潮の中に含まれています。イエス様の血を深く喜び、イエス様の血に心からの感謝をささげ、更に一歩前進すべきではないでしょうか。 ほかの宗教、どういう宗教を見ても、血、流された血は大切にされていません。けれどもこれこそが聖書の中心です。イエス様の代わりの死、イエス様の流された血潮です。 でも今日は、ちょっと別のテーマについて考えたいと思います。今、兄弟のお読みになりましたローマ人への手紙6章の中で、ちょっと違う、非常に大切なことについて書かれています。 すなわち私たちの古き人に対する、われわれの生まれつきの性質に対するイエス様の十字架の価値です。 かつて私たち主イエス様を信じる者は神なく、望みなく、滅んでいかなければならない自らの状態を見いだしたとき、「主よ。私は滅ばなければならない。」と祈りました。そのとき私たちは主の流された血潮は、自分の全ての罪を聖める力があるということを体験しました。 そして悔い改め信仰に立った私たちが、この中の大部分の兄弟姉妹はさらに進んだ経験をしたのではないかと思います。すなわち私たちは罪を犯しただけでなく、私たち自身が罪の本質をもっている。根深くもっている罪人であるということを認めるようになりました。 私たちのうちにはひとつの力があり、その力が働くと罪を犯してしまう。欲しないのに犯してしまうといったことをだれでも経験したのではないでしょうか。 そのようにして罪を犯したとき、イエス様の十字架の血潮を仰ぎ、罪の赦しをいただきます。けれど罪を赦された喜びも束の間、またすぐに罪を犯してしまう。繰り返し、繰り返し同じところを堂々巡りをしているのではないでしょうか。 例えて言いますと、大人が信心深い顔をして、子どもの遊園地に行って、回転木馬に乗って、グルグル回っているようなものです。罪を犯して、悔い改めて、悔い改めてはまた罪を犯し、なかなか信仰の成長がない。いつまでも信仰の世界では子どもであるという姿は、回転木馬に乗ったわれわれの姿と同じではないでしょうか。 私たちは流された尊いイエス様の血潮の血をくぐって、いつ、どんなところにあっても安心して主に近づくことができる。イエス様の血はいかなる大罪をもおおって余りがあると約束されています。 このイエス様の血は私たちを父なる神のみもとに贖い戻すために、言い換えるならば、私たちが犯した罪を赦すために流されました。しかし血潮はわれわれの生まれつきの親から受けた人間の性質、すなわち罪の性質を消し去ることはできない。ここに私たちの古き人、すなわち私たちの生まれながらの性質を解決しなければならなくなってきます。 私たちがどんな悩みにあるときにも、どんな難しい問題にあるときでも、それに対する主の唯一の答えはいつもイエス様です。 イエス様は私たちの身代わりになって永遠の贖いのわざを成し遂げられたのです。私たちのために死なれたイエス様は、今はわれわれの代わりに生き、私たちを自由にするために、私たちを解放するために生きたいのです。 パウロはいわゆる勝利の秘訣について次のように書いたのです。ガラテヤ人への手紙の2章20節。パウロはこのことばを信仰の告白としてほかの兄弟姉妹を励ますために証ししました。 ガラテヤ人への手紙2:20
もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられる。これが私たちのうちに事実となるとき、初めてイエス様はわれわれの代わりに生き、私たちの解放者となるわけです。 どうでしょうか。私たちのいのちの支配者は、生活の支配者はだれなのでしょうか。これに対する答えを聞くと、その信仰生活が前進しているか、または敗北に終わっているかがすぐわかります。 私たちは信心深い顔をして、回転木馬に乗っているような者になりたくない。罪の重荷を背負ったままイエス様の御前に出て、その赦しをいただいた人は本当に幸いです。 しかしその状態にとどまっていては良くない。私たちは罪の力から解き放たれること、生まれながらの性質から解放されること、古き人から自由になることが大切です。 このためには十字架が必要です。イエス様が十字架で流された血によって私たちは罪を赦され、贖われ、父との平和を回復しました。けれどイエス様の血潮は私たちの生まれながらの性質を消し去ることはできません。そのためにはどうしても十字架が必要です。 前に兄弟のお読みになりましたローマ人への手紙5章12節から21節までを見ると、色々なことが書かれています。 まずアダムから受け継いだ罪の性質について色々なことが書いてあります。例えば19節、 ローマ人への手紙5:19
と。この19節は本当にすばらしい事実について述べています。この節の中で御霊は二つのことを私たちに教えてくださいます。 一つは、私たちはどういう者であるかということ。すなわち、私たちは罪人であるということ。 もう一つはこの罪はどこからやって来たかということ。初めの人アダムからやって来たということを教えています。 私たちは信仰生活の第一歩を踏み出してからの生活においても、やったこと、またやることに気を取られています。 御霊によって罪が教えられたとき、そのあまりの恐ろしさに恐れおののいたことですけれど、主イエス様によって罪が赦されてから後もなお、やったこと、やることに気を取られているのです。 例えば時々次のように考えるかもしれません。「私はよく聖書を読み、よく祈り、色々な奉仕をよくやる。だからいいのではないでしょうか。」、けれど実際にはなかなか自分の思うような状態に自分がやって来ません。問題は外から表われた祈りとかご奉仕ではない。私たちが、私たちのたましいがどうあるかが問題です。 私たちは心から主に喜ばれたいと願っています。真剣に願っていますけれど、うちを顧み、深く自らのたましいをのぞき見るならば、そこに何かイエス様に喜ばれないものがあるのに気付きます。 謙遜でありたいけれど自らを謙遜にさせない何かがある。愛したいけど愛せない。愛せない分子がある。 これに気が付きますと、「主よ。私のやることが罪であるばかりではない。私自身が罪人である。」と言わざるを得ない。 いったい人間はどうして罪人になったのでしょうか。このローマ人への手紙5章19節には、アダムの不従順によって、人間は罪がはいって来たと書き記されています。 私はベックと申します。私は生まれたときに一生懸命、いい名前だと思ってつけたのではない。このベックという名前は私の父の父、またその父、ずっと昔の先祖がつけた名前です。 私のせいではない。私がこの名前をどんなに嫌っても、変えることは簡単にできないでしょうし、私は乞食になっても大統領になっても、ならないでしょうけれど、やはりベックです。 私たちはなぜ罪人になったのでしょうか。私たちのせいではない。アダムのためです。私たちが罪を犯したから罪人なのではない。アダムが罪を犯したから罪人と聖書は言っています。 アダムが罪を犯したとき、私たちはアダムのうちにいました。だから私たちは罪人です。アダムは最初の人間です。全人類はアダムの子孫です。ですから全人類はアダムにあって罪人であると、このローマ人への手紙に書き記されています。 一つの例をとってみますと、私は結婚して子どもが生まれた。私は日本に来る前に、婚約して日本で結婚するようになってしまったけれど、もし私日本へ来る途中台風に遭って船が沈み、死んでしまったならば子どもはもちろん生まれなかったはずです。すなわち子どもは私とともに海の中に死んだはずです。 私たちもまたアダムとともに海の中ではなく罪の中に死んだわけです。聖書はアダムが罪を犯したとき、私たちもアダムの中にあったため罪人となったと言っています。 私たちはアダムの子孫としてアダムの性質、すなわち罪の性質を持っています。ですから問題は、私たちが何をやるかだけではない。私たちが何であるか。私たちの本質が問題です。 この罪の性質から解放されなければならない。もし解放されないでいると信仰は成長しません。いつまでも信心深い顔をして、回転木馬に乗っていなければならないということになってしまいます。 ローマ人への手紙の中で何回も書き記されているのは、われわれの生まれながらの性質は罪の性質です。私たちは生まれたときにもうすでに罪人という運命に決定付けられていたのです。 日本人がドイツで生まれたらどうしますか。日本語を話さない。まったくドイツ流に生活します。ですが日本人は日本人です。 たくさん罪を犯す。たくさん罪を犯さない。それは問題とならない。問題は罪の性質を持っているということです。人間は罪の性質を持っていますから罪を犯す。神の子になっても相変わらず罪を犯すのはいったいどういうわけなのでしょうか。それは罪の性質の問題を解決していないからです。 なぜ鳥は鳥なのでしょうか。鳥として生まれたから鳥です。鳥は飛ぶことができるから鳥なのではない。病気になって飛べなくなった鳥も鳥は鳥です。 なぜ人間は罪人なのでしょうか。罪人として生まれたからです。アダムから受け継いだ性質とは罪の性質であると、このローマ人への手紙6章の中ではっきり書き記されています。 罪の点についてもう少し考えたいと思います。すなわちアダムのうちにあるか、それともキリストのうちにあるか。これこそ大切な問題です。 このローマ人への手紙5章12節から21節にはアダムのことばかりではなく、イエス様についても書かれています。もう一回19節を読みましょうか。 ローマ人への手紙5:19
アダムの内に、またキリストの内にと言いますが、これはいったい何を意味しているのでしょうか。アダムによって全人類は望みのない罪人となってしまいました。アダムによって罪がこの世にはいり、罪によって死がはいって来ました。 けれどこの暗やみの中に一筋の光が差し込んで来ました。それはひとりの従順によって多くの人が義人とされる。すなわちイエス様の従順です。 アダムのうちにあるということは、罪人であるということを意味しています。また罪の性質を持っているということを意味します。ダビデの告白は次のようなものでした。 詩篇51:5
罪を犯したから罪人になったのではない。罪人として生まれたから罪を犯す。ペテロの告白も似ています。ペテロはイエス様の足もとにひれ伏して、 ルカの福音書5:8
ヨブの告白も似ています。 ヨブ記42:6
パウロの告白もそういうものでした。 ローマ人への手紙7:21
ローマ人への手紙7:18
これはイエス様に出会ってから何十年間イエス様に仕えてからのパウロの告白です。アダムのうちにあるのは結局それなのです。 これに対してキリストにあるということは、主なる神の子であるということを意味し、また主の性質を持っているということを意味しているのです。エゼキエル書の16章。旧約聖書の預言のことばです。 エゼキエル書16:14
雅歌の4章1節に次のようなことが書いています。 雅歌4:1
雅歌4:7
とあります。 マタイの福音書9:2
あの中風の者にとって決して忘れられないことばだったでしょう。「あなたの罪は赦された。」 コロサイ人への手紙2章の9節、10節を見ると、また次のように主の成し遂げられた救いについて書き記されています。 コロサイ人への手紙2:9-10
あなたがたは、キリストにあって満ち満ちている。必要なものを全部持っている。 パウロはコリントにいる人々、主の救いにあずかるようになった人々に書いたのです。 コリント人への手紙第I、6:11
ひとことばで言いますと、アダムのうちにあることは絶望であり、キリストのうちにいることは希望です。生まれながらの性質から解放されることが必要です。 パウロはローマにいる兄弟姉妹に書いたのです。 ローマ人への手紙6:1
と尋ねます。絶対にそんなことはありませんとパウロは続けて答えています。 極みまで聖なる主は汚れた人間をよしとされるのでしょうか。満足されるのでしょうか。 ローマ人への手紙6:2
イエス様がわれわれの生まれながらの性質を解決されるための備えがあるのでしょうか。性格的に弱いその弱さの代わりに、強さと信仰が置き換えられ、加えられているでしょうか。私たちの持っているもっとも弱い点が強い点になりうるのでしょうか。 今まで二つの点についてちょっと考えました。第一番目、アダムから受け継いだ罪の性質について。それから第二番目、アダムによるかキリストによるかについて考えました。 第三番目の点は、解放のための神の方法とはいったい何なのでしょうか。 これまで、アダムのうちにいることにより、罪人となったという事実を学んできました。私たちはいったいどうしてアダムから逃れ出ることができるのでしょうか。主イエス様の十字架の血潮は私たちをアダムのうちから解放してくださいません。 イエス様はその血潮により罪を赦し、贖いを成し、父なる神との平和を与えてくださいます。けれどその知識があっても、アダムの性質、すなわち罪の性質から逃れ出ることはできません。どの方法によって自由になることができるのでしょうか。 私たちは生まれながらにして、生まれることによりアダムの性質にあずかりました。今度は死ぬことによってアダムの性質から逃れます。死ぬことによってのみ、罪の性質から逃れることができるのです。 けれど問題はいったいどうしたら死ぬことができるのでしょうかということ。私たちは自分で死のう死のうと試みますけれど失敗に終わります。私たちは自分で死のうとする代わりに主なる神がこのために何を成してくださったかを知ることが可能です。 ローマ人への手紙6:3
どうしたら主イエス様の中にはいっていくことができるのでしょうか。私たちはもうすでにイエス様のうちにいるのですから、その心配は必要ない。 私たちは自分でどんなにもがいてもどうすることもできません。ですから主なる神が成してくださった。父なる神があわれみによって私たちをキリストの中にいれてくださいました。キリストの中においてくださいました。 コリント人への手紙第Iの1章30節に非常に大切なすばらしいみことばが書かれています。 コリント人への手紙第I、1:30
これに、あなたがたは、キリスト・イエスのうちにあるのですとありますが、私たちは間違いなく確かにもうすでにキリストのうちにあると聖書は言っています。 私たちはどんな具合にキリストのうちにはいったのか知りません。けれど、もうすでにキリストのうちにあることを聖書によって知ることができ、信ずることができるのです。 私たちはさいわいなことにすでにイエス様のうちにあるのです。これは父のなさったみわざです。これは私たちがそれを信じようが信じまいが、またそれを感じようが感じまいが動かすべからざる主なる神の事実です。 ですから主イエス様が十字架で死なれたとき、私たちもイエス様とともに死んだ。なぜならば私たちはイエス様のうちにいたからです。コリント人への手紙第IIの5章の14節の後半を見ると次のように書かれています。 コリント人への手紙第II、5:14
イエス様が十字架におかかりになったとき、そのとき、私たちも十字架にかかった。 例えますならば、私たちは今、「日々の歌」というものを持っています。この歌の本に一枚の紙を挟み、ドイツにその本を送ります。一枚の紙を送るつもりではないかもしれないけれど、とにかく本の間に挟んであるからドイツに行ってしまう。 本を送ったとき、本だけドイツに行って、一枚の紙だけフランスに行くというようなことはあり得ません。このコリント人への手紙第Iの1章30節は本当にすごい事実を表わすことばです。 コリント人への手紙第I、1:30
あなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。父なる神は私たちをイエス様のうちにいれてくださったのです。 ちょうど本の間に一枚の紙が挟まったように、私たちはイエス様のうちにありましたから、イエス様が十字架にかかられたとき私たちも十字架にかかり、主が死なれたとき私たちもともに死んだのです。 イエス様が十字架にかかられたとき私たちも十字架にかかった。だから十字架につけてくださいと願う必要はない。イエス様が亡くなられたとき私たちもともに死にました。ですから私たちの死はもう終わったのです。これから死ぬということはあり得ないのです。 新約聖書のどこを開いても、私たちはもうすでにイエス様とともに死んでしまった。しまっていると言っているのです。これに関係している2、3ヶ所を見てみましょうか。 ローマ人への手紙6:6
生まれながらの性質、 ローマ人への手紙6:6
過去形、 ローマ人への手紙6:6
罪の奴隷でなくなるために主は犠牲になった。そして前に読みましたガラテヤ人への手紙の2章20節です。 ガラテヤ人への手紙2:20
5章の24節を見ても同じようなことが書いています。 ガラテヤ人への手紙5:24
ガラテヤ人への手紙6:14
(テープ A面 → B面) ・・・自殺することはできません。自分で自分の両手両足に釘を打つことはできません。打つことができても、せいぜい片手ぐらいです。 これと全く同じように、私たちは自分で自分の罪の性質を取り除くことはできません。だからこそ父なる神が私たちを主イエス様のうちに置き給いました。 ですからイエス様が十字架におかかりになったとき私たちもともに十字架につけられたのです。私たちが主イエス様とともに十字架につけられたということは単なる教えではない。理論でもない。永遠に変わらない事実です。 主イエス様の死、またイエス様のよみがえりは私たちの身代わりでした。主イエス様は十字架の上で亡くなられたとき、あの罪のない、しみのないご自分のからだを私たちにお与えになったとき、尊い血潮を流されたときそれは私たちの恐るべき罪を贖い、父なる神の聖と義と満足させるためだったのです。 この救いのわざ、贖いのわざはイエス様だけが成し遂げられたのです。いかなる人間と言えども、このわざに加わることができなかったのです。 聖書のどのページをめくってみても、私たちの血潮がイエス様の血潮とともに流されたなどという記事は出ておりません。主なる神の御前におけるこの贖いのみわざを主イエス様はおひとりで成し遂げたのです。 イエス様の死にあなたも私も含まれているのです。そういうわけで父なる神は私たちを主イエス様のうちにいれ、私たちはイエス様とともに十字架で死んだからです。主イエス様の死の中にはあなたも私も全人類も含まれています。 全人類はイエス様とともに死にました。けれどイエス様の死ばかりではなく、イエス様のよみがえりもあなたたちと私を含んでいます。全人類は主とともによみがえらされたのです。 コリント人への手紙第Iの15章を見ると次のように書き記されています。 コリント人への手紙第I、15:45
コリント人への手紙第I、15:47
この個所の中でイエス様は最後のアダムと呼ばれています。第二のアダムとは呼ばれていない。それから第二の人と呼ばれています。最後の人とは呼ばれていません。いったいどうしてでしょうか。 最後のアダムとしてイエス様の中に全人類は含まれています。また最後のアダムとしてイエス様は捕われの身となっている罪に堕落した全人類とともに、さばきと死に行かれたのです。 第二の人としてイエス様は新しい人類のかしらとなられました。また第二の人としてイエス様は新しい全人類とともによみがえられました。私たちもその中に含まれていたと聖書は言っています。 ローマ人への手紙6:5
私たちは最後のアダムとして主とともに死に、第二の人として主とともによみがえりました。だから私たちをアダムからキリストのうちに移したその力は十字架にあったわけです。 今日は、生まれながらの性質、すなわち古き人についてちょっと考えてまいりました。また私たちはこの問題の生まれながらの性質、古き人はイエス様の十字架によって、もうすでに取り除かれていることも見てまいりました。 私たちがイエス様を受けた者のうちに支配しているのは古き人、アダムの性質ではなく、イエス様が私たちのうちに、またご自分のご栄光を私たちを通して現わそうとなさるのです。これこそが解放です。 十字架はなぜ私たちに必要なのでしょうか。イエス様がご自分のいのちを私たちうちに住まわせるために必要です。だから前に2、3回読んだ個所です。 コリント人への手紙第I、1:30
知恵とは何でしょうか。それはイエス様です。義とは、聖とは、贖いとはそれはイエス様です。私たちが聖きに至るその聖きはいうまでもなくイエス様です。 私たちは自分の高ぶりに気が付き、謙遜になりたいと思っているかもしれない。それは謙遜を求めても得られません。私たちが求めなければならないのはイエス様だけです。 父なる神は忍耐、愛、謙遜、柔和の、そのように一つ一つ分けてあげることはできません。けれども父なる神は私たちにもうすでにイエス様を与えてくださいました。 私たちがイエス様に拠り頼み、主イエス様を心に豊かにお迎えするなら、イエス様が私たちの謙遜となり、忍耐となり、また愛となってくださいます。 父なる神は忍耐や愛や謙遜を売りさばく商人のようなものではありません。父なる神は私たちのうちとなるように、イエス様を私たちに与えてくださったのです。 私たちは無理にクリスチャンらしい生活をする必要はない。ただイエス様が私たちのうちに住むことを許しさえすればよいのです。ですからこの前に読みましたガラテヤ人への手紙2章20節こそが考えられないほど大切な個所です。パウロは喜んで証しすることができた。 ガラテヤ人への手紙2:20
十字架の力によって生きているのは、もはや私ではない。イエス様が私のうちに生きているのです。 私たち一人ひとりパウロと同じように、「もはや私が生きているのではない。キリストが私のうちに生きておられる。」という堅い信仰のゆえに立ちたいものではないでしょうか。 |