十字架につけられた主


ベック兄

(御代田喜びの集い、2009/08/09)

引用聖句:コリント人への手紙第I、1章23節-24節
23しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、
24しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。

一緒に、日々の歌の117番でしたね。歌いました。

ハレルヤ。十字架をたたえよう。
十字架は永遠に立つ。

もちろん十字架じゃないよ、本当は。十字架につけられたイエス様なんです。十字架につけられたイエス様こそが、聖書の中心そのものです。
結果として、人間は確かに悩みながら喜ぶことができるのです。
今、司会してくださった兄弟とその姉妹は戦っているのです。二人は次のように書いたことがあります。

「イエス様のご再臨がもうすぐだと思うと、とてもうれしいです。
私たちの家族につぎつぎに起こる問題も、背後にイエス様のご計画があると知り、悲しみながら喜んでいます。
愛する集会の兄弟姉妹と共に祈り、イエス様だけを見上げて、将来も戦いたいです。」

そういう文章であり、有り難い証しなのではないでしょうか。
イエス様が、お生まれになる前に天の使いが遣わされて伝えました。マタイの福音書です。

マタイの福音書1:21
21マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」

主イエス様は、罪から救うお方です。それから、コリント人への手紙第Iの2章2節です。

コリント人への手紙第I、2:2
2なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。

考えられない変換があったのです。この男とは、イエス・キリストは大嘘つきだと思ったのです。イエス様が殺されてから、もしかすると友達と一緒にお祝いしたかもしれない。
けれども、イエス様を信じるようになった人々は、前よりも熱心にイエス様のことを伝えるようになったから、何があっても、キリストに対する思い出を消そうとして、イスラエルの中だけじゃなくて、外国まで行って信じる人たちを迫害したのです。
そして、彼は変えられました。「私は、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心した。」、やっぱり主にしかなされない奇蹟ではないでしょうか。

今日、私たちが周囲を見ると、人類には何か正常でないものが、恐ろしい予感と共に感じられるのではないでしょうか。すなわち国々の悩みが、私たちにそれをはっきり物語っています。
たとえば、解決の出来ない経済問題。精神病院、刑務所、家庭における困難な問題がそれです。それは正常ではありません。
私たちがこれらの人に会うとき、これと同じことを知ります。すなわち、ここの人たちも正常ではない。情欲、憎しみ、腹立ち、不純、うそ、利己心、これらのものが人間を醜くしています。けれども、正常ではないのは、ほかの人だけなのでしょうか。

もし自分がよく考えるとき、自分も正常でないということに気づくのではないでしょうか。そして、自分は正常でないことをほかの人たちに隠したいのであり、自分も隠したいのです。
ですからひとりで居ることができず、静かに話すこともせず、TVやつきあい、気晴らしを好むのです。けれども、黙ることのない声が、絶えず響いてきます。
「それは、正常でない!」と私たちを打ちます。

何が正常でないのでしょうか。我々の生活と、全人類の調子外れはなんのためなのでしょうか。それには、たくさんの説明がなされています。
すなわ、経済恐慌のせいだ、文化や技術のせいだ、人のせいだなとと、いろいろあります。このように示されるいろいろな解決を持ってしては、私たちには少しも解決とはならず、前進できないのです。
我々に権威をもって、何が正常でないかをいうことができるのは、天と地の創造主である主だけです。主は、世界と人間を造られたので、主のみが何が正常でないかを知っておられます。主は、我々にはっきりと明確に言います。箴言の14章の34節。短い大切な文章です。

箴言14:34
34正義は国を高め、罪は国民をはずかしめる。

今日の世界は、主なる神が計画された世界ではなく、今日の人間は、主なる神がご計画になった状態ではありません。
主なる神が天と地を造られた時、主の欺かれない判断は、天と地を見て非常に良いとされたのでした。すなわち、その時すべてが正常でした。こんにちは、なんと反対なことでしょう。
主の言葉は、今日の人類を判断して、「善を行う人はいない。ひとりもいない。」と言っておられます。

ローマ人への手紙3:12
12すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。」

旧約聖書の中でも、意味として同じことを書いています。

イザヤ書1:5-6
5あなたがたは、なおもどこを打たれようというのか。反逆に反逆を重ねて。頭は残すところなく病にかかり、心臓もすっかり弱り果てている。
6足の裏から頭まで、健全なところはなく、傷と、打ち傷と、打たれた生傷。絞り出してももらえず、包んでももらえず、油で和らげてももらえない。

私たちは心から、このことは正しい、本当のことだと認めなければならないのではないでしょうか。
今私たちが人類を眺めるとき、誰かが素晴らしい完成された絵にインクをぶちまけ、すべてがだめになったように思われるのであり、また素晴らしい交響曲のまっただ中にすべてを壊し、めちゃくちゃにするひどい音を出すかのような状態に思われるのです。
完成された主なる神のものであったこの世は、どうして、今日の悩みと、苦しみと、罪の世界になったのでしょうか。誰のせいなのでしょうか。この質問に対しても、主なる神の言葉である聖書は、我々にただ一つの正しい明確な答えを与えています。

ローマ人への手紙5:12
12そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、――それというのも全人類が罪を犯したからです。

第一の人は、主なる神を捨て悪魔に手を差し伸べたのです。アダムは主から離れ、悪魔の味方になったのです。この悪魔は人をしっかり押さえて離さず、人に権力を持つのです。
悪魔は、人間に要求する権威を持っています。なぜなら、人間は勝手にこの要求権を悪魔に与えてしまいました。そしてすべての人間は、今や生まれつき主から離れ、悪魔の魔力のうちに住んでいるのです。神との命のつながりは、断ち切られています。
潜水夫がかついでいる酸素ボンベの連結管が切れれば、潜水夫は呼吸ができなくなり、同じように人間の精神も主なる神とのつながりが切れると呼吸することができなくなるのです。ですから、非常に多くのことがもはや正常ではありません。

人間は、もはや主なる神を知らず、人間はもはや主なる神の御心を行わず、人間はもはや主なる神との交わりを持っていません。これが、すべてのことを明らかにしています。
人々は、計画や仕事や決定をみな自分で行い気ままに行動し、もはや主なる神に尋ねることをしません。
けれども人間は、ひとつの呼吸すら主なしには行うことができないのです。

主なる神なしに生活するということは、個々の人々、家庭、および国々のもっとも恐ろしい罪です。
もし主が、実際に生きておられる永遠の神であり、私たち造られたものすべての上にある主であるなら、そしてその御手のうちから、私たちが逃れ得ないものであるなら、将来はどうなるのでしょうか。
すべての人間は、偉大なる、神なる、創造主なる神が存在することを生まれつき知っています。その神は、石に住んでいると思う人もいるし、また木に住んでいると思う人もいます。

また、神はいないと言う人もいます。けれども、無神論者の憎しみが、神がおられると言う最も強い証明になっています。
なぜならば、何もいないものを憎む必要はないし、何もないものに反対する必要はないからです。
主なる神はおられます。このことは、人間はみんな知っています。2,600年前に、イザヤはちょっと面白いことを書いたのです。イザヤ書の44章の6節です。

イザヤ書44:6
6イスラエルの王である主、これを贖う方、万軍の主はこう仰せられる。「わたしは初めであり、わたしは終わりである。わたしのほかに神はない。

主は、天と地の造り主です。このただ一つの神に対して、我々人間は債務を持っています。そのことも人間は知っています。
もしも、この神聖なる全能なる生きておられる神に、我々が敵対するならもうおしまい。私たちは滅び去ります。だからパウロは、「罪からくる報酬は死です。」もちろん、肉体の死よりも、永遠の死です。
主はただ一人です。けれども、非常に多くの偶像があります。主はただ一人です。日本で言われているけど800万の偶像がある。私たちは、イザヤに書かれたものに似ていないのでしょうか。

イザヤ書44:12-20
12鉄で細工する者はなたを使い、炭火の上で細工し、金槌でこれを形造り、力ある腕でそれを造る。彼も腹がすくと力がなくなり、水を飲まないと疲れてしまう。
13木で細工する者は、測りなわで測り、朱で輪郭をとり、かんなで削り、コンパスで線を引き、人の形に造り、人間の美しい姿に仕上げて、神殿に安置する。
14彼は杉の木を切り、あるいはうばめがしや樫の木を選んで、林の木の中で自分のために育てる。また、月桂樹を植えると、大雨が育てる。
15それは人間のたきぎになり、人はそのいくらかを取って暖まり、また、これを燃やしてパンを焼く。また、これで神を造って拝み、それを偶像に仕立てて、これにひれ伏す。
16その半分は火に燃やし、その半分で肉を食べ、あぶり肉をあぶって満腹する。また、暖まって、『ああ、暖まった。熱くなった。』と言う。
17その残りで神を造り、自分の偶像とし、それにひれ伏して拝み、それに祈って『私を救ってください。あなたは私の神だから。』と言う。
18彼らは知りもせず、悟りもしない。彼らの目は固くふさがって見ることもできず、彼らの心もふさがって悟ることもできない。
19彼らは考えてもみず、知識も英知もないので、『私は、その半分を火に燃やし、その炭火でパンを焼き、肉をあぶって食べた。その残りで忌みきらうべき物を造り、木の切れ端の前にひれ伏すのだろうか。』とさえ言わない。
20灰にあこがれる者の心は欺かれ、惑わされて、自分を救い出すことができず、『私の右の手には偽りがないのだろうか。』とさえ言わない。

なんと多くの者は、木の端くれの前にひれ伏すのではないでしょうか。
我々のよりどころはいったい何でしょうか。主から離れることは、永遠の滅亡と言う刑罰を科せられることです。すなわち罪を犯した魂は、必ず死ぬと、エゼキエル18章4節に書いてあるからです。

エゼキエル書18:4
4見よ、すべてのいのちはわたしのもの。父のいのちも、子のいのちもわたしのもの。罪を犯した者は、その者が死ぬ。

この刑罰は、背負われなければならない。これは、我々の人間的正義感でも言えることではないでしょうか。
泥棒が自分の罪を告白したら、それで十分なのでしょうか。もし彼が後悔したら、それで良いのでしょうか。いいえ。彼は、刑罰を受けねばならない。刑罰を受けて、はじめて彼は自由の身となります。
裁判官の同情や愛情や理解が、彼を救うのではありません。刑罰を済ませることのみが、彼を救うのです。

聖書の中でよく主の義、主の愛について多くのことを言っているのです。主の義は、死の判決の執行なしに罪を赦すことはできません。罪人は死ななければなりません。
しかし主の愛は、罪人が死ぬことを欲せず、主の愛は、罪人を救いたいのです。
けれども、主の義と主の愛は、どんなにしてお互いに一つになることができるのでしょうか。

主の愛は世界が始まる前、すなわち人間に罪が入る込む前に、その答えを見いだしました。すなわちイエス様が、父なる神の答えそのものです。
父なる神ご自身は、ひとり子なる神である主イエス様に刑罰を背負わせたのです。それは、罪人たちが、自由の身となり生きるためです。これが救いの驚くべき秘訣です。

ローマ人への手紙8:32
32私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。

罪のないイエス様は、人類のための代表者です。父は、イエス様の上にこの世の罪を置きました。どんな重荷だったでしょう。
ひとりの人間の債務は、いかにその者を押さえつけることでしょう。ひとつの町、たとえば、東京の人間の罪の債務は、なんと恐ろしく重いことでしょう。
ひとつの民族、全人類の罪の債務も同様です。世界のこの債務の中には、強盗の罪、神を見失っている人々の脅迫、落ちぶれてしまった人間の不純・・・などあります。

聖なる御子は、すべてをご自身の上に背負われました。生まれたすべての人間は、イエス様の死の原因です。我々のせいです。
イエス様は、すべての人のために死を背負われました。イエス様は、すべての人のためにお亡くなりになったのです。イエス様の上には、あなたの罪も置かれました。イエス様は、おそらく人間が知らないで過ごす罪も自分の重荷として、担ってくださったのです。
預言者イザヤは、素晴らしい言葉を使って、イエス様における主なる神の愛の奇蹟を描写しています。よく読まれる箇所です。イザヤ書の53章。1,600年前に、救い主に対する預言の言葉であります。

イザヤ書53:4-5
4まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
5しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。

私たちは清い聖なるイエス様が人類の罪を背負い、神をしりぞけた刑罰をお受けになったことを、少ししか予感することができません。
イエス様は、次のような言葉を十字架の上で叫ばれた時が、主の最も苦しい時でした。すなわち「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか。」と叫ばれた時です。
これは、イエス様が父なる神から見捨てられることを恐れ、おののいた瞬間でした。

「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか。」と言う十字架の質問は、罪人だけが答えることができるでしょう。なぜならば、罪人は自分の刑罰をイエス様は背負われたということを知っているからです。
命の君であるイエス様は、確かに十字架で死なれたのです。死の確かな印は何でしょうか。すなわち血が流される時、命はなくなる。ですから、イエス様の血潮は流されなければならなかったのです。
レビ記の中の一箇所を読みましょう。

レビ記17:11
11なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからである。わたしはあなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた。いのちとして贖いをするのは血である。

旧約聖書の中の最も大切な言葉の一つなのではないでしょうか。与えられた命の印は、十字架ではなくて血潮です。ですから、私たちは、十字架によってではなくて、イエス様の血によって、罪の赦しを得ています。
血潮が実行された死刑のしるしであり、実行された裁判のしるしです。
ですから、主の言葉は我々に非常にはっきりと次のように言っています。ヘブル人への手紙9章22節です。

ヘブル人への手紙9:22
22それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。

そして、ヨハネの手紙第I、1章7節に、次のように書かれています。

ヨハネの手紙第I、1:7
7しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。

イエス様の血の中には、どんな力があるのでしょうか。この血潮は、地上と天において、今まで罪がぜんぜんなかったかのように、その罪をぬぐい去ることができるただ一つの力です。
この血潮は、主なる神でさえ見ることができない程、きれいに罪をぬぐい去ることができるほど驚くべき力を持っています。
イエス様は罪の大きな債務のために、その支払いとしてご自身の血を与えられました。ですから、イエス様だけが、次のようにいうことができるのです。「あなたの罪は、赦された。」そういうことができるのです。債務を、支払った者だけが、罪から解き放たれるのです。イエス様の血は、すべての罪を負うことができるのです。

あなたが、いかに深く罪の中に落ち込んだとしても、またその傷がいかに深くても、その罪がいかに醜くても、あなたはイエス様の血によって癒され、全く新しい人間になることができるのです。
旧約聖書の福音書とも呼ばれるイザヤ書の中に書かれています。

イザヤ書1:18
18「さあ、来たれ。論じ合おう。」と主は仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。

イザヤ書43:25
25わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。

イザヤ書44:22
22わたしは、あなたのそむきの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った。わたしに帰れ。わたしは、あなたを贖ったからだ。」

イエス様はご自身の血を流されました。ですから、主の恵みは、罪の赦しを我々に与えているのです。
最後の夜、イエス様は言われました。マタイの福音書26章の28節です。

マタイの福音書26:28
28これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。

わたしの血。それはあなたのために流されました。あなたは、イエス様にどう答えたらいいのでしょうか。
イエス様はあなたの罪を背負われました。イエス様の血は、あなたのためにも流されたのです。あなたは、今までに、そのことをイエス様に感謝したことがあるのでしょうか。
イエス様は、すべてを成し遂げられました。イエス様の贈り物は、条件付ではありません。あなたは、その贈り物を受け取ると言うただ一つのことができるだけです。受け取りなさい。すなわち信じなさい。

しかし、ある人は言うでしょう。私は、はじめに私の全生活を整えなければならないのではないの?また、始めに再びすべてをよくしなければならないのではないのしょうか?もし、このようなことが、できるならば、あなたは救い主を必要としない。
罪の赦しはただです。本当に、条件はひとつもありません。
けれども、主なる神より罪の赦しを得た者、そして、主なる神と会う聖なる時を体験した者、また恐ろしい重荷から解き放たれたということを経験した人は、ほかの人に、それを告白しないではいられなくなり、自分の生活を整えざるを得なくなり、犯した罪を償おうとするのですけど、これらのすべては、罪の赦しを得る条件ではなく結果なのです。

私たちはみな、罪の赦しの確信を持っているのでしょうか。もしそうでないなら、イエス様の前に静まりなさい。
イエス様は、あなたに、今すぐ罪の赦しをお与えになるのです。
そしてあなたは、イエス様よ、あなたが私のために死んでくださった。私の罪を赦してくださったことを、感謝しますと言いなさい。

あなたの罪を負う者としてのイエス様の血を、あなたが受け取るのを妨げているのはなんでしょうか。あなたは、イエス様の血潮を理解することができないのでしょうか。
あなたが、イエス様の血を理解する必要はありません。あなたは、生きている主の言葉だけを信じることが大切です。
イエス様の血は、罪を贖うことができる。この事実が、イエス様の言葉を保証しています。それで十分です。
たくさんの事柄を私たちは理解することができません。それでも、私たちはそれを信じます。

たとえば、電気とは何か、命とは何か、私たちは理解することができないでしょう。それとも、最初感じて、経験して、それから信じたいとでも言うのでしょうか。
もしそうなら、あなたの感情の上に立った信仰は、海の波のように揺れ動いて静まらないでしょう。
もし、船を動かないようにするために、碇を甲板の上に投げ上げるのではなく、碇を船の外に、海の底の岩に投げなければならない。その底の岩は、我々の経験ではなくて、主の言葉です。

あるいは、あなたはこの結果を恐れるなのでしょうか。もしもあなたが、イエス様の手から罪の赦しを受け取るならば、あなたはイエス様に義務を持つことになります。
そして、他の人々は何を言うのでしょうか。あなたがもし、イエス様に従って行くなら、あなたの生活は、みな変わるのに違いない。それを、不安に思うのでしょうか。
けれども、もしあなたが恵みを逃がしたら、あなたの死の時、いったい誰があなたを助けることができるのでしょうか。

今、あなたが嘲りや、侮られることを恐れているなら、その人たちの中の誰があなたの罪の債務を支払ってくれるのでしょうか。
もしあなたが、罪の不安に苦しめられているとき、そのような人々はあなたに、それはお前のせいだとしか言えません。
もしあなたが人々を恐れ、そのためにその後で永遠に後悔しないといけないならば、それは全くばかげたことです。

あるいは、あなたが意識して、あるいはよく考えた上で、いや私はそう思わない、私は一人で生きていける、自分はイエス様の血を必要としないと言うとします。
そうならば、それは身の毛のよだつような答えです。もしそうすれば、あなたは、いつか燃えるような目を持ち、その腹立ちは恐ろしい、また地獄に滅ぼす力を持っておられる真の神の前に、立つでしょう。
あなたはその時、自分の債務を自分自身で、どのように払おうと言うのでしょうか。

イエス様の救い以外に、まことの救いはありません。イエス様の血を受け取らなかった者は、結局滅び去ります。永遠に。
十字架につけられたイエス様による救いを、知っていながらそれを認めない者は滅びます。
救いの道はただ一つです。イエス様は、次のように言われました。

ヨハネの福音書14:6
6イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。

どうしてまだ、救われていないのでしょうか?この救いの道を知らないのでしょうか。
それとも、この救いの道に行きたくないのでしょうか?知らないか、行きたくないかのどちらかです。けれども、今は知りました。
あなたは、その道を行きますか?天国と地獄は、あなたがイエス様、十字架にかけられた救い主に与える答えを息を、殺して待ち望んでいます。

ただ、二つの答えがあるだけでしょう。私は、今までと同じように自分勝手な道を行きたい。あなたの救いを欲しくない。なんとかして、自分の力でやりたいから。これは言うまでもなく、滅びへの道です。
あるいは、イエス様、私は罪人です。憐れな敗北者です。けれども、あなたは私のような罪人のために死なれたことを感謝します。あなたの血潮によって、私の罪も赦されたことを感謝致します。あなたを自分の救い主として受け入れます。
どちらの答えをイエス様に答えるのでしょうか。




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