引用聖句:使徒の働き5章32節
ピリピ人への手紙2:8
テサロニケ人への手紙第II、1:8
今日の会、いつものように聖書の勉強会よりも、主イエス様を紹介する会です。 イエス様とは、いったいどういうお方なのでしょうか。比類なきお方です。嘘を知らないお方です。何があっても100%信頼できるお方です。またイエス様とは、人間一人ひとりを心から理解してるよりも、一人ひとりを愛していてくださるお方です。 確かに人間はみな悩んでいて、重荷を持っているものです。失望また絶望をしている者であり、どうしたらいいか解からないのが人間です。人間は孤独であり、さまよう羊のようであると聖書は言っています。 前に一人の先生、立派な人格者と出会った時、彼は「成功したように見えるけど実は私は悩んでいます。迷える羊です。」と言われました。この世界は確かに一つの大きな病院です。もちろんそれだけではなく、この世とは一つの待合室です。人間は死を待つか、主を待つかのどちらかです。 もう考えられないほど違います。イエス様の弟子たちとは、いろいろなことを経験しました。すばらしい特権にあずかったんです。3年半、夜昼いっしょに過ごすことができたんです。 彼らは後で何と言ったかといいますと「私たちは、主の栄光を見た。」と言えたのです。 主の栄光とは何でしょうかね。主の明らかになる御臨在です。主の明らかにされる臨在を経験することこそが、我々にとってもどうしても必要なのではないでしょうか。 イスラエルの民は、よく主の栄光を拝するようになりました。聖書の初めの方ですけども、出エジプト記40章に次のように書かれています。 出エジプト記40:1、16
結果は次のとおりです。 出エジプト記40:34
「主の栄光が幕屋に満ちた。」イスラエルの民のうち建てた主の幕屋に、どのように神の栄光が満ち満ちていたかを見ることができます。 他の箇所にも同様な事柄が見うけられます。例えば列王記第Iの8章にも同じようなことばが出てきます。 今度はモーセの建てた幕屋じゃなくて、ソロモン王の建てた宮ですね。 列王記第I、8:11
主の栄光とは、今話したように結局主の明らかにされた御臨在です。 もう一箇所エゼキエル書44章、同じく書いています。 エゼキエル書44:4
結局、拝した。 イエス様の弟子たちも同じことを経験しました。 ヨハネの福音書1章16節「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。」と証しするようになりました。 初代教会の人々とは、もちろん当時のローマ帝国に憎まれ迫害されたのです。なぜならば、当時の兄弟姉妹は、妥協するよりも死んだほうがましだと思ったんです。拝むべきなのは人間ではない。天と地を創造された支配者なる神だけだという態度をとったのです。 初めてこの態度をとった男とは、ステパノという男でした。ステパノも、かの心ない人々に迫害された時、彼に神の栄光が現れ、「イエスが神の右に立っておられるのが見えた。」と聖書は言っています。 結局ステパノも主の栄光を見たのです。希望を持って死ぬことができたのです。そしてパウロは、テサロニケにいる人々に次のように書いたのです。 テサロニケ人への手紙第I、2:12
すなわち、私たちは主なる神によって、御国とその栄光とに召されている者です。なぜ主の栄光が、モーセの建てた幕屋に満ち満ちたのでしょうか。なぜ弟子たちは、主イエス様の御栄光を拝することができ、ステパノも主の御栄光を見ることができたのでしょうか。 私たちに関しても聖書は、「私たちを御国と栄光とに召された。」と言っているのですから、私たちはこの栄光とはいったい何なのでしょうか。 答えは、ヘブル人への手紙1章3節なのではないでしょうか。 ヘブル人への手紙1:3
イエス様は、神の栄光の輝きそのものであると書いてあります。 もう一箇所、ペテロの手紙第I、4章14節 ペテロの手紙第I、4:14
ここで聖霊は、栄光の霊であると書かれています。 この、今読みました2つのみことばは、我々の疑問に答えるものなのではないでしょうか。私たちに現された主の御臨在こそ、主の栄光であるということです。 イエス様は、神の栄光の輝きとして、天より我々の住むこの地上においでになりました。弟子たちは、これを見て「私たちは神の栄光を見た。」と喜んで告白したのです。 イエス様の上には、主なる神の聖い霊が限りなく注がれていました。なぜでしょうか。イエス様は、父なる神の御心にかなったお方でした。 イエス様が、我々の内にその御形を形造ってくださる、その計りに従って、その度合いに応じて、私たちは主の栄光を見ることができるのです。主の栄光を拝することこそが、主の願っておられることです。 ちょっとだけ、3つの点について考えてみましょうか。 第1番目、主に従う重要性、大切さ 第2番目、従順と不従順の結果 第3番目、全き信仰の要求について まず、主に従う大切さについて、ちょっと一緒に考えてみたいと思います。いったいどうして主に従うことは、そんなに大切なのでしょうか。 イエス様は、ご自分の御臨在を現したい、御自信の御栄光を明らかにしようと望んでおられるからです。父なる神の御栄光は、従順によって現れます。イエス様に従うなら、主の栄光を見ることができます。 イエス様は、語るたびごとに私たちが従うなら、主の御臨在を経験することができるようになり、主の御栄光を見ることができます。 日常生活において主は、我々に「これはいかん。あれはいけない。こうすべきだ。」とささやいてくださいます。このどんなに小さなささやきにでも、私たちが従順に聞き従うなら、主は御自信の栄光を現してくださいます。 この栄光は、私たちをして「主我と共にいる」という確信に導き入れ、この確信が限りない平安と深い喜びに私たちを憩わせます。イエス様に従順に従うなら、このイエス様の御臨在と御栄光を経験することができます。 この事実を5つの実例で見てみましょうか。 第1番目、モーセ 第2番目、イエス様の弟子たち 第3番目、マルタ 第4番目、アナニヤ 第5番目、ペテロについて、ちょっと簡単に考えてみます。 まず、モーセは実に主に従順でした。聖書を読んでいくとモーセは、主が命じられたとおりにした、主が命じられたとおりにしたと何回も書き記されています。 ちょっと出エジプト記から2、3箇所だけ見てみましょうか。 出エジプト記40:19、21、23、25、27、29、32
そして、その従順の結果について 出エジプト記40:34
次に弟子たちについて、ちょっと考えたいと思います。 イエス様の弟子たちは、さまざまな敗北の内から、またさまざまな経験をとおして、「私たちは主の栄光を見た」と証しすることができたんです。 しかし、この弟子たちの場合にも、主に対する従順の結果、主の栄光を見たということが見られます。すなわち私たちと同じように、あの弟子たちも初めからすぐに、主に従順に従いませんでした。ヨハネの福音書11章を見ると、次のように書かれています。 ヨハネの福音書11:7-8
「危ないよ。」ここを読むと、弟子たちのイエス様に対する態度が、どんなであったか解かるような気がいたします。弟子たちは前にユダヤで迫害されたことを思い出し、「イエス様、イエス様、あの迫害をお忘れになったのですか。これから行ったら、またとんでもないことになるに違いない。」と言ってしり込みしたわけです。 けれども弟子たちは最後には、イエス様に従って、ユダヤにまいりました。この従順の結果は何だったでしょうかね。迫害だったでしょうか。そうではない。 主に従順に従った結果、驚くべき主の御栄光を拝することができたのです。すなわち、死人のラザロが、死よりよみがえらされた奇跡を見ることができたのです。 3番目の実例はマルタという女性です。 ヨハネの福音書11:39-40
主は命令してくださいました。「墓の石を取りのけなさい。」、これに対してマルタはすぐに従いませんでした。「主よ。もう臭くなっています。死んでから私の弟のラザロは4日もたっているから、とんでもない。もうダメです。」そういう気持ちでした。 けれど最後にイエス様のみことばに従い、墓の石を取りのぞいた時、死人のラザロは生きかえり、墓から出てきました。驚くべき主の御栄光を拝することができたのです。 もし、不従順のために墓の石が取りのぞかれないで、そのままにされていたなら、主の栄光を決して見ることができなかったでしょう。 4番目の実例は、アナニヤについてです。 使徒の働き9:10-11、13-14
主がアナニヤに現れ、「アナニヤよ。サウルのところに行きなさい。」と言われました。その時、アナニヤはすぐに主に従うことをしなかったのです。どう言ったかといいますと「主よ。とんでもない話。あなたが行けといわれているサウルは、我々を迫害する指導者ではないの。恐ろしくて行くことはできません。」 けれど、彼も最後に従いました。その時、アナニヤはやはり、従順の結果として、主の御栄光を拝するようになったのです。もし、その時アナニヤが主に従わなかったなら、サウロは後のパウロは、どうなったでしょうか。あの偉大な使徒パウロは生まれなかったに違いない。 5番目の実例は、ペテロです。 使徒の働き10:13-14
主はペテロに「これらの獣をほふって食べなさい。」と言われた時、ペテロはやはり従順ではなかったのです。「主よ。聖書にあなたのみことばの中に、清くないものは食べてはならないと書いてあるんじゃないの。とんでもない話、食べるわけにはまいりません。」 ペテロは、その時、ユダヤ人と同じく異邦の民も、神の祝福にあずかることができるのであるということを信じませんでした。信じたくなかったのです。けど最後にペテロは、主に従い、異邦人であるコルネリオの所に行った時、主の御栄光を目の当たり拝することができました。 すなわち、コルネリオおよびその家族、また親族一同そこに居合わせた者、全部が救われ聖霊に満たされたとあります。 正しい結論は、主に従いましょう。みことばに従いましょう。なぜなら、モーセや弟子たちやマルタやアナニヤまたペテロのように、主の御栄光を見ることができる。主の御臨在を味わい知ることができるのであるからです。 今まで、私たちは主に従う重要性、大切さについてちょっと考えました。 次に従順と不従順の結果とは、いったいどういうものなのでしょうか。 私たちの従順の結果、また不従順の結果はいったいどういうものなのでしょうか。私たちが従うか、従わないかの決定は本当に、どうでもいいことではない。大切です。すなわち主の御栄光を拝するか、または主の備えられている栄光を取り逃がしてしまうかの、どちらかです。 もしモーセが主に従わなかったなら、主なる神の御栄光は、幕屋に満ちなかったでしょう。もし弟子たちが、イエス様に従ってユダヤに行かなかったら、やはり主の御栄光、また主の御臨在を拝することができなかったでしょう。 もしアナニヤの従順なくして、パウロはいったいどうなったのでしょうか。もしペテロが主に従っていなかったら、ペテロ自信もコルネリオも決して主の御栄を配することができなかったはずです。 我々の決定によって、私たちは主の御栄光を見ることができますし、また天の窓を閉ざしてしまうこともできるのです。このように「主よ。ラザロが4日間、墓の中にいて臭くなっているのをお忘れになったのですか。」と言って石を取りのけることをしなかったならば、どうでしょう。ラザロは、よみがえらなかったばかりでなく、主の御栄光を拝することもできなかったでしょう。 もし主が、私たちに「あの兄弟、この姉妹を訪問しなさい。」と語った時、「主よ。あの兄弟は意識して、罪を犯し、この姉妹は、自分の仕事を偶像にしている。集会に来ていない。とんでもない話、何をやってもダメ。」と言うなら、同じように私たちは、自分自身、信仰を進めることもできないし、また主の御栄光を拝することができないのです。離れているその兄弟姉妹も、やはり主の豊かな祝福と御栄光に接することができないでしょう。 私たちは、どんな道を選ぶのでしょうか。主のささやきに対して、不従順で主の栄光を拝する道を、自ら閉ざしているのか、それとも日々、主に従い従順をもって主の御栄光を拝することができるのでしょうか。 もう一つの点について、ちょっと考えたいと思います。すなわち、全き信仰の要求。すなわち主の栄光を拝するには、全き信仰が要求されています。 イエス様は、まさに「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」と言われました。ここでは、従うならと言われていないのです。もし信じるならと言われています。けど、従順と信仰はほとんど同じものです。 それをヘブル人への手紙の2つの箇所を通して見ることができるのではないかと思います。 ヘブル人への手紙3:19
ヘブル人への手紙4:6
ここでは、イスラエルの民がエジプトの国から救い出されて、40年間荒野でさまよったのは、不信仰と不従順のゆえでだったと、この2つの箇所を通して知ることができます。 原語で見ると、この不信仰と不従順は同じ言葉です。イスラエルの民は、主がエジプトの国より緑多く、カナンの国に導き入れてくださるという約束を、不信仰のゆえに従わなかったのです。すなわち、不従順のその根が、不信仰です。 モーセはどうして、主の栄光を拝することができたのでしょうか。それは、主がモーセに示したそのとおりに幕屋を作ったからです。マルタは、なぜ主の御栄光を拝することができたのでしょうか。彼女は信じて従って、墓の石を取りのけさせたからです。もしあの墓の石を取りのぞかなかったら、死に打ち勝ち、主のよみがえりの力は現されなかったでしょう。 前に挙げました人々は、主に従いたくなくて、従わなかったのではありませんでした。ユダヤへ行って栄光を拝した弟子たちは、行く前にあれほどまでに迫害されたユダヤへなぜ再び、主は行きたいのか、全く理解できなかったのです。 マルタは、腐って匂いのする4日間も墓の中に入っている死人がよみがえるなどということは、マルタにとってとうてい理解できないことでした。また、あのアナニヤは、荒れ狂ってイエス様を信じる者を迫害しているサウロが、祈りの人となるとは夢にも思っていなかったのです。 また、ペテロは「汚れたものを食べなさい。」という主のことばを理解することができませんでした。理解できない、考えられない、想像することもできないということは、やはり、不信仰のゆえですが、その不信仰は、不従順となるに及んで、その頂点に達します。 その時の結果は、天の窓が閉ざされ、主の御栄光を拝することができなくなってしまったのです。けど、モーセ、弟子たち、またアナニヤ、ペテロが各々主の御栄を拝するようになったんです。いったいどうしてでしょうか。 彼らは、主に従順に従ったからです。解かっても解からなくても関係ない。従うと結果は、必ず主の栄光を拝することです。 ソロモンという王様は、次のように説明したのです。また命令したのです。 箴言3:5
と提案されているよりも命令されています。「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。」、理性とは概念を作る能力、結論を引き出す能力、判断を下す能力であり、しかもそれこそまさに、人間に与えられているものです。 けれどもそれにもかかわらず、人間とは何と多くの見当違いや、計算違い、あるいは意味のないことをして頭を抱え込むことでしょうか。 この理由から、主はもちろん我々に対しても、「心を尽くして主に拠り頼め。意味は主にのみ拠り頼め。自分の悟りに頼るな」と言っておられます。 主の望んでおられる信仰とは、いったいどういうものでしょうか。信仰とは、主なる神に対する絶対的な信頼です。これに対し人間の理性は、自分の体や自分の命を心配しますが、その結果は、不信仰に終わります。 主の望む信仰とは、全知全能なる主のすべてを確信することです。これに対して、人間の理性は、主なる神の全知全能なることを疑います。これもまた不信仰の現れです。 信仰とは、目に見えないお方を見る。これに対して、人間の理性は心配そうに、目に見えるものを見るのです。これもまた不信仰の現れに他なりません。それゆえ、イエス様を信じるということは、徹頭徹尾、自らをイエス様にゆだねることです。信仰とは、主なる神のみことばに対して、全く従順であることを意味します。 だから書かれていますね。「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。」、理解することができず、馬鹿らしく見え、不可能に見えても、主のささやく声に従いましょう。 そうするなら、主の御栄光により、不可能に見えたことが現実に可能となってきます。 ちょっとエレミヤ書からもう一箇所読みます。 エレミヤ書32:6-9
主なる神は、預言者エレミヤに「アナトテにある畑を買いなさい。」と言われた時、エレミヤは「とんでもない。アナトテは恐るべき敵の住んでいるカルデヤ人の地ではないか。」と彼は言いませんでした。 敵のものとなった土地のために、金を払うのは人間的にはおかしい。馬鹿らしいことですけど、エレミヤはアナトテの畑を買いました。なぜならば、主はこの土地は、近いうちにまたイスラエルのものとなると約束していてくださったからです。 本当に覚えるべきなのは、信仰生活における従順の結果は、驚くべき豊かな主の祝福です。私たちは、自分の考えに従うことなく、ただみことばに直ちに従っていく信仰生活を送るべきなのではないでしょうか。 エレミヤ書32:17、27
我々の主イエスにとっては、不可能なことは何一つありません。「行ってアナトテにある畑を買いなさい。」、主のことばを信じ、主に不可能なことはないことを信じ従順に従うなら、必ず驚くべき主の御栄光を拝することができるのです。 主がみことばを持って、我々に語ってくださったら、どんなに不可能に見えても、すべてを成してくださる主の力を信じ、目に見えるところ、不可能なことをやめましょう。 その時、主の豊かな栄光と祝福を経験し、見ることができるに違いない。 |