引用聖句:哀歌3章22節-26節
先々週アメリカとカナダに行きました。世界は小さくなっちゃった。 ニューヨークで、ある姉妹の親戚の方が、主の御名を呼び求めるようになりました。ご主人のアルコール中毒で苦労された方でした。ご主人の救いのためにも祈りましょう。 またある兄弟は、コロンビアで働いているのです。12月の20日、飛行機事故がありました。163人亡くなった中に、彼のひとり娘もはいっていました。20歳でした。ですから彼は、ニューヨークへ来て、子供亡くなったし、暗い顔でした。どうしてかなぜかわからなかった。でも彼はイエス様を信じ、受け入れ、すぐ洗礼を受けたいと言って受けちゃったのです。もう全く違う表情で別れました。 ダラスの交わりも良かった。うちに帰った気持ちになりました。ダラスでもふたりの姉妹が悔い改め、祈るようになったのです。 今のエレミヤ哀歌という箇所は、すばらしいです。非常に短い本です。10分で読める。エルサレムの後悔について書かれています。 彼らは聞く耳を持っていなかったから、結局主は、彼らを裁かなければならなかった。回復されるため、悔い改めるため、エルサレムは荒れ果てた町になってしまいました。落胆し、打ちのめされることでした。けども、今読みました3章の中で、励ましの言葉が書かれています。人間の必要は、やはり励まされることなのではないでしょうか。 今朝も電話がありました。答えは、イエス様だけ見ないと落ち込みます。その通りです。けどもイエス様を仰ぎ見ると、みことばによるとやっぱり励まされるようになります。やっぱり今の箇所もそうではないでしょうか。 「朝ごとに新しい」「主こそ、わたしの受ける分です」、ちょっと考えられない。「主を、求めるたましいに、主は、慈しみ深い。」 いわゆる幸せを求める者とは書いていないのです。「どうしても、健康になりたいと求めるたましい」とは書いてないのです。それはどうでも良いことです。ただ主を求める者は満たされます。 哀歌3:31-32
ダビデは、「死の影の谷を歩くことがあってもわざわいを恐れません、主が共におられるから。」、そう言ったのです。わたしたちは本当に、毎日励まされることを必要とします。そのために、主は本当に多くの約束を与えてくださったのです。 静かに主の前に静まること。主よ、語ってください、聞いております。あなたをよりよく知りたい。そう言う心構えを持つと、大いに祝福されます。ダビデの祈りとは、毎日われわれの祈りとなるべきではないでしょうか。 詩篇139:23-24
結局わたしを調べてください、教えてください、導いてください、その態度をとる者は、「主は、わたしのものです。」と言えます。私の導き手であり、守り手であられる方、イエス様を見ないと落ち込むのは結局人間です。だから人間は上を仰ぎ見ないとダメなのです。 前にも言いましたが、人間というラテン語の意味は、「上を仰ぎ見る者」の意味です。そういう意味なのです。動物はだいたい下を見て歩く。多くの人間はそういう歩み方をするのではないでしょうか。 自分の関係を見たりするともちろん落ち込むのです。上を仰ぎ見たりすると、やっぱり希望が涌いてきます。なぜなら支配者なる主は、一人一人のことを考えておられ、心配してくださり、最善だけしか考えられないお方であるからです。 主を仰ぎ見ることこそが大切です。そうするともちろん自分のみじめさも、前よりもわかるようになります。自分の失敗を認めるようになり、そのままの状態で主のところに行く者は、必ず新しい力を持つようになると、イザヤは書いたのです。 主を仰ぎ見る者は、誰でも、何度も何度も悔い改めて、主に立ち返る必要性を認めざるを得なくなります。 人間は、やはり毎日悔い改めるべきなのではないでしょうか。未信者は救われるために、信者は主をよりよく知るために悔い改めるとへりくだると、新たに生かしてくださる。 私達は、主の御心にかなう者なのでしょうか?「はい、そうです。」と言える人はいない。何を答えたら良いかわからない。結局顔を本当は上げられない。けど、主を仰ぎ見ると力も喜びも希望も湧いてきます。 このエレミヤ哀歌の本当の呼びかけは、主に立ちかえろうという呼びかけです。私達が主と結びつかないことや、主の愛がもはや私達を駆り立てないということがわかると、やっぱり主のみもとに立ちかえらなければならない。だからダビデは、「主よ、わたしを調べて!」「すべてを明るみに出して!」と祈るようになったのです。 ほかの人達は、我々について何を考えどのように見ているか。あるいは私達が、自分自身について何を考え、どのように自分自身を見てるのかと言うことは、もちろんどうでも良い。大切ではない。 決定的に大切なことは、主が我々をどのようにご覧になるか。そのことです。私達がほかの人の目に模範的に見えることはあり得ることです。また、私達は自分の過ちをほかの人の目から隠すことができます。けど主の前に隠れおおせるものは何もありません。 詩篇139:1-4
主は全部知っておられるお方です。主の目に隠れおおせるものは何もありません。それで私達は、主に近づく時全く正直でなければならない。 エレミヤ書23:24
私達は、主よどうか明るみに出してください、私を尋ね調べ、あなたを悲しませる所をお示しになってください。そう祈ることができれば幸いです。というのは、主はいつも赦してくださるおつもりですから。主はあらゆる不義から清めることを、首を長くして待っておられます。 多くの人々は、救われた人は普通の人よりも立派だと考えています。けど決してそうではありません。たいていイエス様を知れば知るほど、自分はダメだと認めざるを得ないのではないでしょうか。 聖書の中で特別に用いられて人々を見るとわかります。人間だってたいしたもんじゃない。 旧約時代に、イスラエルの民の救い主になったサムソンと言う男について考えてもわかります。彼は長い間本当に主によって用いられました。けども士師記を読むと、彼は自分の押さえがたい情熱によって、気がつかないうちに主の霊が自分から去ってしまった。 彼は長い間主に頼ったし、主が働いてくださらなければダメだと思ったのですが、ある時から主は、彼を用いられなくなったのです。その時のイスラエルの敵はサムソンをあざ笑いました。というのは、彼は主の霊なしには力なく、望み無く、助けの無い者になってしまったのです。本当にもう悲劇的です。 彼はいかに用いられたことを聞いた人は、主はすばらしいと認めたでしょうけど、ある時彼はダメになってしまったのです。もちろん幸い彼も、最後には回復されたのです。最後にまた主に用いられるようになったのです。 あるいはダビデという王様についても、同じことが言えます。彼は特別に選ばれた者であり、民の指導者でした。サムエル記を見ると、彼はバテシャバという女性と姦淫を犯し、自分の罪を隠そうと思ってしまったのです。彼は計画をたてて、彼女の主人は戦死してしまったのです。 そうすると誰もわからないはずだと思ったのです。でもダメでした。主は彼を捨てようとしなかった。ナタンという預言者の奉仕によって、彼は自分自身を主の光の中に見るようになったのです。それから彼は告白せざるを得ませんでした。 その姦淫をした男は、です。比類のない悲劇です。でも彼も回復されたのです。新たなる恵みが与えられたのです。悔い改めなくちゃならないじゃないよ。悔い改めることができるのは本当にすばらしい。 人間はぺちゃんこになって、もうダメだと思えば「おめでとう」としか言えない。主はそのために待っておられるからです。 あるいはエリヤについて考えても同じことが言えます。もう勇気ある男、力のある男そのものでした。誰が反対しても関係ない、私は主の側に立つ。 でも彼は落胆して、荒野に引き戻り、そして真剣に祈ったのです。もう死にたい。「私の、命をとって。」 考えられない。彼はほんとにぺっちゃんこになってしまった。そのことに対して、悪魔はどのように勝ち誇ったのでしょうか。でも回復され、用いられるように、なったのです。 イザヤという預言者も、人間として立派な人格者でした。けども主の光の中に自分自身を見るようになったのです。そして叫んだのです。「ああ、わたしはもうダメです。」、彼はこういうふうに小さくなったからこそ用いられるようになりました。 イエス様の弟子についても同じこと言えます。イエス様は最後の晩餐の時に彼らに言われたのです。「あなたがたの中のひとりは、2〜3時間後に、私を裏切るようになります。」その時、驚くべくことです。ひとりの例外もなく弟子達が尋ねたのです。「主よ。それは、私ですか?」 結局あり得ることだったのです。彼らは思っちゃったのです、ひとりの弟子であるペテロは、自分の絶望的状況を認めるようになったのです。聖書は詳しいことを言っていない。「彼は、外に出て行き、激しく泣いた。」一文書です。 だからこそ彼らは、新たなる恵みに預かる者となり、用いられるようになったのです。結局主に従いたいと思う者は、必ずそのような確かに面白くない経験を持つようになります。けども主は、必ず立ち帰り戻る恵みも与えてくださいます。 自分はダメだとわかった人は、もちろんそれを告白するようになります。告白すると、明るみに出すと解放されます。なぜなら主は赦してくださるお方であるからです。 おそらく主は、私達の人生の中に主を悲しませ、主の祝福の流れを押し留めるものが、ほかにもあることを示してくださるでしょう。光の中に出ることをあえてしてみましょう。 偽善的な行為は役に立たないものです。サムソンは、本当に立ち帰るようになり、主を誉める礼拝する者に変えられたのです。主は正しい。自分はダメ。私は信頼できない男ですけど、主は正しい。最後に告白したのです。 ダビデは結局、あらゆる偽善は役に立たない、必ず壊れちゃいます。隠すと平安がないし、喜びがない、そうわかったのです。けど彼は、ほかの人々よりも主を礼拝するようになったのではないでしょうか。 詩篇の大部分は、90何%は彼の書いたものです。礼拝そのものです。 エリヤも臆病者になったし、逃げてしまったし、死にたいと思った。でも彼こそが、へりくだった者として新たに用いられるようになりました。もちろんイザヤもそうですし、ペテロもそうなんです。 ペテロのひとつの証しを通し、五殉節の日、3000人の人が悔い改めるようになり、導かれるようになったのです。そして彼は傲慢にならなかったのです。これこそ奇蹟です。3000人がいっぺんに救われることも奇蹟ですが、こういうふうに用いられた人が後で傲慢にならなかったことがもっと大きな奇蹟です。結局ペテロは、自分の失敗を忘れられなかった。 ひとつの質問があります。私達が主に立ち帰るとき、主は私達を受け入れ、赦し、聖めてくださるのでしょうか?もちろんそうです。聖書は、それをはっきり答えているし、証明しているからです。 主との交わりが破られた時、主から遠ざかった時、自分勝手な道を行った時、しかしそれにもかかわらず主のみもとに立ち帰るなら、主はご自身の御名のために受け入れてくださり、赦してくださり、溢れるほどの祝福を与えてくださいます。 今見ました、サムソン、ダビデ、エリヤ、イザヤ、ペテロは、自分の過ちを認め、告白し、主のみもとに立ち帰った後、全く回復されました。 哀歌3:22-26
はじめに読みました哀歌の言葉とは本当にその通りです。「主の憐れみはつきない。朝ごとに新しい。」、私達はあれこれでなく、主おひとりだけを必要としています。新しい恵みを明らかに望んでおられます。 われわれの主とは、いったいどういうお方なのでしょうか。主は約束を与えるお方です。ヨハネの手紙第I、1章9節をみると、未信者のためだけでなく信ずる者のために、非常にすばらしい約束が与えられています ヨハネの手紙第I、1:9
主は、自分の罪を告白する時に完全にきよめて下さると約束してくださいました。正直に自分自身のダメな状態を認め、打ち砕かれる備えを持つことが要求されています。 私達は、この主の約束を心から喜ぼうではないでしょうか。主は約束を守るお方です。赦すお方です。きよめてくださるお方です。 また主は、確約してくださるお方です。すなわち主は、わたしたちがもう罪を犯さなくても良いように、すべてをなしてくださったのです。罪の債務からだけではなく、罪の力からも贖ってくださるお方です。 わたしは、自由にする者は自由であるとイエス様ははっきり言われました。けど主は、私達が倒れた時にも配慮してくださるお方である。ヨハネの手紙第Iの2章で、このすばらしい事実が述べられています。 ヨハネの手紙第I、2:1-2
もうヨハネは100歳くらいだったでしょうか。「わたしのこどもたち」、面白い表現です。ここには主が確約してくださるお方であることが書かれています。比類なきお方です。 それから主は招いてくだるお方です。主のみもとに立ち帰るように招いておられます。その際主は、われわれが主の恵みに預かれることを保証してくださいます。 イザヤ書55:6-7
こういうふうに主は招いておられます。強制なさいません。求めたくなければよろしい。けども必ず損します。それから主は、願い求めておられるお方ですと、聖書ははっきり言っています。 すなわち主に立ち帰り、すべての障害物は主によって完全に取り除かれ傷は癒されると、確約してくださるのです。すべてのことが絶望的に思われ、回復の可能性が全く考えられないような時でも、主は奇跡を行うことがおできになります。だからエレミヤは次のように書いたのです。 エレミヤ書3:22
これは、ご自身が真理そのものであり、絶対にみことばを守る方の約束です。 今私達はあなたのもとに参ります。この態度を取る者は多いに祝福されます。この態度を取ることを主は切に願っておられます。主は待ち望んでおられるお方です。しかも両手を大きく開いて待っておられる。 「わたしのもとに来なさい。」、すなわち主は、口だけの約束ではなく、真剣に人間一人一人のことを考えて、待っておられると言うことです。「わたしの所に来る者を、わたしは決して捨てません。」 主のみもとに行く者は受け入れられ、永遠の救いを持つ者となり、罪の赦しと永遠の命を持つようになります。私達はこえらの事実を大切にすると、主の恵みに圧倒されます。主の恵みは、私達に理解できない程すばらしいものです。私達のただひとつの望みでもあります。 コリント人への手紙第II、8:9
あなたがたが富む者となるべきです。すなわち、主はわたしのものですと言い得るようになる人は幸せです。 |