引用聖句:ヨハネの福音書14章1節
初めての方もいらっしゃるので最初に申し上げますが、この集いは、キリスト教の集いでも、キリスト教を宣伝する集いでもありません。イエス様を紹介するための集いです。 いわゆる組織されたキリスト教は、イエス様の作ったものではなく、人間の作ったものであり、イエス様は人間の作ったものを受け入れられません。 イエス様は全く宗教と関係のないお方です。ですからイエス様は、「宗教を持ちなさい。キリスト教に入るなさい。」とおっしゃったのではありません。 「あなたがたは、心を騒がせてはなりません。」「神を信じ、またわたしを信じなさい。」それだけなんです。 イエス様を信ずることによって、イエス様を知るようになり、そしてあらゆる心配や、恐れや不安から解放されます。過ぎ去ったことは、もう過ぎ去っています。問題は今からのことです。 主なる神の呼びかけとは、「今までのことを忘れて、今から親しく交わりましょうよ。」と、そういう呼びかけです。人間的には考えられないことです。すべてを創造された、汚れを知らない全く聖いお方は、罪にまみれたわがままな人間と交わりしたいと望んでおられます。 主なる神の呼びかけとは、次のような呼びかけです。 イザヤ書1:18
ある子供に聞いたことがあります。「イエス様とはどういうお方?」、「わたしのわがままを赦す方。」と答えられたのです。主イエス様は、命令するお方、人間からなにかを要求するお方よりも、人間のわがままを赦すお方です。 旧約聖書の呼びかけとは、「あなたの罪が緋のように赤くても、雪の雪のように白くなる。」 イザヤ書43:25
考えられないすばらしい主の呼びかけです。ヘブル人への手紙の著者は、次のように書きました。 ヘブル人への手紙10:17
この間、一人の非常に悩んでいた奥さんとお話ししました。何人かとご一緒でした。その方は鬱病になり、ノイローゼになり、入院されるようになり、退院したんですけど、やっぱりダメだったらしい。 買い物できないし、うちの仕事もできないし、掃除できないし、料理できないし、何もできない。そういう状況だったんです。そして一人の知り合いを通し家庭集会に出たのです。 話してる間に、彼女は聞きたいことがあると言ったのです。3つのことをどうしても知りたかった。 ひとつは、「本当に希望があるの?」、彼女はあきらめたのです。どうせダメじゃないの。そう思った。本当に希望があるの? 第二番目は、「わたしが神に愛されてるって、考えられないけど、本当ですか?」、本当だったら希望があるでしょう?本当だったら、問題が解決されると感じた。 三つ目の質問は、「自分の過ちも、本当に赦されるの?」 大切な質問です。「本当に希望があるの?」、「わたしも愛されてるの?」、「わたしの過ちも赦されるの?」 彼女は話し終わって別れた時、「希望が涌いて来た。うれしいとおっしゃいました。」 聖書を通して提供されていることは、あらゆる不安、あらゆる恐れ、あらゆる心配から解放されることです。解放される条件、赦される条件。それは自分の姿を知ることです。 ダビデという王様は、すでに3,000年前に次のように告白したのです。 詩篇40:17
こういう心構えを持つと、主は憐れんでくださり、受け入れてくださいます。ダビデとは、当時の世界を治めた王の王だったのです。けど彼は、傲慢にならないで、主の前にひざまずいて告白しました。「わたしは悩む者、貧しい者です。」、あなたが憐れんでくださらなければ、導いてくださらなければ、もうおしまいだよ。 聖書に提供された救いを得るために必要なのは、キリスト教に入ることでもないし、いろんな勉強も要求されていません。主イエス様に出会ったパウロは証ししたのです。「わたしは、それを人間から受けなかったし、また教えられもしなかった。ただ、イエス・キリストの啓示によって受けたのです。」 結局、まことの救いの土台はひとつの教えではなく、上からの啓示です。光によって照らされると、人間は小さくなり、「憐れんでください、赦してください。」と叫ぶようになります。 大切なのはそれだけです。「イエス・キリストの啓示によって、私は救われた。」、パウロは告白したのです。 結局、イエス様を心の目で見ることこそが大切です。 ヨハネの福音書14:1
私を信じなさい。これは確かにひとつの命令であります。人間が命令すると必ず束縛されます。不自由になります。主なる神が命令すると、人間は自由になり、幸せになります。 イエス様は、「わたしを信じなさい。」と言われたのです。道徳的に高い生活をしなさい。宗教家になれ。あるいは、私の教えをよく勉強しろではない。ただ、私を信じなさい。 イエス様を信ずることとは、いったい何を意味しているのでしょうか?ちょっと7つのみことばを見ていきたいと思います。 ヨハネの福音書6:35
ここで、イエス様は次のように言われたのです。覚えてもらいたいことは、イエス様の言葉は決して教えではなく、自分自身の啓示そのものです。わたしそのものは命のパンである。わたしに来る者は、決して飢えることがない。信ずる者は、どんな時にも決して渇くことがない。 結局満足する。絶えざる喜びを持つようになる。 ヨハネの福音書6:51
結局、イエス様は生けるパンとしてこの世に来られたのです。主なる神の受くるものを私達に与え、永遠の命に至ることを主なる神は望んでおられるのです。 あなたは、もうすでにイエス様のみもとに行ったことがあるのでしょうか?イエス様は、わたしの所に来る者を、わたしは受け入れます。決して捨てませんと言われたのです。イエス様のみもとに行くことこそが、最も大切です。 何十年前に、私は一度、ある兄弟にひとつの歌を教えたことがあるのです。私は忘れちゃったのです。でも5月に兄弟姉妹が御代田に来られた時、食堂で歌ったのです。ドイツの兄弟姉妹も来られてました。 イエス様のところに行きなさい! イエス様のところに行きなさい! イエス様のところに行きなさい。ただちに行きなさい。 彼はそれを覚えて歌って、みんなも歌った。ちょうどそこにいたアイドリンゲンの姉妹が、このことをドイツで話したのです。それで、その話しを聞いた一人のドイツのおばあちゃんは、それで救われちゃったのです。ちょっと不思議。 大切なのは結局、勉強しなさい、努力しなさい、立派になりなさいではなく、イエス様のところに行きなさい。そうすると、イエス様は命のパンとして、満たされない心を満たしてくださるのです。 信ずることとは、ひとつの教えを信じ込むことではなく、イエス様のみもとに行くことです。それは命のパンを食べることです。見つめることじゃない。イエス様を自分のものにすることです。それによって、飢え渇きが完全に満たされます。 エレミヤは、2,600年前に次のように証ししたのです。 エレミヤ書15:16
喜ぼうと思えば、神のみことばである聖書を食べなさい。自分のものにしなさいということです。 今回は見えていませんが、吉祥寺にいつも来られるひとりの奥さんは、なかなかよいことを言いました。人間的に見れば非常に悩んでいる姉妹です。自分のかかえてる問題が、どのように解決されるのか、人間は誰もわかっていません。 けど彼女は集会で、薬物中毒の人も、ノイローゼの人も、いっぱい。アルコール中毒の人もいる。けどわたしは、聖書中毒になっちゃった。みことばなしに、もうダメ。みことばがなかったら、もうおしまいです。みことばこそが私の心の楽しみになった。そう言います。 喜ぼうと思ったら、みことばを食べなさい。必ず元気になる。聖書は、学校の教科書のように学ぶべきものではなく、幼子のように、自分のものにすべきです。 聖書がこう言ってるから、ちょっとどういうことかわからないけど、ありがたい、信じます。この単純な態度をとると、心は満たされます。いくら勉強しても、何にもならない。 神の最大の敵はいつも聖書学者でした。どうして?結局、わかったわかったと思いこんでしまったからです。だからめくらになり、見えなくなります。 神のみことばは、理解できるものではありません。神ご自身があまりに偉大であるから、私たちはいくら考えても想像することができないし、理解することができない。 信ずることによって見えるようになる。これと全く同じように、みことばを理解しようとしても必ず壁にぶつかります。 神はそれを許さない。幼子たちだけが救われ。幼子たちだけが天国に入ると言われたのです。多くの人々にとって、やっぱり聖書は理解できるものだと考えています。けれども、決してそうではない。小さくなって、「主よ語ってください。光を与えてください。」という気持ちを持って聖書を読むと、見えるようになります。解放されます。 あなたの飢えと渇きは満たされているのでしょうか? 満たされる秘訣は、主イエス様のみもとに行くことです。イエス様を信じなさい。イエス様を食べなさい。自分のものにしなさい。受け入れなさい。 第二番目の言葉は、次です。 ヨハネの福音書8:12
ここでイエス様は、「わたしは世の光です。」、原語を見ると、「世の光そのものです。」と言われました。「わたしに従う者は、やみの中を歩むことが決してない。」と書かれています。 イエス様は世の光として、あなたのわがまま、あなたの過ちが、罪の闇から明るみに出るように招いておられます。そしてあなたが、光の中にこの命を見い出すように呼びかけておられます。 信ずることとは、この箇所を見るとイエス様に従うことです。「いや〜、たいへんだ。従わなくちゃならない。」と、考える人もいます。でも結局、従うこととは唯一の逃れ道です。 人間は迷える羊と呼ばれています。羊にとって唯一の救いとは、羊飼いの近くにいることであり、羊飼いに従うことです。羊は方向感覚のないものであり、自分自身を守る力のないものであり、何を教えてもわからない動物なのです。だから、羊の唯一の救いとは、後ろについていくことなのです。それだけんなんです。 自分で計画を立てこれをやろうと思えば、いつか壁にぶつかります。信ずることとは、イエス様に従うことです。 あなたはイエス様に従う者なのでしょうか? あなたの歩みは光の中の歩みでしょうか? あなたは、自分の考えや動機を人に知られたくないと思うのでしょうか? あるいは、知られるの別にさしつかえないと思っておられるのでしょうか? あなたは、本当の命の光を持っておられるのでしょうか? ダビデは、3,000年前に次のように言ったのです。 詩篇119:105
結局、あなたのみことばとは私にとってすべてです。あなたのみことばによって、私は元気になる。あなたのみことばによって希望が涌いてくる。あなたのみことばによってはっきりわかることは、あきらめる必要はない。あなたは望みの神である。 第三番目の言葉は、 ヨハネの福音書10:9
「誰でも救われる。救われようと思う人は簡単に救われる。」と、イエス様ははっきり言われたのです。イエス様は門である、道しるべではない。救いに至る門そのものです。この門を通るものは、すなわちイエス様を通る者は救われます。 人間はよく、「あ、救われた。」、「助かった。」と言います。でも聖書の救いはそういうものではありません。聖書の救いとは、一時的な問題の解決ではなく、罪の問題の解決です。 罪滅ぼしのために、どうしたら良いのと考える人はたくさんいます。答えられる宗教は存在していません。けどイエス様は、ありのままの状態で、私のところに来なさい。私は、救いにいたる門そのものです。私の所に来る者を私は決して、決して捨てませんと、イエス様は約束しておられます。 イエス様を信ずることとは、イエス様を通ることです。通って入る者は救われると、ここで書かれています。あなたがまだイエス様のみもとに来ていないならば、今日それをしたいとは思いませんでしょうか。 イエス様だけが救いに至る門であり、唯一の道であります。イエス様なしに主なる神に至ろうとする者は、反対に哀れな奴隷になる。 救われるとは、イエス様のみもとに行くことであり、イエス様によって受け入れられることです。 第4番目の言葉は、 ヨハネの福音書14:6
前に、三鷹に住んでいた兄弟の研究室にかかっていました。彼は40年学校に勤め、それから40年政治家として働いたのです。40年も、政治家として働いた人はあまりいない。だいたいみんなその前にクビになる。信頼されていないから。自分のことばかり考えるから。でも彼は違った。 もう、何回も彼の家に行ったけど、いつも悩んでる人々が訪ねていました。彼は1円も取らないで、全力で人々助けようと思った人でした。彼の研修室にこのみことばがかかっていた。彼は、毎日聖書を読んでいました。忘れられない。 危篤状態になった知らせでお見舞いに行った。「先生、一番、気の毒な人間はなにかな?」、「あんたなんだと思うの?」私に聞かれたのです。私は「祈らない人だと思う。」と言ったのです。 祈らない人は自分の力に頼ってるから、一番気の毒じゃないか。「俺もそう思う。」と言ったんです。 結局祈らない人、イエス様に帰ろうとしない人は本当にかわいそうです。結局兄弟も、やっぱりイエス様こそが道であり、真理であり、命そのものであるとわかったのです。 イエス様を通って行く者だけが真理に至り、永遠の命を見出すのです。イエス様なしの道は偽りの道です。本当に心の目を開けて、イエス様を受け入れる者は、あらゆる恐れと不安と心配から間違いなく解放されます。 第五番目の言葉は、よく葬式のときに言われる言葉です。 ヨハネの福音書11:25
死んでも生きると、葬儀の時言えるのはすばらしい特権なのではないでしょうか。死は終わりではない。死んでから始まる。今の人生がすべてであるなら、創造主なる神様はおかしい。けど決してそうではない。 イエス様は死の問題を解決してくださった。わたしは、よみがえりであり、命であり、わたしを信じる者は死んでも生きると言われた。イエス様を信ずる信仰、イエス様を心から受け入れることが、私たちを真の祈りへと至らせる。 信ずることとは永遠の命を持つことです。死んでも生きるとは永遠の命を持つことです。多くの集会の人々は、「ガンになったのは良かった。」と証ししています。不幸になったのは本当に良かった。それによって本当のしあわせに出会ったと言う人々もいっぱいいます。 こういうふうに告白できる人々こそが、イエス様の言われたことが真理であると証明してるなのではないでしょうか。イエス様は、わたしを信ずる者は死んでも生きると言われました。 第六番目の言葉は、 ヨハネの福音書10:11
良い牧者は何かを教えるのではありません。良い牧者は羊から要求するのでもない。良い牧者は羊のために自分の命を捨てる、自分自身を犠牲にすると、あります。イエス様だけがおできになります。完全な満たし、全き平安、本当の安全はすべてイエス様によってのみ与えられます。 信ずることとはいったい何なのでしょうか。信ずることとは、イエス様のものとなることであり、イエス様のものとなった人だけが、イエス様のことを知っているのです。 ヨハネの福音書10:14
「わたしを知ってる」、イエス様についての知識を得ることは大切ではない。イエス様ご自身を知ることこそが大切であります。 イエス様は私のために死なれた。イエス様は私のために生きておられる。イエス様は私のことを思っておられる。イエス様は私のことを心配しておられる。イエス様は私を愛している。そう確信できる人は本当に幸せです。 最後、第七番目の言葉は、 ヨハネの福音書15:1、5
ここでイエス様は、「わたしは、まことのぶどうの木」と言われ、5節では「あなたがたは、枝です。」と言われました。この箇所見ると言えることは、本当の交わりを持って初めてぶどうの木は実を結ぶのです。 イエス様はぶどうの木であり、イエス様とつながっている人は枝です。枝は、木とつながっていれば必ずうまくいくし、つながっていなければ、何をやってもむなしくて役に立たない。 イエス様と結びついていない人は、残る実を結ぶことはできません。人間的には成功するかもしれない。本当の意味での実が残らなければ、人間の努力はむなしい。 わたしを信じなさい。これこそが、イエス様のわれわれに対する呼びかけです。 イエス様を信ずることは、いわゆる人間によってキリスト教に入ることを意味しているのではありません。 イエス様を信ずることは、ある教会で籍を置くことでもありません。 イエス様を信ずることは、聖書の知識を得ることでもないし、良い人間になろうと努力することでもありません。 イエス様を信ずることとは、ありのままの状態で、イエス様のみもとに行くことだけなんです。そしてイエス様を受け入れた者として、イエス様についていくことです。 イエス様を信ずる者は、イエス様を通る者であり、父のみもとに行く人です。そういう人々は受け入れられ、永遠の命を持つようになります。 そして結果としてイエス様ご自身を知るようになります。 パウロはよく言ったのです。「私は自分の信じてる方をよく知っている。」、結局、私は生けるまことの神に出会った者です。わたしがこの方をよく知っている。この確信は、もちろん説明することができません。 昔のヨブもこの確信を持っていたのです。彼は、「私は私を贖う方を知ってる。よく知っている。」 彼は自分のすべてを無くしてしまったのです。おそらく2〜3週間以内に。そのときまで彼は、本当に恵まれた人。もしかすると、当時の世界の一番の財産家だったかもしれない。頭も良かったし、元気な子供も10人持っていたし、そして彼はいっぺんに全部なくしたのです。 全財産。そして子供もみんないっぺんになくした。友達も急に彼を責める者になり、彼の奥さんは、「ふん。あなたの神は、そういうものだよ。神をのろいなさい。死んだほうが、いいんじゃないか。」 彼は、全くひとりぼっちになったのです。健康も失った。 けど彼は、「神が私を殺しても信頼します。」「私は私を贖う方を知っている。」「主は与え主は取られた。」「私は主の御名を褒め称える。」 結局、ヨブはどうしてこの態度とることができたかというと、「私は、神の導きを理解できない。どうしてそんなに不幸になっちゃったのか、さっぱりわからない。けども神は知っている。神は変なことなさいません。私は信頼し続けます。」 考えられない態度です。けれども、生けるまことの神に出会った人はこの態度をとらざるを得なくなる。 これこそが、あらゆる心配から、あらゆる不安から、あらゆる恐れから解放されることです。イエス様を命のパンとして、世の光として、救いに至る門として、道として、真理として、命として、また甦りとして、良い牧者として、ぶどうの木として知ることこそが、もっとも大切なのではないでしょうか。 それによって重荷から解放されます。最後に数カ所読んで終わりましょう。 マタイの福音書6:25
心配することとは最も愚かなことです。いくら心配しても何にもならないよ。「鳥を見なさい。」、ピリピ人への手紙で、パウロは刑務所の中から、まことの満足を得た者として、自由の身の人々に次のように書いたのです。 ピリピ人への手紙4:4-6
初代教会のひとりの代表者であるペテロは次のように書いたのです。 ペテロの手紙第I、5:7
神が心配してくださるので、自分でまた心配することはおかしい。こんな愚かなことはないでしょう。全能のなる神が心配してくださるから、思い煩う必要はない。 私たち一人一人のために、自分自身を犠牲にされたイエス様の呼びかけとは次のようです。 マタイの福音書11:28-29
また、イザヤの告白は次のようです。 イザヤ書12:2-3
イザヤも、ペテロも、パウロも、みな恐れと、不安と、心配から解放された者として、主をほめたたえることができたのです。 私たちも、単純に、幼子のようにイエス様に頼ると、同じような心構えを持つことができるようになります。 「わたしを信じなさい。」と、主は今日も呼びかけておられます。 ヨハネの福音書14:1
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