大いなる解放者イエス


ベック兄

(ドイツ喜びの集い、2009/06/21)

引用聖句:ルカの福音書13章10節-17節
10イエスは安息日に、ある会堂で教えておられた。
11すると、そこに十八年も病の霊につかれ、腰が曲がって、全然伸ばすことのできない女がいた。
12イエスは、その女を見て、呼び寄せ、「あなたの病気はいやされました。」と言って、
13手を置かれると、女はたちどころに腰が伸びて、神をあがめた。
14すると、それを見た会堂管理者は、イエスが安息日にいやされたのを憤って、群衆に言った。「働いてよい日は六日です。その間に来て直してもらうがよい。安息日には、いけないのです。」
15しかし、主は彼に答えて言われた。「偽善者たち。あなたがたは、安息日に、牛やろばを小屋からほどき、水を飲ませに連れて行くではありませんか。
16この女はアブラハムの娘なのです。それを十八年もの間サタンが縛っていたのです。安息日だからといってこの束縛を解いてやってはいけないのですか。」
17こう話されると、反対していた者たちはみな、恥じ入り、群衆はみな、イエスのなさったすべての輝かしいみわざを喜んだ。

ひとつの質問について一緒に考えてみたいと思います。すなわち、「まことの自由を欲しいの?」あるいは、「キリストによる勝利の行列に加わろうと思わないの?」あるいは、「私達を愛して下さったイエス様によって圧倒的な勝利者になろうとしないの?」
ふたつのことが明らかです。すなわち、我々は多くの挫折を知ります。それだけではなく、しばしば主の目を汚しているのではないでしょうか。また、しばしば主の働きの妨げとなっているのではないでしょうか。
けれども、聖書ははっきり言っているのです。

あらゆる信者は、勝利の生活を営みたいと切に願っています。そうでなければ、おそらく救われていないのではないでしょうか。
もうひとつ、聖書は、この勝利の生活がいかに我々に分け与えられるかを、はっきり我々に示しています。それはいうまでもなく、敗北の生活ではなくて、勝利の生活を送ることが、主の御心であり、主の目標であるということです。
イエス様は、言いました。もし、私があなたがたを自由にするなら、あなたがたは、本当に自由なのである。

また、パウロはローマにいる人々にはっきり書いたのです。私達を愛して下さった方によって、これら、すべてのことの中にあっても圧倒的な勝利者となるのです。
今読んで下さった箇所を見ると、イエス様との出会いによって健康になり、解放された女性は、もし証しすることができれば、言うに違いない。
すなわち、「キリストには、代えられません。主イエス様とは、私によって、すべてのすべてです。」と、言うでしょう。ダビデも、詩篇の118篇14節に記しました。

詩篇118:14
14主は、私の力であり、ほめ歌である。主は、私の救いとなられた。

この女性とは、本当に主イエス様との出会いによって完全に解放されました。もう喜びと感謝に満ちた女性になったのではないでしょうか。
このことを報告しているのは、ルカという男です。ルカとは、お医者さんです。当時、まだ一般には大切にされていなかった女性たちの世界に、彼は医者として注意をはらいました。
健康な婦人でさえ、男の人の半分以下くらいしか語られなかったことを考えれば、不治の病いにかかっている女性の状態がどんなに、惨めなものであったか想像することができるのではないでしょうか。

もう18年も、その女は病いの霊につかれたのです。腰が曲がって、ぜんぜん伸ばすことができなかったのです。疑いもなく、彼女は長い間、薬の助けを求めたでしょう。
いろいろな医者の所へ行ったでしょう。けれども、役に立たなかっただけじゃなくて、ますますひどくなったということです。その状態は、癒しと大いなる解放の日が来るまで続いたのです。
18年間。これは、ちょっと考えられないのではないでしょうか。

けれども、イエス様を通して、彼女は一瞬にして癒され解放されました。イエス様はこの婦人に向かって、あなたが、長年の束縛から解放されることは、待つことが出来ないほど、最高の素晴らしい時ではないか。
18年間、彼女は病気でした。18年間、彼女は惨めで救いのない、希望のない状態でした。18年の間、人殺しと言われている悪魔によって、束縛されていたのです。
彼女は、外面的にも内面的にも、健康になるべきでした。自由の身となるべきでした。悪魔は、もはやこれ以上長く勝利を治めることは許されないはずです。

この時、すなわち悪魔の支配下におかれている状態から解かれて解放されることは、最高の時ではないかと言う問いは、もちろん我々にも当てはまるのではないでしょうか。
私達は、さらに束縛された者として、留まりたいのでしょうか?我々の信仰生活は、さらに霊的に見た場合、依然として失敗であるべきなのでしょうか。
救われるときは、もちろん明日じゃない。明後日でもない。聖書の中で、「見よ。今は、恵みの時」とあります。今日が、救いの日です。

けれども、それだけではなく、すべての信者にとっても、イエス様に解放して頂く、自由になる時も、明日でもないし、再来年でもない。今日です。
大いなる解放者であるイエス様は、あらゆる束縛から解き放ち、あらゆる惨めさから解放してくださいます。イエス様は、溢れるばかりの喜びを与えてくださいます。
私達は、生きる主、奇跡を行う主が賞賛され栄光をお受けになるために、真実をもって貢献するために、あふれるばかりの祝福が我々のために用意されています。

イエス様を受け入れた人々は、自分の名前が小羊の書、いのちの書に記されていること、そして、イエス様の贖いの御技にもとづいて、自分たちが義とされていることを、もちろん確信できます。聖書が、そう言っているからです。
けれども、至る所に精神的な病気や、病いの霊につかれた信者がいるなのではないでしょうか。その人たちの状態は、勝利と敗北の繰り返しです。
確かに、彼らは罪が赦されていることを証ししますけど、日常生活においては、何一つ勝利について知りません。彼は、罪の債務から解放されていることをもちろん知っているし、けれども、罪の力から解放されることについては、何一つ知りません。

このような状態が、多くの人の場合何年も続いているということは、悲劇なのではないでしょうか。
イエス様は、本当に、解放できるなのでしょうか?このことについて、何の疑いもありません。イエス様にとって、不可能なことはない。
けれども、私達はなんとしばしば、罪の力、悪魔によって束縛されているのでしょうか。

主の御許に来る人は、何を経験しているかと言いますと、もちろん、まことの救いと本当の解放です。
誰でもが、イエス様の大いなる解放を経験すべきです。それだけではなく、イエス様は自分自身を明らかにしようとしておられます。
ちょっと、2つの点について考えましょうか。第一は、婦人が置かれていた状態とはどういう状態だったの?第二番目、この婦人が解放を経験した道とは、どういうものだったのでしょうか。

まず第一に、この婦人の絶望的な状態を、私たちはほとんど想像することができないのではないでしょうか。
確かに彼女は、会堂の中で最もかわいそうな人でした。もしかすると、今日集まった人々の中で、同じ思いを持っている人がいるかもしれない。
一番だめなのは、私。一番悩んでるのは私。どうですか。喜びの集いに来ている人は、みなそうです。どうしようもない者です。

でも、彼女は確信しています。私は一番かわいそう。今日も、礼拝や学び会に来るとき、内面的にうちのめされている信者がいます。なぜなら、その人たちの日常生活は失敗であり、主の栄光を現すために役に立っていないからです。
この婦人もそういう気持ちを持っていたのではないでしょうか。彼女は、ただ単に外面的に腰が曲がって伸ばすことができないだけではなくて、内面的には、治る希望がぜんぜんなかったのです。
ですから、みじめな気持ちになり、喜びも力も希望もなかったのです。けれども、イエス様は、彼女をご覧になった。

ルカの福音書13:11、16
11すると、そこに十八年も病の霊につかれ、腰が曲がって、全然伸ばすことのできない女がいた。
16この女はアブラハムの娘なのです。それを十八年もの間サタンが縛っていたのです。安息日だからといってこの束縛を解いてやってはいけないのですか。」

ここでは、この婦人について5つのことが述べられているのですね。すなわち彼女は、第一番目にアブラハムの娘でした。二番目、病いの霊、弱さの霊を持っていたのです。
三番目、彼女は、この状態ですでに18年もたっていました。四番目、彼女は自分で、自分を治すことが、ぜんぜんできなかったのです。
そして、五番目、彼女は解放されることを、もちろん望んでいたのです。

まず第一に、アブラハムの娘というのは、彼女が神の民に属していた。従って主を信じた人だったのです。彼女は、自分の運命によっても、心を頑なにせず信ずる者の交わりを求めていたのです。
彼女は、主の言葉だけが慰めを与え、希望を与えることを知っていました。当然ですね。
当時、自分の聖書を持っていた人は、ひとりもいなかったよ。御言葉を、聞こうと思えば、やっぱり会堂に行かなくちゃならなかったのです。彼女は、恥ずかしい行きたくないと言う気持ちを持っていなかったのです。

御言葉を聞くと、ちょっとだけでも元気になると、何回も何回も経験したに違いない。ですから彼女は、会堂に来たのです。
時間をつぶすためじゃない。ほかのやることがなかったからじゃない。ただ、そこだけが、主の御言葉を聞くことができると思ったから会堂に行ったのです。
今日も、忠実に集会に来ている信者います。けれども、その方々は、来た時と同じ状態で、すなわち何一つ変わらず悲しんで内面的に病気で帰って行きます。

主を信じながら、束縛されています。そして、こういうことは、あり得ることです。
我々の生活の中で、いったい何が推進力なのでしょうか。私たちを動かし、支配しているものは、いったい何でしょうか。このことを、静かに考えようではないでしょうか。
彼女は、主の存在を信じただけではなくて、主を信じた。みことばを信じたのです。けれども、あいかわらず悩みました。

第二番目に、彼女は、病の霊、弱さの霊を持っていたとここれ書かれています。彼女は、腰が曲がっていました。そして、聖書は、それが普通の体の病気ではなくて、悪魔の仕業であったと言います。そうすると、ちょっとたいへんなのではないでしょうか。
悪魔が彼女を束縛していたのです。彼女は、悪魔によって束縛されていたのです。言うまでもなく、美しさとか優雅さとかは、すべてなくなっていました。
確かに彼女は腰が曲がっていましたので、人は彼女の顔を見ることができなかったし、たとえ見ることができたとしても、あまりにも深い悲しみの表情に驚いたに違いない。

彼女は、腰が曲がっていましたので、実際には地面と自分しか見ることができなかったのです。あらゆる自己中心、自己追求の信者の姿がそこにありました。
自分自身のことだけしか考えない人は、霊的な障害者になります。わたしたちの最大の敵は、尊敬されたいと思う自我なのではないでしょうか。この婦人は、18年の間、自分の体の状態のことばかりを考えて、思い煩い、自由で健康になる道はあるのだろうかと、自問していました。
多くの信者は、自分の霊的な状態について問います。すなわち、どうしたら自由になることができ、霊的に健康になるかということです。

第三番目に、彼女はこの状態ですでに18年もたっていました。18年前に、彼女は悪魔の攻撃の的になりました。どういうことがはっきりわからないけど、彼女は、生まれつきは悪魔に支配されていなかったのです。
18年前に悪魔に攻撃され、悪魔に負けてしまいました。それ以来、悪魔の力と独裁のもとに置かれていたのです。しかも、18年間です。
私たちは、自分の状態のことで、もうどうにもならないと見放してしまっているかもしれない。それだけではなく、ほかの人についても、どうすることもできないと思っているかもしれないけど、私たちは自分の状態についてよく考えるべきなのではないでしょうか。

18年間、私たちは誇りやすかった。そして今日たいしてよくなっていない。18年間、私たちは信頼できなかった。そして今日たいして変わっていない。
18年間、私たちは不信感を持って批判的でした。そして今日もたいして変わりはない。18年間、私と一緒に生活することはむつかしかった。そして、今日の状態はたいしてよくなっていない。
18年間、私たちは、密かな罪を犯していました。そして今日も状態はたいしてよくなっていない。将来の人生には、決して到達しませんでした。

われわれの自我は、主の働きに逆らいました。自己否定が少なければ、イエス様の命もほんの少ししか現れません。
十字架の道からはずれてしまうと、よみがえりの力を経験することは、ほとんどありません。
けれども勝利者なるイエス様は生きておられます。

4番目。彼女は、まっすぐにしたり、自分自身を解放することができなかった。ぜんぜんできませんでした。
疑いもなく、まっすぐに行くことができるということは、彼女の切なる願いだったに違いない。そして、あらゆる試みは、結局失敗でした。あらゆる試みの時に、自分の無力さが現れただけなんです。
実際、どうすることもできませんでした。確かに私たちも御心にかなう生活をしたいと試み、何度も何度も失敗した者ではないでしょうか。

また私たちは、イエス様にいろいろな約束をしました。けれども、何度も同じ罪を犯してしまいます。
人は、罪を犯し赦してもらいます。そしてまた、人は罪を犯し、もう一度赦してもらいます。
たえず、上がったり下がったりしています。

5番目。彼女は、解放されることを、もちろん切に願いました。それが、彼女の願いであったことを私たちはどうして知ることができるのでしょうか。
なぜならば、イエス様が彼女をお呼びになった時に、瞬間的に反応して答えたからです。
自由になる。そのことは、心からの彼女の叫びでした。我々のうちに、本当に自由になりたいと切なる願いを持っているのではないでしょうか。

悪魔に縛られている者は、決して幸せではない。けれども、どうすれば解放されるのでしょうか。どうすれば、我々は、イエス様の大いなる解放を体験的に知ることができるなのでしょうか。
この婦人の癒しは、この問いに対する答えを与えてくれます。
ですから、ちょっと、次の点を考えてみましょうか。すなわち、解放が経験される道とは、どういうものなのでしょうか。

ここでは、いろいろなことがルカによって正確に書き記されています。
私たちは、イエス様がどのような力でこの束縛された婦人を解放したか、そして、完全な解放という奇蹟をどのように行ったかを知ることができるのです。
ここでも、また、5つの事柄を考えてみたいと思います。

第一に、彼女はイエス様の御許に来ました。確かに、彼女は、イエス様の足下にひれ伏しました。
2番目、彼女は、主の声、大いなる力の言葉を聞きました。
3番目、彼女は、イエス様の御手を感じ、それによって、主が何かをなそうとしておられることを知りました。
4番目、彼女は、創造的な行いとして、主の力を経験しました。
5番目、彼女は、主を拝みました。心から礼拝したのです。

まず第一に、イエス様が彼女をご覧になった時に、彼女を呼び寄せました。彼女がイエス様の声を聞いた時に、彼女はひかれるようにイエス様の所へ行きました。
イエス様は、彼女に対して無関心ではなかったのです。ほかの人々は、彼女を大切にしようとしなかったのです。彼女は、いてもいなくてもいいじゃないかと、思ったのです。
けれども、イエス様は、彼女に対して、無関心ではありませんでした。

彼女が、イエス様をお呼びになる時、はっきりとした目的、目標をお持ちになっています。人間が心を開いて、主の所に来ることを望んでおられます。
そしてこの婦人は、このことを行いました。彼女は、イエス様の所に行き足下にひれ伏しました。期待に満ちて、希望に満ちて、信仰に満ちてそうしたのです。
疑いもなくこの瞬間に、全き静けさがあたりを支配したのです。すべての目は、イエス様に向けられました。イエス様は何をするのでしょうか。イエス様はどのように御栄光を現すのでしょうか。イエス様は、どのようにしてその婦人の信仰に報いるのでしょうか。

人間が、腰が曲がっていて悪魔に束縛されていながら、イエス様の声を聞き、主の「私の所に来なさい。」と言う招きに従うとき、必ず大いなることが起こるのであります。
なんと、多くの人々が罪によって、債務によって、不安によって、疑いによって、内面的に重い気持ちになってます。
けれども、イエス様が、呼んでおられるとは、なんと言う素晴らしい事実でありましょうか。

イエス様が、この婦人を呼んだ時にすべての目は、彼女に向かったでしょう。彼女は何をするなのでしょうか。
彼女は、依然として群衆の中に潜っていようとは思いませんでした。彼女は、イエス様の所へ出て行くために、前に出て行く決心をしました。
彼女は、ただ単に主イエス様の所へ行く決心をしただけではなく、実際に主の足下にひれ伏しました。

イエス様の足下にひれ伏す者は、間違いなく解放されます。元気になります。喜びと希望に満たされます。
我々の悩みが、たとえどのようなものであろうとも、イエス様のところへ行きましょう。たとえ、何が自分を束縛し、捉えていようとも、イエス様のところへ行きましょう。
イエス様の所には、助けがあり、主は解放し贖ってくださいます。

聖書全体を見るとはっきり言えることとは、主の足下にひれ伏す者は、もはや自分を大切にせず、目立ちたがらず、役割を演じたいとも思いません。
イエス様の足下にひれ伏す者は、徹底的に打ち砕かれ、すべてを光の中に出す備えができています。
イエス様の足下にひれ伏す者は、主の約束の真理を経験します。すなわち、へりくだった者に恵みが与えられるのです。

第二に、この婦人は主の声を聞きました。全く偉大な力の言葉でした。

ルカの福音書13:12
12イエスは、その女を見て、呼び寄せ、「あなたの病気はいやされました。」と言って、

イエス様は、そのように女に言われました。この婦人は、イエス様のこの言葉を聞いたときに、主は私を解放したいと望んでおられ、それがおできになるということを彼女は知り、確信しました。
けれどもイエス様は、ただ単にこの婦人を解放したいと思っただけではない。主の働きの妨げとなっているあらゆる束縛から、我々をも自由にしたいと望んでおられます。
いったいどうして、我々はそのことを知ることができるなのでしょうか。なぜなら、私たちは主の言葉の中にそのためのはっきりとした言い表しを持っているから知ることができるのです。そしてまた、主の恵みがすべての罪の力よりも偉大で、あらゆる罪から洗い清めめる主の血潮が流されたからです。

ちょっと、3つの言葉を引用します。

マタイの福音書1:21
21マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」

ローマ人への手紙8:37
37しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。

イエス様は、私たちのために死んでくださり、私たちのために甦られ、我々のために全能なる神の右に高く上げられました。
そして、私たちは、私を愛して下さる主によって圧倒的な勝利者となるためです。

ヘブル人への手紙7:25
25したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。

主はご自分によって、神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。主はできる。完全にできる。
キリストは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしておられるからですとあります。これらの3つの言葉は、勝利の生活のために贖われ、解放されることが可能であるということを私たちに約束してくれます。
そして、まさにそのことをこの婦人は経験しました。

彼女は、イエス様の足下にひれ伏した時に、彼女は「あなたの病気は、癒されました。」と言う主の答えを聞いたのです。
それは主が、罪はもはやあなたを支配しないとおっしゃったのと同じ意味を含んでいます。

ローマ人への手紙6:14
14というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。

あるいは、御子が自由にする者は、完全に自由です。
私は、あなたを完全に自由にしますと言う意味をも含んでいます。

ヨハネの福音書8:36
36ですから、もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。

本当に自由であるということは、完全に自由であるということ。そして、罪の支配から解放されていることを意味しています。イエス様は、この婦人にまことの解放を約束されました。
私たちは、今までに次のことを見てきました。まず第一に、イエス様の所に来て、イエス様の足下にひれ伏しました。それから、第二に彼女は、あなたの病気は癒されましたと言う全く偉大な力の言葉であるイエス様の声を聞きました。
そして、第三に、彼女は、主の手を感じました。

ルカの福音書13:13
13手を置かれると、女はたちどころに腰が伸びて、神をあがめた。

主が、手を置かれたとあります。イエス様が彼女に触ったとき、彼女はイエス様の命、力の何かを感じたに違いない。
すなわち彼女は、そのことによって、自由になりました。イエス様が、我々の上に手を置かれると、我々もまた自由になり、もはや、前とは同じ人間ではなくなります。
イエス様の御手がらい病人に触ったとき、そのらい病人は、らい病から瞬間的に解放されました。主の御手が、耳の聞こえない人に触った時に、彼は聞くことができるようになりました。イエス様の御手が盲人に触った時に、その盲人は、見えるようになりました。

イエス様と接触する者は、イエス様があらゆる束縛と情欲から完全に解放してくださることを経験します。
私たちは、しばしば集会の中で、イエス様が人の心を作り変えて新しくすることを経験します。なんの逃れの道をも見いだすことのできなかった人々が、今日、生き生きとした希望を持って満たされています。
以前は、ただ自分のことしか考えなかった人々が今日、イエス様のために生きたいと言うただ一つの切なる願いを持っています。乱れた金の生活をしていた人々が、今日主の恵みの偉大さを示す者となっています。

イエス様に触られると言うことは、なんと言う大いなることでしょうか。
イエス様は、全く新しいものが創造させるために、生活の中に新しい変化が生じるようにと、我々に接触したいと思っています。

つぎに第四に、その婦人は、創造的な行いとしての主の力を経験したのであります。
主が、手を置かれると女はたちどころに腰が伸びましたとあります。
我々の主が行うことは、創造的な行いです。主が、命令すると、すぐにその通りになります。

詩篇33:9
9まことに、主が仰せられると、そのようになり、主が命じられると、それは堅く立つ。

天地を創造された主。我々の体をもお造りになった主。
その主が御手を置かれると、大いなることが起こったのです。彼女は、何を経験したのでしょうか。

詩篇146:8
8主は盲人の目をあけ、主はかがんでいる者を起こされる。主は正しい者を愛し、

「主はかがんいる者を起こされる。」とあります。悪魔によって束縛され、腰が曲がりまっすぐになることがぜんぜん出来なかった婦人が、まっすぐになったと記されています。
今日、最も必要とされ、第一に求められている人は、まっすぐな人。純粋で、誠実で、正直な人です。そして、光の中を歩む人です。透き通っている人です。その動機が純粋な人が求められています。
腰の曲がった人がまっすぐになりました。彼女は、自分ではまっすぐにできなかったのです。それは、全く不可能でした。それはちょうど、私たちもまだ、自分の力ではイエス様に似た生活をすることが、絶対にできないのと同じように全く不可能でした。それは、主がなさること。主の働き以外のなにものでもありません。

最後に五番目。主の行いを経験する者は、礼拝せざるを得ないということです。
彼女は、まっすぐになり神を褒め称えたとあります。悪魔に束縛され、自分の情欲に縛られている人は、決して、主を拝むことはできないでしょう。
暗闇の中の人生は、決して主の栄光のために役に立ちません。自己中心の生活は主の御名を汚します。

ルカの福音書13:13
13手を置かれると、女はたちどころに腰が伸びて、神をあがめた。

私たちもまた、この素晴らしい解放。すなわちこの婦人が許された解放を経験しようではありませんか。
主の大いなる解放を経験することとは、もちろん可能です。主は、昨日も今日もいつまでも変わらないお方だからです。
奇蹟を行い賜う我々の主は、我々のすべての生活の中で、主が悪魔に束縛された婦人に行ったことを、今もなお行いたいと待っておられます。

私たちは、主の御声に耳を傾ける備えができているのでしょうか。私たちは、主の御手にすわって頂く備えができているのでしょうか。
私たちは、あらゆる悩みを持って、主の御許に行く備えを持っているのでしょうか。その時、主は、必ず、答えてくださいます。
私たちは主の創造的な行いを経験し、自由になり本当に解放されます。私たちは、もはや罪に仕える必要はありません。私たちは、もはや自分の時間の奴隷になっている必要はないのです。私たちは、もはや悪魔の奴隷になっている必要はありません。

私たちは、ありのままの状態で主の所へ行き、主の足下にひれ伏し、主に心を打ち明けることができれば、本当に幸いです。
私たちもダビデのように祈りたいものです。
毎日、祈るべき言葉ではないかと思います。

詩篇139:23-24
23神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。
24私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。

私たちは、我々に語られた主の御言葉により頼み、我々のために刺し通された主の御手を感じ、これ以上、悪魔の奴隷でありたくないと切に望むことができれば、幸いです。
私たちは、命を与える主の御言葉の力を経験したいものです。私たちが霊とまことをもって、真心から主を礼拝できるためです。しかも、我々は主によって解放されたと言う言い表しを伴います。
今こそ我々が、主にこの解放される奇蹟を願い求めるときではないでしょうか。




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