引用聖句:マルコの福音書、9章14節-29節
最後の節です。祈りによらなければ、何によっても追い出されるものではないと、イエス様は言われたのです。祈りの大切さ、信じる者の重要さについて書かかれています。 言われていることの大切な点は、できるかできないかについての実話ではないかと思います。4回も、「できる」ということがでてきます。 18節に、お弟子たちに霊を追い出してくださるようにお願いしたのですが、お弟子たちにはできませんでした。お弟子たちにはできなかった。この言葉は父親が、イエス様の弟子たちが本来できることができなかったことに対する、悲しみを言い表していることばです。 そして22節に、もしおできになるものなら私たちをあわれんでお助けください。これは絶望した者の祈りであり、心からの叫びでした。 そして23節に、イエス様はできるものならと言うのか信ずる者にはなんでもできるといったのです。これはどんなことでもできるための条件と秘訣を表す言葉です。 結局それは私の問題ではない、信ずればあり得ないことが可能になるとイエス様の約束です。 そして28節です。どうしてでしょうか、私たちには追い出せなかったのです。これは弟子たちの自分の無力さの告白でした。 今日読みませんでしたけど、9章の2節から13節までを見ると、イエス様の変られた、いわゆる栄光についてのことが書きしるされています。 イエス様は弟子たち12人ではなく、3人の弟子たちと親しくなって、いろんなことを教えてくださったのです。その時も、イエス様はペテロとヤコブとヨハネと3人の弟子たちだけ山登って、そしてその時イエス様の変えられた栄光の姿を拝することができたのです。 もちろんその時始めてモーセも、エリアも会うことができたのです。モーセとエリア、もちろんずっと何百年前に亡くなった人々だったのです。けども彼らは、結局現れてイエス様の死について十字架の必要性について語られたと聖書は言ってます。 弟子たちにとって考えられないすばらしい経験でした。結局旧約聖書に出てくるモーセとエリアは確かに生きている者であり、一度死んだんですけども生きてる者であり、そしてイエス様の変られた姿も、その時はじめて見たのです。 確かに彼らは毎日イエス様と過ごしたし、イエス様とは普通の人と違う、いくら観察しても結局欠点がない。後で振り返ってみた時、われわれはイエス様の栄光を見た、神の栄光を見たとしか言えなかったのです。 けども、その時のイエス様の変えられた姿をみた時、彼らは変えられたのではないか、忘れられない経験だったからです。それだけではなく、彼らは父なる神の声をそのときはじめて聞いたでしょう。 それはすなわち、「これは私の愛する子である。これに聞け。」後でモーセとエリアは見えなくなったし、彼らはイエス様だけを見たと書いてあります。これこそ一番大切なことではないでしょうか。 自分を見たり、他人を見たり、置かれた環境について悩んだりすることはよくない。イエス様だけを見ると、本当の意味で礼拝をせざるを得なくなるのです。 ペテロはその後で、この経験について次のように書いたことがあるのです。私たちは、あなたがたに私たちの主イエス・キリストの力と来臨とを知らせましたが、それはうまく考え出した作り話に従がったのではありません。 この私たちはキリストの一方の目撃者なのです。キリストが父なる神から誉れと栄光をお受けになった時、おごそかな栄光の神からこういう御声がかかりました。「これは私の愛する子、私の喜ぶ者である。」 私たちは聖なる山で、主イエスとともにいたので、天からかかったこの御声を自分自身で聞いたのです。 ペテロとヤコブとヨハネの喜びはちょっと想像できないでしょう。彼らはイエス様の変えられた姿をみて、そして父なる神の声を聞いたのです。 彼らは必ず、後で9人の弟子たちにこのことを伝えたのであり、彼らは嬉しくて嬉しくてしょうがなかったのですけども、残された9人の弟子たちはちょっとかわいそうだったのです。3人はイエスの栄光を見て大喜びだったんです。多分残りの9人は非常に困った状態に遭遇していたのです。ある人々は神は不公平だ、3人だけ喜ぶことができる、9人の弟子たちは本当にかわいそうだったんではないか。 けども主の導きは完全です。9人の悩みは、結局どうして与えられたかと言いますと必要だったのであるとしか言えません。結局9名は全くどうすることもできない。一人の病人、汚れた霊につかれた、悪霊につかれた者に遭遇して助けることができず、癒すことができず、全く困り果てていたのです。 この汚れた霊につかれた男は、みじめなあわれむべき人間を象徴する姿に他ならない。神の目から見ると人間はそういうもんなんです。 そして、そのとき集まった人々は2〜3人だけではなかったのです。何10人、もしかすると何百人だったかも知れない。結局みんなだめだったのです。どうすることもできなかったのです。 周囲の群衆はどうして集まったのかわからないけど、何か経験したかったかも知れないし、あんまり気の毒ですから、かわいそうだから、なんとかなるのではないかという気持ちもあったかも知れないし、群集は大体好奇心によって動かされるものなのではないでしょうか。 彼らは確かに、じーっと、あの悩んでいる者を見つめていたでしょう。けども実際問題として、どうすることもできませんでした。それから、そのときいた聖書学者たちも結局同じだったのです。聖書学者たちは、確かに聖書の内容知っていたし、別に疑いなかつたし、神も信じましたし、神に仕えようと思ったのですけど、どうすることもできませんでした。 そしてイエス様の弟子たちも、結局同じだったのです。弟子たちは決して傍観者たちではなかった。本気になって癒そうと思ったけどだめでした。 父親はあらゆる人間的な努力が無に伏したことを知って、全く絶望的な気持ちになってしまったのです。そして彼らの真ん中に、中心になるのは悪霊につかれた病人でした。彼はどうしてこういう状況におかれていたかわからないけど、あるとき悪霊に攻撃され、彼は負けてしまって、そのときから支配されるようになってしまったのです。 本当にあわれな人間になりました。悪霊はこの男にとりつくと彼をずたずたにし、彼を引き倒したため彼は泡をふき、歯を食いしばり、体をこわばらせていたのであると書いてあります。 さらに悪霊は、彼を苦しめ火の中や水の中に投げ入れて、彼を殺そうとしたとあります。18節と22節にそう書かれています。霊が息子に取りつき、所かまわず彼を押し倒し、彼は泡を吹き、歯ぎしりして、からだをこわばらせてしまいます。22節、この霊は彼を滅ぼそうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。 今日こういう病人がいると、もちろん周りの人々も困りますし、大体精神病院に入れます。専門家である医者の判断は、もちろん分裂だと言うでしょう。結局お手上げです。適当に注射したり薬あげたりするでしょう。けどもこれは癒しにならない。 けども、この少年は分裂ではなかったのです。確かにきちがいのような態度をとったんでしょう。けど、彼の病気の原因とは悪霊につかれたことでした。悪霊につかれた人がいくら入院されても薬を飲んでも解放され得ないです。 もちろんこの父親はりっぱだったと思います。現代人の多くは入院させたら、誰にもわからないでしょう。 前に経験したことがあるのですけれども、その那珂湊の近くの地方の村だったんですけれども、こういう奥さんがいて、入院させるためのお金がなかったのでしょう。小屋を作ったのです。奥さん、何年か小屋の中で生活したのです。出られなかったし、豚のように取り扱われたのです。ちょっとだけえさをやって、かわいそうだったのです。けど彼女は分裂でなかった。結局どん底まで落ちてしまって、孤独で孤独でしょうがなかったのです。 近所の人々から聞いた時、福音を述べ伝えると素直に信じたのです。後で召されたのです。大体そういうような方です。やっぱり、わからないように隠そう、けどこの父親はこのような態度はとらなかったのです。けどもこの病人の中に、われわれ自身の姿、すなわち同じように苦しみ、悩んでいる罪人の姿を見る時、われわれにとって人間的な力はなんの役にも立たないことを知ることができます。 そしてこの病人の周囲に集まっていたすべての人は、結局何もすることができなかったのです。彼らはみな、無能者であり、無力者でした。 ラファエルという有名な画家、イタリア人なのですけど、彼はこの9章に書かれている光景を一枚の絵で描いたのです。一番上の方に栄光の姿にかえられたイエス様がいて、そしてイエス様と話し合っているエリアとモーセも描かれているのです。もう少し下で、眠り込んでしまった3人の弟子たちはペテロ、ヤコブ、ヨハネは描かれたのです。 その少し下の方に悲しみのあまり、絶望して両手をもみあわせている父親が描かかれたのです。それからむなしく転げてる弟子たち、そしてその周囲には敵対的気持ちを持ってみている聖書学者たち、パリサイ人たちが描かれています。 イエス様は完全に神の御手の中におられるおかたであり、この病人は完全に悪魔の手の中にいた者でしょう。神の御手の中におられるイエス様と悪魔の手の中で、結局悪魔の奴隷になっていた者は一つにならなければおしまいです。この病人は、イエス様との出会いによって癒されました。 イエス様が現れた時、ふたつの命令をなさったのです。 まず「その子を私のところへ連れてきなさい。」19節後半です。「その子をわたしのところに連れて来なさい。」、聖書全体の呼びかけとはそういうものです。 「私のところに連れて来なさい、疲れた人、重荷を負っている人、悩んでいる人、孤独の人、ありのままで私のところに来なさい。」、その子を病の種である子供を私のところへ連れて来なさい。 第二番目の命令は「おしとつんぼの霊よ、悪霊よ、この子から出て行け。」という命令でした。この子から出て行けということばは、詐欺師のことばであるか、天と地の力を持つ神の子のことばであるかのどっちかです。どちらかであるか結果をみて判断する以外にないでしょう。 もしも男と女の間にできた人間であるならば、孔子とか、釈迦とか、日蓮とか、そういう人々が、このような病人にいくら出て行けと言っても何にもならない。イエス様は悪霊に出て行けと命令された時、実際に悪霊はその病人から出て行ったのです。悪霊はイエス様に従がわざるを得なかったのです。 イエス様が命令すると命令どうりになる。あり得ないことが可能になる。悪霊はいつも次のように証ししたのです。このイエスとは神の聖者です。罪を知らないからです。まったく聖いおかたです。悪霊はもちろんイエス様の命令に従がわなければならないのです。 この事実を見ると、言えることはイエス様とその他のすべての者との間の相違はなんと大きなものでありましょうか。イエス様以外の者はみな、例外なくすべて無能者、無力者です。 前に言いましたように、聖書学者たちは確かに頭のいい人々であり、道徳的な社会生活を送った人々であり、いわゆる正しい聖書の知識を持っていた人々だったのです。いわゆる立派な人格者たちだったんですけど、実際問題としては彼らは、この病人に対してどうすることもできなかったのです。 彼らの判断は、おそらくこの病人の病は絶対癒されないそういう判断だったのでしょう。病人を見た、もちろん周囲の群衆たちもどうすることもできなかった。イエス様が少年の病癒された時、それは病人に対して大きな反応を示し、その子は死人のようになってしまったとあります。 それまで病人に対して支配していた悪霊は、イエス様の力によって大声を上げ、その子を激しくひきつけさせて出て行ったのです。 群集はなんと言ったかと言いますと「この子は死ぬ。」この群集の判断とは、もちろん不信仰と疑いから出てきたものでした。けど実際問題として子どもは癒されたのです。悪魔の支配から解放されたのです。けどもそれは全然気がつかなかったのです。 考えるとひどい判断です。群集はなんと思ったかといいますと、イエス様が来られる前に、まだ希望があったのです。 ひどい聖書学者たちは癒されないと言っているんですけれども、もしかすると何かによって何とかなるかも知れないと群集は思ったのでしょう。 イエス様が来ることになってもっとひどくなった。今ままでちょっとだけ希望があったけれども、イエス様が来ることになって、もうおしまいです。死んじゃったからです。もうおわり、群集の判断とはそういうものです。 結局人間はイエス様と結びついていなければ、目にみえるものだけに縛られると全く愚かな判断しかできないのです。 イエス様なしに、人間は全く現実に対してめくらになってしまっているのではないでしょうか。 悪魔はよく正反対のことを言うでしょう。もしもイエス様だけを大切にすると、それは非常に狭く偏った考え方だけでなく、現実から離れた雲の上の生活をするという結果になってしまうと言いますけど逆です。 ここでもわかるように、実際に病人が癒され、新しい人間に生まれ変わった現実を見て、群集は彼は死んじゃったと判断したのです。 この判断はもちろん正しくないものでした。弟子たちをみると、彼らこそが本当に気の毒だったと言わざるを得ないのではないでしょうか。弟子たちはイエス様に出会われてから、すべてを捨ててイエス様に従がいました。イエス様の偉大さを知るようになったのです。 イエス様はあるとき、あなたがたも私から離れようと思うのですかと聞いた時、イエス様とんでもない、行くところがない、あなたから離れたらもうおしまい、私たちは従がいますと言う態度をとったのです。 彼らは、もちろんイエス様のなさった奇跡を自分の目でみることができたし、イエス様にとって不可能なことはないと何回も、何回も、経験したのです。それだけではなくて、弟子たち自身も、彼らによって多くの病人が癒されたことを体験したのです。悪霊の追い出されたことも、何回も何回も経験したのです。 12人だけでなく、あるとき70人の弟子たちを使わしたのです。ルカの福音書10章の中で70人の王国について次のように書かれています。 ルカの福音書10:17-20
名が天に書きしるされていることは、永遠の安全を意味します。イエス様の救いに預かっていることを意味してるのです。 結局イエス様に受け入れられ、義と認められていることこそが最高の宝です。体の病気だって癒されることはたいしたことではない。永遠の救いと必ずしも、つながっていないからです。 「あなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」このような個所をみると言えることは、弟子たちも奇跡を経験したのです。 弟子たちは遣わされた時、イエス様は次のようなことを言われたのです。「福音を述べ伝えなさい。病人を癒せ。悪霊を追い出しなさい。」もちろん弟子たちはユダヤ人のためだけに使わされた者でした。今の時代とはちょっと違った時代です。ユダヤ人たちとはメシアを待ち望んでいたのであり、そして約束されたメシアはあらゆる病人を癒すお方であり、悪霊を追いだすおかたであると聖書は言っているのです。結局、・・・・(A面おわり) 律法学者たちが弟子たちと論じ合っていた。 16節、「あなたがたは弟子たちと何を議論しているのですか。」とイエス様は言われた。結局悪魔の目的とは議論することです。議論するとおしまい。けども私たちは、例えばイエス様を信じない人々と話すとします。その時やっぱり何があっても議論をしてはいかんといつも思うようにできます。 私たちはどこかで勝ちたい気持ちがある。「あなたの言っていることはおかしいよ、聖書見て。」やっぱり勝ちたい気持ちがある。相手の人は負けてもらいたいけど、それは決していけません。頭を下げて私は愚かですから、頭よくないしだめなんです。 けどイエス様知るようになってから、うれしくなっちゃった。それはずっと効果的です。結局議論になると何にもならない。もちろん時々、非常に難しいのです。 前にも、火曜日に話したことがことがあるのですけれど、5〜6週間前に黒崎に行きまして、福岡県なんですけども、その時4人の奥さんたちは本当に心開いてイエス様を信じていたのです。 そしたら、ちょっと話し合いましょうと隣の部屋へ行って、その中に急に一人の男も入っていたのです。ある姉妹は、彼も本当にいい男だと思う。褒めてるじゃないかと。もしそうだったら結構ですけど、やっぱり違ったのです。 彼はできるだけ邪魔しようと思ったのです。彼、変なこと言ったのです。急に「悪魔だって、悪魔はイエス様の友達だよ。」と言ったのです。けど聖書は悪魔は神の敵だと言っているのです。やー困っちゃう。けど、あなた出て行けと言えないでしょう。ですから祈ったのです。イエス様どうしましょうかと本当に困っちゃったんです。 4人の奥さんたちも、やっぱりわかったのです。急に一人の奥さんが何と言ったかと言いますと、「あんた出てった方がいい。わたしたちはあなたのへんな話、聞くつもりじゃない。私たちは救われました。」と言った。 「考えてもみなさい。外人だったらわかるけど、日本人でしょ。朝鮮でしょ。男のようになって出てもらいたい。あなたの話を聞くつもりじゃない。」姉妹はそれを聞いて、本当にそのとおりです。あなたのためにケーキとコ−ヒー揃っているから、いらっしゃい、いらっしゃい、そうした方がいい。やー助かった。やっぱりあの時議論すれば、やっぱりまずい。 あの4人の奥さんは、本当に悔い改めてイエス様信じますと告白して、今イエス様に従がいたいと言うことになったのですけど、結局議論すればだめ、パリサイ人と弟子たちが議論してしまってる間に、病人がのけ者にされてしまってるのです。みんな病人の悩みをきれいに忘れてしまっています。 パリサイ人とは何を言ったかわからないけど、おそらくお前のイエスだって同じことだ。お前たちはイエスの名前使ったでしょう。失敗したでしょ。あなたたちのイエスだって、詐欺師だ。 弟子たちは、もちろんがまんできなかった。けど議論している間に誰も導かれませんし、誰も救われない。父親は本当にかわいそうだったのです。 22節ですが、この霊は彼を、息子を滅ぼそうとして何度も火の中や水の中に投げ込みました。もしおできになるなら、私をあわれんで、お助けください。するとイエスは言われた。 「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」するとすぐにその子の父は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」 ちょっとかわった祈りなのです。信じますという言葉は目に見える現実、すなわち全く不可能な病から離れて、ただイエス様にだけ信頼するという、そういう意味を表す言葉です。不信仰な私を助けてくださいという言葉は、私をあらゆる不信仰から救い出してください。 結局信じたいけど、どうしたらいいの。もうお手上げですという叫びです。このような態度をとると、もちろん主は必ず助けてくださる。 この父親のように、心から飢え渇きと必要、みじめさを感じている者は誰でも、イエス様のみもとに来るべきです。父親は無関心ではなかったのです。彼にとって大きな苦しみ、悩みの種が何であったかいうと、子どもの病気のことよりも、むしろ自分の不信仰だったのです。 信仰があったならば、全然違う問題になったでしょう。父親の本当の問題は自身の心の態度だったのです。 結局彼は、今まで一番有名な医者のところへ行ったことがあるけども、彼らはなにもできなかった。提供された薬も買って飲ませたけどだめでした。聖書学者たちはどうすることもできなかった。あなたの弟子たちも、確かに一生懸命まごころから頑張ったのですけどだめでした。何者にとっても癒すことのできない、今は本当に絶望している。 絶望して全く望みを失った者は、喜びも、力も、平安も持っていない。平安も、喜びも、希望も持っていない人は、肉体的にも、精神的にもおかしくなる。息子はいつか癒される。半年後で、少しずつ、よくなるそういう希望があれば、やっぱり少し違うんですけど、彼はもうおしまいですと思い込んでしまったのです。結局癒される可能性がある、この確信と信仰がないことこそ、この父親の問題だったのです。 私たちの場合も同じように苦しみや悩みが問題なのではなく、その問題に対する態度です。私たちは興奮したり、悲しめられたり、失望させられたり、すると本当におかしくなる。 浦和に住んでいる一人の奥さんは、ノイローゼになりました。子どものことでどうしてであるかといいますと、彼女はもうおしまいです、損した、損した死にたくなったことしか考えられなくなってしまったのです。 後で非常に元気になったのです。問題は解決されたからじゃないのです。確かに真暗闇です。けど主は変なこと赦しません。つらいです。今からどういうふうになるかわからないけど、必ず益になると信ずるようになったからです。結局希望を持つようになったから、元気になったのです。 結局問題が問題でなく、結局問題に対する態度こそが問題であるということです。 コリント人への手紙第IIの中で、いろんなことに悩んでいる人々の喜びの秘訣が書きしるされています。パウロは信仰のゆえに迫害され、苦しめらた人々について次のように書いたのです。 コリント人への手紙第II、4:16-18
見方によっては変わる。初代教会の場合は、毎日人々は導かれ救われたのです。毎日主は群れに加えられたといっています。どうしてでしょうか? 初代教会の人々は目に見える現実にしばられていなかったからです。彼らは苦しみながら、悩みながら、勇気を失いませんでした。どうして?目に見えないイエス様に頼ったからです。 ピリピ人への手紙4章の中で、絶えざる喜びの根拠なるものについて次のように書かかれています。この手紙は刑務所の中で書かれた手紙です。パウロはおそらく合わせて7年間、信仰のゆえに刑務所の中で過ごした者でした。けど彼は決して私のことを覚えてください、私のことを忘れないでください。早く刑務所から出られるようにと一回も書いたことはない。入ってからは自由の身となった人々ために心配したのです。 ピリピ人への手紙4:6-7
考えられないことです。 ピリピ人への手紙4:7
結局、人間は心配によって、不安によって動かされるものであるか、あるいは神ご自身の平安によって満たされるかのどっちかです。祈ることによって全てが変わる。たとえば、いくら働いても重労働しても人間はだめにならないけど、不安や心配によって人間はすぐだめになります。 医学的にも昔から証明されています。胃潰瘍は食べ物や食べ方よりも、悩みや苦しみのための不安や心配によって引き起こされたものだと、みなわかってるんです。心配するな思い煩うなと聖書は何百回も書かれています。どうしてかといいますと役に立たないからです。不安になるからです、心配になるからです。どうしたらいいかとわからなくなっちゃうからです。 パウロは全てのことに感謝せよと書いたのです。そうしなければ、精神的にも肉体的にもだめになるからです。 結局人間は波にもて遊ばれるボールのようなものであるか、あるいはみことばによって周囲の状況を越えて、主ご自身の平安によって満たされる者のどちらかでしょう。 イエス様は全知全能なるお方です。他のものはみな無知です。 祈ることとは無能者として無力者として全知全能なる神に頼ることを意味しているのです。当時の弟子たちは確かにイエス様の名前によって癒そうと思っていたのですけども、結局自分の力、自分の経験に頼りました。何とかなるじゃないかと思ったのです。 祈りとはイエス様との交わりに入ることであり、交わりを持ち続けることです。ですから聖書の中で、絶えず祈れと何回も何回も書きしるされてます。絶えず祈るということは、自分勝手なことをしないで、絶えずイエス様との交わりを持ち続けるなさい、イエス様だけに頼りなさい。自分自身の力により頼むことをやめて主に徹頭徹尾信頼し、全てを空け渡しなさい。イエス様に任せなさい。そうすると奇跡が起こる。 イエス様は祈りの必要性にについてこういうふうに言われたのです。 自分の力ではなく、主の力により頼まなければいけないと弟子たちに教えられましたし、また同じ真理をこの病人の父親に対しても言われたのです。 父親はイエス様に対しても「もしできれば、」 結局もしあなたが癒すことができれば、悪魔の支配下から解放することができればと言ったのです。つまり父親は、息子の病気が癒されるかどうかはイエス様の力にかかっている問題だ。直接自分の問題ではないと彼は思ったのです。 けどそれに対して、イエス様は直接お答えになることをなさらずに、父親の言葉をそのままで使って言われたのです。結局それは私の問題じゃない。私は全知全能であるから、私にとっては癒すことだってたいした問題じゃない。問題はあなたです。 あなたが私を信ずる信仰にこそ、本当の問題がある。信ずる者にはどんなことでもできる。 ここでは、信ずることはイエス様がただ単に神の子であることを認めるだけじゃないです。自分自身の問題全てを主に空け渡すことです。もしそうすればあなたもできる。あなたにとっても不可能なことはないとイエス様は約束してくださったのです。 彼は信じたいけど、どうしたらいいの?私の不信仰を取り除いてください。結局人間は目に見える現実を見ると信じられません、絶望してしまいます、あきらめます。当然ですけども、信じたいけど信じられないから私の持っていない信仰を与えてください。この態度をとると主は、必ず恵んでくださり奇跡をなしてくださるのです。 これこそがこの父親の経験だったのです。 人間は本当にみじめでだめなのです。無能者であり無力者です。けどもだめな人間として、主に頼ると、主は自分の力を現してくださりご栄光を現してくださるのです。 |