空いた器の価値


ベック兄

(レトロテープ聞き取り)

引用聖句:列王紀第II、4章1節-7節
1預言者のともがらの妻のひとりがエリシャに叫んで言った。「あなたのしもべである私の夫が死にました。ご存じのように、あなたのしもべは、主を恐れておりました。ところが、貸し主が来て、私のふたりの子どもを自分の奴隷にしようとしております。」
2エリシャは彼女に言った。「何をしてあげようか。あなたには、家にどんな物があるか、言いなさい。」彼女は答えた。「はしための家には何もありません。ただ、油のつぼ一つしかありません。」
3すると、彼は言った。「外に出て行って、隣の人みなから、器を借りて来なさい。からの器を。それも、一つ二つではいけません。
4家にはいったなら、あなたと子どもたちのうしろの戸を閉じなさい。そのすべての器に油をつぎなさい。いっぱいになったものはわきに置きなさい。」
5そこで、彼女は彼のもとから去り、子どもたちといっしょにうしろの戸を閉じ、子どもたちが次々に彼女のところに持って来る器に油をついだ。
6器がいっぱいになったので、彼女は子どもに言った。「もっと器を持って来なさい。」子どもが彼女に、「もう器はありません。」と言うと、油は止まった。
7彼女が神の人に知らせに行くと、彼は言った。「行って、その油を売り、あなたの負債を払いなさい。その残りで、あなたと子どもたちは暮らしていけます。」

ヨハネの福音書16:8、12-14
8その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。
12わたしには、あなたがたに話すことがまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐える力がありません。
13しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。
14御霊はわたしの栄光を現わします。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。

今日はいわゆる五旬節です。神の霊、聖霊の送られた日の記念日です。
10日前にはイエス様の昇天された記念日でした。2000年前にイエス様はベタニアという小さな町でまで連れて行かれ、手を上げて彼らを祝福してくださったのです。祝福しておられるうちに彼らを離れて天に引き上げられるようになったのです。
弟子たちは悲しまないで、非常な喜びをもって、エルサレムに帰り絶えず宮に行って、神をほめたたえていたと聖書は言っています。彼らはイエス様の命令を聞いたのです。すなわち見よ、私の父が約束されたものをあなたがたに贈る。

だから上から力を授けられるまでは、あなたがたは宮にとどまっていなさいと、弟子たちは10日間、父の約束されたお方、すなわち聖霊のために絶えず宮に行って、神をほめたたえたのです。そしてこの10日後、五旬節がやってきたのです。
すなわち聖霊がこの地上に注がれるようになったのです。五旬節はちょうど、一度だけイエス様が御降誕なさり、一度だけ十字架につけられ、一度だけ復活なさり、昇天なさったように、これもただ一度だけのことでした。聖霊は五旬節以来この地上に住まわれ、真の救われた者の内に宿っておられます。
イエス様は全ての人々のために、完全な救いのみわざをなされました。けどこの救いは、われわれ一人一人の経験とならなければなりません。そしてこのことは聖霊によってのみ、実現されます。

聖霊が働かなければ、人間は絶対に正直になろうとしないし、心を開こうとしないし、悔い改めたくないし、信じようとしません。
もし、人間は頭を下げて自分のあやまちを悔い改めると、またイエス様の救いのために感謝する。これは理性でもってつかめないことです。神のなしたみわざであり、奇跡そのものです。すなわち聖霊の働きかけの結果です。

今日、洗礼を受ける兄弟姉妹は、この聖霊の働きによってイエス様の救いに預かることができ、聖霊の宮になることによって生まれ変わり、新しく造られた者となったのです。
彼らは、勉強していろいろなことがわかったから、決心して救われたのではありません。聖霊の働きの結果として、彼らの心の目が開かれるようになり、彼らは悔い改めるまでに導かれ、イエス様を信じるようになったのです。イエス様を受け入れることによって、彼らは聖霊の宮となったのです。
多くの人々はそれを確かにまだわかっていない。けど、わかってもわからなくても関係なし。イエス様を受け入れた人はみんな、例外なく神の神殿であり、聖霊の宮です。
パウロはローマ人への手紙に書きました。

ローマ人への手紙8:9
9キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。

その人は神学校を出たかも知れない。有名な牧師かも知れない。けれども聖霊を持たない人は救いを知らない者であることを、はっきり言っているのです。
聖霊を持たない人は神の目から見ると失われています。めくらであり死んでいる者です。すなわちその人は、本当の喜びと真の平和を知りませんし、従ってあわれな同情に値する者です。

今も読まれましたヨハネの福音書16章8節に、イエス様は、このきたるべきお方である聖霊について次のように言われたのです。
その方が、すなわち聖霊がくると、罪について、義について、裁きについて、世にその誤りを認めさせる、と。
聖霊の一つの働きの大切な目的とは、罪について、義について、裁きについて、証しすることです。

聖霊の働きの結果として、人間は神の判断は正しいと認めるようになります。神の判断とは義人、すなわち正しい者はいない、一人もいない。一人も善を行なう人はいません。一人もいない。全ての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。
普通の人は、もちろんそれを認めようとしない。善い人もいるし悪い人もいるのではないか、これは人間的な判断です。決して、そうではありません。善を行なう人はいない、一人もいない。

これこそが全てを知りたもう、神の正しい判断です。聖霊の働きの結果として正直な人間は、そのことを認めざるを得なくなるのです。
すなわち聖霊の働きの結果として、自分の本当の姿を、今朝兄弟が祈られたように、自分の罪にまみれた姿を認めるようになります。すなわち主があわれんでくださらなければ、おしまいだとわかるようになります。
けれども、それだけではありません。聖霊の働きの結果として自分の本当の姿を知るようになった人間は、主の御名を呼び求めるようになります。
すなわち、「あわれんでください。」これこそが降参することを意味します。白い旗を揚げることを意味します。主があわれんでくださらなければおしまいだとわかった人は、本当に幸せです。

聖霊は罪についてだけではなく、義についても人間の心の目を開くと、イエス様は言われたのです。義とはもちろん物ではありません。一人のお方です。すなわちイエス様ご自身です。
コリント人への手紙第Iの1章30節に、イエス様はわれわれのために義になられたと書かれています。

コリント人への手紙第I、1:30
30しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。

イエス様に信頼しイエス様を受け入れる者は、イエス様のゆえに義と認められるようになります。義と認められることは考えられないほどすばらしい宝物です。すなわち、罪の債務を支払うことより以上のものです。
神の義とはあらゆる債務と罰から完全に解放されている状態を意味します。神は義と認められた人間を、決して罪を犯さなかった者として取り扱かわれます。ですから聖書の中でよく、私はあなたの罪を二度と思い出さない、心に留めませんと書かれています。
神はもちろんボケている方ではなく、イエス様の救いにはそのようなすばらしいものであるからです。私たちは天国へ行ったら、必ず自分の過ちを思い出すと思います。何を考えたのか、やったのかやっぱり思い出します。
もちろん重荷としてではなく、これこそが礼拝の原理になりますけど、イエス様にいくら、「イエス様、私はひどかったでしょう。」と言ってもイエス様は聞く耳がない、赦された罪は永久に忘れられているからです。
コリント人への手紙第Iの6章11節に、パウロはコリントにいるキリスト者に次のように書いたのです。

コリント人への手紙第I、6:11
11あなたがたの中のある人たちは以前はそのような者でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。

あなたがたは御霊によって義と認められと書かれています。聖霊の働きの結果として、人間は義と認められるのです。

聖霊は罪について、義についてだけではなく、裁きについても人間の目を開いてくださるのです。イエス様を個人的に、また意識的に受け入れない者は、だれでも裁きを受け、愛の泉、いのちの泉、のぞみの泉であられる神から離れた状態に留まらなければなりません。
人間は誰でもが、前に言いましたように神から離れている者です。そして永遠に死に服さなければならない者であると聖書は言っています
けど、イエス様はわれわれの身代わりに死んでくださり、我々の受けるべき天罰をお受けになってくださったのです。従ってこの救いを自分のものとすると、すなわちイエス様を自分の救い主として受け入れると、決して裁かれないと聖書は言ってるのです。
初代教会の人々は喜びに満たされた人間だったのです。どうしてでしょうか?彼らは、私たちはもうすでに霊的な死から永遠のいのちに移されると確信したからです。
イエス様の救いは完全な救いであり、裁きからの救いであります。イエス様の十字架の上で叫ばれた勝利の叫びこそが、最もすばらしい喜びの訪れではないでしょうか。イエス様は「全てが終わった。」と叫ばれのです。すなわち、救いのみわざは成就されたという意味です。

あちこちで、いろいろ悩んでいる人々と会うと、これらを宣べ伝えるのはやっぱりすばらしい特権ではないでしょうか。あらゆる宗教、キリスト教を含めて、人間から何か要求します。大体3つのことが要求されます。

第一番目は勉強しなさい。理解しないとだめだ。聖書のABC位わからないと、絶対救われない。もちろんうそです。もしそうだったら、聖書を持たない人々はみな、救われ得ないことになります。
宗教の言わんとしているところはそのことなんです。一つの教えを大切にしないとだめ。もちろん聖書は言っていません。大切なのは一つの教えではなく心です、気持ちです。人間がへり下るか、頭を下げたくないかだけです。

第二番目に要求されているのはがんばりなさい、努力せよ。結局いい子になりなさい。努力した結果として助かる、救われる。

第三番目はみなご存じでしょ。金を出せ、献金しなさい。聖書の言ってることはこの逆のことです。知識を得る必要はない。立派にならなくても結構。どうせなれないからです。
真の神は人間のお金をほしくない。もし神がお金をつくろうと思えば山ほどつくれます。すなわち、誰も今日家に帰れないようになる。金ばかりあるから道をつくらないように、神はしようと思えばできます。
生きる真の神はちっぽけなきたないお金は欲しくない。当然のことです。けれども宗教の要求しているものはそういうものなのです。

悲劇的です。人間が悩んでいるから、要求しているからなんとかなるのではないかと思い、(宗教に)入りますけど、みなだまされます。
イエス様を受け入れた時、何か起ったでしょうか。コリント人への手紙第Iの6章19節にパウロは次のように書いています。

コリント人への手紙第I、6:19-20
19あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。
20あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。

私たちはイエス様を信じた瞬間、主なる神が聖霊を通してわれわれの霊のうちに住むようになった、と聖書は言っています。理性でもってつかめません。いくら考えても感じられないけれども事実です。
パウロは、あなたがたは知らないのですかとコリントの信者に尋ねたのです。どうして尋ねたかといいますと、これを覚えることはこの事実に答えることはもっとも大切であるからです。コリントの信者たちはこの事実を忘れたようです。ですから、知らないのですから忘れたのですかと聞いたのです。

私たちはそれを本当に知っているでしょうか。あなたは聖霊の宮である、生きる真の神の神殿であると聖書は言っているのです。
自分の身に起きるあらゆる問題の解決は一体なんなのでしょうか。自分の内に住みたもう栄光の主ご自身です。この事実に目が開かれると、われわれには一つの思い煩いも起きてこないでしょう。
パウロは、何事にも思い煩ってはならない、主は近いと言ったのです、再臨が近いだけじゃないんです。イエス様は聖霊を通して、われわれの呼吸する空気よりも、身近におられるという意味なのです。
主はわれわれの家に住んでおられる。だから、心配することはおかしい、愚かであるということです。

多くのイエス様を信じ受け入れた人は、はじめ嬉しくて嬉しくてしかたがなかったけど、何年、何10年か、教会生活を送るうちに、ペッチャンコになる人は非常に多い。
寂しい、孤独だと嘆いている人は多いのであります。親しい人との交わりを持っていても、孤独は去りません。孤独とはもっと深いものであるからです。
どうしてなのでしょうか?神の慰め人である聖霊が役割を演じていないからです。
ある人は聖霊を学ぶことができないと嘆きます。聖書は自分に語りかけないと言うのです。どうしてでしょうか。それは真理を教えるお方、すなわちわれわれの内におられる聖霊を本気にとらず、聖霊に耳を傾けないからです。
聖書を読んで理解しよう、わかろうと思えば、もちろん何にもならないことは決まったことです。「しもべは聞きます。主よ、どうか語ってください。」この心構えがあれば、もちろん心の目が開かれるようになります。御心を知ろうと思えば、もちろん知らされるようになります。
けども主に従いたくなれば、主は働こうとしない。主に従おうと思えば必ず心の目が開かれるようになります。

また多くの人々は、祈るべきであるとわかるけど無理です。形式的な、義務的な祈りしか捧げられない。一体どうしてでしょうか? 聖霊が働くことができないからです。

ローマ人への手紙8:26
26御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。

何と多くの信者は聖霊の助けを退け、その結果弱くなってることでありましょう。
聖霊は祈りの霊です。われわれは、もちろんだめであるのは決まっていることです。けども人間はみな宗教に毒されているから、立派にならないとだめじゃないかと思っています。
今日洗礼を受ける人々はたいしたものじゃないこと、わかっているかも知れない。何10年も前に、洗礼を受けた人は立派だと思っているかも知れないけど、とんでもない話です。

ここでパウロも含まれているんです。弱い私達、パウロですよ。
聖書の世界は宗教の世界と全く違うのです。宗教の世界は夢の世界です。人間ががんばれば立派になる。これは夢の世界です。
聖書はもっと現実的な世界です。パウロでさえも私は弱いとはっきり認めています。それだけでなく、私は何を祈ったらよいのかわからない。たいした告白です。私はわからない。正直な男の正直な告白です。
人間は弱い者であり無知なんです。死ぬまで、だからあきらめなくてはならないのではない。
主は全能なる神です。われわれのできないことは、聖霊はおできになる。主に依り頼ると不可能なことが可能になるのです。

多くの信者は、本当に自分勝手で自分の悩みについてしか考えない。それこそ悲劇的です。内に住む聖霊の悩みについて考える方が少し変わります。われわれの悩みはたいしたものでないけど、われわれの内に住む聖霊の悩みを考えられないことは悲劇的ではないでしょうか。
聖霊は働こうと望んでおられますけど、われわれが自分の知恵に頼れば、聖霊は働く事が出来ない。聖霊はわれわれを用いようと望んでおられますけど、われわれが自分の知恵に頼れば、もちろん聖霊はお手上げです。どうすることもできません。
聖霊はいかに悩んでるか苦しんでいるか、われわれのわがままによって束縛されてかということについて、考えるべきなのではないでしょうか。

前に読みました列王記第IIの個所、ちょっと見て終わりたいと思うのです。

列王紀第II、4章1節-7節
1預言者のともがらの妻のひとりがエリシャに叫んで言った。「あなたのしもべである私の夫が死にました。ご存じのように、あなたのしもべは、主を恐れておりました。ところが、貸し主が来て、私のふたりの子どもを自分の奴隷にしようとしております。」
2エリシャは彼女に言った。「何をしてあげようか。あなたには、家にどんな物があるか、言いなさい。」彼女は答えた。「はしための家には何もありません。ただ、油のつぼ一つしかありません。」
3すると、彼は言った。「外に出て行って、隣の人みなから、器を借りて来なさい。からの器を。それも、一つ二つではいけません。
4家にはいったなら、あなたと子どもたちのうしろの戸を閉じなさい。そのすべての器に油をつぎなさい。いっぱいになったものはわきに置きなさい。」
5そこで、彼女は彼のもとから去り、子どもたちといっしょにうしろの戸を閉じ、子どもたちが次々に彼女のところに持って来る器に油をついだ。
6器がいっぱいになったので、彼女は子どもに言った。「もっと器を持って来なさい。」子どもが彼女に、「もう器はありません。」と言うと、油は止まった。
7彼女が神の人に知らせに行くと、彼は言った。「行って、その油を売り、あなたの負債を払いなさい。その残りで、あなたと子どもたちは暮らしていけます。」

この個所の中で、確かに聖霊という言葉は出てきません。聖霊を象徴する言葉が出てきます。油とは聖書中ではいつも聖霊を象徴する言葉です。
今日必要としているのは聖霊に満たされた者ではないでしょうか。満たされるために、われわれは空っぽになる必要がある。暗さと、不順と、よこしまと偽善に満ちている心は聖霊に満たされません。
ここで出てくる「やもめ」について考えるとわかります。彼女は非常に悩んでいたのです。夫は死んでしまい、彼女の二人の子供と生活を一緒にしていたんですけど、債権者が来てその子供を連れて行って奴隷にしようとした状況でした。考えられない悩みでした。
よりどころである夫は死に、実である子供が今取り去られようとしているのです。あなたは何を持っているかと聞かれたとき、彼女はうそつかないで正直に答えたんです。何もない1ビンの油しかない。その他に何にも持っていないと彼女は正直に告白したのです。
当時、油を持っていることは金持ちである、富んでいることを意味したのです。たとえば、イラン、アラビア、イスラエルの地方へ行くと今日までそうんです。油を持っていることは金持ちであることを意味しているのです。

当時、何のために油が使われたのでありましょうか。
まず油を注ぐために使われたのです。病人が出るとその病人に油を注ぎ、病人とともに祈るのです。ここでは油はいわゆる癒しの力を意味します。それによって人間は元気になり、喜びを持つようになり、生き生きとした望みを持つようになったと。
第二番目に油は栄養物として、もちろん使われたのです。この「やもめ」も油を食品として用いたに違いない。ここではいのちの力を意味するのでありましょう。
第三番目は油は灯りを保つためにも用いられたのです。ここでは油は灯りの力を意味しているのです。

油は癒しの力、いのちの力、灯りの力を意味するのです。この「やもめ」の悩みは、油の壷がほとんど空に近かったからです。ビンがあったんですけど、中身がほとんどなかったのです。ちょっとあったんですけど、決して十分な量ではなかったんです。これこそが彼女の悩みでした。
油とは前にも言いましたように、いつも聖霊を象徴するものです。この「やもめ」の問題とは、いったいどういうふうに・・・。

(テープA面→B面)

彼女は、まず自分の本当の状態を話したのです。隠さなかったのです。2節を見るとわかる。彼女は、1ビンの油の他は家に何もないと正直に言ったのです。へり下った態度のあらわれでありましょう。
われわれは、何としばしばうまく隠そうと思うのではないでしょうか。自分の貧しさと、自分の悩みを、おおやけに話す人にだけに手助けしてやることはできます。
この「やもめ」は多くの信者の霊的欠乏の状態を象徴するのではないでしょうか。信じる者一人一人は神によって選ばれた者であり、一人一人は、主の癒す力、いのちの力、照らす力を経験すべきであり、それを通してまわりの人をも満たされるべきです。
多くの集会に集いますし、けど主の癒す力、いのちの力、照らす力を持っていなければ、本当に悲劇的です。形だけでは決して、決して十分ではない。力の源である主、喜びの源である主と結びついていなければ、全ての全てはむなしいのであります。

「やもめ」の場合は油の壷がそこにあったんですけど、中身がほとんど入っていませんでした。けど、彼女はあらゆる貧しさから、解放されたのです。
富む者になったのです。どうして?従ったからです。従順に従うことは幼子のような信仰の結果です。エリシャは彼女に、「他に行って隣の人々から器を借りなさい。少しばかりではいけません。」と命令なさったのです。
空いた器を借りなさい。どうして?おかしいではないでしょうか。近所の家に行って空いたビンがないかと聞くと、やっぱり少し狂っているのではないかと思うでしょう。捨てるものです、役に立たないものではないでしょうかと、みな思うでしょう。
空のビンで金持ちになるはずはない。いったいどこから、油を持って来ようというのでありましょうか。

家に入って戸のうちにとじこもりなさい。これも主の命令でありましょう。イエス様も同じことを言われたことがあります。戸を閉じて隠れたところにおいでになる、あなたの天のお父さんに祈りなさい。
友達と相談しなさいではありません。祈りなさい。他の言葉で言うと悩みをもって、イエス様のところへ行きなさい。イエス様は助けることができ、イエス様だけが助けようとしておられるのです。
そして家の中に入って、あなたの子供達と一緒に、戸の内にとじこもり、そのすべての器に油をつぎなさい。「つぎなさい。」これこそが信仰のあらわれであり、従順のあらわれです。彼女は油をつぎました。ほとんど空に近かった油のビンが泉になったのです。

もし私たちが信仰によって主に従うと、空虚は必ず満たされるようになります。主がご栄光をあらわしていてくれるのです。そして、まわりの人々も飢え渇きを感じ、導かれるようになり、満たされるようになります。従順なくしては、主に喜ばれることはできません。
「やもめ」はみことばを聞いて、不可能なことがらを信じました。結果として奇跡を経験したのです。あなたは聖書により御心を知ることができます。そのみことばをしっかりつかみ、信仰の従順によって前進しましょう。
「やもめ」の悩みは、結局大きな富に変わったのです。子供のような信仰の従順により、彼女の心の傷は癒され、また怪我もなくなり、彼女のまわりの人たちを照らす光となることができたのです。彼女は必ず奇跡を行ない、主をほめたたえるようになり、この主をまわりの人々に紹介するようになったのです。
油、すなわち聖霊による癒しの力、いのちの力、照らす力は何とすばらしい宝でありましょうか。

どうして信じる者の間に差があるのでしょうか?ある人は主を見上げて大いに喜んでいるにであり、別の人々はいつも打ちのめされています。どうしてでしょうか?
全ての信じる者は御霊を宿しているのです。みんな例外なく聖霊の宮であると、聖書ははっきり言っているのです。
けれども、ある信じる者は御霊の支配に自分をゆだね、ある人は自分が自分の主となってる。自分の主となることとは、結局自分の知恵に頼ることです。何とかなるはずです。もう少しがんばれば?けども、うまくいきません。
信じる者同志の大きな差は、結局ある人は与えられている御霊を主として認めている。他の人は主として認めていない。もっとも、ですから大切なことは主の絶対的なご支配ではないでしょうか。

聖霊に満たされるということは、何かを経験することを意味しているのではありません。どういうふうに聖霊に満たされると言いますと、結局全てを主にゆだねることによってです。幼子のような信仰を持つことによってです。従順に従うことによってです。
ですから、パウロはあなたがたは神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではない主のものです。血潮でもって買い取られた者です。
もし私達がこのことを知るならば、自らを全く主に空け渡し、主の支配にこの身をまかせなければならないようになります。

自分が神の宮であることを知ったこの瞬間、自分のすべては自分のものではない。主のものであることを知るようになります。それによって束縛から解放されます。重荷から解放されます。
どうでしょうか。私たちはいままでに意識して御霊の支配に自分をゆだねたことがあるなのでしょうか。もし主が、われわれの霊の内で主となっていなければ、御霊は働くことが出来ません。そうすれば、われわれの宮は聖霊の宮ではなく、聖霊の刑務所のようなものになってしまいます。本当なんです。
私たちの全てが、主の御手のうちにまかせられていなければ、御霊は守ることができないし、導くことができないし、用いることができません。けど全てを主に空け渡す時、はじめて主の支配がわれわれの上に臨み、聖霊はわれわれの内に満ちあふれ導くことができるのです。

今日洗礼を受ける兄弟姉妹は、「われとわがものをほしくない。私はあなたの他に慕うものはない。御心のままに動きたい。」という態度を取ることができれば、本当に幸いと思います。




戻る