引用聖句:詩篇40篇1節-5節、11節、16節-17節
ローマ人への手紙の中で、「私たちは何を祈ったらいいかわかりませんけれども、御霊が教えてくださる」とあります。詩篇は言うまでもなく、御霊によって与えられたものです。ですから、私たちは何を祈ったらいいか解からなければ、詩篇を読んで詩篇を自分の祈りとすれば、非常に祝福されるに違いない。 詩篇を自分の祈りとすれば、祝福されます。今、最後に読んでもらいました箇所は、「私は悩む者、貧しい者です。主よ。私を顧みてください。あなたは私のけ、私を助け出す方。わが神よ。遅れないでください。」ダビデは心からこういうふうに祈り、叫びました。 これは自分についてと主についての告白です。「主は私を顧みてくださいましたし、これからも顧みてくださる」と告白できる人こそが幸せです。 パウロたちも幸せでした。どうしてであるかと言いますと、彼らは次のように言えたからです。 コリント人への手紙第II、1:7-9
まだなっていなかった。これはパウロたち、夢にも思ったことなかった。だいじょうぶと思ったでしょうけれども違う。 コリント人への手紙第II、1:10
主は顧みていてくださる。私たちを顧みる主がいて下さるとは、何という幸せ、幸いでありましょうか。主が顧みてくださるとは、確かに革命的な事実、希望を与える源、また真の喜びの秘訣そのものです。 私たちは、いろいろな問題で悩む時、誰かが真剣に自分のことを思って顧みていてくださるということを知ると、計り知れないほどの慰めと勇気を与えられるものです。ましてや、我々の神、創造主、救い主、そしてこの宇宙を支え保つお方が、我々を顧みていてくださるということを知った時、どれほどの喜びと感謝が湧き出ることでしょうか。 この主は、結局人間一人ひとりの最高の幸せだけを考えてくださるのです。 エレミヤ書29:11
今から約3,000年ほど前のイスラエルの王であるダビデは、主に対して「早く助けてください」と叫んだだけではなく、主なる神に対する絶対の信頼を持って叫んだのです。 前に読んでもらいました、詩篇40篇13節 詩篇40:13
ダビデは12節からの聖句で解かるように、2種類の問題を持っていましたが、まず内側の問題としては、罪を犯したことに対する良心の呵責、それから外側の問題として、数え切れないほどの災いが取り囲んでいるという悩み苦しみを打ち明けています。 ダビデは多くのすばらしい働きを主のために行い、良き羊飼い、勇ましい王、主なる神によって油そそがれた者として、人々から高い尊敬を受けていましたが、それにもかかわらず、ダビデの心はへりくだっていました。 「私は悩む者、貧しい者です」と言っています。 イエス様は、次のように約束してくださいました。いわゆる有名な山上の垂訓の中で、 マタイの福音書5:3
と、我々の生まれつきの性質は、自分の本当の状態を認めず、悩む者、貧しい者であることを認めたがりません。 けれども、自分の状態を正直に認めたくなければ、主はどうすることもできません。それから悪魔の思い通りになってしまうことでしょう。 そしてそれは結局、我々の不幸という結果をもたらすことになります。 ヨハネの黙示録3:17
このように、自分の本当の姿に目が開かれないで、心をかたくなにしてしまう者は、主なる神の助けを受ける幸いにあずかることはできません。 私たちは、内面的に自由な状態にあると、空しい思いや努力から解放され、外からの誘惑や攻撃にも絶えることができるようになります。 ダビデは、自分のみじめな状態を認めながらも、それにもかかわらず、主が顧みてくださることを疑わずに確信しました。 詩篇138:8
とダビデは心から祈ったのです。 詩篇139:17
とダビデは言ったのであります。このダビデはかつて自分勝手な判断で行動したことがあり、例えば、安全を求めてツケラクという所へ戻ってしまい、その結果、大変な状態に陥ってしまったのです。それにもかかわらず、常に主に対して正直な態度をとり、囚われの状態から自由な状態へと変えられたのです。 このようにして、自分の身の安全を考えると、ダビデはサウル王様を恐れるようになり、主の約束をおろそかにするという結果に陥ってしまいました。 ちょっと一箇所、読みましょうか。 サムエル記第I、30:6
結局、彼の最後の状態は、絶望的な状態ですべてを失わざるをえませんでした。それまで自分の側に立っていた人々でさえも、ダビデを石で追い払うようにしたのであります。このような絶望的な状態の中でも、ダビデは祈りました。「主よ、私を顧みてください」と叫んだのであります。 絶望的な状態におかれた時、人間的な努力は、何の役にも立ちません。むしろ目に見えるものから目を離し、主なる神を見上げる時にこそ、真の救いが与えられ、助けの御手がしのばされます。そしてダビデはこのような態度を取ったのです。 結局、本当の問題は色々な問題を持つか持たないかということではなく、その一つ一つの問題を、主に告白して主の助けを求めるかどうかということです。 ダビデはあらゆる問題を包み隠さず、主に打ち明け助けを求めましたので、災いを幸いに変えていただけたのです。 このようにしてダビデは、完全に回復されただけではなく、器として大いに用いられ、主のための仕事を果たすことができたのです。 詩篇78:68-71
ちょうどシオンの山が主によって選ばれたように、ダビデもまた主によって選ばれ、主の器として用いられました。今のこの恵みの時には、シオンの山は、我々にとって満たされ、完成された主のからだなる教会を表すものとして述べられています。 まことの教会は、イエス様ご自身の血潮によって買い取られたもので、聖霊の住みたもう所であり、ただからだなる教会を通して、主のまことの栄光が公に示され、すべてのものにおいて、第一となるところです。 自分の罪を悔い改めた者は、イエス様の血潮によって、洗い清められた者です。イエス様によって、自分の汚い過去は、清算されていますから、主は決してそのことを思い出さないという確信を持っています。しかもこの確信は、自分の理性や感情とは関係なく、主のみことばと主の約束に基づくものです。 イエス様の血潮によって、罪を赦された者は、聖霊の宮となってと聖書は言っています。これもまた、知識の問題や感情の問題ではなく、主のみことばによって知ることができる事実です。 イエス様を受け入れた兄弟姉妹は、聖霊をも受け入れたのですと聖書ははっきりと言っています。そして罪を赦され、聖霊の宮となった私たちは、主の栄光が表される器として用いられなければなりません。 ダビデの人生そのものは、まさにこのことを物語っています。 詩篇40:5
主はすごい、すばらしい。 ここで「主のわざと御計り」は、一緒に書かれています。要するに主は、御計りを成就するために、わざを行われるのです。すなわち主は、私たちを顧みていてくださるだけではなく、我々のために働いてくださるのです。 主の右に座しておられるイエス様は、我々のことを忘れないで、常に私たちのために、とりなしていてくださるのです。 ローマ人への手紙8:34
次に主のわざと御計りについて、5つに分けて聖書からちょっと最後に見てみたいと思います。 第1わたしは、あなたを愛した。永遠の昔から 第2わたしは、あなたを贖った。十字架の苦しみを通して 第3わたしは、あなたを呼んだ。 第4わたしは、あなたを満たした。 第5わたしは、あなたの前に門を開いておいた。 ここで強調されていることばは、「わたしは」という主のみことばです。すなわち大切なのは、私たちではなく、主ご自身です。 主なる神の目から見れば、すべては事実であり、現実です。それらすべてのことはイエス様を通して我々のために成就されたのです。 主は世の創られる前に、私たちのような者を選んでくださいました。 エペソ人への手紙1:4
けれども、主の目から見て現実となったものは、我々の日常生活の中でも、具体的な形をとらなければなりません。そのために必要なことは、聖霊の働きに対して妥協なき、従順を持って、幼子のように意識的に主に頼ることです。 それでは、今の5つの点についてちょっと手短に見てみることにしましょうか。 全知全能なる神の呼びかけです。「わたしは永遠の愛をもって、あなたを愛した」、エレミヤ書31章3節に書いてあります。 エレミヤ書31:3
たとえ私はみじめで悩みを持ち、失望し、敗北し、もうダメだと思うような時でさえ、主は顧みてくださり、「わたしは、あなたを愛した」と支えてくださいます。 同じ事実について、パウロはエペソにいる兄弟姉妹に書いたのであります。 エペソ人への手紙2:4-5
私たちが、まだこの世の生活を続け、自分勝手な生活を行い、怒りの子として生きていた時、その時主は顧みてくださった。贖いの御業を成していてくださったのです。 聖書とは、どういうものでしょうかね。聖書は、めちゃくちゃになった人間に対する神の愛の知らせです。すなわち、主なる神の愛は、永遠でありいかなる場合にも変わることなく、不動のものです。 この愛を証明するものは、父なる神のひとり子である主イエス様が、我々のために与えられたことです。有名なヨハネの福音書3章16節を見ると、すべてがまとめられてます。 ヨハネの福音書3:16
あなたを、私を、 ヨハネの福音書3:16
信じる者にとって最も大切な箇所の一つは、有名なガラテヤ人への手紙2章20節でしょう。 ガラテヤ人への手紙2:20
また、イエス様のすばらしい約束のことば、証しとはヨハネの福音書15章9節に書いてあります。 ヨハネの福音書15:9
また、ヨハネはその第1の手紙4章10節に ヨハネの手紙第I、4:10
主の愛は、我々人間の自我や罪や自分勝手な行動さえも、無にはしない、もっとも強いものです。 ソロモンは雅歌の中で言ったのです。 雅歌8:7
この永遠に変わらざる愛をもって、主は私たちを顧みていてくださるのです。 どのような問題があり、みじめな状態にいても主は、私たちを顧みてくださる。とりなしの祈りをしてくださるのです。 イエス様はかつて、ペテロに「わたしは、あなたのために祈りました」と言われただけではなく、私たちのためにもとりなしの祈りをなさってくださるのです。 ルカの福音書22:32
私たちは、これから先、どんなみじめな状態におかれても、のけものにされても、イエス様は決して決して捨てたまわない。 いつも顧みて愛していてくださるお方であり、最善を成してくださるということを心に留めましょう。 第2番目、わたしはあなたを贖った。十字架で起こる死を通して。 イザヤ書44:22
私たちを顧みてくださる主は、私たちを贖ってくださいました。十字架で起こる救いの御業は、完全に成就されました。主の贖いこそ、イエス様の愛の最高の表れでした。イエス様は、我々のためにどれほど精神的に苦しめられたのか、私たちの想像を絶するものがあります。 イエス様の苦しみも最高のものであり、イエス様の犠牲も最高のものであり、イエス様の支払われた代価もまた最高のものでした。支払われた代価は、ご自身の血潮でした。イエス様の流された血潮は、イエス様の捧げられたいのちそのものを意味します。そのことによって、イエス様は我々のあらゆる負債を支払ってくださったのです。 イエス様はこのようにして、ご自身の犠牲の死を通して、私たちの救いを成就してくださいました。「完了した」とイエス様は最後の勝利の叫びでした。 ヘブル人への手紙9:12
パウロはエペソにいる兄弟姉妹に、同じ事実について書きしるしたのです。 エペソ人への手紙1:7
またコロサイにいる兄弟姉妹にも、パウロは同じようなことを書いたのです。 コロサイ人への手紙1:14
旧約聖書の中でも、このすばらしい福音が述べられています。 イザヤ書44:22
イエス様の救いは、あらゆる罪の赦し、すなわち意識して犯した罪だけではなく、意識しないで犯した罪もすべて赦してくださいます。ちょうど大きな雲のかたまりが、太陽によってなくなるように、我々の罪もまた消し去っていただいたのです。 認めたくない罪、また言い表したくない罪は、ちょうど私たちと主との間の雲のようなものにたとえられるでしょう。そうすると主は、助けることも我々の祈りを聞きとどけることもできないで、その結果わたしたちは、みじめであわれな者となってしまいます。 自分勝手な思いと道を捨てて、主の御許に帰るのは今この時です。 私たちの大部分は、すでに自分の罪や咎を赦してもらいました。けれどもも、それを知ることだけではなく、イエス様を受け入れたことによって、聖霊をも受け入れたわけですから、イエス様のよみがえりのいのちにあずかるようになったのです。 そして内住の主イエス様により頼むことによって、内面的な自由と解放を体験することこそ、主の切なる願いです。 ローマ人への手紙8:2
ローマ人への手紙6:4
「わたしは、あなたを贖った」ということは、単なる約束であるだけじゃなくて、永遠に変わることのない不動の事実です。したがって、贖われたことは永遠の安全を意味しています。 理性でもっては考えられない。このすばらしい事実に対して、心から毎日、感謝しようではないでしょうか。 主のわざと御計いについて、次のように言えるのです。 第1わたしは、あなたを愛した。永遠の昔から 第2わたしは、あなたを贖った。十字架の苦しみを通して 第3わたしは、あなたを呼んだ。有名なイザヤ書43章1節を見ると、次のように書きしるされています。 イザヤ書43:1
忠実なる主なる神が、我々の名を呼んだ目的は、私たちが御子イエス様との交わりに入るためでした。 初代教会の人々は、喜んで証しすることができたのです。 コリント人への手紙第I、1:9
私たちは、どうして召されたのでしょうか。それは主が我々を愛してくださり、この世が創られる前から私たちに目を留めていてくださったからです。 パウロは愛弟子であるテモテに書いたのです。 テモテへの手紙第II、1:9
私たちはこのように示され、名前を呼ばれたのは、私たちが主の御手によって新しく創り変えられ、聖霊の宮となり、用いられるためでした。 パウロはエペソにいる兄弟姉妹に、同じことをはっきり書き記したのであります。 エペソ人への手紙2:21-22
私たちがただ単に信者として集り、主を賛美して楽しい時をもつだけであるならば、悪魔は激しい攻撃をする必要はないでしょう。けれども、私たちが御霊の一致を保ち、召しにふさわしく歩み、主のからだなる教会の肢体として、主にある交わりを持つならば、事情は全く異なります。 悪魔は大変な攻撃をして来るにきまっています。かしらなるイエス様が、すべての支配権を持ち、私たちが自分の支配権をイエス様にゆだねるならば、主は完全な勝利を保ち続けることができ、兄弟姉妹もまた同じ勝利を共にすることができるのです。 自分を捨て、他の兄弟姉妹と一緒になることは、どうしても必要です。だからペテロは書いたのです。 ペテロの手紙第I、2:5
けれども、主の召しにふさわしく歩もうとしなければ、その人はもとのみじめな状態に留まらなければなりません。 アブラハム、モーセ、ダビデ、パウロ、ペテロそして多くの人たちは、名前でもって呼ばれ、一人ひとり特別の任命と使命を与えられました。彼らはみな例外なく、自分勝手なことをして失敗しました。そして多くの失敗を通して、へりくだるようになり、自分の思いを捨てて、主の御心を第一にするように変えられました。 昨日も今日も、永久に変わらない主イエス様は、我々の日常生活の中で、常に変わることのない目的を持ち続けておられます。自分の失敗は、打ちのめされることのためではなく、召しにふさわしく歩むための手段となること、そして徹頭徹尾、主イエス様にだけより頼むためのものです。コリント人への手紙第IIを読むと解かります。よく読む箇所なんですけれども、僕大好きな箇所です。 コリント人への手紙第II、1:8
全部思うように行かなかったよ。 コリント人への手紙第II、1:8-9
目的は コリント人への手紙第II、1:9
主にだけより頼む者となることこそが、考えられないほど大切です。 コリント人への手紙第II、1:10
詩篇の作者であるダビデは、次のように言ったことがあります。 詩篇28:7
すばらしい心の態度じゃないでしょうか。 ペテロも当時の信じる者をもちろん励ますために、次のように書いたでしょう。 ペテロの手紙第II、1:10
大切なのは、主にのみより頼むことです。 だからパウロもエペソにいる兄弟姉妹に書いたのであります。 エペソ人への手紙5:14
多くの信者は、眠った状態に置かれているのではないでしょうか。与えられた使命にふさわしく歩むことは、決して強制された義務ではなく、心から喜んで行う奉仕です。 気の毒なのは、この奉仕を通して与えられる喜びを知らない人なのではないでしょうか。 主のわざと御計いについて次のように言えるのです。今まで学んだことです。 第1わたしは、あなたを愛した。 第2わたしは、あなたを贖った。 第3わたしは、あなたを呼んだ。 第4わたしは、あなたを満たした。 出エジプト記31:3
我々を顧みてくださる主は私たちを、聖霊で満たしたいと切に望んでおられます。すなわち聖霊で満たされるとは、主のみことば、上からの知恵、主の理解力で満たされることです。 満たされる目的は、自分のためではなく、主と共に働くことです。 私たちは、主を知る前は、実を結ばない暗闇のわざに従っていました。 ローマ人への手紙1:29-32
けれども、今私たちは、主の御心を正しく理解し、聖霊で満たされなければなりません。 エペソ人への手紙の中でこの事実を一番強く、強調されているでしょ。 エペソ人への手紙5:11、17-18
意味として同じようなことばは、ローマ人への手紙12章の中でパウロは、当時の兄弟姉妹に書かれたのです。 ローマ人への手紙12:1-2
御霊によって満たされた者は、共に祈りあうだけではなく、そして喜びを分かち合うだけではなく、主のために苦労しなければなりません。 使徒の働き4:31
使徒の働き13:52
信じる者は主の御心を知るべきです。 だからパウロはコロサイにいる兄弟姉妹に書いたのであります。 コロサイ人への手紙1:9
そして自分勝手な知恵と力や奉仕から解放されなければなりません。 解放される手段は、イエス様の十字架です。十字架につけられた者は、御霊に満たされる者となります。 だから前に読みました箇所、もう一回読みます。 ガラテヤ人への手紙2:20
もうアウトです。 ガラテヤ人への手紙2:20
イエス様を信じる者を迫害したパウロは変わった。私を愛し私のためにご自身をお捨てになったお方こそが、パウロにとってすべてのすべてとなりました。 テサロニケ人への手紙第I、4:3、5:19-21
主のわざと御計いについて、5つに分けて聖書から見てみることにしました。 第1わたしは、あなたを愛した。最近じゃなくて永遠の昔から 第2わたしは、あなたを贖った。十字架の苦しみを通して 第3わたしは、あなたを呼んだ。 第4わたしは、あなたを満たした。 第5わたしは、あなたの前に門を開いておいた。 ヨハネの黙示録3:8
我々を顧みてくださる主は、常に門を開いてくださる主でもあります。鍵を持つお方は、すなわちあらゆる問題を解決するお方は、イエス様ご自身です。この主は一歩一歩を導こうとしておられます。 あなたの前に門を開いておいたという約束は、当時のフィラデルフィアにある教会に与えられた主の約束でした。フィラデルフィアということばの意味は、兄弟愛という意味です。そしてフィラデルフィアの教会の特徴は、兄弟姉妹はお互いに深く愛し合っていたということでした。 確かに彼らの力も財産も家財も影響力も大したものではなかったんです。彼らは、色々な試練や誘惑を経験しましたが、それにもかかわらず、主のみことばを忠実に守り、お互いに愛し合うことができましたので、常にあらゆる敵に対して勝利を治めることができたのです。 主の約束と呼びかけは、本当にありがたい。「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。――主の御告げ。――それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」 主は生きておられ、支配しておられ、また我々人間一人ひとりのことを思って、最善を成してくださるに違いない。 |